カテゴリー「キューバ」の記事

2016年4月25日 (月)

第七回キューバ共産党大会とフィデルの最後の演説

196510月に創設されたキューバ共産党(PCC)は、10周年の7512月に第一回党大会を開催、1959年の革命後、初めての社会主義憲法の草案を承認し、いわゆるソ連型共産主義国家への第一歩を踏み出した。それから40年間で、僅か7回しか開催されていない。共産党一党支配下の国家運営の基本方針は、党が決める。一つの大会と次の大会までの党の運営は、大会に出席できる約1,000名により、中央委員会に委ねられる。その最高幹部組織として政治局がある。

聊か旧聞に属するが、その第七回目が去る416日から19日まで開催され、142名の中央委員と、17名の政治局員を選出して閉会した。84歳のラウル・カストロ国家評議会議長が第一書記に、85歳のマチャドベントゥーラ同副議長が第二書記に連続再選された。この二人を除く15名の政治局員では、56歳のディアスカネル国家評議会第一副議長を含む10名も留任、5名の新任はあるが、欠員と増員が理由だ。ラウル氏は今大会で、新たに党要職に就く者の年齢制限を提案、中央委員は60歳、政治局員は70歳とした。また、革命世代からの世代交代の必要性を強調した。中央委員の新任が55名、と言うから、幾分進んだのかも知れない。 

前大会http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/post-7b89.htmlと大きく異なるキューバの状況は、何と言っても昨年の7月に米国と国交を回復し、今年の32023日に、現職米大統領としては実に88年ぶりにオバマ大統領を迎えた、世界が注目した対米関係の変化だろう。オバマ氏はラウル氏との共同記者会見で、複数政党制や民選大統領制について述べ、途中、ラウル氏が通訳装置を外す場面を含め、国営テレビで全国中継された。さらに翌日、やはり全国生中継する国営テレビを前に、堂々と民主主義の尊さをアピールした。その6日後、ラウル氏の兄、89歳のフィデル氏が、国営メディアを通じ、厳しく批判している。フィデル氏はさらにその10日後、9ヶ月ぶりに公の場に姿を現した。革命がもたらした成果を語りかける映像が、やはり国営テレビで流されている。

ラウル氏は、党大会を、第一書記への二度目の選出の意味を、自分の主たるミッションがキューバ社会主義を守り、保全し、完成に向かい続けることであり、資本主義回帰を決して許さない、として締めた。その場に兄のフィデル氏も姿を見せ、10分間、演説を行ったことが、日本でも大きく報じられた。19614月の、米国を後ろ盾とする亡命キューバ人によるピッグズ湾事件以降の社会主義国家への歩み、この間根付いたキューバの共産主義思想を手短に語り、今年90歳になる自らの年齢を前面に出して、革命世代も不死身ではない、だが、思想は残る、ラ米、世界に、キューバの勝利を伝えていかねばならない、と語っていたようだ。演説後半はネットの動画で見たが、「終わり(Fin)」という言葉で演説が終わると、並んで隣に居たラウル氏が労わるようにフィデル氏の肩に手をかけ、会場の出席者は全員が立ち上がり拍手し、一部は涙していたのが印象的だった。

ともあれ、昨年1月、9月及び今年の3月、オバマ大統領の訪問前に、米国の対キューバ制裁緩和措置を受けながら、キューバの統治機構は不変、と、強調された党大会だった。フィデル氏だけでなく、ラウル氏が世代間交代に敢えて触れたのは目新しい。 

個人的な話で恐縮だが、私が初めてフィデル氏の本格的な演説に接したのは、19767月の革命勃発記念日だった。1953726日、26歳の若きフィデルが仲間とサンティアゴデクーバ市にあるモンカダ兵営を襲撃したのをキューバ革命の始まりとして、この国では毎年、大々的に祝っている。滞在中のホテルのテレビで見た。50歳になる3週間前だ。記憶は定かではないが4時間ほど、時折経済数値などを確かめる他は原稿も見ずに、ぶっ通して話し続けた。その後も何度か、やはりテレビで見る機会はあった。最後は、確か1993年だった、と思う。彼の年齢は67歳、彼独特の高い声に、張りがあった。ソ連崩壊から2年、石油調達に苦しみ8時間毎の計画停電の最中にあり、社会主義体制下の個人経営の導入、国民のドル保持の解禁などで経済の活性化に取り組んでいた。

私個人は、それから約四半世紀、彼の演説に接する機会は無かった。彼の演説に、現実の時空の厳しい流れを痛感する。体力のみならず、声の衰えを先ず感じた。次に、ずっと原稿を見ていた。以前の長い演説とは全く異なる点だ。以前は、現状分析を踏まえた具体的な将来展望を語っていたが、今回はどうだったろう。

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2015年8月17日 (月)

米国とキューバの今後(1)

814日、米国のケリー国務長官の来訪を待って、在キューバ大使館の星条旗(国旗)掲揚セレモニーが行われた。キューバのロドリゲス外相は出席せず、代わりに国交回復のキューバ側交渉団を率いたビダル外務省局長が参列した。720日のワシントンでのキューバ国旗掲揚セレモニーにケリー氏が欠席、代わりにやはり国交回復米側交渉団を率いたジェイコブソン国務次官補が参列している。相互主義によるものだろう。

セレモニーで演説したケリー氏は、キューバ国民が自由に、自らのリーダーを選び、考えを表明し、信仰を求めるようになることを米国は期待している、と発言した。キューバの国営テレビ、ラジオは、セレモニーの様子を全て中継した由で、そのままキューバ国中に伝わったことになる。 

現職の米国務長官が、地理的に極めて近い隣国キューバを訪れたのは、19453月以来のことだ。前445月、真性党Auténtico)のグラウサンマルティン(Ramón Grau San Martín1887-1969。以下、グラウ)が政権を発足させていた。だが、その後、やはり真性党のプリオソカラス(Carlos Prío Socarrás1907-77)、彼をクーデターで追放したバティスタ(Fulgencio Batista Zaldívar1901-73)、と続く革命前のキューバに、国務長官の訪問は無かった。

バティスタは、19341月にクーデターで実権を握り、44年の選挙でグラウに敗退するまでの10年間と、最高権力者の地位にあった。若きフィデル・カストロら165名がサンティアゴデクーバのモンカダ兵営を襲撃したのは53726日(後のキューバ革命勃発記念日)だが、大義名分はその1年前の523月、クーデターで復活したバティスタを糾弾することにあった。米国もそんな政権下のキューバに国務長官を派遣する気にはなれなかったのかも知れない。だが、真性党政権下の8年間、バティスタは米国に在住した。不思議な史実だ。 

