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2015年2月26日 (木)

選挙の年に-ベネズエラ(1)

ベネズエラでは2015年は国民議会選挙の年に当る。日取りは未定のようだが、現議員の任期は201615日に満了を迎えるので、遅くとも12月には実施されなければならない。チャベス前大統領が健在だった前回の2010年の議会選は、926日に行われた。

去る224日、選挙管理委員会は、自ら立会う予備選日程を、反政権諸党で構成する「民主統一会議(MUD)」については彼らの要請に基づき517日と決定し、同時に与党陣営の「ベネズエラ統一社会党(PSUV」には同委員会から申し入れ、621日、と決めた。AP通信が伝えた。議会選で予備選挙とは聊か奇異な感じだが、ラ米では珍しい選挙区制によるものだろう(私のホームページ中のラ米諸国の選挙制度参照願いたく)。

2010年選挙では、PSUVと「ベネズエラ共産党」の与党連合が全165議席の59%に相当する98議席を獲得した。だが、得票率は48%だった。一方MUDは得票率で47%だったのに獲得したのは64議席に留まった(プログhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2010/09/post-dc1b.htmlでは、速報段階では後者を65議席、と書いた)。比例代表では前者が25に対し、後者は26だったが、選挙区では夫々7138ずつ、先住民枠で2、1となった。まさしく選挙区制あればこそ、前者が圧倒的優位に立てた。

その2年後の大統領選では、チャベス候補が55%の得票で、新憲法下での連続三選を決めたが、得票率は2006年の時の63%から低下していた。彼の死後20134月に行われた大統領選では、彼の後継を自認するマドゥーロ候補が当選したが、得票率は50.8%、辛勝だった。 

今年の選挙は、チャベス亡き後の最初のものだ。与党には、逆風が吹き荒れている。マドゥーロ政権初年の一年前の212日、「若者の日」二百周年記念日に、反政権派リーダーたちが呼び掛けた抗議デモが国内各地で行われ(http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/03/post-f9f2.html)、死者3名、数十人の負傷者や逮捕者を出す事態に発展した。暴力的行動を煽動した、として政権側から告発されたロペス元チャカオ市長が、6日後、支持者数千人に付き添われて出頭、拘束され、その後軍刑務所に拘留された状態だ。同年7月より裁判に掛けられている。

昨年は2月から5月にかけ、死者43名、負傷者数百人、拘束された人は延べ3千人近く出た(検察によれば、41名が現時点で拘留中)。抗議活動の基になった治安の悪さ、物資欠乏、高いインフレによる国民の生活不安は、現在も続いている。これに石油収入急減が輪を掛けている。

そして今年の212日、同じ「若者の日」に集まったのは、寧ろ政権支援派が多かったようだ。反政権派もデモに出たが規模は昨年に比べ圧倒的に小さく、何名か軽傷を受けた程度で、大事に至ったとは伝わっていない。123日、国防省が、治安維持のために暴力行動に出るデモ隊には火器を使用しても差し支えない、との省令を出した。この影響もあろう。ロペス拘束1周年に当るその6日後の18日、彼の解放を求めるデモも行われたが、参加者は300人以下だったようだ。

一方で、219日、反政権の急進派リーダーの一人と目されるレデスマ・カラカス広域圏市長が事務所に情報機関の突入を受け、拘束される事件が起きた。身柄はロペス同様に軍刑務所に移された、と伝わる。罪状は、マドゥーロ大統領によれば、クーデター陰謀への参加であり、司法プロセスに則って裁かれる、とのことだ。 

クーデター、とは、穏やかではない。マドゥーロ氏に言わせると、米国が支援する極右勢力が「経済戦争」を仕掛け、国情を不安定化させ、軍の一部と組んで、彼を暗殺し政権を転覆する計画を持っている。これについで米国は直ちに、根拠の無い馬鹿げたこと、と打ち消した。また、レデスマ拘束劇の異常性には、米国、カナダ、米州機構(OAS)、米州人権委員会(CIDH)から、深い憂慮の念が寄せられている。ただラ米諸国政府からは、チリやコロンビアを除くと、内政干渉に敏感なためか、225日現在、論評が殆ど見られない。南米諸国連合(Unasur)が政権派と反政権派との対話立会いのミッションを送ろうとしているが、マドゥーロ政権が動かず、進んでいない。

国内のマドゥーロ支持率は、2030%とも言われる。何としても議会大多数の現状を維持しよう、とすれば、極右の陰謀を前面に出すことで、国民の支持を回復したいところだろう。反政権派にとっては選挙の年、彼の政権の自滅が望ましかろう。一昨年の大統領選でマドゥーロ氏と接戦を演じたカプリーレス・ミランダ州知事は、レデスマ拘束を激しく非難しつつ、MUDのリーダーの立場から、過激な街頭行動を厳として戒め、「平和的な抗議運動」を訴える。

