カテゴリー「メキシコ・中米」の記事

2016年5月21日 (土)

メディーナの連続再選-ドミニカ共和国大統領選

私事で申し訳ないが、キューバに3度、計6年間駐在したのに、スペインによる十五世紀末からのアメリカ植民地統治の基点だったドミニカ共和国には、歴史的な関心を強く持ちながらも、行ったことが無い。現役時代、市場として管轄する立場にありながら、一時期には勤務先の駐在員もいながら、残念なことだと思う。この国の動きは主としてAPReutersAFP及びEFEの報道が便りだが、印象としては、それらの外電のこの国への関心は低そうだ。眼が、どうしてもキューバ、ブラジル、アルゼンチン、ベネズエラ、コロンビア、ペルー、そしてメキシコに行ってしまうのだろう。私の方も、この国をブログで取り上げるのは前回大統領選の時http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2012/05/post-a8ab.html

以来、つまり4年ぶり、となる。 

去る515日、この国で総選挙が行われた。この国では、1996年以降、大統領選と自治体選の2年後に議会選が行われてきた。1966年以降二度に亘り連続再選を繰り返したバラゲール(1906-2002。大統領在任1966-781986-96)が、1994年選挙時、自らの任期を2年間、議会の任期4年は不変、としたことが元になっている。それをラ米で一般的な、且つ94年以前はドミニカ共和国でも採用されていた総選挙(大統領、議会同時選挙)方式に、22年ぶりに戻した。前回議会選で当選した議員の任期を4年から6年に延長することで実現した。 

中央選挙委員会(JCE)開票作業が手作業のためか、5日経った段階での開票率が92.9%台だが、大統領選は「ドミニカ解放党(PLD)」の、また副大統領候補に前回同様、副大統領候補をフェルナンデスレイナ前大統領(1853~。在任1996-20002004-12)夫人のマルガリータ・セディーニョ現副大統領(51歳)に立てたメディーナ(64歳)現大統領の得票率が約62%であり、連続再選は確定している。この得票率は、ドミニカ内戦後の1966年選挙以来、特殊例(197074年にPRDが選挙をボイコット)を除くと、最高だ。2012年に就任して早速断行した財政改革、その後の高い経済成長や優先政策としての教育振興で高い支持率を維持しているのが、何よりの勝因だろう。

バラゲールの最後の政権下で決まった大統領連続再選禁止は、メヒーア(1941~。大統領在任2000-04)政権時代に解除、フェルナンデスレイナ第二次政権で復活した。そしてメディーナ(64歳)現政権下でまたしても解除されている。 

大統領選で二位につけたのは「現代革命党(PRM)」から立候補した48歳のアビナール候補で同時点の得票率は35%だ。副大統領候補にはメヒーア(1941~。大統領在任2000-04)元大統領の息女、カロリーナ・メヒーア(47歳)氏を立てた。

この国では、上記バラゲール時代が終わると、PLDと、「ドミニカ革命党(PRD)」の二大政党時代に入った。いずれもボッシュ(1909-2001)が創設した。後者が最初で、1939年、トルヒーヨ(18911961)独裁を離れて亡命していたキューバで立ち上げた。1973年に自ら離党し、前者を作った。要するにこの二大政党は同根だ。今回のアビナール候補は、2012年大統領選で、PRDの副大統領候補だった人で、その後、大統領候補だったメヒーア氏と共に、PRMに移った。一方で、PRDの今回候補者は同党のバルガスマルドナード党首だったが、途中で立候補を見合わせ、メディーナ氏への支持を表明していた。理由は、彼の国民統合政府への共鳴、の由だが、同根同士、あまり違和感は無いのだろう。一方でアビナール氏は、バラゲールの「社会キリスト教改革党(PRSC)」の協力を得ている。 

31地方(provincia)及び首都特別区を単位とする議会選は、定数32議席の上院が夫々から一人ずつを選ぶ小選挙区制を採っており、選挙直前、PLD31議席、独占状態だった。同190議席の下院も、PLD102で過半数を確保している。在外議員7名を除く183名が比例代表制で選ばれ、内5名は少数政党に配分される。拘束名簿方式なので、正しく政党同士の選挙だ。第二党はPRD45、第三党がPRM35となっており、この3党で182議席を占める。これがどう変わるか、開票が大統領選よりも遅れるのは、他ラ米諸国同様であり、辛抱強く待たねばならない。だが、メディーナ第二期で少数与党になることは考えられないし、且つ、PRDが協力的だ。ラ米資源国と異なり、資源の国際価格の動向に振り回されることも無い。正常安定は続きそうだ。

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2015年10月27日 (火)

グァテマラ大統領選が終わって

1025日、グァテマラ大統領選の決選投票で、46歳のモラレス氏が67.44%と、圧倒的得票率を確保して、次期大統領に決まった。この得票率は1985年、民主化後最初の選挙でセレソアルバロ候補(在任1986-91)が得た68.37%、1999年にポルティーヨ候補(在任2000-04)が得た68.33%に次ぐものだ。

私事で恐縮だが、私は、ラ米動静は通常欧米メディアのネット記事で得るだけで、生きた情報が少なく、このブログ発信の中身がどこまで実態を反映しているか、よく自問する。今回のグァテマラ選挙の動きを日頃から伝えていた外電はスペインのEFE程度で、96日の総選挙、そして今回の決選投票辺りで、漸くAPReutersAFPも発信した。どれも、決戦投票を制したモラレス氏を、テレビなどで弟と共に活躍してきたコメディアンで、政治は素人、政権プログラムも政策立案チームも持たず、彼の「国民集結戦線(Frente de Convergencia NacionalFCN-Nación)」は退役軍人が設立した新興政党、と報じている。同党として初めての総選挙では、知名度の低さ故か、軍人アレルギー故か、議員定数158の議会で獲得したのは、僅か11議席に過ぎず、大統領に選出された候補者の政党としては、1985年の民主化以来では圧倒的に少ない(上記セレソアレバロ与党は51議席、ポルティーヨは63議席)。 

52日に総選挙が公示された段階では、前回2011年の大統領選で次点だった「自由民主会派(LIDER)」のバルディソン候補が最有力視されていた。グァテマラの国会議員は比例代表制で選出されるが、極めて不思議なことに議員の政党離脱、他党への移動が罷り通っている。前回選挙で14議席を得たLIDERは、在グァテマラ日本大使館によれば、今年8月時点で62議席にまで急増していた。だが総選挙での大統領選では、彼は第三位で、決選投票に進めずに終わった。前にもこのブログで書いたが、グァテマラでは1995年以来、前回選挙で次点に付けた新興政党の候補者が大統領に当選しており、彼が初めての例外となる。LIDERの新議席数は44へと落ち込んだが、それでも議会第一党だ。

今回出馬が認められた元コロム夫人で60歳のトーレス候補(前回断念についてはhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/08/post-d44e.html参照)は、「国民希望同盟(UNE)」から出馬し、得票率でバルディソン候補と0.37ポイントと言う僅差で二位につけた。UNEは議会第二党となる36議席を獲得した。決選投票に進んだが得票率32.56%に留まり、モラレス候補に大差で敗退した。 

