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2015年11月23日 (月)

マクリ政権発足へ-アルゼンチン

キューバを除くラ米18カ国の大統領選で、第一回目投票で一定の得票が無い場合、得票一、二位の間で決選投票が行われる制度を持つのは13カ国だ。今年はグァテマラ、昨年にはエルサルバドル、コスタリカ、コロンビア、ウルグアイとブラジル、13年にはチリ、11年にはペルーの、夫々の現大統領は決選投票で選出されている。これら8カ国の内、連続再選が認められているのはコロンビアとブラジルだけだが、いずれも現職の連続再選だった。残る6カ国中4カ国で、与野党交代があった。

制度を持ちながら第一回目だけで現大統領が決まったのは、ボリビア(2014年)、エクアドル(13年)、ドミニカ共和国(12年)、ニカラグア及びアルゼンチン(いずれも11年)だが、ドミニカ共和国を除く4ヵ国が連続再選で、与野党交代はゼロだ。決選投票を経験してこなかったのは、ニカラグアとアルゼンチンだけだった。 

そのアルゼンチンでの国政選挙史上初めてとなる決選投票で、反ペロニスモ政党連合「変革しよう(Cambiemos)」のマクリ・ブエノスアイレス市長、56歳が得票率51%強で選出され、与野党交代も実現することになった。彼の政治イデオロギーは、保守、中道右派、などとされる。中道左派とされ12年間政権の座にあるキルチネリズムを倒したことから、欧米メディアには、来る126日のベネズエラ議会選、2016年のペルー総選挙でも右揺れが期待できる、と歓迎する記事が散見される。

史上初めて、と言えば、大統領候補者同士のテレビ討論会もあった。1025日の総選挙を10日後に控えて、及び決選投票を一週間後に控えての二度行われた。

前者は、大統領選出馬が認められた6名の候補者を一同に集めようとしたものだが、世論調査を見る限り、40%以上の得票で、第二位に10ポイント差を付ける(従って総選挙時に当選を確定する)可能性が高い、とされていたシオリ候補は、対抗者を攻撃する性格の討論会には参加しない、と辞退し、他の5名から「国民を嘲笑う態度」として、批判されていた。これが1025日の選挙結果に繋がったのか、決選投票を余儀なくされ、そして最終的にマクリ候補に敗退する遠因となったのだろうか。延引ことにそれまで彼は、が、結果は得票率で38%、マクリ候補に2.5ポイント差をつけただけで、決戦投票を余儀なくされた。

後者では、シオリ候補はマクリ候補の政見である「変革(cambio)」では社会政策(廉価な公共料金、弱者への補助金など)を後回しにし、失敗した1990年代の新自由主義政策を再び導入し、国民生活を危険に陥れる、と攻撃していた。これをマクリ候補は、社会政策は続ける、と言っているのに、国民に不安を煽っている、と反撃していた。ただ、キルチネリズム政策の誤りと断定したインフレを、自分は収束する、と言う一方で、外国為替の4年前からの二重相場制の速やかな撤廃も明言した。扱いを誤れば、国内通貨ペソの急激な切り下げと、ハイパーインフレの再来に繋がりかねない。 

マクリ次期大統領は、フェルナンデス政権から年率二十数パーセントのインフレと外貨不足による経済不振と言う負の遺産を引き継ぎ、その解決に当ることになる。彼は、物議を醸したYPF国有化http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2012/05/ypf-c0ea.htmlについては、これを踏襲する、としながら、外資受け容れ促進を政見に掲げる。2001年デフォルトと、その後のIMFへの対応によって締め出された国際金融市場への復帰も掲げるが、これには200510年の債務リスケに参加しなかった米国債権者の、一向に解決の兆しも見えないニューヨークでの訴訟http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/07/post-774d.html問題が残っている。前述のテレビ討論でシオリ候補が、IMFとハゲタカファンドに屈服する恐れがある、と強調していた。

