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2014年10月13日 (月)

モラレス連続三選-ボリビア

http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/01/20142-6825.htmlで述べたボリビア総選挙が1012日に行われ、モラレス大統領(54歳)の連続三選が決まった。公式発表は現地13日に行われるが、出口調査によれば彼の得票率は60%強で、大方の予想通りだった。2011年の先住民居住地域を通過させる南米横断高速道路建設計画に反対する先住民抗議デモが災いし、一時、支持率3割前後で低迷し、高支持率の周辺諸国大統領を羨ましがっていたこの人への支持が、その3年後の今回選挙ではすっかり回復した、と言える。2006年の初当選以来、3回連続の過半数越えだ。外電は、与党議員が選挙前に、反モラレス票を投じれば鞭打ち刑が待っている、と発言した、と伝えるが、米州機構(OAS)から派遣された、フネス前グァテマラ大統領を団長とする選挙監視団が見守る中、実際には公正な選挙だったと言えよう。

昨年4月の最高裁判定の後、本年5月、多民族立法議会(上下両院総会)の議長を務めるガルシアリネラ副大統領が、モラレス氏の出馬宣言前に、彼の出馬は合憲、とする立法措置に署名、連続再選を1回に限定した憲法解釈を巡る異論も残る中で、私の理解が正しければ、彼の政権が20201月までの14年間続くことになった。ベネズエラの故チャベス政権と同じ長さだ。 

それにしても、対立候補の情けなさはどうだろう。筆頭対立候補のメディーナ氏(55歳)は20年も前のパスサモラ政権(在任198993年)の企画調整相を、弱冠33歳で2年間務めたことがある。その際に当時の政権党だった左翼運動党(MIR)に入党したようだ。1995年にペルーのトゥパクアマルー革命運動(MRTA)に誘拐されたことでも知られる。2003年、国民連合(UN)創設に参加、05年、09年の大統領選に出て、いずれも一桁得票の第三位だった。今回は、上記ブログでも触れたが、議会第二勢力を成す「ボリビア進歩計画連合(PPB-CN)」の解体で漁夫の利を得た格好、と言えまいか。PPB-CNの中の国民革命運動(MNR1952年革命の推進母体。ホームページのボリビア革命参照)など主力政党と組んだ「拡大戦線」を組成し、その候補となり25%前後の得票になった。

キロガ元大統領(在任200102年。54歳)は、第三位に終わった。元大統領とは言え、バンセル(19212002)第二次政権(在任19972001年)副大統領で、大統領辞任で昇格したものだ。バンセル支持基盤の民主国民運動(ADN)をP引き継ぐ形で「社会民主の力(PODEMOS)」を立ち上げ、2005年選挙にはここから出馬、モラレス候補に次ぐ第二位を付けた。今回は解体したPODEMOSの一翼を担っていた社会キリスト党(PDC)からの出馬となったが、政界、国際社会での華やかな経歴にも関わらず、得票率は10%に届かなかったようだ。 

南米の解放者、ボリーバル(17831830)の名を冠したボリビアの現代史は、革命12年後の1964年に軍政に入った。その7年後にキューバ革命の英雄、ゲバラ(192867)を処刑したことは、ラ米史上、あまりに有名だ。民政移管は821010日。806月の選挙で当選していたシレススアソ(191496.パスエステンソロの同志として革命を戦った)が大統領に就任した日、として良かろう。

19856月以降、4年毎に、6月乃至7月に選挙が行われ、86日のボリビア建国宣言記念日に大統領が就任するようになった。2002年のサンチェスデロサダ第二次政権発足まで続いた。この間1997年までは以下のような連立政権の組み合わせが行われた

l 198589年(パスエステンソロ第四次):中道右派のMNRと、右派バンセル政党たるADN

l 198993年(パスサモラ):中道のMIRと右派ADN

l 199397年(サンチェスデロサダ第一次):中道右派のMNRと中道のMIR

1994年の憲法改正で大統領任期が5年に延びた。その初代は1997年に選出されたバンセルだ。19728月、軍内のクーデターで政権を掌握した将軍、という経歴から、「独裁者」と呼び慣らされるが、実は78年に大統領選を実施、その際には自らは立候補しなかった。この選挙は後日無効とされ、彼自身も軍内クーデターで失脚、後にADNを創設した。初めてで、彼自身にとっても初めての立憲大統領の座だ。76歳にもなっていた。決選投票ではMIRの支援を得た。だが、2000年1月の「コチャバンバの水紛争」の翌年、任期を1年残して前述の通り、辞任している。

