カテゴリー「経済・政治・国際」の記事

2010年4月24日 (土)

ベネズエラ独立革命200周年に集まった大統領たち

419日、カラカスにALBA加盟国(旧スペイン、ポルトガル領19ヵ国では、ベネズエラ、キューバ、ボリビア、ニカラグア及びエクアドル5ヵ国。他にアンティグア、ドミニカ、サンビセンテ・グラナディナのカリブ島嶼国)首脳とフェルナンデス・アルゼンチン、フェルナンデス・レイナ・ドミニカ共和国両大統領が集まった。このことで、一寸書いておきたい。

1810419日、カラカスのカビルド(市会)が、スペイン本国のセビリャ自治評議会政府(ほどなくカディスに移動)によって軍務総監に指名されたばかりのエンパランを罷免し、自らの行政最高評議会を立ち上げた。カビルドというのは植民地人の議会のことを指すが、それまで植民地社会に根を下ろした有力者たちがレヒドル(regidor。参事と邦訳されている)と呼ばれる議員となって様々な問題を協議し合う場だった。司法行政の権限はアウディエンシア(audiencia。聴訴院と邦訳される)という本国による植民地統治機関にあり、国王勅任の軍務総監が全権を担っていた。つまりカビルドは国政に関わる権限は殆ど持たされていなかった。それが一人の軍務総監の追放によって行政権を手中に収める決議をした。これは植民地もセビリャ同様、フンタ(junta)と呼ばれる自治評議会を立ち上げる権利を行使する、というもので、独立宣言ではない。だから、ベネズエラはこの日を独立記念日とはしていない。だが、ラテンアメリカの独立革命史上、最重要年の一つとして記憶されている。フェルナンデス大統領はベネズエラ議会で演説し、200周年万歳、と締めくくったそうだ。525日はアルゼンチンも同様の記念日が到来する。同様の集まりはあるのだろうか。

200周年記念日では、2009810日、南米諸国連合(UNASUR)サミットがキトで開催された。同市の市民がアウディエンシア長官を追放し自治評議会を立ち上げた日で、エクアドルではこの日を独立記念日としている。ベネズエラにとっての419日よりも重要な日だと言えよう。ちょうどコレア大統領がUNASURの年次議長を務める年だったことがあろう。また、同年1014日にはラパスでALBAサミットが開かれている。やはり200年前の同地で、市民による自治評議会を立ち上げる事件が起きていた。キトもラパスも植民地当局によって解散させられ、エクアドルは18225月に、ボリビアは18253月に、ボリーバルにより解放された。

カラカスの集まりは「サミット」になるのだろうか。この機会にチャベス、コレア両大統領が、530日のコロンビア大統領選にウリベ政権与党「国民社会連合党(la U)」候補として出馬したサントス前国防相への懸念を表明した。20083月に対コロンビア断交に踏み切ったエクアドルは、昨年末には代表部の相互設置で復交への第一歩を踏み出したが、今日に至るも正式な国交回復に至っていない。懸念は、断交の基になったエクアドル国境地帯にあったFARC拠点に対するコロンビア軍の越境作戦が、当時のサントス国防相の責任に帰する、との考え方にあり、また、ウリベ現大統領の対外政策の継承を表明するサントス候補に対するチャベス大統領の反発がある。サントス候補は、逆に、いずれも内政への干渉がましい言動、と批判する。

オルテガ大統領は、2011年末の大統領選への連続出馬の機会を求め、法的整備を進めようとしている。だが議会はこの3ヵ月間、政治問題に関わる法案審議を拒否し続けて来た。オルテガ支持者による激しい対議会抗議が奏功したのだろうか、漸く審議に入ったようだ。聊か国内情勢が気にかかる状況にあり、ちょっと眼が離せない。その中でカラカスに来た。ALBAはホンジュラスのロボ政権を承認しない立場だが、中米諸国はEUとの「連合協定」を推進する必要に迫られている。その前提がロボ・ホンジュラス政権承認だ。ニカラグアも無視し続ける訳にいかず、4月に入って両国大統領は対話を開始した。既に承認したかも知れない。これをALBAの首脳陣の了解を取り付けたい。

カストロ議長のキューバは、サパタ服役囚が刑務所の待遇に抗議し80日間のハンストを実行し2月央に衰弱死した。これに抗議をする形でジャーナリストのファリーナ氏がハンストに入り、現在収監中の26名の政治犯解放を訴え、現在は入院して点滴で生命をつないでいる。彼の場合、以前にもインターネット検閲に抗議するなどハンストを繰り返してきたために、国際的知名度が高く、人権問題に過敏な国際社会のキューバの体制に対する反発を強め、人権団体のみならずメディア界、EU、及び、当然だが米国から、轟々たる非難が寄せられた。その中でのカラカス来訪だった。ファリーナ氏のハンストは米国やメディアに唆された不満分子に利用されたもの、というのが政権側の主張だ。また最近、クリントン米国務長官が、カストロ兄弟は国民の支持を繋ぎとめるため米国と敵対関係にある現状を維持する方が得策、と考えている、と批判した。これには本末転倒、と反撃している。ALBA加盟国は、キューバ側の主張を一致して支持できる首脳が集まる。

モラレス大統領はこの後帰国し、自然保護を叫ぶ団体など世界中から2万人以上の参加者による国際集会を主催した。「気候変動と母なる大地の権利に関わる人民の国際会議」と名付け、ボリビアはここ1年間で1,000万本の植樹を行い、また母なる大地の権利を保護する省を設立すると宣言した。これにはチャベス大統領も出席している。2020年までに世界の主要国は二酸化炭素の排出量を半減させること、などを、年末にメキシコのカンクンで開かれるCOP16で提起する、とのことだ。