現職国務長官として70年ぶりにキューバを訪れたケリー氏は、4月に我が岸田外相を迎えたフィデル氏にも、パナマでオバマ氏と会談したラウル氏とも会えなかった。これも720日にワシントンを訪れたロドリゲス外相がオバマ大統領に会えなかったことで相互主義と言えない事はない。

この前日の13日、フィデル氏は89歳の誕生日を迎え。この日発行された国営紙に彼のメッセージが掲載された。米国は、キューバに対し、経済封鎖(米側ではembargo、即ち禁輸措置と表現)により生じた巨額の被害賠償を行うべし、とするもので、ケリー来訪の前日にぶつけてきた。フィデル誕生日のお祝いを理由に、マドゥーロ・ベネズエラ、モラレス・ボリビア両首脳が駆け付け、ケリーが滞在している14日に、ラウル氏がマドゥーロ氏と会談の場を設けている。 

大使館でのセレモニーの後、ケリー氏はロドリゲス外相との共同記者会見に臨んだ。彼は、両国政府があまり複雑ではなく相手を挑発することもない実現し易いテーマに取り掛かり、相互信頼を構築していくことが先決と述べたが、同時に二国間委員会設置を発表した。91011日に米側代表団がハバナを訪れて初会合を持つ。彼によると、性格としてはワーキンググループであり、比較的進展の早い海上交通、気候変動、環境分野での二国間協力、やや複雑な両国間直行便の開通、電信に関わる合意、そして最も困難な禁輸措置、人権について協議するものだ。

記者会見の場で、ロドリゲス外相は、米国で起きている白人警察による黒人射殺や、グァンタナモ基地内の囚人に対する扱いに触れ、これらを人権侵害、と批判した。加えて、星条旗掲揚式でケリー氏が述べたキューバの民主化希望発言を意識してか、自分にはキューバ独自の民主主義体制の方が心地よい、と、語る。 

ケリー氏のハバナでの行事は大使館でのセレモニーで始まった。これには、反体制派グループは招かなかった。キューバ政府に気兼ねしたもの、と欧米メディアは捉えている。だが、大使館筆頭(まだ大使任命は実現していない)が居住する公邸での国旗掲揚式には招待し、語り合い、僅か10時間ほどの短い滞在を、これで締め括った。その前には、ハバナ旧市街や有名なヘミングウェーの館を訪れており、次回は数日間の滞在で来たい、と述べていたことが伝わる。

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2015年7月23日 (木)

キューバと米国の国交再開(2)

2015720日のキューバと米国の大使館再開の前段階で、http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2015/04/post-9773.htmlの最後でお伝えした米国のテロ支援国家リストからのキューバ除外が、529日に発効した。この結果、国際的枠組みでの金融制裁は緩和されよう。ただ私には具体像がよく見えない。 

1993年末に最後の駐在から引き揚げた際にも、私は、キューバ国民の教育水準と一般技術水準の高さから、投資市場としての潜在性を信じていた。ところが962月、キューバ難民を支援する「Hermanos al Rescate」と言うキューバ系米人の組織が所有する米国民間機を、キューバが撃墜した。前年10月に議会が成立させていたヘルムズ・バートン法を、クリントン政権が発布した。接収された米国(法)人の、当該資産に関連したと思われる取引を行った外国企業に対する米国法での請求権、及び当該企業トップへの米国入国禁止などが規定され、米国で活躍する外国企業をかなり萎縮させた筈だ。

ともあれ、クリントン政権はもともと対キューバ融和策を追求していた。上記の法律施行には拒否権で応じている。19981月のローマ法王パウロ一世のキューバ訪問後、制裁緩和に動いた。20001月には食糧・医薬品輸出の特別認可、同7月には前年11月来の「エリアン・ゴンサレス」事件http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/12/post-0aed.html、に決着をつけ、当時ニューヨークに駐在していた私には、米国の対キューバ関係正常化が近まった思いが募った。

ブッシュ・ジュニア政権発足後も、2001911日の、ニューヨークのワールドトレードセンター破壊を含む同時多発テロ後も、期待は抱き続けた。上記テロに対して、カストロ政権は直ちにテロ非難声明を出しているし、実際に食糧輸出を実現したのは彼の政権に移った後のことだ。 

ラ米全体に眼を移すと、ソ連崩壊半年前の19917月から毎年解されているイベロアメリカサミットに、第一回目から毎回参加している。93年には再断交状態だったコロンビアと復交、98年のローマ法王訪問の直後にはエルサルバドルを除く全てのラ米諸国との外交関係が復活した。そして998月、ラテンアメリカ統合機構(ALADI1960年モンテビデオ条約で発足したLAFTAが前身。メキシコ、南米10カ国で構成)に加入し、キューバはほぼ完全にラ米社会に復帰した。同年2月にベネズエラにチャベス政権が誕生していたことも、これを後押しした。

同国とは0412月に人民通商協定(TPC)を締結した。キューバの日量9.6万バレルの石油と2万人の医療スタッフ派遣などを取り決めたもので、後年の米州ボリーバル同盟(ALBA)に繋がる。キューバ経済を支える命綱のような役割を担う、と考えられる。03年以降、ラ米諸国の多くで左派乃至中道左派政権が発足し、連続再選を含め、今日まで与党が概ね政権の座を維持している。キューバにとり、ラ米は心地よい地域となった。 

2009年1月、米国でオバマ政権が誕生した。私が彼への期待が膨らませたことは、http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/12/post-0aed.htmlで述べたが、事実彼は当初から対キューバ政策転換に前向きだった、とされる。同年4月、キューバ系米人の渡航規制撤廃を含む規制緩和を、同年11月には一般米人の渡航やチャーター便規制も幾分緩和している。だが、米国政府機関USAIDのキューバ国内での下請けプロジェクトを担っていたアラン・グロス氏が、同年12月にスパイ罪で逮捕されて、政策転換の動きが止まった。キューバ側が、彼の釈放を求める米側に、いわゆるCuban Fiveとの交換を持ち出すなどあったが(ローマ法王キューバ訪問に関する記事http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/11/post-89ad.html後半ご参照)、水面下で再び動き始めたのは、彼の政権が選挙を経て第二期に入った13年からだ。だが、国交回復を前面に出しての動きが、制裁緩和だけの宥和政策だった従来と異なる。

2013年は、オバマ・ラウル両首脳がマンデラ元南ア大統領葬儀の機会にhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/01/oas-3d14.html)握手を交わしたことが特筆されるが、キューバがラテンアメリカカリブ共同体(CELAC)の1年間の議長国になっている点も興味深い。 