ところで、総選挙での議会選結果は、どなたかご存知だろうか。全国選挙管理局(Dirección Nacional Electoral)のどこを見ても分からない。どこから取ったか、英語版Wikipediaに掲載されている州毎の結果を追っていく限りでは、「勝利戦線(FpV)」は、上院では改選議席で増やし、非改選を足すと総議席726割を占め、一方下院では不調だった2003年中間選挙ほどではないが、改選議席を大きく減らし、総議席数2574割に留まったようだ。Cambiemosは上院では僅か4分の1、下院で3割強の議席で、いずれもFpVには遠く及ばない。他の政党と組めば、下院では多数派になる可能性はあろうが、上院はどうにもならない。国家財政が関わる社会政策は、現政権から踏襲せざるを得まい。ただ、私の勝手な分析が当っていれば、のことで、きちんとした公表を望んでいる。

気になるのは、首脳の個性が出る外交政策だが、彼は、ベネズエラをメルコスル資格停止にすることを公言している。同国の議会選も注視しながら推移を見て行きたい。

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2015年11月19日 (木)

シオリかマクリか(3)-アルゼンチン大統領選

111516日、トルコのアンタルヤで開催されたG20。パリの同時多発テロのフランスを除く加盟18カ国で、アルゼンチンだけが首脳を派遣しなかった。フェルナンデス大統領は1210日、つまり一月もせぬ内の退任が決まっているから、と言うのは理由にはなるまい。彼女はアルゼンチン国内外のメディアにはさんざんだが、支持率は決して低くないし、存在感も大きい。後任には自ら指名した「勝利戦線FpV」候補のブエノスアイレス州知事、シオリ氏を望んだし、前述したようにペロニスタの結束を呼び掛けたのも当然の流れだった。その彼女が、ニュースになることがめっきり減った。表舞台に出ることでシオリ不利を醸し出すから、とも思えない。聊か、気にかかるところだ。 

欧州系(白人)が国民全体の97%を占め、ローマ法王まで出した国、アルゼンチンは、このブログで前にも述べたことがあるが、民主主義国としての歴史は浅い。19309月以降の半世紀、軍事クーデターが繰り返され、選挙で選ばれた大統領で任期を全うできたのはペロン第一次(1946年~52年)のみで、他は、連続再選第二期のペロンを含め、全て任期途中に起きた軍事クーデターで追放されている。666月から83年末まで、3年間を除いて長期軍政を経験した。末期には82年の無謀な対英マルビナス(フォークランド)戦争で敗北している。

198312月の民政復帰から32年経った。この間1999年からの4年間を除く28年間で政権を担ったのは、アルフォンシン(「急進党(UCR)」)、メネム(「ペロン党」)、そしてキルチネル夫妻(ペロン党「勝利戦線FpV」)の3組だけで、アルフォンシン政権は経済政策に失敗し軍の一部の蜂起にも悩まされ、選挙を前倒しまでして、本来任期を5ヶ月間残して退陣した。メネム政権は国営企業の民政移管を進める一方で、通貨統制(カヴァロ経済相の名前を冠したカヴァロ・プラン。国内通貨のペソの対ドル連動)でインフレ収束には成功、憲法を改正した上で連続再選された。97年のアジア、98年のロシアの通貨危機伝播の対応に失敗しながらも、任期を全うした。彼の政権下の10年余りで、対外債務は倍増した。

1999年、逆政権交代を果たしたUCRのデラルア政権は、前政権が残した巨額債務と巨額の国外流出で流動性欠如を来たし、これに続く市中預金引き出し規制での国民抗議運動への有効な対策が打てず、暴動も起こり、任期半ばで退陣した。二人置いて議会指名で就任したドゥアルデ(ペロン党。1999年大統領選で次点)新大統領は、ほどなく債務不履行(デフォルト)に入り、アルゼンチンは国際金融市場から締め出された。彼の政権はそれまでの通貨政策だった対ドル連動(ペック)制を断念し、変動相場制に移行したが国内通貨ペソは対ドルでいきなり4分の1にまで落ち込み、インフレが再燃し、同年の GDPは大きく落ち込んだ。彼も任期途中で辞任、14年前のアルフォンシン同様、選挙を前倒しした。 