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2010年4月11日 (日)

10月のブラジル大統領選:二人の強力候補

ブラジルは、大統領、議会選挙を一度に行う、ラテンアメリカでは一般的な総選挙方式を採る。加えて、26州の州知事とブラジリア連邦直轄区の知事も同時に選出する。議会では定数513人の下院議員(任期4年)全員、同81人の上院議員(同8年)はその3分の1乃至3分の22010年は後者)が対象だ。2010年は103日に行われる。

411日、最大野党のブラジル社会民主党(PSDB)はセラ前サンパウロ州知事(3月末退任)を正式に大統領候補に指名した。彼にとっては、8年前に続く、68歳にして二度目の挑戦だ。与党候補は労働者党(PT)のロウセフ前大統領府長官(同じく3月末退任)、62歳が決まっている。末期にあってなお80%を超えると言われる大変に高い支持率を誇るルラ政権からの与党候補だからと言って、彼の後任になれるわけではない、と言うのは、チリと同じで、世論調査ではセラがロウセフを支持率で上回ってきたが、このところ肉薄傾向にある。49日に初めてブラジルを訪問したチリのピニェラ新大統領は、ルラ大統領の他、ロウセフとセラ両候補と個別に会談した。

ブラジルでは今日のような強力な行政権限を持つ大統領が直接民選され、且つ任期を全うできたのは、ルラの前にはドゥトラ(在任1946-51年)、クビチェク(同56-61年)及びカルドーゾ(95-2003年)の3人しかいない。85年の民政移管後、死去、或いは弾劾で、二人続いて中途で辞めている。そして94年選挙でカルドーゾ候補が選出され、憲法修正で任期を4年に短縮する代わりに連続再選が可能となった。政界地図を見ると、労働者党(PT)、ブラジル民主運動党(PMDB)、PSDB、及びその友党ともいうべき民主党(DEM)が、言うなればブラジル四大政党で、2006年総選挙での得票率は合わせて54%だった。残りの46%は、20近い他の政党で分け合っている。2010年選挙でセラを出すPSDBは、民政移管後の政権与党にあったPMDBを飛び出たカルドーゾらのグループにより結成された。だが彼の政権は、PMDBと連立を組んだ。左派PTのルラ候補が政権に就くことを恐れたためだろう。

PT自体は、ルラ政権を誕生させ、再選させた20022006年両選挙で、得票率では一位だったが、それでも夫々18%15%である。2002年選挙では、他で支持を得た政党は小党ばかりで、結局彼自身の国民的人気が政権獲得に繋がった。実際の政策も決して急進的なものではなく、中間層にも安心感を広げた。そして2006年にはPMDBと、議席数第5位の進歩党(PP)、同第6位の社会党(PSBの支持まで取り付けた。PPは歴史的に軍政与党の流れを引く中道右派、PSBは中道左派との位置付けのようだ。経済も確実に成長している。国際舞台でも存在感が非常に高い政治家になってもきた。その彼が、ロウセフ長官を大統領候補に指名した。彼女は、当然、ルラ政治継続と、かつての新自由主義政策復帰への阻止を主張する。彼女は軍政時代に逮捕、収監された左派系活動家出身、という点で、チリのバチェレ前大統領を想起させる。釈放後は軍政期非合法活動無く、大学卒業後地方行政に従事、2002年からルラに抜擢され国政で閣僚を務めてきた人で、選挙で選ばれる、という経験は無い。現在議席数では議会第一党のPMDBは、8年前の選挙ではセラを支持したが、今回はPT候補と言うことで彼女の支持に回る。ルラ野党で議席数第七位の民主労働党(PDT)の支持も得た。だが、PSBはゴメス候補を出すし、PPはまだ態度を明らかにしていない。

PSDBは本来PMDBの左派グループが作った党だが、カルドーゾ時代の民営化推進ですっかり新自由主義経済政策の党、とのイメージが定着したようだ。そのセラ候補だが、学生運動指導者出身で軍政期に亡命経験を持っている。チリにピノチェト軍政前まで長く滞在した。民政移管直前の恩赦で帰国後はロウセフとは異なり、何度も選挙の洗礼を受けた。1984年より下院議員、上院議員、サンパウロ市長、州知事を歴任した。閣僚としてはカルドーゾ政権期に厚生相を経験している。8年前支持してくれたPMDBは失っても、8年前にルラ候補に起きた流れが、今度は彼に来ないとも限るまい。彼を支持する民主党は軍政与党内の批判勢力が創設したものだが、上記PP同様、中道右派の位置付けだ。もう一つ、小党の人民社会党(PPS)も彼の支持に回る。かつての共産党である。セラ候補は、正式指名の受諾演説で、ルラ政権が貿易拡大策を採らず、複雑で高コストの国内流通体制の変革に取り組まなかったことを、強く批判した。

ブラジルで最初、ラテンアメリカで6人目の女性大統領が誕生するか、チリに続いて脱左派政権が生まれるか、二人の支持率がどう変動していくか大変興味深い。

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2010年4月 3日 (土)

マルビナス領有権問題-アルゼンチン

42日、アルゼンチン南端の町、ウシュアイアで「マルビナス戦争の退役軍人と戦没者の28周年」式典が行われ、フェルナンデス大統領がマルビナス領有権回復を武力ではなく平和裏に実現する旨を強調した。同時に、イギリスが1965年の国連総会で決議された当事者間協議を実行せず、母国から1万4千㎞も離れた場所の主権を主張し続けるのは植民地支配に他ならない、と強調した。