総選挙直前となる92日、ペレスモリーナ大統領が辞任した。同8日から拘禁されている。総選挙公示直後の58日、バルデッティ副大統領が辞任、彼女も8月に拘禁されていた。メディアが伝えるところでは、「ラ・リネア」(業者の税関での税逃れの口利きを電話で行うこと。贈賄を見返りとする)と呼ばれる腐敗スキャンダルに主体的に関わった、と言うもの。通常、大統領には不逮捕特権が付与されている。グァテマラも同様だ。この特権剥奪には、国会で3分の2以上の票決が必要だ。8月に票決が行われた際には、それに届かなかった。

その後、Comisión Internacional Contra la Impunidad en GuatemalaCICIG)及び公共省(実態は独立機関たる検察庁)が最高裁に、同大統領への不逮捕特権剥奪のための予審を請求、認められた。そうしたら、今度は国会が再度票決を行い、全会一致で特権剥奪が決まった。ペレスモリーナ辞任、続く拘禁には、このような背景がある。 

上記のCICIGの在グァテマラ日本大使館の邦訳は「グァテマラ無処罰問題対策国際委員会」となっている。ベルシェ政権下(2004-08)の200612月にグァテマラ重大犯罪の捜査と起訴で検察庁への助力機関として設置され、2年毎に委託期間の延長が今日まで繰り返されてきた。このCICIGと検察庁が4月、「ラ・リネア」にペレスモリーナ政権の要職者が関与している、と発表した。彼らの資料には副大統領のみならず、複数の主要閣僚が入っており、大統領は5月以降、次々に交代させていく。また、CICIG委員長(コロンビア人)は、現役国会議員への捜査も行っている旨を公言した。グァテマラ国民には政界が腐敗しているとの認識が醸成され、大統領個人にも退陣を求める市民の抗議行動が繰り返された。モラレス氏が脚光を浴びることになったのは、CICIGの活躍で既存政治階級への不信感を募らせた国民に、政治経験の無さが清新さを植え付けた結果だろう。

グァテマラには貧困層が多く、悲しいほどに高い殺人率を抱え、米国への違法移民も止まらない。財政危機も控えていると言われる中で、圧倒的少数与党。欧米メディアは、彼の政権の多難を強調する。

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2014年5月 9日 (金)

パナマ次期大統領の課題

ブログhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/01/20142-6825.htmlも参照願いたいが、54日の総選挙で、「パナメニスタ党」のフアン・カルロス・バレラ副大統領(50歳)が39%の得票率で大統領に選出され、7日、副大統領候補のイサベル・サンマロ氏(「国民が第一」という連合を組んだ「人民党」より出馬)共々、選挙管理評議会(JNE)の正式宣言を得た。次点は与党「民主変革(CD)」候補のドミンゴ・アリアス住宅相で、得票率は31%、これに「民主革命党(PRD)」のナバロ元パナマ市長の28%が続いた。投票率は77%で、前回を多少上回った。事前の世論調査では常にドミンゴ・アリアス候補が最有力視され、その競争相手は寧ろナバロ候補だったので、これをひっくり返す結果になったのは、専門家やメディアの間では予想外の結果、と言えよう。本年2月に行われた隣国コスタリカの大統領選で、事前調査で第四位の候補者だったソリス氏が第一位を付けたことが記憶に新しいが、似たような展開かもしれない。専門家の分析では、20万人もの無党派層の票が効いた、とのことだ。投票者総数が190万弱なので、事実とすれば、この要因が大変大きい。

この国は、ラ米(イベロアメリカ)十九ヵ国の中で、一昨年7月に選挙が行われたメキシコ、昨年4月のベネズエラとパラグアイ、同11月のホンジュラス同様、大統領選に決選投票が導入されていない5カ国の一つだ。この内、メキシコ、ベネズエラ及びホンジュラスでは、次点候補がかなり長期に亘って、不正があったとして選挙結果を認めなかった。第一、二位の得票率は、メキシコでは39%、32%、ベネズエラでは50.8%49%、ホンジュラスでは38%29%だった。今回パナマではすんなり認められた。ただ気掛かりはある。 

同時に行われた議会選挙の結果は、58日段階でも最終結果は出ていない。英文Wikipediaよれば、開票率92%段階で、定数71の内64議席が確定、この内パナメニスタ党は僅か11で、「国民が第一」連合としても12だ。与党CD29(「変革同盟」連合では30)、PRD21に大きく離された、議会第三党に過ぎない。未確定の7議席がどうなろうと大勢に影響あるまい。これだけの少数与党では、政権運営は覚束ない。

隣国コスタリカのソリス氏の市民行動党(PAC)も、定数57議席の議会で、13議席の議会第二党。少数与党となるのは同じでも、政権運営力となると、46日の決選投票での圧倒的勝利の意義は大きい。58日に就任したが、少なくとも連立についての報道は国際メディアからは伝わってこない。強気なのだろうか。余談だが、就任式にはスペイン皇太子やグァテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル(サンチェスセレン次期大統領)、パナマ(マルティネッリ現大統領)及びドミニカ共和国の中米カリブ諸国の他にも、ボリビアとエクアドルの首脳、激しい抗議デモが続くベネズエラからは副大統領が参列した。 

バレラ氏にはソリス氏のような決選投票での圧倒的勝利、というシナリオは有り得ない。ならば、CD創設者でもあるマルティネッリ氏のシナリオはどうだろうか。2009年総選挙の各党の獲得議席数だけを見ると、CD12、パナメニスタ党は19PRD22だった。ほどなく、142226に変わった。これが直近の議会構成図では夫々361617だ。議員の政党乗換え組が多いことを覗わせる。比例代表制が主流のラ米の中で、選挙制度自体がユニークなパナマならでは、だろう。先ず、小選挙区で27議席が決まる。比例代表の45議席にも、候補者個人に割り振られる部分もある。制度上の問題だけではなく、政党自身の合流、分裂もある。それにしても、凄まじいほどの変動だ。

バレラ氏自身、2009年、パナメニスタ党とCDの連合「変革同盟」、で、マルティネッリ現大統領と組んで副大統領に当選した。両党連立政権で外相を兼任し、20118月に解任され、連立は崩壊したが、副大統領職は民選であり、反大統領の副大統領を続けていた。上記の議席変動には、パナメニスタ党からCDへの移動もある。逆も有り得よう。だが、新興政党のCDと伝統政党のパナメニスタ党では、立場が違う。 

選択肢として、CDとの連立復活も当然、あろう。そもそも連立解消はバレラ氏が外相を更迭されたことにあり、同党との政策の違いはあまり無さそうだ。彼自身、マルティネッリ氏同様、経済界出身だ。外資誘致や運河拡張プロジェクトにも引き続き取り組もう。コスタリカ共々、メキシコ、コロンビア、ペルー及びチリの太平洋同盟加盟にも抵抗は無い。だが、更迭という仕打ちを受けただけに、修復が困難、との見方もある。まして、野に下ってからは、政権の腐敗を攻撃し続けてきた。引っ込みが付け難い。CD側にも彼への反発は強い。