20028月に大統領に就任したサンチェスデロサダ氏も、軍出動を含む抑圧で多数の死亡者を出した0310月の「第一次ガス紛争」で失脚、米国に亡命した。メサ副大統領が昇格したが、055月の「第二次ガス戦争」を経て、本来任期の前に辞任した

つまり、5年任期になった初代と二代目は、任期を全うできなかった。この点、http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/10/post-2ed2.htmlを参照願いたく。サンチェスデロサダ氏については、上記紛争でのデモ参加者殺害に関与あり、として、20052月に議会が提訴、ボリビア政府は0811月以降、米国に身柄引き渡しを要請し続けている。 

大統領の就任を1月にするようになるのは、20056月発足の暫定政権下で決まった。これに合わせる格好で、同年年12月に総選挙が行われた。モラレス第一次政権の本来の任期は111月だったが、09年の憲法改正(連続再選を1回に限り認める、とするもの)による初めての総選挙と銘打ち、同年12月の選挙となった。モラレス氏が2014年の連続再選を狙ったのは明らかだ。今回10月になったのは、決選投票の可能性を考えると、1月の就任まで時間的余裕が無い、という理由付けになっている。

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2014年10月 9日 (木)

ルセフとネヴェス-ブラジル大統領選の行方(2)

105日のブラジル総選挙で、ルセフ大統領(労働者党、以下PT66歳)が得票率42%、第二位は34%を獲得したアエシオ・ネヴェス上院議員(ブラジル社会民主党、以下PSDB53歳)で、この二人が三週間後の1026日の決選投票に進むことは、日本の新聞でも大きく報しられた。つい一週間前までの世論調査で二位を走っていたシルヴァ前上院議員(ブラジル社会党、同PSB56歳)は21%の第三位で、レースから退場した。番狂わせとは言えない。10月に入って行われた世論調査では、全て、ネヴェス候補が彼女を僅差で上回るようになっていた。それでも得票率で13ポイント差が付いたのは、予想外と言える。 

http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/01/20142-6825.htmlで触れたシルヴァ候補の台頭だが、蓋を開けると、2010年選挙の得票率19%を2ポイント上回っただけで終わった。上記ブログを書いた時点から半月間、第一回目投票でルセフ候補と拮抗、決選投票で勝利、との世論調査結果が続いた。9月下旬になって失速するが、それでも決選投票進出は間違いない、と思える状況にあった。メディアは、ルセフ候補によるネガティヴ・キャンペーン(ブラジル史上、これまでに無かったほど激しかった、と報じるメディアもある)が奏功した結果、と言う。曰く、3年間で4回も政党を変えた節操の無さ。曰く、財源を示さぬ政見。曰く、政策立法化に必要な議会における支持政党の薄弱な基盤。曰く、一時的経済低迷をルセフ政見の失政と決め付ける一方、説得力のある対案を示さない無責任さ。

シルヴァ候補が失速して上向いたのは、しかし、ルセフ候補ではなく、もう一人の対立候補、アエシオ・ネヴェス候補だった。世論調査では、9月末まで20%以下だったこの人への支持率が、急上昇した。

彼の母方の祖父は、1985年ブラジル民政復帰後の初代大統領、タンクレド・ネヴェスだ。ご周知の通り、ブラジルは軍政時代も議会は機能し、大統領も、議会を中心とする選挙人団による投票で選出されていた。ただ、大統領は軍人に限られ、政党は196579年は軍政与党(ARENA79年の政党法改正で社会民主党(PDS)に名称変更)と公認野党(MDB。同、PMDB)しか認められていない。祖父は下院議員(6379年)、上院議員(7982年)、ミナスジェライス州知事(8283年)を経て、直接選挙運動に身を投じ、まだ選挙人団による選挙だったが、文民でありながら85年の大統領選にPMDBから出馬、当選した。ただ就任せぬまま同年4月に死去した。

