選挙の年に-アルゼンチン(2)
フェルナンデス大統領がティメルマン外相らと共に告発された理由のAMIA事件関与容疑者の隠蔽とは、2年前の2013年1月27日にイランとの調印した二国間覚書(Memorandum of understanding、MOU)に見返り条件が隠されている、と言うものだ。覚書自体は、AMIA事件のイラン人関与に関わる真相を、国際的に法曹界で著名な、且つ両国民ではない第三国から選任されたメンバーによる委員会で調査する、容疑者として認定されたら、アルゼンチン司法が当該者への取調べを行える、などを取り決めたもので、アルゼンチンでは翌月、議会で可決され、同年3月1日に法律になっている。外相は、19年間経って、AMIA事件主犯格の容疑者取調べが漸く可能となった、と述べている。
AMIA事件に2年余り先立つ1992年3月に、ブエノスアイレスのイスラエル大使館が自爆テロに襲われた。ヒズボラ(レバノンのシーア派イスラム組織)が犯行声明を出した、と聞く。同組織の議長がその一月前にイスラエル軍のミサイル攻撃で暗殺されているが、それへの報復が理由の由だ。大使館への自爆テロの犠牲者数は29名で、内イスラエル人は4名だった。大使館近くの学校やカトリック教会も破壊された。主犯格として、ヒズボラ幹部の名が挙がったが逮捕には至っていない。
AMIA事件では、85名の犠牲者が出た。テロ事件としての規模が大きいだけに、国際的な関心が寄せられた。ヒズボラとその後ろ盾といわれていたイラン当局が疑わしい、とされ、事件時の駐アルゼンチン・イラン大使(後にアルゼンチン政府の要請により英国で逮捕、証拠不十分で釈放)ら個人名も公表した。だが、上記大使館事件では犯行声明を出したヒズボラも、またイラン当局も事件関与を否定した。国内で関与した、とされる数名が逮捕されたが、証拠不十分で全て釈放されている。
膠着状態が続いた。2006年10月、本件担当に就いて間もないニスマン検事(2015年1月に変死)が、事件に関与した、として、イランのラフサンジャニ大統領(在任1989-97年)、上記駐アルゼンチン大使、ベラヤキ外相(在任1981-97年)ら8名を告訴した。イラン政府は直ちに、虚偽による告訴で、シオニストの陰謀として、これを一蹴した。
アルゼンチンは、世界第一位の米国、第二位のイスラエルを含め、世界第六位、23万人のユダヤ人口を抱える。ラ米随一でもある。政治的な影響力については、私はよく存じ上げないが、大使館襲撃事件でもAMIA事件でも、直ちにイスラエルから事件解明のため、として専門家が送り込まれた。ニスマン検事もユダヤ人だ。イランをテロ支援国家と見做す米国も、何かにつけコメントを発してくる。イランが「シオニスト」呼ばわりしたのも頷ける。
アルゼンチン政府はその後、ヒズボラ幹部(レバノン人)の1名を加えた9名について、国際刑事機構(インターポール)に国際逮捕手配書(逮捕状)を請求した。
2007年9月、当時のキルチネル大統領は国連での演説で、AMIA事件解決に協力しない、としてイラン政府を非難、事実に基づかない、近く行われるアルゼンチン選挙を睨んだ非難、と逆襲されている。翌月のその選挙で、妻のフェルナンデス候補が当選した。翌11月、インターポールは、主権への干渉排除が原則、との理由でラフサンジャニ及びベラヤキ両氏を、また一旦英国で結論が出ている大使の3名を除外した6名の逮捕状(レッドノーティスと呼ばれるリストに組み入れられたもの)を出す。ところが、その内の唯一の非イラン人、ヒズボラ幹部が翌2008年2月に、シリアのダマスカスで殺害され、最終的に逮捕状対象は5名、となった。
膠着状態はさらに続いた。そんな中で、二国間覚書が交わされた。それから4ヶ月して、ニスマン検事はAMIA事件を纏めた502ページにも及ぶ報告書を出した。イランがAMIA襲撃までにラ米地域にいかに浸透してきたかを詳述したもののようだ。国内のユダヤ人社会は覚書については元々その効力に懐疑的だったが、次第に批判を強めて行った。一方で、覚書に効力を持たせるための作業が、一向に進んでいない。イラン側の最終承認が後れていることが最大の理由だと思われるが、国内ユダヤ人社会やイスラエル強い反発も背景にあろう。そこに同検事の隠蔽告発と変死が起きた。
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