(続く)

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2015年2月19日 (木)

選挙の年に-アルゼンチン(2)

フェルナンデス大統領がティメルマン外相らと共に告発された理由のAMIA事件関与容疑者の隠蔽とは、2年前の2013127日にイランとの調印した二国間覚書(Memorandum of understandingMOU)に見返り条件が隠されている、と言うものだ。覚書自体は、AMIA事件のイラン人関与に関わる真相を、国際的に法曹界で著名な、且つ両国民ではない第三国から選任されたメンバーによる委員会で調査する、容疑者として認定されたら、アルゼンチン司法が当該者への取調べを行える、などを取り決めたもので、アルゼンチンでは翌月、議会で可決され、同年31日に法律になっている。外相は、19年間経って、AMIA事件主犯格の容疑者取調べが漸く可能となった、と述べている。 

AMIA事件に2年余り先立つ19923月に、ブエノスアイレスのイスラエル大使館が自爆テロに襲われた。ヒズボラ(レバノンのシーア派イスラム組織)が犯行声明を出した、と聞く。同組織の議長がその一月前にイスラエル軍のミサイル攻撃で暗殺されているが、それへの報復が理由の由だ。大使館への自爆テロの犠牲者数は29名で、内イスラエル人は4名だった。大使館近くの学校やカトリック教会も破壊された。主犯格として、ヒズボラ幹部の名が挙がったが逮捕には至っていない。

AMIA事件では、85名の犠牲者が出た。テロ事件としての規模が大きいだけに、国際的な関心が寄せられた。ヒズボラとその後ろ盾といわれていたイラン当局が疑わしい、とされ、事件時の駐アルゼンチン・イラン大使(後にアルゼンチン政府の要請により英国で逮捕、証拠不十分で釈放)ら個人名も公表した。だが、上記大使館事件では犯行声明を出したヒズボラも、またイラン当局も事件関与を否定した。国内で関与した、とされる数名が逮捕されたが、証拠不十分で全て釈放されている。 

膠着状態が続いた。200610月、本件担当に就いて間もないニスマン検事(20151月に変死)が、事件に関与した、として、イランのラフサンジャニ大統領(在任1989-97年)、上記駐アルゼンチン大使、ベラヤキ外相(在任1981-97年)ら8名を告訴した。イラン政府は直ちに、虚偽による告訴で、シオニストの陰謀として、これを一蹴した。

アルゼンチンは、世界第一位の米国、第二位のイスラエルを含め、世界第六位、23万人のユダヤ人口を抱える。ラ米随一でもある。政治的な影響力については、私はよく存じ上げないが、大使館襲撃事件でもAMIA事件でも、直ちにイスラエルから事件解明のため、として専門家が送り込まれた。ニスマン検事もユダヤ人だ。イランをテロ支援国家と見做す米国も、何かにつけコメントを発してくる。イランが「シオニスト」呼ばわりしたのも頷ける。

アルゼンチン政府はその後、ヒズボラ幹部(レバノン人)の1名を加えた9名について、国際刑事機構(インターポール)に国際逮捕手配書(逮捕状)を請求した。

20079月、当時のキルチネル大統領は国連での演説で、AMIA事件解決に協力しない、としてイラン政府を非難、事実に基づかない、近く行われるアルゼンチン選挙を睨んだ非難、と逆襲されている。翌月のその選挙で、妻のフェルナンデス候補が当選した。翌11月、インターポールは、主権への干渉排除が原則、との理由でラフサンジャニ及びベラヤキ両氏を、また一旦英国で結論が出ている大使の3名を除外した6名の逮捕状(レッドノーティスと呼ばれるリストに組み入れられたもの)を出す。ところが、その内の唯一の非イラン人、ヒズボラ幹部が翌20082月に、シリアのダマスカスで殺害され、最終的に逮捕状対象は5名、となった。  

 

膠着状態はさらに続いた。そんな中で、二国間覚書が交わされた。それから4ヶ月して、ニスマン検事はAMIA事件を纏めた502ページにも及ぶ報告書を出した。イランがAMIA襲撃までにラ米地域にいかに浸透してきたかを詳述したもののようだ。国内のユダヤ人社会は覚書については元々その効力に懐疑的だったが、次第に批判を強めて行った。一方で、覚書に効力を持たせるための作業が、一向に進んでいない。イラン側の最終承認が後れていることが最大の理由だと思われるが、国内ユダヤ人社会やイスラエル強い反発も背景にあろう。そこに同検事の隠蔽告発と変死が起きた。

 

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2015年2月17日 (火)

選挙の年に-アルゼンチン(1)

