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2015年7月25日 (土)

コロンビア政府とFARCの和平の行方

720日、キューバと米国が国交回復を実現した日、コロンビアは205回目の独立記念日を祝った。

この日、コロンビア革命軍(FARC)が、六回目となる一方的停戦に入った。忘れてはならないことだが、FARCと政府との和平対話は、当事者同士の双方向停戦抜きで行われている。FARCは、和平協議期間中の双方向停戦を、始めから要求してきた。だがサントス政権は、停戦期間を彼らの体力回復と戦闘能力の向上に使われる、との懸念を理由に、これに応じて来なかった。だから停戦、と言えば、常にFARC側の「一方的」停戦を指してきた。五回目は、昨年1220日からの「無期限」停戦だ。

2月末からの和平対話の際には、途中から国軍幹部とFARCから成る小委員会で、停戦とゲリラの武器引渡しの行程に関わる小委員会も開かれた。この小委員会が、37日までに、地雷撤去共同作業について、合意に導いた。国連によるとコロンビアは、世界で最も地雷が敷設された国の一つであり、1990年以降、1.1万人の死傷者を出している。先ず国連からの大いなる賞賛を得た。

当初FARCの一方的無期限停戦に懐疑的だったとされるサントス政権だが、次第にこれを評価するようになっていた。地雷撤去合意を受けた格好だが、310日、空軍によるFARC拠点への襲撃(空爆)で空爆停止令を出す。ところが415日に、停戦中の筈のFARCによる前14日の襲撃で、軍、警察に11名の志望者が出る事件が起き、停止令を解除した。FARCの一方的停戦の間も、交戦は行われている。軍や警察からの軍事行動には対応せねばならないからだ。ことこの事件については、いずれ真相解明されようが、どちらに非が有るかは、ここでは置いておく。 

FARCの一方的無期限停戦は、522日に破棄された。空軍による襲撃(空爆)で27名の戦闘員が死亡したが、これへの報復が理由とされる。死亡した一人は、ハバナでの和平対話参加メンバーだった。それ以降、各地でFARCによる襲撃が繰り返され、一部では石油パイプラインや送電線塔の破壊で、石油流失による環境問題や大規模停電を来たしている。軍や警察との交戦状況や被害者についての実態は、外電を追うだけではよく分からない。破棄から1ヶ月で兵士、警官、及びゲリラを合計すると死亡者数は80名、との報道もあった。

その中でもハバナでの和平対話は続けられた。停戦破棄直前、地雷撤去共同作業の現地での検証作業も実現した。停戦破棄から間もない64日には、和平協定締結後の真実委員会創設にも合意した。和平プロセス保証国を務めるキューバとノルウェーが、立会国のベネズエラ、チリと共に、政府・FARC双方に、敵対状況緩和(descalamiento)を強く促したことも、緊張が高まる中での和平対話継続に貢献したことだろう。 

78FARCは、保証国、立会国が呼び掛けた精神に則り、との表現付きで、同20日から一ヶ月間の一方的停戦を発表した。これをもとに、12日、政府も軍事行動の抑制を約束し、敵対状況の緩和が共同声明の形で合意された。

サントス大統領は15日、幾つかのメディアに、720日からのFARCの一方的停戦期間は4ヵ月であり、この期間に最終和平合意が成らなければ、その時点で自分が和平プロセス打ち切りを判断する、と表明している。http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/06/post-1ef7.htmlの通り、大統領選でこの和平形成こそ重要と訴え当選した彼の、文字通りの正念場になるのだろうか。 

ところで、和平対話ではこれまで、農地改革(20135月)、FARCの政治参加(1311月)及び非合法麻薬問題(145月)について合意を見てきた。概ね半年毎に一つのアジェンダを纏めてきた格好だ。ところが、昨年の大統領選から1年を過ぎ、第4番目のアジェンダである武力抗争被害者への賠償問題は、今以て決着が付いていない。

半世紀にも及ぶ武力抗争で、22万人が死亡し、数百万人が国内避難を余儀なくされている、と言われる被害者(犠牲者を意味するlas víctimasで表現)を語るとき、和平交渉に関わるFARC幹部を含むリーダーらの免罪は不可、と言うのが政府や司法の見解だ。かつての恩赦を期待しても今の国際社会では通用しない、和平協議締結後は速やかに司法手続きに入り、懲役を含む判決には従うべし、と言う。FARCは、一日たりとも投獄は受け容れない、との立場にある。

この難問を抱えたまま、723日、第39回目の和平対話が開始された。FARCは、上記真実委員会の立ち上げを急ぎ、公平な検証が為されることを前提とした司法手続きで合意形成に舵を切りつつあるようだ。