彼が当選後に真っ先に電話会談をした相手は、二ヶ月前、国交断絶を宣言したベネズエラのマドゥーロ大統領、と言う。断絶理由は、同国で執拗に続いている抗議デモについて、米州機構(OAS)の常任評議会で取り上げようとしたマルティネッリ政権の動きを、耐え難き内政干渉、とした。バレラ氏は、近く特使をカラカスに派遣すること、両国間の国交回復を望むこと、などを述べた旨を公表、71日の大統領就任式にマドゥーロ氏を招く、と表明した。本人の意図はどうあれ、現CD政権への当て付けとも採れる。 

CDとの連立復活が無理なら、PRDとの連立はどうだろうか。パナマ史を紐解けば、極めて考え難い選択肢と言える。パナメニスタ党は、1931年のクーデターでパナマ政界の中心人物となってきたアルヌルフォ・アリアス(1901-88)の流れを汲む。アルヌルフィスタ党とも称された。一方のPRDは、1968年のクーデターで彼の政権を転覆し自らの軍政を確立したオマル・トリホス将軍(1929-81)が後年結成した。二人は言わば不倶戴天の敵同士ともいえる。

1989年に事実上の民政復帰を果たした後、2009年まで両党間で政権交代を繰り返してきた。同年すら、パナメニスタ党にとっては、新興政党のCDとの連立の形ではあれ、二期前同様、政権奪還との位置付けではなかっただろうか。PRDと組むとの選択肢など、有り得なかった。バレラ氏は勝利宣言で、「対立やいがみ合いは過去のものにし、人間的な、合意形成と国民団結の公正で透明性の高い政府をもたらす」と述べた。これは、初めてのPRDへの接近を示唆している、ととられているようだ。

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2014年4月 8日 (火)

初めてのPAC政権誕生へ-コスタリカ

46日、コスタリカで12年ぶりの大統領決選投票*が行われ、「市民行動党(PAC)」のルイス・ソリス候補(55歳)が、得票率78%で快勝した。22日の総選挙での大統領選第一回目投票では、同候補は第一位でも得票率は30.6%で、二位の与党「国民解放党(PLN)」のアラヤ(56歳)候補の29.7%と文字通りの僅差だったので、この数字には意外感が持たれよう。

第一回目投票から1ヶ月経った35日、アラヤ氏は、世論調査などから敗北が確実視されているとして、決選投票のための選挙戦脱退を表明した。ただ法律上、それでも決選投票は行われる。低投票率が予想された。ソリス氏は、決選投票での絶対得票数で、コスタリカ大統領選挙史上、前人未到の100万票を自らに課した、と報じられている。有権者数の3分の1に相当する。理由は、政権の正統性確保のためだ。定数57議席の立法議会(国会)では、僅か13議席、一方ではPLN18議席の議会第一党を占める。政権運営に苦労することは目に見えている。絶対得票で国民支持率の高さを訴えて行く、との戦略だ。蓋を開けると、投票率は57%で、確かに22日の68%を下回ったものの、決して正統性云々されるような低さではなかった。それでも彼の得票数は、130万票だった。有権者の42%が彼に投票したことになる。

(*http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/02/post-5c18.htmlの記述で「決選投票は、平和憲法下の1948年以来、経験して来なかった」は誤りで、2002年選挙でも決選投票は行われています。お詫びして訂正致します) 

ルイス・ソリス次期大統領は、学生時代の1977年に現与党PLNに加わった。英語版Wikipediaには、中米危機の際、1987年(つまり弱冠29歳の年)の「エスキプラスII」(私のホームページ中軍政時代とゲリラ戦争ゲリラとの和平を参照願いたい)にも関わり、アリアス大統領(当時)がノーベル平和賞を受賞するのに貢献した、とある。2002年から1年強、野党になっていたPLNの事務局長も務めたが、2005年に離党している。スペイン語版Wikipediaとも読み合わせたが、PLNでの活動状況は、私にはよく分からない。政治家と言うより、政治学者、歴史家として知られた人だったようだ。 

200012月に、当時46歳のオットン・ソリス氏が、PACと言う新党を結成した。こちらのソリス氏も元々PLNの一員で、アリアス第一次政権(1986-90年)で企画・経済相を務めている。1994年、同党から国会議員にもなった。だが、本来社会民主主義を奉じていたPLNの右傾化に反発するようになり、且つ同党と「社会キリスト教連合党(PUSC)」の二大政党体制への疑問が高まる。汚職も見逃せなかった。これがPLNの同志と共に踏み切った新党立ち上げの理由、とされる。そして、2002年の大統領選に出馬し26%の得票で第三位につけ、党は議会で定数57議席中14を獲得した。2006年にも出馬し、以前仕えたアリアス元大統領に、僅か1%ポイント差の39.8%で第二位につけ、党は議席数を17に伸ばした。

PUSCは、同党の元大統領2名が汚職事件で懲役刑を受け、2006年選挙では議席数が一桁にまで凋落した。これがPACの躍進に繋がった、と見て良い。オットン・ソリス氏らが目指す二大政党体制の終焉は、ここに実現した筈だ。PACは、次には政権奪取に向かう。このような状況下で、PLNのアリアス第二次政権(2006-10年)下にあった2008年、ルイス・ソリス氏もPACに加わった。 

2010年、オットン・ソリス氏は、大統領への三度目の挑戦に臨んだ。結果は、PLNチンチーヤ候補に次ぐ第二位に終わり、しかも得票率は25%に後退、党も11議席に減少した。彼は選挙後、政界引退表明までしている(ただ短期間で復帰した)。

ルイス・ソリス氏は、2010年の大統領選の予備選にも、議員選挙にも出ていない。その後も党内でいかなる活動を行ったのか、私には分からないが、20137月に行われた党内予備選に出馬、元国会議長のメンドーサ議員、及び党首のキャンベル元議員を相手に勝利した。ただ僅差だった。22日の総選挙前、彼の存在感は低かった。そんな彼が、長年サンホセ市長を務めてきていたアラヤ氏を、僅差とは言え破った。ラテンアメリカでは首都の市長と言えば、政界の大物だ。モンヘ元大統領(在任1982-86年)の甥で毛並みも良い。

アラヤ氏は、始めて出馬したPLNの予備選で、2010年はチンチーヤ現大統領に破れはしたが41%の得票だった。今回は圧倒的な強さを見せ付け、強力な候補者が次々に予備選を辞退している。総選挙前の世論調査では本命中の本命だった。結果に、政界、メディア界は驚愕した。それ以上に、アラヤ氏が受けたショックは大きかったのだろう。 

ともあれ初めてのPAC政権が誕生する。創設者のオットン・ソリス氏は、立法議員として政治活動に復帰する。PACは、少数与党で、政権運営には他党との連立、若しくは協力が不可避だ。22日に17%の得票で第三位につけた36歳のビジャルタ議員を擁する「拡大戦線(FA)」は、国会でも9議席を獲得し、一気に議会第三党に躍り出た。こことの連立が囁かれる。