ワシントンのキューバ国旗掲揚を主とした大使館再開式には、ロドリゲス外相が駆け付けた。ハバナでは、米国利益代表部が大使館に呼び代えた他は、取り立てて何の行事も行われなかったようだ。米国旗掲揚式は、814日にケリー国務長官が赴いて挙行される。

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2015年7月21日 (火)

キューバと米国の国交再開(1)

2015720日、待ち望んだ日だった。196113日、米国が、言い古された表現だが、僅か90マイルしか離れていない隣国、キューバとの断交に踏み切って54年7ヶ月半。正式な外交関係の断絶期間だ。よくぞこんなにも長く続いたものだ。

1975729日、米州機構(OAS)は、62129日の除名から13年半で、対キューバ政策を加盟国の判断に委ねる決議を行った。実態は、OASのキューバ除名決議後も関係を維持していたメキシコを含め、それまでにアジェンデ政権のチリ(7111月)、ベラスコ軍政のペルー(726月)、第一次軍政が終わりカンポス・ペロン党政権が発足したアルゼンチン(733月)、トリホス軍政のパナマ(748月)、ペレス国民行動党政権のベネズエラ(7412月)及びミチェルソン自由党政権のコロンビア(753月)と、ブラジルを除くラ米主要国は、夫々の関係回復を先行実現していた(チリは739月のクーデターで再断交)。

米国は、OAS 1975年決議の直後に、米企業の海外子会社によるキューバ向け輸出を解禁した。アルゼンチン製のフォード、シボレーが、しかもファイナンス付きで、キューバに入り出した。カナダ製のファイアストーンやダンロップのタイヤも然りだ。翌76年に発足したカーター米政権は、漁業協定締結、利益代表部設置、沿岸警備隊協力、など、対キューバ関係改善に取り組んだ。

日本は、革命後のキューバとの関係維持に努めた。貿易相手国としての最恵国待遇も変わらない。米国が買わなくなった砂糖の多くはソ連が引き受けたが、日本はそれに次ぐ量を輸入した。主だった総合商社は、砂糖を除くと、対米配慮から、子会社名での取引にいそしんでいたが、1975OAS決議に先行し、本社名での取引に変え、ハバナに駐在員を派遣した。私もその内の一人だ。 

当時のキューバは、しかし、ソ連東欧諸国が加盟する経済相互援助条約(いわゆるコメコン)に19726月に加盟、741月、ソ連書記長の初訪問、753月、アンゴラ派兵(ソ連の意を汲んだもの)、同12月、初めての共産党大会開催、762月、社会主義憲法交付、同12月、人民権力全国会議召集と、冷戦下、米国の最大の仮想敵国のソ連型共産主義国家に移っている時代にあった。その中でコスタリカとエクアドルも対キューバ国交回復に踏み切っていた。

19791月より、在米キューバ人の里帰りが可能となった。彼らは米国での生活状況などを伝え、自由で物資が豊かな米国への移住を求める人々の深層を刺激し、翌804月のペルー大使館1万人駆け込み、12.5万人のボートピープルを生んだ、いわゆるマリエル事件を呼び起こした。その直後に、私は2度目のハバナ駐在に出て、街頭で、「行っちゃえ、キューバは働く人たちのもの¡Que se vaya,Cuba es para trabajadores」と、彼らを詰るシュプレヒコールを何度も聴かされた。

19796月に革命を成立させたニカラグアは直ちにキューバとの関係を復活させた。一方で80年代早々に、エルサルバドルとグァテマラで夫々FMLNURGNによる、またニカラグアでも反革命政府派(コントラ)による反政府内戦が起きる。ホンジュラスとコスタリカをも巻き込んだ「中米危機」だ。811月に米国でレーガン政権が成立して早々、コロンビアとコスタリカが再断交に至った。翌823月、米国はキューバをテロ支援国家に指定する。米国キューバ関係回復は、頓挫した。だが、軍政時代を終えたウルグアイとブラジルが関係を復活させた。 

1980年代の終盤、東欧民主化が、様々な動きの中で実現した。9112月にはキューバの唯一の支援国だったソ連も崩壊した。キューバは、一気に経済苦境に陥った。米国は、手を差し伸べるのではなく、9210月、連続再選を狙うブッシュ大統領が、トリチェリ法(第三国の米系企業の対キューバ取引禁止)と言う形で、制裁を強化した。要するに、カストロ体制を潰す良い機会と考えた政治家が多かったのだろう。

ブッシュの連続再選はならず、クリントン政権が誕生、この頃私は三度目のハバナ駐在に出ていた。カストロ政権は外資誘致事業の緩和や国民の外貨保有と経済活動の一部民営を解禁するなど、経済開放策を進めていたが、燃料不足で起きる毎日の8時間毎の計画停電、当然の物資不足激化の中で、翌年、最後の駐在員として引き揚げた。

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2015年4月13日 (月)

米国の対キューバ関係正常化への動き(6)

 

411日、パナマでの米州サミットを機に、オバマ・米、ラウル・カストロ・キューバ両首脳が、1956年のアイゼンハワー・バティスタ両大統領以来初めてとなる直接会談を持った。米国は、19611月に対キューバ断交を宣し、東西冷戦中に同国を社会主義陣営に追い込み、ソ連・東欧圏崩壊を経ても国交断絶を維持し続けて来た。その中での首脳会談であり、我が国を含む世界中のメディアがこの「歴史的瞬間」を見届けようと、大挙してパナマに押しかけていた。日本の大手紙は、前日のケリー・米、ロドリゲス・キューバ両外相の会談を含め、第一面で報道した。NHKも繰り返しトップニュース扱いで報じた。

60年前の前回の対米首脳会談に臨んだ当時のバティスタ大統領は、滞在していたマイアミから帰国して間もない19523月にクーデターで政権に就いた人だ。19591月に成立したキューバ革命とは、彼の政権を打倒したことを言う。1917年のメキシコ革命も1979年のニカラグア革命も標的は当時の独裁体制だった。バティスタのそれも、やはり独裁体制と見做された。彼は19341月にもクーデターで政権を掌握、40年には民選大統領にはなり、44年に選挙に敗れ退いてはいる。だが、二度のクーデター、通算17年間の最高権力者で、且つ抑圧政治で知られる。つまり、彼の独裁体制を標的とした革命だった。当初米国政府もこれを歓迎した。

だが革命政府が矢継ぎ早に打ち出した農地、鉱山、石油関連の改革や、対ソ関係推進で、米国は革命非難に舵を切った。革命から18ヶ月経って、キューバが電力、電話、砂糖、ニッケルなど米国企業の資産接収へと動くと、その2ヶ月後、対キューバ禁輸措置に至っている。断交後には悪名高いピッグズ湾侵攻事件関与(革命政府転覆に臨んだ亡命キューバ人に対する軍事訓練、戦闘機を含む武器供与)が史実として残る。同事件の後、フィデル・カストロ首相(当時)は、革命は社会主義革命だった、と宣言し、ソ連・東欧圏への接近を進めた。ソ連からのミサイル基地建設を要請され、それを受け容れたことで、196210月に起きた米ソ間核戦争に発展しかねない「キューバ危機」は、世界史上の大事件として今も語られる。 