20034月の大統領選には、「ペロン党」が分裂、メネム、キルチネル、サアの3候補が立候補することになり、選挙法廷は党名使用を禁止した。誰も40%以上の得票で二位に10ポイント差、或いは45%の得票に達せず、メネム、キルチネル両候補が決選投票に進出する筈だったが、第一位だったメネム候補が決選投票で敗退の世論調査を前に辞退、キルチネル候補の当選が決まった。

IMF、世銀、米州開銀など国際金融機関とリスケ交渉入りしたのは、キルチネル政権発足後間もない20036月のことだ。05年には、第一回目のデフォルト債務スワップ(3066%割引、乃至は低金利での長期返済)を行った。債務再編に経済政策を条件付けるIMFを嫌い、06年初頭、前倒し一括返済を行った。国民の大喝采を受けたが、それでは国際金融市場復帰はできない。だが折からの資源ブームの恩恵などで大幅な貿易黒字を背景に、隣国ブラジルなどと共に、経済成長期に入り、失業率も低下、政権は安定した。政権末期には閣僚のスキャンダルなどで連続再選の道を断念したが、支持率は60%を超えていた、と言われる。 

夫の辞退を受けて出馬したフェルナンデス候補は、総選挙時の第一回目投票で45%の得票率で当選を決めた。彼女自身は法律家であり議員としての政治活動経験を持つ政治家だったが、食糧輸出税引き上げを巡る農業協同団体との軋轢や、よく知られる国内大手メディアとの確執などを乗り越えたのも、夫の存在は大きかった。低所得家族の子どものための補助金(AUH)は、2009年に彼女のイニシアティヴで実現した。社会弱者救済で活躍したペロン夫人のエビータを想起させる。108月、債務の第二回目スワップも実現させた。残念なことに夫は同年10月に死去した。彼女は翌11年の総選挙時の第一回投票で54%の高得票率で連続再選を果たした。彼女の第二期にも、メネム時代に民営化された国営石油会社YPFの再国有化など、目に付く政策は多い。

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2015年11月 7日 (土)

シオリかマクリか(2)-アルゼンチン大統領選

ブエノスアイレス州知事(シオリ、58歳)対ブエノスアイレス市長(マクリ、56歳)の一騎打ちとなるアルゼンチン大統領選決選投票。ご存知の通り、人口290万人のブエノスアイレス市は、特別行政区であり、1,670万人のブエノスアイレス州には含まれない。

アルゼンチンには23の州があるが、知事の数は、ブエノスアイレス市長を他の州知事と同列に扱うため、24となる。「市長」と言う邦訳で、メディアも英語ではmayor、スペイン語でalcaldeを使うが、1994年の憲法改正で、正式には「ブエノスアイレス自治市政府長官(jefe de gobierno de la Ciudad Autónoma de Buenos Aires)」と称すようになり、州知事同様の権限が付与された。

アルゼンチンは1983年の民政復帰からまだ28年しか経っておらず、選挙で大統領に当選した人は5名しかいない。その中でブエノスアイレス州知事対ブエノスアイレス市長の大統領争いは、1999年にも行われた。だが総選挙時の第一回投票での、一、二位得票者がそうだった、と言うわけで、今回のような一騎打ちは初めて、そもそも、決選投票自体が初めてだ。ともあれ、1999年選挙で一位だったのは、初代ブエノスアイレス自治市政府長官で「急進党(UCR)」のデラルア候補で得票率は48%、つまり憲法上第一回投票で45%以上を挙げたので、決選投票無しに大統領と決まった。彼は、市長で、二位は知事でペロン党のドゥアルデ氏だ(デラルア退任後、何人か後の臨時大統領になった)。