1982年のマルビナス(フォークランド)戦争は、悪名高いアルゼンチン軍政によって惹き起こされた。悪名は、軍政には国内ペロン派(ペロニスタ)のモントネロスと呼ばれる勢力やその影響下にある労働組合活動家、及び左翼ゲリラとその支援者(その疑いがある人を含め)に対する弾圧で3万人とも言われる犠牲者を出したいわゆる「汚い戦争」による。巨額対外債務と経済苦境、及び国民生活を疲弊させた三桁インフレも、この軍政下のことだ。ガルティエリ軍政大統領の意図は、国民の不満をそらすために戦争に踏み切った、という人も多い。勝算はあった。

ウシュアイアから東へ400㎞。総人口が現在なお3千人にも満たないフォークランド。東西フォークランド両島プラス776小島群から成り、総面積は12千平方キロ、主要産業といえば羊毛、漁業、観光だ。1982当時の人口はこれよりも少なく、防衛隊員は英国海兵隊員を含めても、百人に満たない。事実、28年前にこの地に進発したアルゼンチン軍は、戦わずして征服した。国民は領土回復の歓びで熱狂した。更に、こんな遠隔地までイギリス軍がやってくることは考え難く、また米国が、自ら主導した1947年のリオ条約(第三国による加盟国攻撃は米州全体への攻撃、と規定)に縛られ、イギリスに睨みを利かせる、従って、対英戦争には踏み込まずに済ませる、との読みがあった。

サッチャー政権下のイギリスは、しかし5月にフォークランド奪回作戦に踏み切った。チリ以外のラテンアメリカ諸国はアルゼンチンを支持し、ペルーに至っては戦闘機を提供した。キューバまでもアルゼンチンを支持した。だが、参戦国は無い。米国が、これはアルゼンチン領土への攻撃ではない、との理由でイギリス支持に回ったことは最大の誤算だった。戦争は短期間で終了する。

フェルナンデス大統領は、この愚を繰り返さないことを述べたものだ。マルビナス領有権問題を再燃させたのはイギリスのデザイア石油による開発計画だ。222日の第二回ラテンアメリカ・カリブ首脳会議でも取り上げられた。アルゼンチンだけでなく米州の領域内にある天然資源の略奪、とまで言う人もいる。だが、ラテンアメリカ諸国はアルゼンチンの領有権を支持しながらも、言うだけで具体的な手は何も打てない。米国のクリントン国務長官も3月始めのアルゼンチン訪問の際、両国間協議が実現できるよう、イギリスに打診してみる、とは言ってくれたが、実は何もできないでいる。国連を含む国際機関には、もう一方の当事国、イギリスとの仲介の労をとる気配は無い。

第二次世界大戦後の194510月に国連が発足した。植民地支配の終焉と独立・自決(Decolonization)が叫ばれた時代だ。ペロンが大統領になり、この地の領有権を国連の場で訴えた。領有権主張は、彼が55年に追放されても続いた。1965年の国連決議だが、これにはフォークランド諸島住民の利益の重視、との前提があった。その島民には、なべてイギリス残留を望む声が強い。一向に埒があかない。彼の復帰が影響したかも知れぬが、1975年、ついに両国外交関係は断絶した。その流れの中に、マルビナス戦争がある。そして敗戦にも拘わらず、アルゼンチンの領有権主張は変わらない。一方で、イギリスが領有権問題の土俵に上らないのは、植民地主義的野心ではなく、優先させるべき島民の意向がある、との建前からだろう。

18331月、英国軍艦が土足で上がり込み、アルゼンチン国旗を引き下ろし、英国旗を掲揚して居座ったまま、と言うのは史実だ。だが1841年のイギリスによる入植開始後住み着いてきた島民が営々と築き上げてきた生活もある。何だか、日本の北方領土問題を見ているようだ。違うのは元の島民が追い払われた点だろう。マルビナス入植事業が開始されたのは1820年代のことで、アザラシ猟にいそしむガウチョが定住するようになるのは、1828年だ。イギリス軍艦来航時、島民はわずかだった。ガウチョの一部が反乱を起こし逮捕され、その後アルゼンチンに送還されたが、殆どは島に残った。

その後の入植者は当然ながら殆どがイギリス人である。現在の3千人、という人口に到達するのに170年かかった。島民には歴史がある。アルゼンチンはこれに何ら関わってこなかった。20世紀前半まで、イギリスはアルゼンチンにとって飛び抜けて重要な貿易相手国であり、投資引受国だった。マルビナス回復を理由に軍事作戦を展開して対英関係を悪化させるなど、有りえなかった。だから関わりようがなかった。だから島民は、イギリス残留は当然のこととしてきた。これでは先に進みようがなかろう。

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2010年3月21日 (日)

コロンビア議会選挙

314日にコロンビアで議会選挙が行われた。ところが一週間経った今も最終結果が出ていない。わざわざ民間に委託した開票管理システムが上手く作動しなかった、と言い、委託先を変えて開票作業をやり直した。選挙管理委員会の失態である。

今回の議会選は、60%を超すウリベ支持率が与党にどのように反映されるか、という意味で私個人は注目していた。昨年12月のチリ選挙では80%を超えるバチェレ前大統領の高支持率にも拘わらず、野党が勝った。コロンビアの場合は、与党系議員の数十人が一般市民虐殺などで非難される「コロンビア自警連合(AUC)」との関係で騒がれる、いわゆるパラポリティック・スキャンダルという逆風の中にいた。2008422日までに逮捕された議員は、33人にも上る。上下両院合わせて264名を分母と見れば分かるが、大変な人数だ。この中にはウリベ大統領の従兄弟に当たる下院議長や、アラウホ外相の兄が含まれる。さらに大統領の「国民社会統合党(la U)、以下統合党」総裁もAUCとの不適切な関わりが捜査され、総裁辞任に追い込まれた。