 

「キューバ危機」から52年経っても、ソ連崩壊から23年経っても、そして、国連総会で米国の対キューバ制裁非難決議が出されるようになって22年経っても、両国の断交状況が続く中、両首脳は国交回復に向けた交渉の開始を発表した。オバマ大統領に言わせれば、人口1,200万人の、フロリダ州キーウェストから僅か150kmしか離れていない小さい隣国への、半世紀以上にも及ぶ制裁政策は、米国に何のメリットも与えてこなかった。国連総会決議は世界における米国の孤立を示す。ラ米諸国は米国の我が儘で傲慢な大国の証左としてキューバ政策を見るようになり、そこに中国の存在感が巨大化してきた。まさしく時代錯誤の遺物だ。だから大きく一歩を踏み出した。

昨年1217日の発表から4ヵ月経った。ジェイコブソン国務次官補を団長とする米側、ビダル外務省米国局長を団長とするキューバ側の両代表団による二国間国交回復交渉は、今年1月22日(ハバナ。http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2015/01/--49c7.html参照)の後、第二回目が227日(ワシントン)に、第3回目が317日(ハバナ)で行われた。第一回目会合でキューバ側が反発した人権問題については、331日、異なったメンバーで構成される代表団同士の予備会合がワシントンで開かれている。

「立場の違いを尊重する」旨の発言が多用されつつあり、相互理解は進んでいるようだが、肝心の国交回復については、米側が米州サミットまでに実現させようとしていた大使館再開にすら至っていない。その中での首脳会談だ。サミットでは最もタイトなスケジュールを余儀なくされるオバマ氏は、この会談に1時間を割いた。キューバはラ米唯一の共産党一党支配を前提とする、旧ソ連・東欧諸国や現在の中国、ベトナム同様の社会主義国だ。その体制転換は求めない、価値観の相違はお互い認めたい、とまで踏み込んだ。 

 

キューバ側にとってネックになるのが、米国が1982年に指定したキューバをテロ支援国家とする立場が、今も生きていることだ。当時は中米危機やコロンビア内戦下で左翼ゲリラを支援している、として、レーガン政権が指定した。事実関係がどうあれ、東西冷戦が終わり20年以上経ってなお指定が残っているのは、私には怠慢としか思えない。今、同様の指定の対象となっているのは、他にはイラン、シリア、及びスーダンの3ヵ国しかない。解除は、大統領職権で可能だ。

米側は、指定解除は米国内の手続き上の問題であり、大使館再開とは切り離すべき、として来た。だが、二国間交渉でキューバ側がしきりにワシントンの利益代表部の銀行口座開設を認めるよう要求するのも、テロ指定国では米国内銀行取引すらできない切迫した現実があるようだ。大使館再開前に、指定解除、という要求は譲らない。サミット直前になって米側は、国務省の作業が終了し、大統領に解除の答申を行った、とし、10日にケリー氏が、11日にはオバマ氏自身が確認し、ラウル・カストロ氏にも早急に解除を決断する、と述べた。大統領署名つきで答申を議会に送付すれば、それから45日後に解除できる。 

 パナマでの首脳会談で、オバマ氏は歴史的なページをめくった、と述べる一方、ラウル・カストロ氏は、辛抱強く進めよう、と述べていた。おりしもこの日、対キューバ政策転換に前向き姿勢をとるヒラリー・クリントン前国務長官が、来年の大統領選立候補を表明した。国交回復は、彼女に対するオバマ氏の大いなる遺産となろう。

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2015年1月25日 (日)

米国の対キューバ関係正常化への動き(5)-二国間交渉

122日に、米国とキューバの外交関係回復交渉が行われたことは、日本の新聞でも報じられている通りだ。米国側はジェイコブソン国務次官補が、キューバ側はビダル外務省米国局長が、夫々の代表団の団長を務めた。125日の朝日新聞に、「思惑の差浮き彫り」として、同国務長官の翌23日の「キューバを自由で民主的な国にすること」との発言を、また、「人権状況を改善するようキューバ政府に圧力をかけた」とする声明を伝えた。後者についてはビダル局長の「キューバは圧力に屈しない」との発言も出ている。また、米国のテロ支援国家リストからキューバを削除するよう、強く求めた。

実際の会合では、米側が駐ハバナ米外交官に移動の自由を与えるよう要求し、キューバ側は反体制活動を促すようなことさえしなければ首都を離れても構わない、と応じ、且つ駐ワシントン利益代表部に銀行口座開設を認めるよう要求したこともあったが、双方とも、押しなべて極めて有意義且つ建設的な会合だったと評価し合いながら、解決すべき諸問題があり外交関係回復には時間がかかる、とした由だ。

ただ、翌23日、ジェイコブソン国務次官補がハバナに利益代表公邸で、外電ではよく名前が出るフェレールガルシア、エリサルド・サンチェス、ファリーニャス各氏ら7名の反体制活動家(dissident)と朝食を共にした。「白衣の女たち(Damas de Blanco)」のベルタ・ソレール氏は敢えて欠席したが、同グループの創設の元となった「黒い春」事件で逮捕され、後釈放されたメンバー3名と、その関係者1名が出席者に含まれる。キューバ側のビダル局長は、「彼らはキューバ国民を代表していない」として、早速、不快感を示した。同次官補は、その後外国ではよく知られる民主派のブロガー、ヨアニ・サンチェス氏、及び「黒い春」事件http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2010/06/post-1cb0.htmlの解決に仲介の労を取ったオルテガ枢機卿や、を訪問している。 

遡って116日、米国が講じた対キューバ規制緩和措置(一部については、http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/12/post-7f1b.html参照)が実施に移された。キューバ当局による「政治犯」53名全員解放を米国が確認して、4日後のことだ。

その翌17日には、米国議員団(上院議員4名、下院議員2名)の訪問を受けた。団長のリーヒ上院議員以下、全て民主党に属し、且つオバマ政権の対キューバ関係正常化路線を支持する人たちだ。彼らも118日には、同じ利益代表公定で、反体制活動家の15名と面談している。今回の米国の政策変更には彼らの中で意見対立が露呈された旨が伝わる。ここでは上記のソレール氏も出席し、関係正常化交渉を今行うことは、カストロ政権の強化に繋がる、として反対の態度を示した由だ。また上記のオルテガ枢機卿にも会った。だが折角のキューバ訪問だったが、ラウル議長には会えず仕舞いで19日に帰国している。

