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2016年4月29日 (金)

アルゼンチン債務問題の決着

これまた旧聞だが、422日、アルゼンチン財務金融省は、「訴訟を起こしていたファンド(los fondos litigantes)」に対し93億ドルを支払ったが、これからの支払分を入れると、最終的には105億ドル、これは額面の40%の割引に相当する、と発表した。

昨年12月に発足したマクリ政権は、財務金融省を通じ、2005年、10年のリスケに応じなかった、ホールドアウトと呼ばれる債権者との交渉に臨んだ。欧米メディアがそれまで報じて来たところでは、

1) 今年の2月早々、5万と言われるイタリア債権者と、総額25億ドルを13.5億ドルに減額しての支払を纏め、次に米国勢との交渉に移り、総額90億ドルに対し65億ドルのオファーを行った。

2) 229日、ホールドアウトとの46.5億ドルの支払い協定を発表、額面の75%。協定発効にはアルゼンチン議会承認が必要

3) 331日、議会承認が実現

4) 413日、2005年、10年のリスケに応じた債権者への支払禁止命令(実務上の担い手である民間銀行に対するもの)解除

5) 419日、アルゼンチン国債165億ドル発行

と言う経緯を辿っている。 

上記3)については、少数与党であるにも拘わらず、実現した。上記4)は、20147月のニューヨーク地裁のグリーサ判事の命令によるもので、http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/07/post-0f28.htmlなどでお伝えした。これでアルゼンチンはいわゆる「テクニカルデフォルト」に陥った。元本計13.3億ドルの債権全額プラス金利の支払いを求める2社(NML Capital Ltd及びAurelius Capital Management)の請求全額を支払うまで、リスケに応じた債権者への返済履行禁止、と言う判決へのアルゼンチンの不服従への制裁、とした。アルゼンチン側は、リスケ時に約束されたRUFO条項(リスケに応じない債権者に、より良い条件は付けない)、として判決は受け難い、と主張していた。

一主権国家をデフォルトに陥れる一地裁判事の命令には、米政府も戸惑いがあったようだが、その時には司法の独立が壁となって、何の手も打たなかった。米国に好意的ではないフェルナンデス政権下だったからか。今年323日、米財務省から当該司法当局にその解除要請が為されている。その翌324日から2日間の、米国の現職大統領として19年ぶりとなるオバマ大統領のアルゼンチン訪問に合わせたものだろう。訪問は、自由主義経済を掲げるマクリ新政権下、同国との関係改善を目的としたものだった。財務省は22日のホールドアウトへの支払履行、及び19日の国債発行が、マクリ政権の政策変更の証明、と評価した。 

ともあれ、国債発行はアルゼンチンの国際金融市場復帰を強烈に印象付けた。13.3億ドルではない、元本ベースでは計算上170億ドル(割引後105億ドル)のホールアウト債権の一括支払のインパクトが、それほど大きかった、と言えよう。プラッツガイ財務金融相によれば、購入者の3分の2が米国の投資家、発行額の4倍もの需要があった由だ。

165億ドルは、満期ごとに351030年ものの4種類となっている。利率は、6.25%(3年もの)~7.62%(30年もの)で、私には高いのかどうか、判断がつかない。ホールドアウトへの支払原資として、またインフラ事業に充当される。前者が105億ドルなら、後者は60億ドル、と計算できる。なお、このニュースを伝えるロイターは、同時にアルゼンチン中銀による外貨準備高も伝えた。国債発行で67億ドル増え、358億ドル、と言う。冒頭で述べたようにホールドアウトに93億ドル支払ったら、国債発行額とのバランスは72億ドルだから、銀行手数料などを考えれば、増加額はこんなものか、とも思う。 

マクリ政権下、公共料金引き上げ、失業増大に加え、通貨ペソの二重相場制廃止でインフレが加速し、4月始めの世論調査では彼の支持率は就任当初の77%から50%にまで下落した。この程度なら、ラ米の最高指導者の中では極めて高い部類にはいろうが、今国際的に騒がれている「パナマ文書」に名前が出た。だが、欧米メディアは彼に好意的だ。

アルゼンチンが国際金融市場に復帰できたことは喜ばしい。マクリ政権の政策変更の中では、食糧の輸出税の撤廃乃至引き下げも良かった。政権の思想的立場がどうあれ、資本主義経済に通貨の二重相場制は本来あってはなるまい。それでもメディアの、或いは米国のマクリ政権への高い評価には、違和感を覚える。

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2016年4月25日 (月)