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2015年7月23日 (木)

キューバと米国の国交再開(2)

2015720日のキューバと米国の大使館再開の前段階で、http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2015/04/post-9773.htmlの最後でお伝えした米国のテロ支援国家リストからのキューバ除外が、529日に発効した。この結果、国際的枠組みでの金融制裁は緩和されよう。ただ私には具体像がよく見えない。 

1993年末に最後の駐在から引き揚げた際にも、私は、キューバ国民の教育水準と一般技術水準の高さから、投資市場としての潜在性を信じていた。ところが962月、キューバ難民を支援する「Hermanos al Rescate」と言うキューバ系米人の組織が所有する米国民間機を、キューバが撃墜した。前年10月に議会が成立させていたヘルムズ・バートン法を、クリントン政権が発布した。接収された米国(法)人の、当該資産に関連したと思われる取引を行った外国企業に対する米国法での請求権、及び当該企業トップへの米国入国禁止などが規定され、米国で活躍する外国企業をかなり萎縮させた筈だ。

ともあれ、クリントン政権はもともと対キューバ融和策を追求していた。上記の法律施行には拒否権で応じている。19981月のローマ法王パウロ一世のキューバ訪問後、制裁緩和に動いた。20001月には食糧・医薬品輸出の特別認可、同7月には前年11月来の「エリアン・ゴンサレス」事件http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/12/post-0aed.html、に決着をつけ、当時ニューヨークに駐在していた私には、米国の対キューバ関係正常化が近まった思いが募った。

ブッシュ・ジュニア政権発足後も、2001911日の、ニューヨークのワールドトレードセンター破壊を含む同時多発テロ後も、期待は抱き続けた。上記テロに対して、カストロ政権は直ちにテロ非難声明を出しているし、実際に食糧輸出を実現したのは彼の政権に移った後のことだ。 

ラ米全体に眼を移すと、ソ連崩壊半年前の19917月から毎年解されているイベロアメリカサミットに、第一回目から毎回参加している。93年には再断交状態だったコロンビアと復交、98年のローマ法王訪問の直後にはエルサルバドルを除く全てのラ米諸国との外交関係が復活した。そして998月、ラテンアメリカ統合機構(ALADI1960年モンテビデオ条約で発足したLAFTAが前身。メキシコ、南米10カ国で構成)に加入し、キューバはほぼ完全にラ米社会に復帰した。同年2月にベネズエラにチャベス政権が誕生していたことも、これを後押しした。

同国とは0412月に人民通商協定(TPC)を締結した。キューバの日量9.6万バレルの石油と2万人の医療スタッフ派遣などを取り決めたもので、後年の米州ボリーバル同盟(ALBA)に繋がる。キューバ経済を支える命綱のような役割を担う、と考えられる。03年以降、ラ米諸国の多くで左派乃至中道左派政権が発足し、連続再選を含め、今日まで与党が概ね政権の座を維持している。キューバにとり、ラ米は心地よい地域となった。 

2009年1月、米国でオバマ政権が誕生した。私が彼への期待が膨らませたことは、http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/12/post-0aed.htmlで述べたが、事実彼は当初から対キューバ政策転換に前向きだった、とされる。同年4月、キューバ系米人の渡航規制撤廃を含む規制緩和を、同年11月には一般米人の渡航やチャーター便規制も幾分緩和している。だが、米国政府機関USAIDのキューバ国内での下請けプロジェクトを担っていたアラン・グロス氏が、同年12月にスパイ罪で逮捕されて、政策転換の動きが止まった。キューバ側が、彼の釈放を求める米側に、いわゆるCuban Fiveとの交換を持ち出すなどあったが(ローマ法王キューバ訪問に関する記事http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/11/post-89ad.html後半ご参照)、水面下で再び動き始めたのは、彼の政権が選挙を経て第二期に入った13年からだ。だが、国交回復を前面に出しての動きが、制裁緩和だけの宥和政策だった従来と異なる。

2013年は、オバマ・ラウル両首脳がマンデラ元南ア大統領葬儀の機会にhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/01/oas-3d14.html)握手を交わしたことが特筆されるが、キューバがラテンアメリカカリブ共同体(CELAC)の1年間の議長国になっている点も興味深い。 

ワシントンのキューバ国旗掲揚を主とした大使館再開式には、ロドリゲス外相が駆け付けた。ハバナでは、米国利益代表部が大使館に呼び代えた他は、取り立てて何の行事も行われなかったようだ。米国旗掲揚式は、814日にケリー国務長官が赴いて挙行される。