コスタリカは、中米で唯一、国民の大半がヨーロッパ系人種(白人)だ。民主主義がラ米では最も早く確立した国、とも言われる。中米の中では治安はずば抜けて良好だ。平和憲法を持つことでは、日本人として親近感の湧く国でもある。中米統合の面では、中米議会にも司法裁判所にも入らず、一方ではメキシコ、コロンビア、ペルー、チリの太平洋同盟に加盟することに熱心だ。現在はラテンアメリカ・カリブ共同体(Celac)の持ち回り議長国を務める。内政面では近年社会格差が急速に広がった、との指摘がある。これらを含め、ルイス・ソリス次期政権はどう向き合って行くか、注視したい。

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2014年3月14日 (金)

僅差の敗北がもたらすもの-エルサルバドル

39日、ラテンアメリカの二ヶ国で二つの国政選挙が行われた。エルサルバドル大統領選の決選投票とコロンビアの議会選だ。 

現地時間の313日未明、エルサルバドル選挙最高裁判所(TSE)が決選投票の結果、「ファラブンドマルティ国民戦線(FMLN)」のサンチェスセレン候補勝利を宣告した。TSEのホームページにも、決選投票の最終結果として、下記が明記されている。

l サンチェスセレン候補が50.11%1,495,815

l 国民共和同盟(ARENA)」キハーノ候補が49.89%1,489,451票、

その差6,364票、率にして0.22%だ。事前の世論調査によれば、前者が10ポイントを上回る差をつけての楽勝の筈だったのに、20134月のベネズエラhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2013/04/post-5413.htmlどころではない凄まじいばかりの僅差だ。決選投票のキャンペーン期間中、先日お伝えしたベネズエラの抗議活動が繰り広げられていた。キハーノ候補にとり、サンチェスセレン候補への攻撃に格好の材料だ。前回お伝えしたhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/02/post-5c18.htmlを併読願いたいが、サカ元大統領支持層の多くが、サンチェスセレン候補から離れたことは明らかだろう。

僅差の敗北を選挙不正の結果、と決め付け、抗議行動や、外国や国際機関にも訴え、選挙無効を執拗に要求し続けたベネズエラに加え、ホンジュラスhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2013/11/post-bad8.htmlでも似た展開が見られた。ただ後者は短期間に終わった。 

TSEによる速報値段階でも約6,600票差でキハーノ候補が負けていた。彼はこれを認めず、一票ごとの再集計を最高選挙裁判所に求めたが、TSEは彼の要求を受け容れなかった。そもそも、あまりの僅差であれば、TSEは手作業による再集計を行う。この作業には、キハーノ側代表も参加した。作業中、支持者らが再集計会場となったホテルを取り囲み、圧力もかけたようだ。だが、上記最終結果が出た。サンチェスセラン候補の勝利が、選挙制度上、確定した。キハーノ候補側は、それでも選挙の無効を訴え、再選挙を唱える。ただ、大規模街頭デモは一般市民の顰蹙を買う。上記の再集計会場包囲は、短時間で解散した。今後の展開を見て行きたいが、国連及び米州機構(OAS)からの選挙監視団も、エルサルバドル検察及び国防軍も、TSEの最終結果を尊重する旨言明しており、キハーノ陣営による挽回は先ず無いと見てよかろう。 

サンチェスセレン氏は元教師で、19704月に結成されたファラブンドマルティ人民解放軍(FPL。ホームページの軍政時代とゲリラ戦争中のゲリラ戦争をご参照)に参加した。FPLが他左翼ゲリラと合流しFMLNとなる198010月以前の話だ。エルサルバドル内戦は1980年から92年までとされるようだが、ホンジュラスとのいわゆる「サッカー戦争(ラ米の戦争と軍部中の二十世紀の国家間戦争をご参照)」の結果、経済疲弊と社会不安の中でゲリラ活動が頻発し、多くの犠牲者が出た。彼はこの頃から活動しており、筋金入りのゲリラ戦士と言えるかも知れない。FMLNではレオネル・ゴンサレスという別称を持ち、1984年、総司令官を表すComandante Generalとなり、199092年の政府との和平交渉を経て武装放棄に至る過程で強い指導力を発揮したことが知られる。

キハーノ氏は、ARENA創設者のドブィッソン(1944-92)大佐を尊敬している、と言われる。1993年、国連エルサルバドル真実委員会は、803月に起きたロメロ大司教暗殺事件に関し、殺害への関与を断定した人だ。問題は、国家や軍の支配下から離れた形で、ゲリラやその関係者の疑いのある住民を殺害する「死の部隊」の司令塔のような存在だった、とされることだ。標的は左翼ゲリラだった。その中には、当然、同年輩のレオネル・ゴンサレス司令官(サンチェスセレン)も含まれたことだろう。

  

キハーノ氏及び右派勢力は、エルサルバドルでベネズエラ政府の利益を代表し、二十一世紀の社会主義を植えつけようとしている、と攻撃してきた。TSEの勝利者宣告を受けて、記者団の前に姿を現したサンチェスセレン氏は、チャベスを目指すか、と訊かれ、いや、ムヒカ・ウルグアイ大統領だ、と応え、理由として、ムヒカ路線が開発と社会投資を両輪としている、エルサルバドルがベネズエラになれる筈も無い、と述べた。また、過去の政権下で拒まれた国民の権利の保護、雇用の増大、犯罪に対する情報を活用した全力の戦い、国民生活を良い方向に深める真の好転、を約束する、とした。

FMLN政権としては、これで連続10年間が確定する。初代の政権はカリスマジャーナリストのフネス大統領が担っているが、サンチェスセレンに代わって、何がどう変わるのか、連立政権はこれまで通り不可避だが、先ずはここから見ていきたい。 

同じ39には、コロンビアで議会選挙が行われた。サントス大統領支持の国民連合(「国民社会統合党、la U’」、「自由党」及び「急進改革、Cambio Radical」で構成)が下院でこそ過半数を確保したが、上院では半数に12議席届いていない模様だ。ハバナでコロンビア革命軍(FARC)との和平対話を進めているサントス政権に批判的なウリベ前大統領が立ち上げた「民主センター」が、上院でいきなり保守党と共に第二党に躍り出た(但し、下院では第五党に留まった)。FARCとの対話に立会い国として関わるベネズエラの現状が、かなり奏功したように思える。ともあれ、FARCとの和平対話を止められるような勢力にはなっていない。

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2014年2月25日 (火)

チャポ・グスマンの逮捕-メキシコ

222日、メキシコ二大麻薬組織の一つ、シナロアカルテルのトップ、通称ホアキン・「チャポ」・グスマン(56歳)が、メキシコ海兵隊と陸軍との共同作戦により、無血で逮捕された。この2日前に、北米自由貿易協定(NAFTA)加盟国サミットが同国トルカで開催されていた。ロイター電によれば、数日前彼を取り逃がしていたそうだ。本当は、ペーニャニエト大統領としては、オバマ米大統領到着前に彼を確保していたかったところだろう。米政府は即座に、メキシコ国民にとり歴史的成果、としての歓迎を表明した。彼にはメキシコ政府からの3千万ペソ(2.2百万㌦相当)に加え、米政府からも5百万㌦の懸賞金が掛けられていた。

 http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2012/10/post-5054.htmを書いてから、2年と4ヶ月経った。大麻薬組織のもう一つ、セタスのトップ、ラスカーノ殺害後、彼を引き継いだオマルトレビーニョも翌20137月に逮捕され、リーダーをその弟に引き継いだとされる。兄同様、上記ブログで述べたメキシコ政府による懸賞金3千万ペソが掛かった麻薬犯罪者24名の一人でもある。セタスは、私には、このところ大量殺人や州政府及び警察汚職への関与などのニュースが見えなくなっているが、健在のようだ。ただこれはシナロアについても言える。 