第七回キューバ共産党大会とフィデルの最後の演説

196510月に創設されたキューバ共産党(PCC)は、10周年の7512月に第一回党大会を開催、1959年の革命後、初めての社会主義憲法の草案を承認し、いわゆるソ連型共産主義国家への第一歩を踏み出した。それから40年間で、僅か7回しか開催されていない。共産党一党支配下の国家運営の基本方針は、党が決める。一つの大会と次の大会までの党の運営は、大会に出席できる約1,000名により、中央委員会に委ねられる。その最高幹部組織として政治局がある。

聊か旧聞に属するが、その第七回目が去る416日から19日まで開催され、142名の中央委員と、17名の政治局員を選出して閉会した。84歳のラウル・カストロ国家評議会議長が第一書記に、85歳のマチャドベントゥーラ同副議長が第二書記に連続再選された。この二人を除く15名の政治局員では、56歳のディアスカネル国家評議会第一副議長を含む10名も留任、5名の新任はあるが、欠員と増員が理由だ。ラウル氏は今大会で、新たに党要職に就く者の年齢制限を提案、中央委員は60歳、政治局員は70歳とした。また、革命世代からの世代交代の必要性を強調した。中央委員の新任が55名、と言うから、幾分進んだのかも知れない。 

前大会http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/post-7b89.htmlと大きく異なるキューバの状況は、何と言っても昨年の7月に米国と国交を回復し、今年の32023日に、現職米大統領としては実に88年ぶりにオバマ大統領を迎えた、世界が注目した対米関係の変化だろう。オバマ氏はラウル氏との共同記者会見で、複数政党制や民選大統領制について述べ、途中、ラウル氏が通訳装置を外す場面を含め、国営テレビで全国中継された。さらに翌日、やはり全国生中継する国営テレビを前に、堂々と民主主義の尊さをアピールした。その6日後、ラウル氏の兄、89歳のフィデル氏が、国営メディアを通じ、厳しく批判している。フィデル氏はさらにその10日後、9ヶ月ぶりに公の場に姿を現した。革命がもたらした成果を語りかける映像が、やはり国営テレビで流されている。

ラウル氏は、党大会を、第一書記への二度目の選出の意味を、自分の主たるミッションがキューバ社会主義を守り、保全し、完成に向かい続けることであり、資本主義回帰を決して許さない、として締めた。その場に兄のフィデル氏も姿を見せ、10分間、演説を行ったことが、日本でも大きく報じられた。19614月の、米国を後ろ盾とする亡命キューバ人によるピッグズ湾事件以降の社会主義国家への歩み、この間根付いたキューバの共産主義思想を手短に語り、今年90歳になる自らの年齢を前面に出して、革命世代も不死身ではない、だが、思想は残る、ラ米、世界に、キューバの勝利を伝えていかねばならない、と語っていたようだ。演説後半はネットの動画で見たが、「終わり(Fin)」という言葉で演説が終わると、並んで隣に居たラウル氏が労わるようにフィデル氏の肩に手をかけ、会場の出席者は全員が立ち上がり拍手し、一部は涙していたのが印象的だった。

ともあれ、昨年1月、9月及び今年の3月、オバマ大統領の訪問前に、米国の対キューバ制裁緩和措置を受けながら、キューバの統治機構は不変、と、強調された党大会だった。フィデル氏だけでなく、ラウル氏が世代間交代に敢えて触れたのは目新しい。 

個人的な話で恐縮だが、私が初めてフィデル氏の本格的な演説に接したのは、19767月の革命勃発記念日だった。1953726日、26歳の若きフィデルが仲間とサンティアゴデクーバ市にあるモンカダ兵営を襲撃したのをキューバ革命の始まりとして、この国では毎年、大々的に祝っている。滞在中のホテルのテレビで見た。50歳になる3週間前だ。記憶は定かではないが4時間ほど、時折経済数値などを確かめる他は原稿も見ずに、ぶっ通して話し続けた。その後も何度か、やはりテレビで見る機会はあった。最後は、確か1993年だった、と思う。彼の年齢は67歳、彼独特の高い声に、張りがあった。ソ連崩壊から2年、石油調達に苦しみ8時間毎の計画停電の最中にあり、社会主義体制下の個人経営の導入、国民のドル保持の解禁などで経済の活性化に取り組んでいた。

私個人は、それから約四半世紀、彼の演説に接する機会は無かった。彼の演説に、現実の時空の厳しい流れを痛感する。体力のみならず、声の衰えを先ず感じた。次に、ずっと原稿を見ていた。以前の長い演説とは全く異なる点だ。以前は、現状分析を踏まえた具体的な将来展望を語っていたが、今回はどうだったろう。

