ペルー総選挙
4月10日に行われたペルー大統領選については我が国でも大々的に報じられているが、「大衆勢力(Fuerza Popular、以下FP)」のケイコ・フジモリ候補(以下、ケイコ)が約40%の得票ながら、二位の「変革へのペルー人(Peruanos por el Kambio、以下PPK)」のペドロ・パブロ・クチンスキー候補(以下、クチンスキー)との決選投票に進むことになった。FPもPPKも中道右派、と区分されている。
クチンスキー候補の得票率は21%でも、欧米系のメディアは、決選投票ではケイコ候補を上回る得票で、77歳の高齢(任期満了時は82歳)ながら、次期大統領になる、と期待しているようだ。
党名の略称PPKは、クチンスキー候補の氏名をイニシアルで示したものと同じ、洒落たネーミングだ。ユダヤ系ドイツ移民の父親が高名な医師で、彼の学業は、1961年に米国のプリンストン大学で経済学修士号を得る(ウィキペディアのスペイン語版による)まで、欧米が長かったようだ。世銀に入り、66年に帰国、ペルー中銀の管理職に就いたものの、68年9月のクーデター(私のホームページ内ペルーとチリの「革命」参照)を経て、69年に米国に亡命、そこでIMF、世銀などで活躍した(ウィキペディア英語版による)。80年、民政復帰を機に帰国、ベラウンデ・テリー政権(1980‐85年)の鉱山エネルギー相を2年務めた後、米国に戻り、経済界で活躍した。2000年に帰国し、トレド政権(2001~2006年)で経済・財政相、及び首相を務めている。経済界からも期待される所以だ。
彼は2011年大統領選にも出馬、ケイコ氏に次ぐ第三位で決選投票には進めなかったが、得票率は18.5%、真偽のほどは私には不確かだが、決選投票で、経済政策が近いケイコ氏を支援した、と言われる。彼のその時の政党「大変革同盟」)は議会(総議席数130)で12議席を獲得した。
ケイコ氏は、ご周知の通り、アルベルト・フジモリ元大統領(1990‐2000年)の長女で、良きにつけ悪しきにつけ、彼のイメージが付き纏う。この点http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/post-2ac5.htmlでも採り上げた。2011年、35歳の時に臨んだ大統領選で、第一回目の得票率は23.6%で、第一位のウマラ現大統領は31.7%、8ポイント差だった。決選投票では48.5%の得票率で、ウマラ氏に3ポイント差で負けた。その直前、http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/06/post-0c29.htmlに書いた。今回選挙では、第一位の彼女の得票率は第二位と約19ポイント差、これで逆転されるのだろうか。
彼女の演説する姿の一部をNHKなどで見たが、実に迫力に満ち、理路整然としている、と感じた。元大統領の娘ゆえに高い知名度、で彼女を見てはなるまい。英語版ウィキペディアによれば、1993~97年に米国留学、ボストン大学を卒業した。一方で1994~2000年、つまり19歳から、父親のファーストレディ役を務めている。2004~06年、コロンビア・ビジネススクールで修士課程、この間に米人男性と結婚し、2005年に彼と共に帰国した。同年11月、日本に亡命していた父親がペルーの隣国チリに移動、同国で拘留された時だ。翌2006年の総選挙で、彼女はフジモリ派勢力の「未来への同盟(AF)」の議員となっている。AFは13議席を得た。彼女が大統領選に出馬した2011年総選挙では、その後継組織「2011年の力」の議席は37議席に伸びた。
今回総選挙での議会の議席配分は、これを書いている段階では分からない。調査機関は、彼女のFPが過半数内外、と見ているようだ。従って、クチンスキー候補が逆転勝利を果たせば、少数与党になる。ウマラ現大統領の与党「ペルーの勝利同盟(Gana Peru)」が2011年選挙で獲得した議席は47、議会第一党ではあっても、やはり少数与党だった。だから、だと思いたいが、彼は、特に貧困層対策などの公約が殆ど果たせておらず、国民支持率は低い。クチンスキー氏の場合、そもそも第一回目投票では大きく引き離された第二位、PPKだけでは少数与党の程度は、ウマラ氏のそれとは比べられようもなかろう。
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