外交関係回復交渉の前日の21日、年に2度レヴューされて来た移住問題が協議された。キューバ側はビダル局長が団長を務めたが、米側はリー国務省次官補代理となっている。20年前に締結された協定(キューバ人の米国渡航希望者に発給するビザを年間2万人まで、などと取り決めたもの)の履行状況のフォローアップが主体で、外電だけでは中身がよく分からない。ただリー団長が「Cuban Adjustment Law1966年に定められ、76年に多少の変更が施された。キューバ人は米国のどの地点からでも入国を認め、移住は申請後1年間でこれを認める、とする優遇扱い。他国からだと入国地は特定されるし、移住手続きには数年かかる)」は維持する、と発言し、これにビダル氏が、同法は「違法移住を唆すもの」として攻撃したことが伝わる。有名な「dried foot wet foot」ルール(ボートなどでビザ無しで米国上陸を図るキューバ人を強制送還するのは、海上で拘束された場合のみ。一旦上陸すれば入国を許可するもの)が、同法に基づくものかどうかは、私は存じ上げない。 

お互いの政治姿勢がどうあれ、外交関係は回復されよう。若し冒頭の「自由で民主的」、「人権状況」が関係回復の条件、となれば、旧ソ連・東欧圏諸国や現在も続く中国、ベトナム、或いは長期に見られた長期独裁国家群との外交関係を維持し続けた米国の、外交政策の矛盾となる。122日の交渉の前日、ケリー米国務長官は、近いうちの大使館再開に期待していること、また適切な時期にロドリゲス・キューバ外相との会談の用意があることを明言していた。加えて4月の米州サミットだ。こと、この点に関しては、私は楽観している。 

116日に発効した制裁緩和措置について述べる。

非キューバ系米人の渡航に取得が義務付けられていた「特別許可証」(財務省が発行。取得に数ヶ月かかり、渡航希望者の意欲を削いできたもの)発行が撤廃された。これにより今後の渡航者数(キューバの統計では、年間9万人なのだそうだ)が3倍増、と囃す旅行会社の話が伝わる。外国人のキューバ渡航者数は300万人を超える(出身国別の数字は存じ上げない。最多とされるカナダ人が100万人辺りだろうか)、と言われる中、随分と小さな数字だが、本来米国民にはキューバ渡航が禁じられている。この中では大いなる前進、と言えよう。

情報通信分野の関連物資の輸出も解禁された。但し、キューバの民間企業や個人に対するものだ。認められる米国からの投資も然りで、農業分野も含まれる。貿易や投資が国家機関に集約されるキューバで、実効性がいかほどのものかは、私には分からない。

ただ家族送金(これまでの四半期500ドルが2,000ドルまで4倍増)や渡航者によるキューバ産品の土産購入などで少なくとも外貨収入は増えるし、対米関係変化の機運が盛り上がることは確かだろう。良い方に考えていきたい。

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2015年1月15日 (木)

米国の対キューバ関係正常化への動き(4)

112日、関係正常化交渉の開始に当たり、米国が解放を求めていたキューバ国内で収監されている(米国政府が「政治犯(political prisoners)」と規定する53名が、全員解放された、とのニュースが、外電で飛び交っている。米国がどう捉えようと、善悪はともかく、典型的な共産党一党支配の社会主義国では、旧ソ連・東欧や、現在でも中国、ベトナム同様、「政治犯」或いは(政権に対峙する)反対派(opponent)は有り得ない。従来キューバ政権は、反体制活動者(dissident)を、キューバの体制崩壊を目論む米国及び外国の右翼勢力による雇われ人(mercenary)と見てきた。社会主義国キューバでは、犯罪者、と見做される。

申し訳ないが、私はこの53名については、ロイターが1227日付けで初めて報じた時、変な話だ、と思った。ニュースの出所も、どうも反体制派グループのようだった。16日に米国の国務省報道官が、「キューバ政府は我々が求めた政治犯の解放を始めた」、と述べたニュースを報じた際、人数も対象社名も特定しない、と言っていた。そして112日、ケリー国務長官が一部議会メンバーに対し、実は釈放済みだった政治犯を含めて53名、と言う数字を明示した。報道官は、数週間、乃至数ヶ月前から何人かが釈放されていたこと、53名は米国のみならずヴァチカンが解放を求めた人たち、とも明らかにした。

加えて申し訳ないが、私は両首脳合意に伴い行われるのは、2012年にキューバ提案に繋がるCuban fiveの残り3名と米人グロス氏の囚人交換であり、キューバ人の米国スパイを加えたもの、とばかり思い込んでいた。オバマ大統領がそれまでの半世紀余りの愚策を反省し、国際社会が当然視する対キューバ制裁解除への道を切り開くもの、と取った。ラウル議長自身、オバマ大統領との合意事項が、キューバの基本的理念(社会主義体制)を変えず、進められる、と述べていた。 

去る12月末、パフォーマンスアーティストとして世界各地で活躍してきたキューバ人のタニア・ブルゲラ氏が、ハバナの革命広場で、「公開集会」を企画した。集まるキューバ人が、米国との関係改善交渉が開始されるのを機に、個々人の意見や希望を1分間ずつ、マイクを使って発言する、というものだ。収容人数が100万人を超える、とされる革命広場は、革命記念集会、メーデーなどの重要な政治イベントの会場として使われてきた。キューバ建国の父と言われるホセ・マルティの銅像と、チェ・ゲバラ他数名のキューバ革命の英雄たちの巨大画像が置かれている。そこで自由発言集会を開催しようと言う感覚に、私などは、キューバはここまで変貌したのか、と、驚くばかりだ。結局、申請を受けた当局はこれを認めず、関係者の逮捕、拘束に動いた。彼女も捕まった。拘束された人たちは数時間後、乃至翌日には解放されているが、この事件に外電がすぐさま反応した。また米国国務省も直ちに批判声明を出した。

米国政府が政治犯と見做す53名の大半の解放は、上記事件の僅か1週間後に始まり、僅か数日で完了した。そして上記の国務省報道官やケリー長官の発言である。米国が要求する反体制派(キューバ側に言わせれば、犯罪者)の解放を交渉開始の条件、とされながら、これを受けた。それも上記事件への米国の批判から間もなく、となれば、キューバ革命政権が、ついに米国の圧力に屈した、と捉えられても仕方なかろう。