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2016年4月20日 (水)

オリンピックを間近にして-ブラジル

417日の下院(定数513議席)本会議でのルセフ大統領弾劾の模様の一部を、NHKのニュースで見た。議員一人ひとりが声を張り上げ、弾劾プロセスへの賛否を表明する。欠席者を除く511名の内、ルセフ解任を睨む弾劾に、367名が賛成、と叫んだ。

大統領に対する弾劾手続きは、下院で始まる。先ず特別委員会を組成し、ここで弾劾すべき、との結論が出れば、下院本会議で審議し、票決を行い、三分の二の賛成を得ると、上院に付託される。 

http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/11/post-9981.htmlを参照願いたいが、2014年総選挙では、総議席513の下院で、議席を確保した政党で政権与党を構成するルセフ陣営「人民の力」の、彼女が帰属する「労働者党」(以下PT)を始めとする9党で、303議席を占めた。全体の59%だ。今回の弾劾プロセスに反対票を投じたのが137名だから、その落差に唖然とする。

弾劾手続きのプロセスを強行したのは、クーニャ下院議長だが、彼は陣営の「ブラジル民主運動党」(以下PMDB)に属する。下院でPTと議席数の一、二位を争う。彼がプロセスを強行した時点で、同党はまだ連立離脱を否定していた。だが3月に離脱した。これに「進歩党(PP)」、「社会民主党(PSD)」なども呼応した。この3党だけで、140議席強だ。

ブラジルの下院議員は、州や連邦特別区の単位で、比例代表制で選出される。無記名ではなく、一人ひとりが壇上で賛否を表明する投票に、党の決定から逸脱した意見表明は、難しかろう。 

2014年の決選投票で、得票率で51.6%を挙げたルセフ氏は、151月に第二期目に入って間もなく、反ルセフ国民運動に見舞われた。3月以降、彼女の支持率は10%内外で推移している。不思議な国民、と言うのが私の率直な感想だ。だがそれは、不況への不満と、国営石油会社Petrobrasに纏わる汚職事件への反発によるもので、特に後者は、多くの政治家が捜査を受ける中で、彼女自身は対象になっていない。それでも、彼女にはPetrobrasの理事会議長を務めた経歴がある。国民の多くに、彼女が汚職に無関係とは言えない、と思われても頷けよう。

彼女への弾劾理由は、201415年財政の不当操作への関与、であり、歳入不足を経済開発銀行(BNDES)など国営銀行に肩代わりさせ、人気取り政策を進め、財政赤字を低く見せた。これは憲法上大統領罷免に繋げ得る「責任罪」、とする。だから、上記の国民運動とは一見、無関係だ。ルセフ陣営は、かかる財政手法は歴代の大統領も講じており、とってつけたような理由で民選大統領追放を強行するのは不正義であり、クーデター、と叫ぶ。国民の6割が弾劾賛成、とのアンケート調査があるようだが、この理由によって、自らが選出した大統領を罷免することに賛成か、と訊かれれば、どうなるだろうか。 

続くプロセスを委託された上院は、20日ほどをかけて、特別委員会での審議、本会議での採決へと進む。単純過半数で弾劾の裁判(juicio)実施が裁決されれば、上院内に法廷が置かれ、最大180日間かけて審議が行われ、その間、ルセフ氏は公職から離れ、PMDBの党首である76歳のテメル副大統領が大統領職を代行する。法廷では、彼女の側の弁明や意見陳述なども認められる。彼女の前任者で国際的に知名度も高くカリスマ性に満ちたルラ氏が招請を勝ち取った、南米で初めてとなる、ブラジル人の誇りとして記憶に残るだろう歴史的なイベント、オリンピックの開会宣言は、彼女にはできなくなるが、テメル氏が代わりを務めるのだろうか。

カリェイロ上院議長は、憲法を尊重し、彼女の十分な弁護時間を保証する、と言っている旨が伝わる。彼もPMDBに属する。上院法廷での180日の審議の結果、大統領罷免が決まると、同党を率いるテメル副大統領が正式に臨時大統領となり、2018年末の任期残を務めることになる。 