 19894月、巨大な麻薬密売組織「グァダハラカルテル」の頭目(カポ)で当時49歳のフェリクスガヤルド、通称El Padrino(英語のGodfather、すなわち名付け親の意)が4年前の米国麻薬取締局(DEA)エージェント殺害容疑で逮捕された。同カルテルの創設メンバーだった幹部も既に数名逮捕されていた。彼の逮捕を機にカルテルは;

l バハカリフォルニア州を主たる縄張りとする「ティフアナカルテル」(以下、ティフアナ)

l チワワ州を中心とした縄張りの「フアレスカルテル」(同、フアレス)

l シナロア州中心の縄張りで「シナロアカルテル」(同、シナロア)

などに分かれた。シナロアは、当時弱冠32歳のグスマンらが得た。ほどなくしてティフアナとの縄張り争いが起こり、襲撃を回避すべく、彼は1993年5月にグァテマラに避難したが、同国軍によって捕縛、送還され、帰国後209ヶ月の懲役刑を受けている。

 メキシコでそれまで72年間政権を担ってきた「制度的革命党(PRI)」から「国民行動党(PAN)」に政権交代して間もない20011月、脱走した。これには多くの刑務官が関わった、と言われる。彼が獄中にある間も、シアロアは縄張りを拡大し、事業を伸ばした、とされる。彼は、収監されているとは言え特別待遇だった、とか、獄中から部下に司令を飛ばしていた、などと言う話もある。

 グスマンの脱走後の足跡については、よく分からない。セタスの母体「ガルフカルテル」のカポが20033月に逮捕されると、シナロアがメキシコ東北部でガルフに攻撃を仕掛け、その武装勢力だったセタスとの抗争関係に入った。これへの彼の関与も分からない。だが、彼への目撃情報も時おり出ていたようで、2005年、米国政府による懸賞金が発表されたのは、彼の所業や所在に関する何らかの情報があったためだろう。 

 200612月に政権をスタートさせたPANの二代目となるカルデロン大統領は、麻薬組織の制圧に軍部及び連邦警察の動員を図った。

l 200612月、就任早々、本人の出身地で「ファミリア・ミチョアカーナ」(以下ミチョアカーナ)が縄張りとするミチョアカン州

l 2007年1月、ティフアナのバハカリフォルニア州

l 2008年1月、ガルフ及びセタスに対するヌエボレオン、タマウリパス両州

l 3月、フアレスに対するチワワ州

l 5月、シナロア州

などに展開している。この間の200710月、米国がメキシコ、中米、ドミニカ共和国及びハイチに総額16億㌦の麻薬戦争支援を行う、と言う「メリダ計画」が発表され、20086月に発効した。メキシコへは11億ドル

が当てられる内容だが、小型偵察機やヘリコプター、監視ソフトウェアやサービス要員派遣から成る。

 上記懸賞金3千万ペソ対象者の24名を指名したのは、20093月のことだ。今日まで15名が逮捕、乃至は殺害されているので、それなりに成果があったとは言えよう。一方でいわゆる麻薬戦争が激化した。カルテル間での報復が報復を呼ぶ。カルデロン政権下の6年間で、巻き添えの一般国民を含む5万とも6万とも言われる犠牲者は、当局との衝突によるものばかりではない。201212月、政権はPRIが復帰しペーニャニエト大統領に代わった。グスマン逮捕を伝えるロイター電は、その犠牲者数を何と85千人、としている。万一にもこんな数字が正しいとすれば、眼を覆いたくなる惨状だ。当局の力による制圧作戦が多大な犠牲を伴うもの、との見方が、幾つかのラ米諸国指導者たちにも広がっている。ウルグアイのマイフアナ合法化は、その流れで見るべきだろう。 

 この間、グスマンはどうしていたか。上記懸賞金3千万ペソのリストにシナロアは彼を含め5名が入っており、彼の逮捕以前に1名殺害、1名逮捕されていた。当局による制圧作戦で、シナロアは弱体化したのだろうか。彼の家族や親戚にも逮捕者が何人か出ている。一方で、敵対するティフアナやフアレスの勢いは、確かに小さくなったようだ。ならば、逆にシナロアの縄張りは広がっているのかも知れない。そんな中で、彼は他2名同様、逃亡を続け得た。

 グスマンの逮捕で、イスマイル・サンバダ(66歳)がシナロアのカポになる、と言われる。もともとシナロアの創設者の一人だ。彼も3千万ペソの対象者の一人だし、家族や縁者が捕まっているが、彼本人は逮捕されたことが無い。シナロアに限らず、メキシコの麻薬組織は、米国と言う一大市場を目前にして、また、武器の密輸が続く限り、消滅することなどあるいまい。

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2014年2月 6日 (木)

二つの選挙-コスタリカとエルサルバドル(2)

エルサルバドルのここ5回の大統領選の立候補者数推移は;

7名(1994)→7名(1999)→4名(2004)→2名(2009)→3名(今回)

で、近年随分減っている。1994年には決戦投票も行われたほどだが、半世紀前に創設された、いわば伝統的政党の「キリスト教民主党(PDC)」と「国民和解党(PCN)」が、2009年から候補者を出さなくなった。

コスタリカの1994年からここ6回の推移をみると;

7名(1994)→12名(1998)→12名(2002)→8名(2006)→9名(2010)→10名(今回)でありあまり変わらない。決選投票は、平和憲法下の1948年以来、経験して来なかった。政権党は「国民解放党(PLN)」→「社会キリスト教連合党(PUSC)」→PUSC(二期連続)→PLNPLN(二期連続)と変遷した。 

今回のエルサルバドル大統領選では、大統領経験者の出馬が一つの特徴、と言える。2010年に創設され12年議会選で議会第三党になった「国民統合のための大同盟(GANA)」が、伝統政党のPDC及びPCNを加えて組成した「統一運動(Movimiento Unidad)」の候補が、サカ前大統領(在任2004-09)だ。名実共に民政移管して30年間、大統領になった6人の内、初代のナポレオン・ドゥアルテ(1925-90。在任1984-89)を除く5人の大統領は、全て40代、若くして任期満了を迎え、再出馬が無かったことの方が奇妙ではなかろうか。再選そのものが禁止、との憲法解釈があったのかも知れない。

サカ候補は一期おいての再出馬ながら、まだ49歳、決選投票に進むFMLNのサンチェスセレス(69歳)、ARENAのキハーノ(67歳)両候補の年齢と比べて、飛び抜けて若い。だが得票率は11%で、圧倒的最下位に終わった。彼はもともとARENAから大統領になった人だ。だが大統領任期満了の2009年、党から追放された。この年の大統領選は、上記の通り、世界的にも珍しい2候補だけの一騎打ちで、ARENA20年ぶりの敗北を喫した。その候補に不利な動きを行ったグループの背後にいた、との理由から、とされる。そのグループがGANAを立ち上げ、フネスFMLN政権と協力関係を持った。