選挙結果は出ていないが、それでも統合党は単独でも上下両院で4分の1議席を確保、連立相手の保守党も伸ばした模様だ。最大野党の自由党は議席数を維持したものの、パラポリティックス攻撃で活発に動いたもとゲリラのM-19の流れを引く「民主代替の極」(PDA)は、大きく減らしたようだ。つまり、ウリベ与党が勝った。最終結果を待たず、メディアの関心は5月に行われる大統領選に向かっている。

議会選挙は同時に各党の大統領候補も選出する。統合党はサントス前国防相(58歳)で一本化していたが、保守党は複数だった。結局、サニン前駐英大使(60歳)に決まった。5月の選挙に立候補する人は8名で、前回2006年選挙では一本化したウリベ陣営が二人に分かれていることから、誰も過半数獲得はできない、と見るのが一般的だ。どちらか一人が決選投票に進む場合は、他の一方がその支持に回り現与党体制が続く可能性はあるが、二人が一、二位となった場合、6月の決選投票で合い争えばどうか。前者の場合でも、敗れた方が野党候補支持に回ることも無いとは言えまい。

サントス候補は国防相として、国民の熱狂的支持を受けウリベ人気を高めた20087月のFARC人質奪還作戦(元大統領候補を含む15人を救出)の直接最高責任者だったこと、加えて、統合党の結成を主導したことで、ウリベ陣営の代表格だ。元々は彼の家族経営のエルティエンポ誌の経営に関わり、コラムニストとして活躍した人で、国防相というイメージからは遠い。国連の通商・開発委員会に関わった国際通でもある。

サニン候補は30歳台でベタンクール政権(198286)の通信相を務めた。またガビリア政権(1990-94)でも外相を務めた。いずれも自由党政権だった。ところが12年前の大統領選に独立候補として立候補し、得票率26%を得て一躍注目され、決選投票では第一回目投票で第二位の保守党パストラナ候補を「コロンビアのための大同盟」として支持、彼の勝利に大きく貢献した。2002年も出馬したが得票は6%にも満たなかった。だから今回は三度目の挑戦で、しかも保守党からの立候補、となる。

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2010年3月 8日 (月)

ヒラリーのラテンアメリカ6ヵ国歴訪

やや旧聞に属するが、米国のクリントン国務長官が31日から5日まで、ウルグアイ、アルゼンチン、チリ、ブラジル、コスタリカ及びグァテマラ6ヵ国を歴訪した。医療保険制度改革など内政で多忙なオバマ大統領の名代と言う訳ではなかろうが、この人は行く先々で国家の最高指導者との会談をこなす。今回も5日間の歴訪で当該6ヵ国の大統領の他、10ヵ国の首脳と会っている。

ウルグアイでは31日、ムヒカ新大統領の就任式に出席した。ルラ・ブラジル、フェルナンデス・アルゼンチン、ルゴ・パラグアイ、チャベス・ベネズエラ、モラレス・ボリビア、ウリベ・コロンビア、コレア・エクアドルの7ヵ国の指導者が顔を揃えていた。個別会談とテーマについては、残念ながら分からない。ムヒカ大統領との会談ではウルグアイ民主主義は域内の手本になる、と讃え、長期政権に固執し反米言動を繰り返すチャベス・ベネズエラ大統領をやんわり批判したことが伝えられる。

同日の午後、もともと予定していなかったアルゼンチン訪問では、モンテビデオでの大統領就任式で一緒だったフェルナンデス大統領と会談し、マルビナス(フォークランド)領有権に関わる米国の支援要請を受けた。既に国連事務総長に対英調停を依頼しているが、国連は当事国双方の依頼でなければ動けない旨を伝えられており、イギリスに影響力のある米国の仲介の労を期待したものだ。3年前の選挙期間中、「南米のヒラリー」と言われたフェルナンデス大統領の現在の国民支持率は高くない。中銀が持つ準備金を特別基金に移し替え債務返済に充当する政策を巡り、昨年央の中間選挙の結果陥った少数与党の議会で強い反対を受け、苦慮してもいる。

32日午前、チリに向かった。2月末に大地震に見舞われ、ムヒカ就任式に参列できなかったバチェレ・チリ大統領とは、米国としての被災支援への取り組み表明など、お見舞い以上の話は無かったようだ。また、ピニェダ次期大統領を紹介されている。スペイン系ラテンアメリカ18ヵ国のもう一人の女性大統領である彼女は、311日に退任する。その半月前に襲った大地震で、甚大な被害を出した津波の警報を出さなかった大失態、災害地での救援活動の遅れや来たした治安悪化などで、政府に対する国民の不満が沸騰している。その向け先はどうしても、つい最近国民支持率が8割だった彼女になる。

32日夜、サンティアゴから到着したブラジルでは、同国がイラン制裁に否定的でしかも国連安保非常任理事国ということで、米国との共同歩調をとるよう説得するのが主眼だった、とされ、ルラ大統領とも会談の場は持ったが、突っ込んだ協議はアモリン外相との間で行われた。ブラジルは、アフマデネジャド・イラン大統領を招いて二国間関係の強化で合意したばかりで、近くルラ大統領が同国を訪問する。非核宣言を行った19672月のトラテロルコ条約批准国で、核武装は放棄しており、イランにもそれを求める、国際社会の制裁は逆効果、との立場だ。結局、話は平行線を辿った。