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2015年7月21日 (火)

キューバと米国の国交再開(1)

2015720日、待ち望んだ日だった。196113日、米国が、言い古された表現だが、僅か90マイルしか離れていない隣国、キューバとの断交に踏み切って54年7ヶ月半。正式な外交関係の断絶期間だ。よくぞこんなにも長く続いたものだ。

1975729日、米州機構(OAS)は、62129日の除名から13年半で、対キューバ政策を加盟国の判断に委ねる決議を行った。実態は、OASのキューバ除名決議後も関係を維持していたメキシコを含め、それまでにアジェンデ政権のチリ(7111月)、ベラスコ軍政のペルー(726月)、第一次軍政が終わりカンポス・ペロン党政権が発足したアルゼンチン(733月)、トリホス軍政のパナマ(748月)、ペレス国民行動党政権のベネズエラ(7412月)及びミチェルソン自由党政権のコロンビア(753月)と、ブラジルを除くラ米主要国は、夫々の関係回復を先行実現していた(チリは739月のクーデターで再断交)。

米国は、OAS 1975年決議の直後に、米企業の海外子会社によるキューバ向け輸出を解禁した。アルゼンチン製のフォード、シボレーが、しかもファイナンス付きで、キューバに入り出した。カナダ製のファイアストーンやダンロップのタイヤも然りだ。翌76年に発足したカーター米政権は、漁業協定締結、利益代表部設置、沿岸警備隊協力、など、対キューバ関係改善に取り組んだ。

日本は、革命後のキューバとの関係維持に努めた。貿易相手国としての最恵国待遇も変わらない。米国が買わなくなった砂糖の多くはソ連が引き受けたが、日本はそれに次ぐ量を輸入した。主だった総合商社は、砂糖を除くと、対米配慮から、子会社名での取引にいそしんでいたが、1975OAS決議に先行し、本社名での取引に変え、ハバナに駐在員を派遣した。私もその内の一人だ。 

当時のキューバは、しかし、ソ連東欧諸国が加盟する経済相互援助条約(いわゆるコメコン)に19726月に加盟、741月、ソ連書記長の初訪問、753月、アンゴラ派兵(ソ連の意を汲んだもの)、同12月、初めての共産党大会開催、762月、社会主義憲法交付、同12月、人民権力全国会議召集と、冷戦下、米国の最大の仮想敵国のソ連型共産主義国家に移っている時代にあった。その中でコスタリカとエクアドルも対キューバ国交回復に踏み切っていた。

19791月より、在米キューバ人の里帰りが可能となった。彼らは米国での生活状況などを伝え、自由で物資が豊かな米国への移住を求める人々の深層を刺激し、翌804月のペルー大使館1万人駆け込み、12.5万人のボートピープルを生んだ、いわゆるマリエル事件を呼び起こした。その直後に、私は2度目のハバナ駐在に出て、街頭で、「行っちゃえ、キューバは働く人たちのもの¡Que se vaya,Cuba es para trabajadores」と、彼らを詰るシュプレヒコールを何度も聴かされた。

19796月に革命を成立させたニカラグアは直ちにキューバとの関係を復活させた。一方で80年代早々に、エルサルバドルとグァテマラで夫々FMLNURGNによる、またニカラグアでも反革命政府派(コントラ)による反政府内戦が起きる。ホンジュラスとコスタリカをも巻き込んだ「中米危機」だ。811月に米国でレーガン政権が成立して早々、コロンビアとコスタリカが再断交に至った。翌823月、米国はキューバをテロ支援国家に指定する。米国キューバ関係回復は、頓挫した。だが、軍政時代を終えたウルグアイとブラジルが関係を復活させた。 

1980年代の終盤、東欧民主化が、様々な動きの中で実現した。9112月にはキューバの唯一の支援国だったソ連も崩壊した。キューバは、一気に経済苦境に陥った。米国は、手を差し伸べるのではなく、9210月、連続再選を狙うブッシュ大統領が、トリチェリ法(第三国の米系企業の対キューバ取引禁止)と言う形で、制裁を強化した。要するに、カストロ体制を潰す良い機会と考えた政治家が多かったのだろう。

ブッシュの連続再選はならず、クリントン政権が誕生、この頃私は三度目のハバナ駐在に出ていた。カストロ政権は外資誘致事業の緩和や国民の外貨保有と経済活動の一部民営を解禁するなど、経済開放策を進めていたが、燃料不足で起きる毎日の8時間毎の計画停電、当然の物資不足激化の中で、翌年、最後の駐在員として引き揚げた。

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