だが、今回FMLN候補とは別途、大統領選に出馬した。お陰で、サンチェスセレス候補は勝利に僅か1ポイント足りないだけで、1994年選挙以来、20年ぶりの決選投票に進まねばならなくなった。同年第一位だったカルデロン候補(ARENA)の得票率も49%だった。

キハーノ候補は、1994年から5期続けて立法議員を務め、2009年に首都エルサルバドル市長に転進、2013年8月まで務めた。実力政治家と言えよう。これに対しサンチェスセレン氏の政治歴は2000年に連邦議員、2009年からは副大統領を務めている。彼はFMLN前身時代からゲリラ活動に携わり、1990年から始まった政府との和平交渉で代表団を率いて92年和平に繋げた実績を持つ。彼がキハーノ氏を破れば、左翼ゲリラ出身の大統領がこの国では初めて、民選大統領制のラテンアメリカ十八カ国でもオルテガ(ニカラグア)、ムヒカ(ウルグアイ)両氏に次ぐ3人目の大統領が誕生する(メディアによってはルセフ・ブラジル大統領もこのカテゴリーに挙げているが、私は違うと思う)。 

今回のコスタリカ大統領選で特徴的なのは、上記の通り、候補者の誰もが勝利に必要な40%以上の得票率を挙げられなかった、という点ではなかろうか。大体がPLN対もう一つの有力政党(1986年以降はPUSC)乃至は政党連合候補の一騎打ちの様相を見せてきたためか、第一位の得票が40%を下回ったことは、一度も無い。決選投票は、エルサルバドルの20年ぶりどころではない。

今回PLN候補となったアラヤモンヘ(56歳)氏は、若くして首都のサンホセ市長になり22年務め、政治家としての知名度も実績も抜群、とされる。事前の世論調査では常に第一位を守っていた。蓋を開けると「市民行動党(PAC)」)候補のルイス・ソリス(55歳)氏に、僅差とは言え第一位を取られていた。彼には、同じPLN政権下で外相や大使を務めた経験こそあれ、議員や自治体首長など政治活動家としての実績が無い。2005年にはPACに鞍替えした人だ。事前の世論調査では第四位に過ぎなかった。これがコスタリカ内外の専門家を驚かせている。なおPACと言えば、2006年にPLN候補でノーベル平和賞受賞者、且つ元大統領の41%に僅か1ポイント差で敗退したオットン・ソリス氏を思い浮かべるが、姻戚関係がどうか、私には分からない。

第三位につけたのは、「拡大戦線(FA)」の、弱冠36歳で、環境保護運動家として知られるビジャルタ候補で、得票率は17%だった。実は、世論調査ではトップのアラヤモンヘ氏を僅差で追っていた。FA自体は2004年、左派勢力によって結成され、2006年以降今日まで、定数57議席の立法議会で1議席という弱小政党だ。その唯一の議員がビジャルタ氏である。第四位は11%の得票を挙げた、今回が連続四度目の大統領選出馬となる「自由運動(ML)」のゲバラ(53歳)候補だ。前回は第三位で、21%を獲得していた。ML自体も議会進出した1998年時は1議席しか確保できなかった。彼が初立候補した2002年には6議席を獲得、その後10議席にまで増やしている。

コスタリカの立法議会選挙で各党の最終議席配分は、同国の最高選挙裁判所のホームページを見ているが、現地の25日段階でははっきりしない。Wikipediaスペイン語版では、PLN18議席、以下同)、PAC14)、FA9)、PUSC8)、ML3)の順番となっている。PUSCの大統領候補の得票率は僅か6%で第五位だった。

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2014年2月 3日 (月)

二つの選挙-コスタリカとエルサルバドル(1)

22日、中米の隣国同士、コスタリカ(総選挙)とエルサルバドル(大統領選)の2ヵ国で国政選挙が行われた。「中米の父」モラサン(1792-1842)の生地であるホンジュラスでエルナンデス大統領が就任して一週間後のことだ。モラサンが中米連邦大統領として最後の職務を執った地がエルサルバドル、崩壊した連邦の再建に決起し落命した地がコスタリカ、と、彼に思いを馳せながら、これを書いている。大統領就任式は前者が58日、後者が61日、と異なる。新大統領同士、夫々の就任式にはお互いが必ず出席する筈だ。

コスタリカの大統領選では、中間発表時点の得票率で31%の「国民解放党(PLN)」のアラヤ(56歳)候補が、29%の「市民行動党(PAC)」のソリス(55歳)候補と共に、46日に行われる決選投票に進む。

エルサルバドルは、中間発表時点の得票率で49%の「ファラブンドマルティ解放戦線(FMLN)」のサンチェスセレス(69歳)候補が、39%の「国民共和同盟(ARENA)」のキハーノ(67歳)候補と共に、こちらは39日の決選投票で雌雄を決する。 

1821年にメキシコと相前後して独立した旧グァテマラ軍務総監領は、短期間メキシコに組み入れられ、ほどなくメキシコから再独立、国名を中米諸州連合(中米連邦)とした。同じような名付け方に、ラプラタ諸州連合(現アルゼンチン)がある。モラサン第二次政権期に入って間もない1834年、連邦首都はサンサルバドルに移った。4年後、大統領選挙が実施される筈だったが、グァテマラ州を皮切りにニカラグア、ホンジュラス、及びコスタリカ各州が連邦から離脱を宣言、連邦は解体に進み、1840年、モラサンが大統領を退任、それまでの連邦首都から逃れた。その後5つ目の独立国、エルサルバドルが生まれた。彼が連邦復活を試み再決起したのはコスタリカだったが、失敗、この地で処刑されている。

ホンジュラス、エルサルバドル及びコスタリカを合わせて、人口面でチリ一ヵ国をやや上回り、合計面積は、南米最小国のウルグアイをやや上回る程度だ。現状の政治面では

l ホンジュラス:軍政期を挟み100年以上続く二大政党の一方が政権を担当。大統領再任が認められず、従って強力な政治指導者が出ない

l エルサルバドル: 1980年代の「中米危機」で内戦を経験、民政復帰から30年余の間に、政権は当時の反政府左翼ゲリラが重要政党

l コスタリカ:1948年に6週間の内戦を経験。その後平和憲法制定、軍隊を持たない。近年、大政党の一つが凋落し若い政党が台頭 

1931年から軍人が立憲大統領の座に座り続け、強権政治を行っていたエルサルバドルで、文民の立憲大統領が誕生し名実ともに民政移管が実現したのは8461日だ。それまでの半世紀の中で、60年、野党的立場で「キリスト教民主党(PDC)」が、翌61年、与党的立場で「国民和解党(PCN)」が、そして81年にARENAが結成された。

19823月、その民政移管直前に行われた議会選で、ARENAPCNを押さえPDCに次ぐ議会第二党になる。そのPDCは、843月の大統領選を制し、結党から四半世紀にして初めて政権党となった。だが89年には政権党は結党後8年のARENAに移り、2009年までの420年間、連続して政権を担う。

1992年末の内戦終結を機に、武装解除した左翼の反政府ゲリラFMLNが政党化した。94年の議会選挙で、いきなり議会第二党になり、以後2009年まで、第一、第二党をARENAと争い、同年、結党から17年でフネス政権を実現させた。