34日にはコスタリカに寄り、昨年628日に起きたホンジュラス政変で調停役を務めたアリアス大統領と会談した。同国のOAS(米州機構)復帰問題を話し合い、またチンチーヤ次期大統領とも会談している。そして35日にグァテマラに入った。勿論、コロム大統領との個別会談も行ったが、同地にはオルテガ・ニカラグア大統領を除くSICA(中米統合機構)加盟国とドミニカ共和国の計7ヵ国の首脳が集まっていた。何より、ロボ・ホンジュラス大統領が参加していた。彼にとっては、初めての首脳会議出席だ。ロボ政権を承認するラテンアメリカ諸国は、左派だろうが右派だろうが、まだ一部に過ぎない。ついでながらドミニカ共和国在住のセラヤ前大統領は同じ日にカラカスを訪問、翌日チャベス大統領から、カリブ海域諸国への石油供給を行う機関であるPetrocaribeの政策評議会の主席顧問として迎え入れられた。同大統領は、政治活動を認めた上でのセラヤ帰国がホンジュラスとの関係正常化の基本、として譲らない。

ところで、コロンビアとメキシコに挟まれ対米麻薬密輸ルートとして、最近米国で注目されてきたのが中米だ。グァテマラでの会談ではホンジュラス問題に加え、麻薬問題解決のための多国間協力が重要テーマだった。彼女のグァテマラ訪問直前、麻薬対策の任に当たる政府責任者と警察幹部が麻薬汚職で逮捕されていた。ここで彼女は麻薬問題の責任の一端が米国にこそある旨を率直に語っている。国務長官就任後、最初の訪問国メキシコで、米国からのメキシコ麻薬組織に対する武器の密輸を止める責任は、米国にある、と踏み込んだ発言をした人らしい。

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2010年3月 1日 (月)

無くなったウリベ連続三選

226日、コロンビア憲法裁判所は、大統領連続三選を可能にする憲法改定のための国民投票が民主主義の原則への重大な侵害、として、実施してはならない旨の判断を下した。これでゲリラと犯罪への強硬姿勢で70%の支持率を誇るウリベ大統領の連続三選の可能性は消えたことになる。彼はこの判断を尊重する一方で、コロンビア民主主義には治安面での決然とした対応が今後も必要、と訴える。

530日の大統領選には、親ウリベ陣営から国民社会統合党(’la U’)から彼の政権で国防相を務めたサントス氏(58歳)、連立関係にある保守党で女性の二人、サニン、ラミレス両氏の立候補が取りざたされる。反ウリベ陣営では、自由党のパルド元国防相と、「民主代替の極」(PDA)のペトロ・ウレゴ上院議員(50歳)の二人が有力候補だ。この中でウリベ政治の継承者を自任するのがサントス前国防相だ。昨年5月に大統領選への立候補準備のため辞任していた。テロ活動が劇的に減少したのは、彼自身の成果でもある、とする。つまり、自分こそウリベ政権の功績を築いた、という自負だ。だが、ウリベ支持率の70%の票は大きく分散する、というのが大方の見方である。反ウリベ票の行方と共に、注目したい。民意は先ず、314日の議会選でも示される。大統領選に出馬する顔ぶれは、その日に届け出が締め切られる。

ウリベ政権下のコロンビアは、南米で最大の親米国として知られる。その米国は「プランコロンビア」という麻薬撲滅のための国際支援の中で、2000年から08年まで計60億㌦とも言われる巨額援助を行ってきた。コカ栽培地での除草薬散布活動に必要な小型機や資機材の供与、及び活動要員の派遣にも充てられるが、麻薬組織、左翼ゲリラ(とりわけFARC)、それに対する自警団の全国組織(AUC)、いずれも麻薬取引に関与しているとの前提で、多くは軍事、警察関連、とされる。小型機、ヘリコプター、武器、情報機器などの供与や訓練のための要員提供など様々だ。軍事部門は従来の顧問団だけでなく、2009年の新協定で7ヵ所の基地を使用する戦闘員も派遣する。麻薬組織の幹部の多くが逮捕され、またAUCの武装解除も進んだ。社会に麻薬問題を抱える米国にとって好ましい。反米の代表格であるチャベス・ベネズエラ大統領と渡り合えるウリベ大統領の存在自体も好ましい。だが、彼が連続三選に挑むことは、オバマ政権は歓迎しない。一個人が長期に亘って政治支配する国家形態は、民主主義に馴染まないからだ。

高支持率を抱えて退陣するのは、ウリベ大統領に限らない。本日退陣するタバレ・バスケス・ウルグアイ前大統領、間もなく退陣するバチェレ・チリ大統領も同様だ。西半球で最も輝ける指導者、と讃えられるルラ・ブラジル大統領も退陣する。

連続再選自体は米国でも一般的だが、ウルグアイもチリもそれすら禁じる。一方で、南米ではエクアドルとボリビアがこれを解禁した。中米6ヵ国はどこも禁じているが、ニカラグアでは解禁の動きが出てきている。ホンジュラスでは解禁しようとしたセラヤ前大統領がクーデターで追放された。連続再選とはそれほどに重い政治テーマだ。まして連続三選なぞ、過去はいざ知らず、今のラテンアメリカでは異様とも言える。これをやり遂げたのはチャベス・ベネズエラ大統領だけだ。ウリベ連続三選となれば、緊張関係にある隣国のチャベス大統領と同じことになる。隣国同士という意味でも異様だ。

米国は当然ながらウリベ後のコロンビアにも現在の親米路線を期待する。南米ではチリが右派のピニェラ政権に代わる、と言っても、中道左派のバチェレ諸党連合政権も親米だった。つまり差し引きゼロなのだ。左派政権下のベネズエラ、エクアドル及びボリビアの3ヵ国は、ウリベ政権下のコロンビアと対立関係を続けてきた。彼の後任政権が左傾化するか否かに拘わらず、ウリベ政権そのものが無くなることを歓迎する立場だろう。