ラウル氏の兄、フィデル氏の死亡説が、マイアミ辺りで流布されているようだ。今年に入って、アルゼンチンの元サッカー選手、マラドーナ氏が彼からの111日付け手紙を受領した、と言うニュースが、手紙の写真つきで、ベネズエラの体制派テレビ局が報じたのは、勿論死亡説を否定するためだろう。ただ、今回合意や53名の解放について、201312月、マンデラ元南ア大統領の葬儀の場でラウル氏がオバマ氏と握手を交わしたことを、直ぐ「素晴らしい出来事だった」と称えた人が何の発信も行っていないことが、私には気にかかる。 

「黒い春」http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/03/post-7a88.html事件ではカトリック教会とスペイン政府の尽力があった。対象者は75名の内の53名、奇しくも今回と同数だ(残りは彼らが動く前に健康問題などで釈放済みだった)。収監されている人たちも分かっていたし、国際人権団体からは「良心の囚人」扱いも受けていた。彼らの殆どが、国外に出て、一部は残留した。

20118月、その国内残留組の一人、フェレールガルシア氏(44歳)が他の残留組と共に立ち上げた「キューバ愛国同盟(UNPACU)は、今やキューバで最大、最も目に見える活動的な反体制組織、と目される。上記ブログで照会したエリサルド・サンチェス氏(70歳。非合法組織の「人権と国民和解のキューバ委員会(CCDHRN)」のリーダー)や、ハンストを繰り返したファリーニャス氏(53歳)ら、数千人といわれる。四半期ごとに拘留中の政治犯情報を提供するCCDHRNは、反体制派について最も精通した組織だが、サンチェス氏は53名のリスト作成の相談に預かっていない、と憤っている由だ。

また「黒い春」事件で組成された「白衣の女たち(Damas de Blanco)」は、相変わらず毎日曜日の街頭行進を続けており、一般市民への露出度の高い反体制組織となっている。そのリーダー、ベルタ・ソレル氏(51歳)に至っては、この度釈放されたグループのメンバーが53名に含まれているかも含め何も知らされておらず、米、キューバ両政府にリストを開示するよう、求めているほどだ。 

一体、53名はどうやって選ばれたのだろうか。ヴァチカンだろうが米通商代表部だろうが、反体制グループの協力抜きでは作れない。反体制グループはどんどん生まれているようで、前述の革命広場のイベント関係で拘束された人たちのグループも、私は寡聞にして知らない名だった。

ともかく、両国の関係改善のための協議は、12122日にハバナで開催される。キューバ側の状況がどうあれ、見守りたい。

 

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2015年1月 7日 (水)

米国の対キューバ関係正常化への動き(3)

昨年1217日の米国、キューバ両国首脳が関係改善への交渉開始発表時、アルゼンチンパラナ市でメルコスルサミットが行われており、AFPは集合した加盟諸国首脳が、これを、拍手を持って歓迎した旨伝えていた。1214日のハバナでの「米州ボリーバル同盟(ALBA)」サミットに出席したメルコスル加盟国のベネズエラのマドゥーロ、加盟プロセス中のボリビアのモレロスの両大統領が、原加盟4カ国首脳共々、出席していた。いずれも、対米強硬派で知られる。

マドゥーロ氏は、オバマ大統領の提起は勇気有る、歴史的に必要なもの。彼の政権期で、多分最も重要な一歩で、「Estoy muy feliz自分は幸せだ」とまで語っていた。発表翌日の18日、そのオバマ大統領は、議会が裁決し、マドゥーロ氏が激しく反発していたベネズエラ制裁法に署名した。これは、昨年2月から数ヶ月間に及ぶ学生を中心とするマドゥーロ政権への抗議活動http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/03/post-f9f2.htmlへの抑圧に関わった、とされる政府職員の一部に対し、米国への入国を禁じる、というもので、対キューバ制裁とは異次元の、制裁としてはごく軽微なものだ。

だが、国民の眼に及ぼす影響は大きい。上記抗議活動の元となったラ米域内最悪のインフレと物資不足、及び治安の悪さは続いている。そこに、国際石油価格の大幅下落だ。経済状況は一層悪化し、彼への支持率は30%を切った、と伝わる。本年秋口に議会選挙が行われる筈だが、3分の2近い議席を有する与党、ベネズエラ統一社会党(PSUV)には逆風だ。結果によっては、2016年に大統領リコール手続きも有り得る。

キューバは、命綱とも言うべきベネズエラで、「米州ボリーバル同盟(ALBA)」への関与見直しを主張する「民主統一会議(MUD)」への政権交代でも起きると、一大事に陥る。83歳にもなったラウル・カストロ議長としては、早めに手を打っておく必要に迫られたのかも知れない。そんな中、本年11日、ブラジルのルセフ大統領の二期目就任式に駆け付けたマドゥーロ・ベネズエラ大統領がバイデン米副大統領と挨拶を交わしていた、と、5日の朝日新聞の記事に出ていた。彼もまた、対米関係改善に動く必要性を認識し始めたのだろうか。 

元々、マルビナス(フォークランド)領有権問題で、米国が英国を支持している上にNML Capital Ltdら、いわゆる「ハゲタカファンド」との債務問題を抱えるアルゼンチンのフェルナンデス大統領も、対米関係に苦慮する。それでも、ボリビアのモラレス大統領との二国間首脳会談の場で、対キューバ政策変更を発表するオバマ大統領を称え、「アルゼンチン国民、南米人、地球上のメンバー、政治活動家として、我々は」との枕詞を並べ、「estamos muy felices幸せに思う」、と言っていた。この国も1025日に大統領と上院議員の3分の1、及び下院議員の半数を選出する総選挙が行われる。フェルナンデス氏は出馬できない。8月始めに行われる予備選で各政治勢力の候補者が決まる。世論調査では、彼女の「勝利戦線(FpV)」の有力候補と、彼女の第一期政権時代の副大統領で急進党を中核とする「拡大戦線UNEN)」の有力候補が夫々3割ずつの支持を集めているが、対米関係での違いは分かり難い。

ラ米最大国のブラジルのルセフ大統領は、第一期目の2011年の最初の訪米時、オバマ大統領に対キューバ制裁停止を掛け合ったことで知られる。また2012年の第六回米州サミットが、キューバ抜きでの最後、と強調した。彼女は20139月に、米国から国賓待遇での招待を受けたが、CIAによる盗聴事件発覚で訪米そのものを止めている。上述のメルコスルサミットでは、オバマ氏の対キューバ政策変更について、「壊れた関係を修復するのは可能、ということを示しており、文明の中で変革を見せる時だと信じる」とのコメントを発していた。第二期目に入ったが、経済情勢に陰りが見えるだけに、彼女への批判がまだ続く。なお彼女の労働者党(PT)は、2018年の次回選挙でルラ前大統領の復帰を進めている。