上述の反ルセフ国民運動の理由の一つ、Petrobras汚職に関わったとして、昨年3月に検事総長から示された現職議員34名の中に、クーニャ下院議長とカリェイロ上院議員の名もある。特に前者は、具体的な関与、金額が贈賄側から証言されており(クーニャ氏は否定)、スイスの銀行口座も発覚し、昨年10月から下院内の倫理委員会で議長解任への動きが出た。ただ、大統領弾劾の動きの中で、今は止まっているようだ。 

それにしても、国際社会はこの動きをどう見ているのだろうか。

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2016年4月14日 (木)

ペルー総選挙

410日に行われたペルー大統領選については我が国でも大々的に報じられているが、「大衆勢力(Fuerza Popular、以下FP)」のケイコ・フジモリ候補(以下、ケイコ)が約40%の得票ながら、二位の「変革へのペルー人(Peruanos por el Kambio、以下PPK)」のペドロ・パブロ・クチンスキー候補(以下、クチンスキー)との決選投票に進むことになった。FPPPKも中道右派、と区分されている。 

クチンスキー候補の得票率は21%でも、欧米系のメディアは、決選投票ではケイコ候補を上回る得票で、77歳の高齢(任期満了時は82歳)ながら、次期大統領になる、と期待しているようだ。

党名の略称PPKは、クチンスキー候補の氏名をイニシアルで示したものと同じ、洒落たネーミングだ。ユダヤ系ドイツ移民の父親が高名な医師で、彼の学業は、1961年に米国のプリンストン大学で経済学修士号を得る(ウィキペディアのスペイン語版による)まで、欧米が長かったようだ。世銀に入り、66年に帰国、ペルー中銀の管理職に就いたものの、689月のクーデター(私のホームページ内ペルーとチリの「革命」参照)を経て、69年に米国に亡命、そこでIMF、世銀などで活躍した(ウィキペディア英語版による)。80年、民政復帰を機に帰国、ベラウンデ・テリー政権(198085年)の鉱山エネルギー相を2年務めた後、米国に戻り、経済界で活躍した。2000年に帰国し、トレド政権(20012006年)で経済・財政相、及び首相を務めている。経済界からも期待される所以だ。

彼は2011年大統領選にも出馬、ケイコ氏に次ぐ第三位で決選投票には進めなかったが、得票率は18.5%、真偽のほどは私には不確かだが、決選投票で、経済政策が近いケイコ氏を支援した、と言われる。彼のその時の政党「大変革同盟」)は議会(総議席数130)で12議席を獲得した。 

ケイコ氏は、ご周知の通り、アルベルト・フジモリ元大統領(19902000年)の長女で、良きにつけ悪しきにつけ、彼のイメージが付き纏う。この点http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/post-2ac5.htmlでも採り上げた。2011年、35歳の時に臨んだ大統領選で、第一回目の得票率は23.6%で、第一位のウマラ現大統領は31.7%、8ポイント差だった。決選投票では48.5%の得票率で、ウマラ氏に3ポイント差で負けた。その直前、http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/06/post-0c29.htmlに書いた。今回選挙では、第一位の彼女の得票率は第二位と約19ポイント差、これで逆転されるのだろうか。

彼女の演説する姿の一部をNHKなどで見たが、実に迫力に満ち、理路整然としている、と感じた。元大統領の娘ゆえに高い知名度、で彼女を見てはなるまい。英語版ウィキペディアによれば、199397年に米国留学、ボストン大学を卒業した。一方で19942000年、つまり19歳から、父親のファーストレディ役を務めている。200406年、コロンビア・ビジネススクールで修士課程、この間に米人男性と結婚し、2005年に彼と共に帰国した。同年11月、日本に亡命していた父親がペルーの隣国チリに移動、同国で拘留された時だ。翌2006年の総選挙で、彼女はフジモリ派勢力の「未来への同盟(AF)」の議員となっている。AF13議席を得た。彼女が大統領選に出馬した2011年総選挙では、その後継組織「2011年の力」の議席は37議席に伸びた。 

今回総選挙での議会の議席配分は、これを書いている段階では分からない。調査機関は、彼女のFPが過半数内外、と見ているようだ。従って、クチンスキー候補が逆転勝利を果たせば、少数与党になる。ウマラ現大統領の与党「ペルーの勝利同盟(Gana Peru)」が2011年選挙で獲得した議席は47、議会第一党ではあっても、やはり少数与党だった。だから、だと思いたいが、彼は、特に貧困層対策などの公約が殆ど果たせておらず、国民支持率は低い。クチンスキー氏の場合、そもそも第一回目投票では大きく引き離された第二位、PPKだけでは少数与党の程度は、ウマラ氏のそれとは比べられようもなかろう。

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