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2010年1月18日 (月)

チリの政権交代

117日に行われたチリの大統領選決選投票で、野党連合「チリのための同盟(以下「同盟」)」ピニェラ上院議員が、第一次選挙の44%の得票率を8ポイント伸ばし、当選を決めた。フレイ元大統領陣営はピニェラの金権を批判し、また今なお80%の国民支持率を誇るバチェレ大統領が右派政権への疑念を公言し、第一次敗退のオミナミ候補が終盤でフレイ支持を明らかにしても、当選した。民主的手続きを経た右派政権の誕生は52年ぶりだ。大統領はピニェラ候補の勝利が確定するとすぐさま本人に祝意を述べた。

この国では1970年に、同じように民主的手続きをとって社会主義政権を誕生させた。73911日にピノチェト将軍によるクーデターで崩壊し、ラテンアメリカで民主主義が最も深く根付いたこの国に、人権侵害ではアルゼンチンと並ぶ暗く長い軍政が襲いかかった。ピノチェト軍政に関わったとされる勢力が1983年に創設した独立民主連合(UDI)と1987年創設の国民革新党(RN)によって構成される「同盟」だが、内政面では、公約した国営産銅会社CODELCOの一部民営化などを除くと、与党連合のコンセルタシオン(諸党連合、以下「連合」)と政策に違いが見え難い。その意味で安心感が有る。ピニェラ次期大統領は勝利宣言の中で、良い国を築き上げるためには健全野党の存在は不可欠、と「連合」にもエールを送ると共に、ピノチェト政権関与者は政権から排除する旨を言明した。

外交面では、バチェレ大統領が一線を画しながらも友好関係を維持してきたベネズエラのチャベス、ボリビアのモラレス両大統領がどう出るか、注目したい。少なくともボリビアの太平洋への出口を巡る問題で早速暗い影が掛り始めた。対ペルー関係については、ガルシア大統領がピニェラ歓迎の姿勢を示しているにせよ、海上の国境線問題は根が深く、一気呵成の改善とは行くまい。対ホンジュラス関係は、一週間後に発足するロボ政権を承認するラテンアメリカ諸国の少数派の一つになるのかどうか、これも注目点だ。一方でその他の南米諸国、及び米国とは従来通りの好関係を維持していくものと思う。

民主主義に対する価値観を米国と共有してきたチリは、第二次世界大戦後ずっと親米国だった。現中道左派の「連合」政権でもそれは変わらず、加えて経済政策は米国の新自由主義に近いピノチェト政権時代からの市場主義を踏襲してきたし、アンデス諸国で真っ先に自由貿易協定(FTA)を取り決め、発効させている。ピニェラ次期大統領は、所得倍増を公約とする。一人当たりのGDPが既にラテンアメリカ随一であるだけに、大変野心的な公約、と言えよう。

南米10ヵ国で右派政権はコロンビア1ヵ国だったのが、今後2ヵ国となる(私のホームページ「ラ米の政権地図」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/C3_1.htm#1参照)。

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2010年1月 5日 (火)

ラテンアメリカ-2010年選挙

2010年のラテンアメリカ選挙カレンダーを見ると、大統領選挙がチリ(117日。決選投票)、コスタリカ(27日)、コロンビア(530日)及びブラジル(103日)の4ヵ国で、議会選挙がコスタリカ(27日)、コロンビア(314日)、ドミニカ共和国(516日)、ベネズエラ(926日)及びブラジル(103日)の5ヵ国で行われる。ここではチリの決選投票以外について簡単に述べておきたい。

最も注目されるのは、一般的にはブラジル大統領選だろう。ラテンアメリカで最も存在感のあるルラ大統領は、出馬できない。与党候補はディルマ・ルセフ(選挙時62歳。以下同)官房長官だが、野党で中道の社会民主党(PSDB)のサンパウロ州知事、ジョゼ・セラ候補(68歳)が世論調査では現在、彼女の2倍ほどの支持率を得ている由だ。つまり、ルラ与党、労働者党(PT)が下野する可能性が囁かれる。セラ候補は2002年に出馬して僅差でルラ候補に敗れた人だが、2006年は候補を辞退しサンパウロ知事選に臨んだ。現職大統領の80%もの高支持率が与党政権の継続に繋がらないのは、チリに似ている。因みに、カルドーゾ前大統領(在任1995-2003)もPSDBより出ている。

しかし、私はベネズエラの議会選の方が気になる。大統領の6年と異なり、国会議員の任期は以前のまま5年なので、同国ではラテンアメリカ諸国では一般的な大統領選と議会選が同日に行われる総選挙方式は採らない。2005年議会選には、反チャベスの主要政党、新時代(UNT)及び民主行動(AD)‐社会キリスト教(COPEI)連合がボイコットした。そのため当時の第五共和国運動(MVR)が、定数167議席中116議席を押さえるに至り、他小政党の合流を得て2007年に旗揚げした統合社会党(PSUV)になってチャベス大統領の政権地盤は盤石となっている。一方で、2006年の大統領選でチャベス再選は成ったものの、UNTのロサレス元スリア県知事に38%をもたらした(本人は20094月、ペルー亡命中)。再びの議会選ボイコットがなければ、UNTAD-COPEI連合が大量の議席数を確保しよう。それが、チャベス政権運営に大きな影響力を及ぼしうるか、注目する次第だ。