ラ米第二の大国、メキシコのペーニャニエト大統領は、メキシコ政府が支援し認めてきたことの決定的且つ歴史的な動きであり、両国の関係正常化に貢献する用意がある、とした。彼の制度的革命党(PRI)政権時代、キューバ孤立化の路線をとった米州機構(OAS構成諸国の中で、唯一キューバとの外交、通商関係を維持し続けたことが正しかった、と強調するものだろう。今月6日、ワシントンでのオバマ大統領との首脳会談で、このテーマを取り上げ、最大限の貢献を申し出た。ゲレロ州のイグアラ市における地元警察による926日の学生襲撃事件は未解決状態で、抗議運動が続いており、ペーニャニエト政権も厳しい状況下にある。 

そのOASは、加盟諸国は1970年代初めから徐々に二国間関係を再開し残るは米国のみになっていた2009年になって、キューバの資格停止を漸く解除した。米国は、キューバが民主主義条項を満たしていない、として消極的対応だったが、解除自体には反対はしない、との立場だったため、本来可能な復帰は、キューバ自身の判断で、実現していない。本年41011日にパナマで開催される米州サミットにラウル議長が出席する機会を捉え、実現するのではなかろうか。インスルサOAS事務総長は、「オバマ大統領の意思だけで経済制裁はできず、議会による関連諸法の廃止手続きが必要」と冷静な見方を示しながら、廃止されることを期待する、と明言している。

ラ米諸国はどこでも、米国・キューバ間関係正常化を歓迎する。国連や欧州連合(EU)も然りだ。そもそも国際社会は、米国の対キューバ制裁自体を非難し続けてきた。現実的には、ここまで来たことを率直に評価し、両国間交渉を冷静に見守り、必要に応じ協力して行って欲しいものだ。

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2014年12月30日 (火)

米国の対キューバ関係正常化への動き(2)

1217日、キューバで200912月に逮捕された米人グロス氏(15年の懲役刑)の釈放が確認されて、米国ではスパイ罪で19989月に逮捕されたキューバ人、エルナンデス(終身刑)、ゲレロ(懲役22年)及びラバニーノ(懲役30年)各氏も釈放された。

後者はいわゆるCuban Five(内1名は201110月に釈放され、2年間、米国での監視下の滞在を余儀なくされた後に13年に帰国、もう一人は本142月の釈放と同時に帰国)の残る3名だ。

グロス氏とCuban Five両国関係正常化への動きを阻む障害の一つ、としてhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/11/post-89ad.html、私も3年前、採り上げたことがある。両首脳による関係正常化開始の発表は、彼らの釈放実現のタイミングに行われた。今回の両首脳の発表にあるスパイ交換の対象は彼ら、と言うのは正しいのかも知れない。AFPによると、このスパイ交換は2012年初頭にキューバ側から提示されていた。人数面でも米側1名、キューバ側4名(当時)、米国側が一顧だにしてこなかった由だ。翌1312月、キューバ政府はこの交換に関わる協議を急ぐよう米側に申し入れた。それから1年、スパイ交換案をぶつけていたキューバ側の言い分が通った。且つ、関係正常化の動きが一気に高まった。キューバの粘り勝ち、とも言えよう。

だがもう一人、スパイ罪で20年間に亘り収監されてきたキューバ人も釈放された。ラウル・カストロ議長の発表にも触れられている。オバマ大統領はこのキューバ人を、「米国に最も重要なエージェントたちの一人」、と形容する。彼らのお蔭で、米国に送られてきたキューバのスパイ網に関わる情報が入手でき、多くの逮捕に繋がった、彼の釈放後の身柄は米国の保護下に置かれている、とも述べた。 

オバマ大統領は国交回復、米人の合法的キューバ渡航機会の拡大、米国からの家族送金増額、米国からの合法的輸出物資拡大、キューバからの特定商品輸入、キューバでの米金融機関口座の開設、キューバ人の情報通信へのアクセス拡大、テロリスト支援国家指定見直し開始、等など13項目を示した。繰り返すが、米国の対キューバ制裁には立法措置が必要で、大統領権限でできることは限られる。その為か、下記の通り実に細かく、世界最強国の米国大統領が、と思われる箇所も多い。思うに、国務省の事務官が作成したものだろう。

国交回復で移住、麻薬対策、環境保全、国民の移動など相互利益のテーマでの協力を行う、とする。その道筋には触れていない。大使派遣までの完全復活となると、大使の任命は議会承認を必要とするため、聊か厄介だ。だが、現在の利益代表部の格上げくらいはできよう。

外交関係が途絶している間、19779月までは夫々の国家利益を相手国で守るための日常業務は、米国の場合はハバナのスイス大使館、キューバの場合はワシントンにあるチェコスロバキア大使館が代行、それ以降は米国、キューバ夫々から派遣される代表以下の常駐スタッフが行うようになった。利益代表部と言うのは、それ以降のことだと、私は理解している。米国の利益代表部の正式英語表記はUnited States Interests Section of the Embassy of Switzerlandだが、キューバ人でスイス大使館、と捉える人はいないと思う。そもそも、ハバナの米国利益代表部は、元々1953年に米国大使館として建設された。 

米人の渡航目的にキューバ内民間企業や農業従事者へのトレーニング活動が例示された。渡航者への便宜を図るため米国機関がキューバの銀行の口座開設を認可、ともある。現在は渡航目的を教育文化交流、とし、財務省の許可証を長期間待って、ツアー業者に引率されての旅行だけに、目的が拡大されても大した効果はあるまい。大統領はその財務相許可手続きの簡素化、乃至は排除を意図しているようだが、形態をツアーに限定して何のトレーニング活動だろうか。キューバ側には米人観光客の急増を期待する向きもあろうが、やはり米国の議会が渡航に関する立法化が成るまでは、望むべくもあるまい。

家族送金は金額を四半期ごと2千ドルに増額する、との事。また米国からの輸出物資の拡大については、キューバの民間企業向け物資供給を挙げる。キューバからの特定品目の輸入とは、渡航者が持ち帰られる産品のことで、一人400ドルまで、内タバコとラム酒は合計で100ドルまで、との規制もかかる。テロ支援国家指定見直しも、国務長官にキューバがテロリスト支援に関わった、とする報告を6ヶ月以内に提出させる、としている。えらく慎重な印象を受ける。 

両首脳が合意した外交関係復活に向けた実務交渉は、1月末にハバナで始まる。米側交渉団を率いるのは国務省のロベルタ・ジェイコブソン次官補(ラ米担当)だ。13項目の提案は、両国の実務折衝の叩き台となろう。