彼の父親アエシオ・クーニャ氏も1963年から民政復帰の後の87年まで下院議員を務めた。義父と同じく公認野党MDBPMDB)に属した。

彼が父親の後を継ぐ形で、下院議員として政界に入りしたのは、87年のことだ。弱冠26歳だった。やはりPMDB から出ている。1988年、PMDB 非主流派が社会民主党(PSDB)を創設、彼も、どの段階か、この新党に移籍し、2003年、42歳で、同党からミナスジェライス州知事選に出て当選、祖父と異なり、二期を務め上げた。11年からはやはり祖父同様に上院議員に進み、13年、53歳で同党の党首になっている。毛並みも経歴も、正しく政界のエリート、と呼ぶに相応しい。 

やはり決選投票でPTのルセフ候補とPSDBのセラ候補とが激突した2010年選挙を振り返ってみたい。前者の第一回目の得票は47%で、決選投票ではこれに9ポイント上積みした56%、後者は11ポイント上積みの44%だった。今回同様に第三位だったシルヴァ票の19%分が、そのまま分散された格好だ。ただ、彼女を担いでいたのは小党の「緑の党」だったことで、19%の殆どは、いわば「マリーナ(シルヴァ)人気」の票だった、と言えよう。組織的な締め付けは考え難い。

今回、彼女を担いだPSBは、先ず先ずは中堅どころの政党だ。今回の同党得票率がどれほどか、今のところ分からない。だが彼女の21%の、少なく見積もっても3分の1は、同党の組織票だろう。その党が8日、幹部29名による投票で、決選投票ではアエシオ・ネヴェス(以下、ネヴェス)候補を押すことを、組織として決めた。一方、ルセフ候補の第一回目の得票率は、それよりも2010年より5ポイント下った。彼女が決選投票で勝つには、8ポイントを超す上積みが必要だ。総選挙直前のDatafolhaによる世論調査では、決選投票はルセフ53%、ネヴェス47%、となっていた。PSBのネヴェス支援発表の前であり、これより拮抗、乃至は逆転も有り得よう。

12年間に及ぶPT政権にうんざりしている経済界の期待は高そうで、ブラジルの株式市場は上昇、ブラジルの通貨、レアルも上がった。ルセフ大統領に何故か批判的な欧米メディアも、かかる状況を好感しているようだ。 

ネヴェス氏の政見の中で注目したいのは、大統領の任期を5年にし、再選は禁じる、と言う点だ。元々、そうだった。連続再選を認め、一期を4年とするように変えたのは、彼のPSDBのカルドーゾ第一次政権下の19976月のことだ。シルヴァ氏がかかる条件付けをしている、と報じられるが、聊か、唐突な感じがする。また、彼は市場経済を奉じ、経済活動への政府の介入を最小化する、小さな政府を目指している、とされる。確かにシルヴァ氏の選挙キャンペーンでは自由主義経済活動の推進、を掲げ、だから欧米メディアの好感を得ていた。だが、PSBは、実は政治思想面では左派に属する。その支持者たちが、彼の小さな政府路線を支持していくのだろうか。ルセフ陣営にはPSDB以上に右寄りで、且つ、現在議会第二党の地位にあるブラジル民主運動党(PMDB)が入っているし、あまり気にすることもないとは思うが。

ところで、ブラジルの条件付給付金制度(Conditional cash transfer)でボルサ・ファミリア、と呼ばれる子供手当て制度がある。6歳から15歳までの子供に予防接種と通学を義務付け、見返りに一定額を給付するものだが、世界各国に広がった。PTのルラ前政権の目玉政策と言われるが、元々ボルサ・エスコラと呼ばれ、やはりPSDBのカルドーゾ政権が始めた。1,200万家族が受益する、世界最大規模のプログラムとされる。大きな政府の代表的な政策ではなかろうか。ネヴェス氏は、これへの継続性を持たせる為の法制化をうたう。

最近ロイターがルセフ大統領とネヴェス氏の政見の違いを纏めて報じてくれた。だが、実は両氏の間の違いが、よく分からない。上記もその一つだ。ともあれ、決選投票の行方が最も見え難い選挙、とまで言われるが、その通りだろう。

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