コスタリカはラテンアメリカ諸国では一般的、といえるブラジル同様の総選挙制を採る。大統領選には、アリアス与党の国民解放党(PLD)からは女性のチンチーヤ副大統領が出馬するが、2006年選挙ではノーベル平和賞で知名度の高いアリアスを得票率で1%以下の僅差に追い詰めた市民行動(PAC)のソリス氏(56歳)らと戦うことになる。彼は元々アリアス第一次政権下で経済相を務めた人だが政治思想面で左派傾向が強く、彼とは袂を分かち2000年にPAC を創設、2002年より大統領選に出馬してきた。米国と中米・カリブの自由貿易協定(CAFTA-DR)批判で知られる。議会勢力でみると、前回選挙でPACが獲得した議席数は首位PLS25議席)を大きく下回る17議席だ。アリアス大統領がホンジュラス政変の調停には失敗したことが議会勢力を含めどう影響するか、注目したい。

コロンビアは大統領選の2ヵ月前に議会選を行う。ラテンアメリカでは珍しい制度を採る。ウリベ与党の「コロンビア第一」は国民社会統合党(la U)、伝統政党の保守党、及び急進改革(CR)の3党を軸とする。他にも多くの政党が参加する。だがこれら3党だけで2006年選挙では定数162議席の下院で72102議席の上院で53議席を得た。野党側では同じく伝統政党の自由党と、ANAPO(国民同盟)の流れを汲む「民主代替の極」(PDA)があり、ここから5月の大統領選に出馬予定のペトロ・ウレゴ上院議員(50歳)は、M-19のゲリラ出身だ。M-19ANAPOの急進派が立ち上げ、1980年にドミニカ大使館占拠、85年に最高裁襲撃などで世界の注目を浴びた。90年に武装解除した。自由党からはパルド元国防相(56歳)が出る。だが、ウリベ連続三選にこそ関心が集中する。コロンビア史上初となるが、隣国ベネズエラとの緊張関係の行方を占う意味でも当然だろう。

ドミニカ共和国の議会選は、政権央の中間に行われる。かかる中間選挙方式は、アルゼンチンもある。異なるのは改選が上(全32議席)・下(同、178名)両院の全議席、という点だろう。フェルナンデス・レイナ与党はドミニカ解放党(PLD)、野党はドミニカ革命党(PRD)を中心とするが、元々はPRDの創設者の一人ボッシュ(1909-2001)が離党してPLDを創設したので根は一つだ。PRDはバラゲル(1906-2003)が創設したキリスト教社会改革党(PRSC)と組んだ「国民大同盟」の形で与党と対峙している。PLDがやや左寄り、と性格付けされているものの、経済社会政策面での相違は見え難い。

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2009年12月26日 (土)

ラテンアメリカ:2009年を振り返る

ラテンアメリカの2009年、先ずは、米国のオバマ政権発足でChangeを感じさせるスタートだった。米国の亡命キューバ人による里帰りと家族送金の規制が撤廃された。ブッシュ政権時代には元々の規制を更に強化していたことを考えると、かなりの「前進」といえる。米国の対キューバ国交正常化に進むことは、オバマ政権も民主化を必要条件としている以上、当面は有り得ないが、米国人のキューバ渡航解禁は時間の問題だろう。6月末のホンジュラス政変では、米国も暫定政権に正統性無し、セラヤ大統領の復権が必要、との立場で臨み他米州諸国と足並みを揃えた。メキシコの麻薬密輸に就いては、組織に亘る米国の武器密輸取り締まりの必要性を、米政権として初めて認めた。何より反米のチャベス・ベネズエラ大統領が、対オバマ敵対的言動を強く抑えるようになった。

だが、コロンビア政府による米軍への自国基地使用権付与を巡り、オバマ個人攻撃は慎重に回避しながらも、チャベス大統領の対米強硬姿勢は復活した。ペルーを例外として、どの南米諸国もベネズエラへの理解を示す。彼とウリベ・コロンビア両大統領間の信頼関係は失われたまま、国境地帯では一触即発の状態だ。交戦に及ぶ可能性は低いと思うが、目が離せない。20108月にウリベ大統領の任期が到来するが、国民支持率が8割近いことから、連続三選を狙い出馬すれば当選は間違いなく、対ベネズエラ異常事態が、その分長期化する懸念はあろう。信頼回復に影響力を発揮できるのはルラ・ブラジル大統領あたりだろうが、彼の任期は余す1年のみだ。

ホンジュラス政変も深刻だ。セラヤ大統領は、本来の任期がひと月足らずになった現在もブラジル大使館に軟禁状態のまま支持者への行動を呼び掛ける態度を崩さない。米国とてセラヤ復権とミチェレッティ暫定大統領の退陣を求めてはいるが、選挙自体は公正に行われた、としてその結果を認めざるを得ない。だが、コスタリカ、ペルー、パナマ及びコスタリカを除くラテンアメリカのどの政権も、1129日の選挙結果を認めようとしない。セラヤ大統領が任期満了時点でロボ政権をどう評価し、米州域内亀裂が深まったまま隘路に落ち込んだ状態がどう変わるか、注目したい。

2009年、コレア・エクアドル及びモラレス・ボリビア両大統領は、狙った通りの二期連続当選を果たし、権力基盤を強めた。そして今は、オルテガ・ニカラグア大統領の二期連続への道が現実味を帯びてきた。全て、「米州ボリーバル同盟(ALBA)諸国で、政治的には左派政権に当たる。やはりALBA加盟国のホンジュラスのセラヤ大統領がクーデターで追放される元となったのは、連続再選はおろか再選自体を禁じる同国憲法を改定するための国民投票強行だが、この流れの一つだったことは間違いあるまい。彼のホンジュラス自由党は、敷いて言えば中道右派政党、と言える。だが彼自身はチャベス・ベネズエラ大統領の盟友を自負し、ALBA加盟を推進した。そのチャベス大統領は、2009年、三選を可能とする憲法改定をやってのけた。ALBA非加盟国で中道左派系とされるパラグアイとグァテマラも再選そのものが、エルサルバドル、ウルグアイ及びチリは連続再選が認められず、だが、いずれにもこの見直しへの動きは無い。