両国から代表団が派遣されて直接交渉を行うのは、これまで代表的なものとして、キューバ人の米国移住に関わる、いわゆる移住協議があった。私の理解では、米国は年間2万人の移住者を受け入れる、とする移住協定があった。現在は、どうも毎年の両国代表団同士の協議で、実際のビザ発給数を取り決めているようだ。20102月の移住協議の際に、米国代表団は、その2ヶ月前に逮捕されたグロス氏を即刻解放するよう要求した。翌11年1月に行われた移住協議には、ジェイコブソン次官補が米側団長を務め、同様の要求を行い、且つ彼と面会した。キューバでの彼への裁判は同年3月に行われ判決も出ている。

元々1月の第二週に、これまで同様、移住協議がハバナで行われることになっていた。今度は外交関係復活への協議が主たるアジェンダ、となることから、時期は少し遅らせたようだ。グロス氏が釈放されて初めての両国間交渉に臨む米側団長が、同次官補と言うのも因縁じみる。

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2014年12月19日 (金)

米国の対キューバ関係正常化への動き(1)

1216日、オバマ米大統領がラウル・カストロ・キューバ国家評議会議長と電話会談を行い、両国間関係改善に動き出した。この二人は、1年前のマンデラ元南ア大統領葬儀で顔を合わせ、握手を交わしたことで注目された(http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/01/oas-3d14.html)が、それより以前にフランシスコ・ローマ法王やカナダ政府から提供された交渉の場で、水面下での動きは進められていた由だ。

私事で恐縮だが、私は米国が好きだ。だが、対キューバ制裁は絶対に許しがたい蛮行としか言いようが無い。CIAがカストロ暗殺の謀を幾度もめぐらしたことは事実として広く知られるが、教育の場で国民を苦しめ続けるカストロ独裁国と教え込み、法律で米国企業を禁輸で、米国民を渡航禁止で縛り、テロリスト支援国家に位置づける。国際社会では毎年国連総会の場で対キューバ制裁への非難決議が繰り返されている中で、聴く耳持たずの唯我独尊を貫く。世界最大の経済大国で、軍事面でも国際社会への影響力でも超大国である米国が、眼と鼻の先にある人口で30分の1に過ぎない小さな島国を、真面目な顔で苛め抜いている姿は、いかにも子どもじみて、私には寧ろ惨めに映る。

私がニューヨーク勤務時代の199911月、途中に死亡した母親に伴われてフロリダに漂着したゴンサレス少年を、在マイアミの親戚が引き取るか、父親の待つキューバに送還するかで争われた、いわゆる「エリアン・ゴンサレス事件」が、翌年6月にキューバ送還で決着した際、私は、両国関係正常化が近い、と喜んだ。その後、食糧と医薬品に関わる対キューバ禁輸措置緩和も見られた。さらにその翌年、米国の政権は民主党のクリントンから共和党のブッシュに移った。そしてその年の911日、ニューヨークのワールドトレードセンタービル二棟が航空機による体当たりテロで崩壊させられる、いわゆる9.11事件が起きた。「テロとの闘い」が米国民に深層に植え付けられた。1982年以来、米国政府が「テロ支援国家」に位置づけていたキューバとの関係改善は、遠のいた。 

2009年1月に発足したオバマ政権に、私は対キューバ政策転換の期待が膨らんだ。彼の民主党は、上述通り、クリントン時代(1993-2001)の末期に動きを見せた。その前は、カーター時代(1977-81)に遡る。その初期には両国の利益代表部が設置され、在米キューバ人の里帰りや家族への送金が認められ、当時キューバが軍事支援を行っていたアンゴラから撤兵すれば国交復活に進む、との見方も出てきていたほどだ。だが政権末期に米国に逃れる125千人もの大量難民の発生で、動きは止まった。

オバマ政権は、在米キューバ人里帰り回数制限を撤廃し、送金規制も大幅に緩和した。この点については、ブログで取り上げた第五回米州サミットhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2009/04/post-4db0.htmlを見て頂ければ幸甚だ。ラ米には中道左派を含め、左派系政権が増え、米国でもイデオロギー面でキューバへの抵抗感は薄まっている。ただ禁輸措置のさらなる緩和も、半世紀に及ぶ米国人の渡航の自由規制も手付かずだ。第六回米州サミットの隠れた主人公がキューバだったことは、私もブログで申し上げたhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2012/04/post-cabd.html

20154月にパナマで行われる第七回サミットには、ラウル・カストロ議長が出席することが確認されている。129日のイベロアメリカサミットに欠席した同議長は、同サミットに出席したコレア・エクアドル大統領を除く8カ国の首脳に加え、新加盟2カ国の首脳が一堂に会する「米州ボリーバル同盟(ALBA)」創設十周年記念サミットを、14日、ハバナで主宰した。この場でも、米国の対キューバ制裁を非難する決議が出されたばかりだった。 

キューバ自身には、当然ながら、対米関係改善を拒む理由は無い。寧ろ、今回の動きの理由は、オバマ大統領の側にあろう。中間選挙で民主党が敗北を喫した。この場合、大統領の実権は低下する。だが彼は、最近、500万人のヒスパニック違法移民の米国内残留を認める旨の声明を出した。米国で人口の15%を上回るヒスパニックに留まらず、ラ米諸国は当然、これを歓迎する。キューバについても同様だ。こちらは、右派、左派に限らず、どのラ米諸国も、今回の動きに喜びの声を上げている。欧州諸国も然り、だ。歴代の政権が手を付けられなかった困難極まる問題だけに、これを根元から転換する、となれば、後世に偉大な大統領として記憶されよう。

これから、だが、対キューバ制裁解除には、立法措置が伴う。議会で過半数を占める野党が抵抗すれば、実現は難しい。政府高官級協議は進むだろうし、テロ支援国家指定除外も、行政当局たる国務省が動けば可能かも知れない。在米キューバ人の里帰りや送金は、実質的に自由化されよう。現在食糧と医薬品の輸出のみが禁輸措置から免れているが、かかる免除商品が拡大されるだろうことから、全米商工会議所も歓迎している。葉巻など、キューバ産品の一部の輸入が再開されよう。だが、根本的解決とはならない。

一方で、対米配慮でこれまで対キューバ投資に二の足を踏んできた他先進諸国企業も、動きを活発化させよう。米国の経済界の焦燥感は募ろう。対キューバ制裁を執拗に唱えることの愚かさには、今回の動きを契機に、米国民も理解していくのではあるまいか。米国では二年後に大統領選が行われる。ヒラリー・クリントン前国務長官が圧倒的な人気だ。彼女は、対キューバ制裁緩和を進言していたことで知られる。同時に行われるのは、上院の三分の一と下院の全員が対象となる議会選だ。それまでに立法措置が拒み続けるのは、得策ではない気がするが、どうだろうか。

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