シオリ氏がペロン党で知事、と言うのはドゥアルデ氏と同じだが、マクリ氏は、UCRとの連合こそ組んでも、いわば独立系だ。

シオリ氏はブエノスアイレス市で生まれ育った。政界に入った切っ掛けについては、私は存じ上げない。少なくとも上記ドゥアルデ氏のように、青年時代から政治活動に携わった、とは聞かない。元々祖父が始めた電子機器販売会社と、スウェーデンの在アルゼンチン子会社に勤めていた。またウォーターボート競技の選手として活躍した。1997年、40歳でペロン党ブエノスアイレス市選出の下院議員、2003年、46歳でキルチネル政権の副大統領、07年、50歳でブエノスアイレス州知事、となる。2010年から4年弱、ペロン党の党首の座にもあった。「勝利戦線(FpV)」はあくまでペロン党の一派で、圧倒的な主流派とは言え、党内の他の勢力が堂々と分派活動している。その党首と言っても、外からは何とも理解し難い。

マクリ氏は、ブエノスアイレス州に属するタンディル市で生まれで、大学卒業後、父親の建設と製造の企業グループで幹部を務めていた。サッカークラブのオーナーとしても知られる。上記デラルア氏もドゥアルデ氏同様、青年時代から政治に身を投じたが、マクリ氏はどうだろう。ブエノスアイレス市長を志し、2003年、44歳で自ら立ち上げた「変革への約束」から立候補し善戦、この時は敗退したが、国政選挙でこの党がいきなり下院5議席を獲得している。05年には、UCRの右派系分派と「共和国提言(PRO)」を結成、48歳になった07年の市長選でFpV候補を破ったことで、幾分騒がれたようだ。2010年、PROを選挙母体、としてではなく、正式党名とし、翌11年、前回と同じ候補者と戦い、連続再選された。 

1025日の第一回投票で第三位だった前述のマッサ議員がかつて市長を務めたティグレ市は、ブエノスアイレス州に属する。アルゼンチンの有権者の38%を抱える同州は、伝統的にペロン党の牙城とされる。だが、1025日に同時に行われたマクリ後任を選出する知事選では、非ペロニスタのPRO から出馬したビダル現ブエノスアイレス副市長が、現官房長官のアニバル・フェルナンデス候補を破り、同州初の女性知事に決まった。FpVにとり、本来、とんでもない一大事と言える。

フェルナンデス大統領は、ビダル知事誕生は評価、全国25知事の内の5人が女性となることを喜んで見せた。だが、決選投票でのシオリ不利の予想に危機感を抱き、ここ12年間の実績(2000年前後の経済混乱を収拾、失業率の劇的な低下、AUHと呼ばれる低所得者層の子どもたちの補助制度など)と政策の継続性を含む政治安定性のため、として、シオリへの投票を訴えている。マクリ候補は、YPFへの国家介入やAUHには本来批判的だったが、これらは継続すると約束する。フェルナンデス氏は、当選目的だけの変節、と断じ、激しく非難する。

政権側のマクリ攻撃は、FpV政権下で築き上げられた安定性が変革の名の下に破壊される、と言う点に集約されそうだ。彼の陣営はこれを、国民に恐怖を植え付けようとしている、と逆批判する。決選投票に向け、双方のネガティヴ・キャンペーンが眼に余る。

(続く)

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2015年11月 4日 (水)

シオリかマクリか(1)-アルゼンチン大統領選

1025日、グァテマラ大統領選の決選投票が行われた日、アルゼンチンでは正副大統領、上院議員の三分の一、下院議員の半数、などを選出する総選挙が行われた。

大統領選には89日の予備選挙で候補資格を得た6名出馬したが、(http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2015/02/post-be7c.htmlで述べた4名の内のコボス下院議員は出馬を断念)総選挙時の投票では決着が付かず、与党「勝利戦線(FpV)」のシオリ・ブエノスアイレス州知事、58歳(得票率36.86%)、「共和国提言(PRO)」のマクリ・ブエノスアイレス市長(同34.33%)、56歳が1122日の決選投票を争うことになった。