一方で、この国では伝統的政党と言うべきPDCPCNは凋落、2012年議会選挙で夫々「希望党(PE)」及び「全国連合(CN)」に名称変更を余儀なくされるほどに弱小化した。同年選挙で「国民統合のための大同盟(GANA)」が登場、議会第三党となった。

この国ではここ30年間、大統領選挙が議会選挙と同日に行われる総選挙を経験していない。大統領と議員の任期が夫々5年、3年で異なることもあるが、同年選挙が行われた1994年、2009年ですら、選挙日はずらしてある。旧中米連邦5ヵ国で総選挙を行わないのも、大統領と議員任期が異なるのも、この国だけだ。 

コスタリカは、旧中米連邦5ヵ国で国軍を持たない唯一の国である。軍人政権が続いたエルサルバドルとは、或いは、軍政が敷かれたホンジュラスとも、先ずこの点が違う。1917年には軍事クーデター、48年には内戦も経験しているが、1890年以降、概ね4年毎に大統領交代を繰り返した。一政党の連続政権期は最長でも416年間。ラテンアメリカで最も民主主義が根付いた国の一つ、と言われる所以だ。

選挙制度面では、ホンジュラスとは総選挙方式を採るのは同じでも、エルサルバドル同様の大統領決選投票制と非連続なら再選可能、という点で異なる。ここ64年間で再選されたのは、上記内戦で反政府側を指揮し勝利したフィゲレス(1906-90。在任1953-571970-74)と、中米危機終結でノーベル平和賞を受賞したアリアス前大統領(同1986-902006-10)の二人しかいない。

政権与党PLNは、上記フィゲレスが1951年に創設し、その後のコスタリカ政界の中軸となってきた。他にも強力な政党は存在しPLNとの政権交代を繰り返した。PLNに対抗してきた主要政党が1983年に「社会キリスト教連合党(PUSC)」に統合され、二大政党期が訪れた。1994年、PUSCを離党した政治家を中心に「自由運動(ML)」が、2000年には、PACが、かかる二大政党に挑む形で結成された。2004年、PUSCから出た大統領の2名が、収賄容疑で逮捕された。政権党はPUSCだった。2006年選挙では同党は、政権維持はおろか、議会では第四党に落ちた。2010年選挙でも同様だった。 

(続く)

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2014年1月29日 (水)

エルナンデス政権のスタート-ホンジュラス

127日、ホンジュラスでエルナンデス大統領の就任式が行われた。http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2013/11/post-bad8.htmlで述べたが昨年1124日に行われた総選挙の得票率は、次点のカストロ氏(セラヤ前大統領の夫人)に8ポイント差の37%で、この国では決選投票の制度が無いため、当選が確定していた。この数字は選挙不正の結果であるとして抗議活動を繰り返し、無効を訴えていたセラヤ氏も、1224日になって漸く矛先を納め、不承不承ながらエルナンデス当選を受け容れた。ただエルナンデス氏が犯罪組織と関わりあいのあるメンバーがセラヤ氏率いる「自由と再生の党(Libre)」の議員団の中にいる、などと発言したため、その抗議を兼ね、同党は就任式をボイコットした。

就任式で、新大統領は、犯罪集団に鉄槌を下す、と、昨年8月に創設された軍警察5千人に対し、直ちに出動するよう命令を下した。彼はまた、世界で人口当たりの殺人件数が最も多い(国連による)この国の最悪の治安状況は、麻薬組織の跳梁による、として、麻薬との戦いに、最終向け地米国のオバマ大統領に協力を呼び掛けた。また、生産国のコロンビア、向け地のメキシコ及び中米各国大統領に対しては、この分野での確固たる支援に謝意を述べた。 

「中米の父」モラサン(1792-1842)の生地であるホンジュラス。グァテマラ、エルサルバドル、ニカラグア及びコスタリカと共に、中米諸州連合(中米連邦)を構成していた。連邦は、面積で、分解してしまったラテンアメリカ諸国の基準からみても、小国だった。モラサンはこの統合国家の維持、発展に心血を注いだ。だがグァテマラに始まった連邦離脱の流れはホンジュラスにも波及し、1839年までに連邦が事実上の解体に追い込まれた。この一小国が、さらに小さい5ヵ国になった。

それから一世紀以上経って、平和憲法下、軍を持たないコスタリカを除く4ヵ国の内のグァテマラ、エルサルバドル及びニカラグアの3ヵ国が、1980年代の「中米危機」で長い内戦を経験した。最近のシリア情勢をテレビなどで見る度、これを想起してしまう。唯一の例外が、ホンジュラスだ。ただ、軍政を経験した(196310月~821月。ホームページ中の軍政時代をご参照)。その意味で、当時軍人による強権政治を敷いていたグァテマラとエルサルバドルは、重なる部分もある。

中米五ヵ国の中で、ホンジュラスに唯一際立っている政治風土は、一世紀以上も「国民党(PNH)」と「自由党(PLH)」による二大政党制が、軍政を経ても続いてきた、と言う事だろう。大統領候補者が選挙の都度組成(グァテマラ)、文民政権時代に入って結成された二大政党(エルサルバドル)、抜きん出た政権与党(ニカラグア)、繰り返す新党台頭(コスタリカ)、と、どこにも伝統政党が見えない。

この国の二大政党制はしかし、今は崩れた。軍政期を終えても、この国の定数128議席の議会で二桁の議席を得た政党は、2009年の前回選挙まで、二大政党以外では皆無だった。

ロボ前政権期に71もあった国民党の議席数は、エルナンデス政権期になって僅か48、過半数には遠く及ばない。さらに前代のセラヤ政権(2006-09。与党は自由党)の野党だった55にも及ばない。それでも政権を担うことになる。そのセラヤ元大統領が現在率いる新党のLibreが、いきなり37議席(一人離党した由で36、との報道もある)、議会第二党として台頭した。歴史的にPNHと政権交代を繰り返してきたPLH27議席で、第三党だ。また「反不正党(PA)」という新党が13議席を得ている。

ラテンアメリカでは国民の一人当たり所得(購買力ベース)がニカラグアに次いで低い貧困対策が、重要政策課題だろう。だが喫緊の課題が治安対策であることは明確だ。貧困ゆえのみではなく、明らかに麻薬犯罪もこれに絡んでいる。メディアによれば、エルナンデス政権は自由党との連立のようだ。世界最悪の治安に対しては、両党間の政争などしておれない。 

エルナンデス氏は196810月生まれの45歳、民政移管後32年の歴史の中で、大統領としては飛び抜けて若い。30歳で国会議員になった。41歳で、国会議長に就任した。かなりの大物だろう。4年間大統領を務め上げて未だ49歳だ。憲法上は大統領には一度しかなれない。これを変えようとしたセラヤ大統領(当時)は、20096月、クーデターで追放された。そのセラヤ氏が、彼の最大の政敵になっている。大統領再選への道を求めて、この二人が手を組むことはないのだろうか。 