二十一世紀は、米国でブッシュ政権が発足するとラテンアメリカでは政権の左傾化が顕著となった。2009年、オバマ政権に代わっても、6月、エルサルバドルでフネス大統領が就任し、1980年代のゲリラとして内戦当事者だったFMLNが政権党となった。だが、従来の親米路線は自由主義経済政策と共に継続している。一方で9月、パナマでは右派連合のマルティネッリ政権が発足した。中米では、明らかに左傾化は止まった観がある。南米でも、20101月のチリでの決選投票では右派のピニェラ候補の当選が確実視される。ウルグアイでは3月に就任するムヒカ次期大統領は現政権与党の枠組みにあり、政権末期でなお80%の国民支持率を誇るタバレ・バスケス大統領の政治路線を引き継ぐ、と言明している。元ゲリラとは言え、一段の左傾化は無かろう。

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2009年12月15日 (火)

オミナミ票の行方-チリ大統領選

1213日に行われたチリ大統領選で、野党連合「チリのための同盟(以下同盟)」候補の元国民革新党(RN)党首、ピニェラ上院議員が、与党、「諸党連合(以下連合)」候補でキリスト教民主党(PDC)のフレイ元大統領を14ポイント強の差を付け、44%の得票で第一位となった。大統領選で第三位だが社会党を離れ独立候補として出馬し20%得票のエンリケス・オミナミ下院議員の票が、117日に行われる決選投票でフレイにどれだけ流れるか、が注目される。

同時に行われた議会選挙結果は全議席を更新する下院の場合、「同盟」が58議席、「連合」が57議席と拮抗している。だが、2005年選挙との比較では前者が3議席増、後者は8減である。政党別では、1989年の民政移管後、議会第一党の座を守ってきた「同盟」の独立民主連合(UDI)が37議席で2005年選挙に比べ4議席増やし、同じくピニェラ候補のRN1減の18議席だ。一方の「連合」は、フレイ候補のPDC1減の19議席とし、民主の党(PPD)が3減、社会党が4減、急進民主党が2減の、夫々18115議席になった。少なくとも「連合」を構成する諸党の退潮が見て取れる。仮にフレイ候補が逆転勝利しても、議会対策に苦労しよう。バチェレ大統領の国民支持率は、政権末期の今も80%近い。不思議な現象ではある。一般的にピニェラ候補の勝利が伝えられるが、議会対策で苦労するのは同様だ。

ピニェラ勝利で政権交代となると、ピノチェトの19739月のクーデターを支持したことで知られるホルヘ・アレッサンドリ(チリ史上改革者として名を残し1920-26年、32-38年の二度大統領を務めたアルトゥーロの息)の政権(1958-64年)以来、56年ぶりに選挙を経た右派政権の誕生である。このことは又、ラテンアメリカで進んでいる政権左傾化に逆行する。今頃からピニェラ政権誕生を歓迎する旨を公言するのが、海域の国境線を巡りハーグ仲裁裁判所に訴訟を起こし、最近にはスパイ事件が発覚した、としてチリを非難するガルシア・ペルー大統領で、何としても現与党の継続を、と公言するのが、再選なったばかりのモラレス・ボリビア大統領だ。

「同盟」を構成するUDIRN1983年、未だ政党合法化が成らない時に保守派勢力によりUDIが創設された。彼らは、ピノチェトの自由主義経済政策を支持し、彼の政権にも関わった、といわれる。1988年に行われた1997年までのピノチェト大統領続投の是非を問う国民投票では、これを認める側に回った。その前年、露骨な親ピノチェト路線に嫌気したメンバーがUDIを離党し、RNが創設された。だが、国民投票で「ノー」が決まった後、両党は大統領選で連合を汲むようになる。一本化が崩れたのは、この前の2005年選挙だ。UDI自体は常に議会第一党の座を守ってきたが、そのラビン候補は第三位、第二位は僅差ながらRNのピニェラ候補だった。だが決選投票ではピニェラ候補を支持、バチェレに敗れはしたが、得票率は45%に上った。概ねラビン候補の得票分を上積みできた。

オミナミ候補の票がフレイに流れない、とすれば、2005年の右派勢力とは全く逆の現象が起きることになる。また中道のPDCと左派の社会党、中道左派のPPD及び民主急進党による「連合」の枠組みに対する左派の反発が、彼を出馬に駆り立てたことを考えると、政界再編に進むのではないか、と考えたくなる。

だが、あまりチリの政権交代に神経質になることもなかろう。チリは、ピノチェト独裁の印象が余りに強すぎるため理解できない方も多いが、ラテンアメリカでは最も民主主義が根付いた国だ。政見の違いがそのまま政党として纏まるため、1930年代から多党化が進んだ。どこも議会勢力の過半数が取れず、結果的に連立政権が常態化した。共産党主導、とされる人民戦線(1936-46年)も、社会党主導のアジェンデ政権も、社会党と共産党だけではなく、急進党やキリスト教民主党の一部が合流した。「連合」も然りである。従って、政権交代で国家社会が急変することは考え難い。20年間も続いた現与党政権は中道左派と言われながら、ピノチェト時代と同様の市場主義経済政策に徹しており、米国との自由貿易協定も南米では真っ先に実現させた。「同盟」が政権を取っても、政策に継続性が断たれる大変動は考え難い。だから有権者は安心して、野党候補を当選させるのだろう。

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