去る118日、ニスマンと言う検事が死亡した。至近距離から頭部へ銃弾が打ち込まれており、自殺説が有力のようだが、自らの遺体の近くに落ちていた拳銃は、アシスタントの所有物であり、身の危険を訴え借り受けたもの、とのことだ。

彼は2004年(2006年から、とする報道もある。ともあれ、フェルナンデス現大統領の亡夫、キルチネルの政権期)から、19947月に起きたアルゼンチン・イスラエル相互協会AMIA)本部襲撃事件(以下、AMIA事件)捜索を担当してきた。担当検事となって約10年経った今年114日、つまり死の僅か4日前に、フェルナンデス大統領や政権幹部らが、2007年にアルゼンチン政府の求めで国際刑事機構(インターポール)により出されていたAMIA事件への関与容疑者への逮捕状を無効化した、との告発を裁判所に行った。政権側は、インターポール逮捕状は今も有効で、告発には何の証拠も無い、馬鹿げたもの、と一蹴したが、19日、つまり死の翌日には、議会での証言に出席することになっていた。

彼の死亡には不可解な面が多い、実際には殺害されたのでは、と、1ヶ月も経ってなお、政権に絡む変死事件として、国内外のメディアが騒いでいる。大統領のフェルナンデス氏までが、彼の死にアルゼンチン情報機関の元エージェントの影を指摘する。何しろ軍政時代を含め辣腕を発揮してきた人物で、昨年末解任されたばかりだ。この事件を担当する検事は、彼に出頭を促しながら、未だに聴取できていない。 

この変死事件は、上述のように政権に絡む。要するに、AMIA事件に重要な役割を果たしたと思われるイラン要職者を、フェルナンデス政権が隠蔽しようと画策している、とイメージを高める。この事件の1週間後にスペインのEFE通信が伝えたある雑誌の世論調査では、不支持率が一ヶ月前に比べ11ポイント上昇、50%を超えたそうだ。

昨年12月に踝を骨折したフェルナンデス大統領が、車椅子で登場し、上記元エージェントを抱えていたアルゼンチン情報庁(SIDE)を解体する法案を議会に送った、と発表した。SIDEは、米国の中央情報局(CIA)のような機関のようだが、行政トップの統制が及ばない、と言われる。法案を送られた議会では、野党が審議に応じない、と伝えられる。変死事件にかこつけ、国民の眼から政権の隠蔽体質を逸らすための法案、と言う。与党は議会で過半数の議席を持つ。今年1025日、大統領と下院の半数、及び上院の三分の一を選出する総選挙が行われる。野党側は、法案が通っても、総選挙で議席を増やし、廃棄する、と公言している。 

大統領選では、フェルナンデス大統領は憲法上、連続三選は狙えない。有力候補4名を下記する(年齢は選挙時)。ただ、各政治勢力の正式な候補は89日の予備選で決まる。

1. 「勝利戦線(FpV)」シオリ・ブエノスアイレス州知事(58歳)

2. 「刷新戦線(FR)」マッサ下院議員(43歳。1年間、フェルナンデス第一次政権官房長官を務めた経験有り)

3. 「共和国提案(PRO)」マクリ・ブエノスアイレス市長(56歳)

4. 「急進党(UCR)」コボス下院議員(60歳。フェルナンデス第一次政権で副大統領)

今のところ、マッサ議員の人気が一番高いようだ。

議会戦では、上院(定数72議席)が三分の一の24議席、下院(同257議席)が半分の130議席が争われる。逆に非改選は上院が48議席で、この内与党FpV28、グループとしては計34を占め、2議席でもとれば過半数が維持できる。問題は下院(非改選127議席)で、単独42、グループ計50なので、改選議席の三分の二ほどを確保して漸く全体の過半数だ。

そこに、ニスマン変死事件が起き、フェルナンデス大統領の評判が大きく落ち込んだ。彼の告発後1ヶ月経ち、彼の同僚検事が彼の告発に基づく公訴(大統領を含む対象者への捜査)請求を裁判所に持ち込んだ。国内外のメディアは大々的に報じる。政権側が「司法権によるクーデター(golpe judicial)」と言おうが、国内の専門家が証拠に具体性の無い事案、とコメントしようが、国民の大統領を見る眼には険しさが募る。選挙の年、与党FpVには大変な逆風と言える。

コボス議員のUCRと中道左派政党との連合体、「UNEN拡大戦線」は、現有議席数が上院21、下院61で、FpV勢力に次ぐ。ペロン党非主流派を中心とするマッサ議員のFRの勢力は、夫々6及び34だが、今のところ支持率は上記4名の中で最も高い。マクリ知事のPROは同420だが、UNENとの連合も視野に入っているようだ。

(続く)

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