この日、軍、警察から安全確保のため、6千人が動員された。そのような治安情勢に及び腰になったのかどうか、就任式に首脳が出席したのは、域外の台湾とコソボを含む6名。旧連邦首脳は、コスタリカのチンチーヤ大統領のみだ。他3ヵ国は、代理出席となった。その他のラテンアメリカ域内首脳で出席したのは、マルティネッリ(パナマ)、メディーナ(ドミニカ共和国)及び、サントス・コロンビア各大統領となっている。また、旧宗主国のスペインから、近年、王室外交を担っているフェリペ皇太子も出席しているので、治安問題はあまり関係ないかも知れない。また米州機構(OAS)からはインスルサ事務総長が出席した。

チンチーヤ、メディーナ、サントス各大統領とフェリペ皇太子及びインスルサ事務総長はこの後、翌28日から第二回ラテンアメリカ・カリブ共同体(Celac)サミットが行われるハバナに向かった。エルナンデス大統領も同様である。マルティネッリ大統領のみは、キューバ船による北朝鮮向け兵器輸送問題を抱えており、出席を断念した。

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2013年11月30日 (土)

ホンジュラス総選挙の結果は

ラテンアメリカ(ここでは旧スペイン・ポルトガル植民地十九ヵ国に限定したい。以下、ラ米)最富裕国とも言えるチリ総選挙の一週間後の1124日、ラ米最貧困国の一角にあるホンジュラスで、大統領、一院制の国会議員128名、及び自治体首長298名を選ぶ総選挙が行われた。大統領選には8名が出馬したが、この国にはチリなどラ米で一般的な、決選投票が無い(私のホームページの中のラ米の政権地図ラ米諸国の選挙制度を参照)。一発勝負である。

AFP通信によると欧州連合(EU)や米州機構(OAS)など800人、AP250人の国際選挙監視団がやって来た(二大通信社でこうも人数が異なるのは、奇妙とも言える)。民主主義成熟度の高いチリでは有り得ない。全18県に散らばり、結果として透明性の高い選挙が行われた、との報告も出した。十万人に付き85.5人と言う、世界最悪の殺人率が喧伝される治安情勢の中、選挙中の安全を確保すべく、人口830万人(Wikipedia2013年選挙、スペイン語版)で有権者数535万人(同)のこの国で、軍と警察が2.5万人を動員した。これが奏功したためか、この国の選挙最高裁判所(TSE)によれば、投票率は61%だった。治安の良いチリよりも高かったことになる。 

大統領選では、選挙の日、TSEが第一回目の開票速報を出す前に、「自由と再生の党(Libre。以下リブレ党)」候補のシオマラ・カストロ・セラヤ前大統領夫人(54歳)が早々と勝利宣言を行った。当日の何度か目の開票速報が出ると、今度は、開票率が50%を超えた辺りで、与党「国民党(PNH)」候補のエルナンデス国会議長(45歳)も勝利宣言を行った。後者は、得票率が30%台半ばで、30%に僅かに足りない前者の数字を見れば、勝利はほぼ間違いないとみて良く、ごく自然だった。数ヵ国の近隣諸国首脳から、祝意が寄せられた。

ところが、カストロ候補の夫、セラヤ前大統領が、TSEが信用できない、彼女への票をエルナンデス候補向けに「盗んだ」と主張し始める。実は国際監視団も、国際的な慣習からは外れた投票行動が見られる、とも評していた。私には理解不能だが、2割分の投票用紙が予め分離され、各党を代表する監視員に対し、有権者から直接渡される、と言う制度のようだ。選挙日の翌日から暫く公けに姿を現さなかったカストロ候補は29日、自ら不正の証拠を多く集めた、TSEが出す選挙結果には正統性が無い、として、121日の平和裏の抗議行動を呼び掛けた。

昨年7月に行われたメキシコでも、同じく左派系候補が選挙結果を認めず、抗議活動に打って出た。本年4月のベネズエラでも全く同じ光景が見られた。但し、こちらはホンジュラスのリブレ党とは異なり右派系であり、一応収まったメキシコと異なり、いまだに続けている。いずれも、決選投票制が無い点で、ホンジュラスと共通する。 

私は選挙後毎日、飽きもせずにTSEのホームページを眺めて来た。現地29日夜の段階で、開票率は既に9割を超え、エルナンデス候補の得票率は36.7%でカストロ候補の28.8%8ポイント差を付けている。第三位が「自由党(PLH)」のビイェダ候補の20.3%なので、どう見てもエルナンデス勝利だ。TSEの情報を不正なものと決めつけなければ、の話ではあるが。そのホームページには当然ながら議会の勢力図も付いている。

エルナンデスが大統領として、彼の政権下の与党国民党議席数は、今より23減の48議席、37.5%に過ぎない。歴史的二大政党制の一翼を担って来た自由党も20減の25議席で第三党に落ち、リブレ党が初めての議会進出でいきなりの第二党で39議席だ。セラヤ氏は妻の大統領に固執せず、議会を舞台に政治を動かすことを考えても良かろう。会派としては、元々所属していた自由党を巻き込めば、少数与党の政権を動かすことも可能だ。何より、若いエルナンデス氏の国会議長時代の決断力と実行力はかなり高い評価を得ているようで、それに期待しても良いではないか、とも思う。 

ホンジュラスは、CIAThe World FactBookによれば、2012年の一人当たりGDPは、購買力ベースで世界229カ国の内の第163位、4,700米㌦。南の隣国ニカラグアが4,500㌦で第166位、ラ米最下位だが、これに次ぐ貧しさだ。人口の7割が貧困層だと言う。失業率も高い。これが犯罪の温床となってもおかしくなく、冒頭に述べた世界最悪の殺人率の高さに繋がる。犯罪の大半が、メキシコ経由米国に向かう南米からの麻薬に関わるものとされる。

エルナンデス氏の公約は、警察軍五千人の展開による治安改善と、投資の誘致で十万人と雇用創設を公約として掲げていた。軍の大量動員で、結果としては大量の犠牲者を出したメキシコの轍を踏まず、コロンビアのやり方を学ぶ、とする。 

2009628日、軍が、国家の最高指導者たるセラヤ大統領(当時)の寝起きを襲い、パジャマ姿のままで国外に追放し、この行動を最高裁判所が直ちに正当化し、憲法に基づく行動として国会議長が臨時大統領に就いたのでクーデターではない、とする、実に不思議なクーデターを起こした(http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2009/06/post-e8d4.html参照)。この件については推移を含め、このブログでも何度か取り上げた。

彼の妻が拠ったリブレ党は、彼がそのクーデターから2年経ち最終的に帰国(http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/05/post-fce8.html参照)して結成したものだ。政権交代可能な二大政党制の国で、自ら立ち上げた政党がいきなり第二党になった。似たようなケースは、コロンビアで2002年にあった。同国も伝統政党の自由・保守両党による二大政党制だったが、自由党から飛び出したウリベ前大統領らが国民社会統合党(la “U”)を結成し、一大政党になった。成程、その新党が政権を取った、ではないか、ホンジュラスも同じように続かねば、と言うかも知れない。だが、TSEが出す結果は信用できない、として、ベネズエラのように何時までも突っ張っていても、既成事実が定着し、政治的に不利になるだけだ。サントス・コロンビア大統領は、もうエルナンデス政権を承認している。

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