アルゼンチン大統領候補は、総選挙時の投票で45%超、或いは40%超で二位に10ポイント差、と言う得票率が確保できれば、当選が確定する(ラ米諸国では通常は50%以上)。直前の世論調査では、シオリ候補が二位に10ポイント差を付けることはほぼ間違いなく、40%超の得票率で当選の可能性もある、との見通しだったため、マクリ候補との得票差が僅か2.5ポイントだったことに、衝撃が走った、と伝わる。ともあれ、決選投票では、他陣営の票を取りこむ必要がある。

第三位に付けたのは、若干38歳でフェルナンデス政権の官房長官(Jefe de Gabinete)を務めた経験を持つマッサ下院議員だ。彼はブエノスアイレス州のティグレ市長になったばかりでこの職を得たが、1年間で辞任し、同市長に復帰している。その後同州の他の市長らと政治勢力を結成、FpVと袂を分かち、2013年の中間選挙の際に「刷新戦線(FR)」を立ち上げ、いきなり、自らを含め13議席を獲得した。今回選挙では「新たな代替連合(UNA)」と言う選挙勢力で臨んだ。上記ブログでは一番人気、と書いたが、3月以降の世論調査では概ね三番手で推移するようになった。それでも彼の得票率は21.34%であり、この行方が、決選投票を左右するとして注目されている。 

アルゼンチンの政治状況は、非常に分かり辛い。歴史的ポプリスタのペロン(1895-1974)が大統領に選出された1946年以降、軍政期を除けば、ペロン党(正義党)と伝統政党の急進党(UCR)の二つが政権を担ってきた。両党とも、政治思想面では左派から右派まで幅広い。ペロンが559月に軍事クーデターで追放された後は、軍政、UCR、軍政、ペロン党、軍政、そして1983年に誕生したUCRのアルフォンシン(1927-2009)政権が、89年にペロン党のメネム政権に、何と73年ぶりにこの国での選挙による与野党政権交代が行われた(http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2013/06/post-3312.html)。

メネム政権第一期(1989-95)に憲法改正が行われ、大統領の任期を4年に短縮する代わりに、連続再選が認められるようになった。この頃、国有企業の民営化を含む彼の経済自由主義路線に反発する党内急進派が「連帯国家戦線(FREPASO)」を立ち上げた。1995年、彼がペロン党から立候補すると、対立候補にボルドン上院議員(当時)を担ぎ、29%もの得票率を挙げた。この時はメネム候補が当選要件を満たす得票率49%だったため連続再選が成った。その後FREPASOUCRと「労働・正義・教育同盟(La Alianza)」を組成、次の99年選挙ではUCRのデラルア候補が第一回目に48%の得票で選出された。ただこの同盟は2年後の中間選挙で大きく議席を減らし、消滅、FREPASOのメンバーの多くがペロン党の左派に復帰している。2003年に立ち上がったFpVに加わったようだ。

一方のUCRは、デラルア大統領が本来メネム政権の置き土産とも言える巨額対外債務で身動きがとれず、200112月に任期半ばで退陣すると、La Alianzaも分解、議会内勢力として退潮が続き、また分裂した。この頃からアルゼンチンは政党乱立の時代に突入する。UCRには、今や、UCR往年の勢いは見られない。今回選挙では、その中道左派の分派「平等な共和国への代替(ARI)」共々、マクリ氏が創設したPROに合流し、選挙母体名を「変革しよう(Cambiemos)」として参戦している。 

上記マッサ氏は今もペロニスタを自負する。同じペロニスタで中道左派に位置づけられるFpVに対し、彼は欧米メディアからは中道右派と見られる。彼に投票した人たちが、決選投票では右派とされるマクリ候補に向かう、FpV支持層の一部が同調する、従って彼の当選確率が極めて高くなった、と囃され、証券市場も上昇、と言う減少が見られるようだ。

アルゼンチン選挙史を見れば、1999年のFREPASOの、立場を変えた、また総選挙が終わってからの再来、とも言えようか。

(続く)

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