ガルシアマルケスの時代
4月17日、ノーベル賞作家でコロンビア人のガルシアマルケスが、居住地メキシコ市で死去した。1927年生まれ(参考までに、長く1928年生まれとの説があった)で、87歳になって間もない。このブログでもhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2012/05/post-5770.htmlでお伝えしたが、ノーベル賞作家はラ米18ヵ国に6名。彼が死亡したことで、生存者は2011年の受賞者、ペルー人のバルガスリョサだけ、となった。
彼はコロンビア人だが、母国在住期間は短い。彼のクロノロジー(個人年代表)を見ると、コロンビアで最も古い歴史を誇る新聞紙、エクスペクタドル紙の特派員として、1955年にジュネーヴに行った後、3年間ヨーロッパに滞在している。この間、ソ連・東欧諸国をも訪問した。一方で、同紙はロハスピニーリャ軍政(1953-57年)により一時的休刊に追い込まれ、彼はカラカスの雑誌社に投稿しながら生活していたようだ。同紙は程なく発行が再開されている。
その後彼は結婚で帰国したが、カラカス(ベネズエラのペレス・ヒメネス独裁政権崩壊)、ハバナ(キューバ革命成就。その後暫く革命政府機関紙プレンサ・ラティーナ紙に記者として務める)滞在を経て、1961年からメキシコ市に家族と共に移り住んだ。これ以前に米国を旅したが、以後、同国は彼への入国ビザを、一時的な例外扱いを除き、何と1993年まで、危険思想を理由として、拒否するようになる。
ともあれ、彼を一躍有名にした作品、「Cien años de soledad=百年の孤独」は、1967年、メキシコ市で完成した。ほどなくバルセローナに移り住み、1975年にやはり代表作の一つ「El otoño del patriarca=族長の秋」を発表、同年メキシコ市に帰還している。1980年、コロンビアに帰国したが、ゲリラ組織「4月19日運動(M-19)」との関係を疑われ、翌81年、メキシコへの亡命を余儀なくされたものの、82年10月のノーベル賞受賞後、時のベタンクール政権に国内における身の安全を保証され、何度か帰国を繰り返せるようにはなった。
長い国外生活の理由は、私には分からない。なるほど、キューバ革命を成し遂げたフィデル・カストロ氏との親交はよく知られる。思想的にはラ米の理想は社会主義、と語った、との証言もある。だが彼自身に革命思想があったわけでも、チリ人のノーベル賞受賞者のネルーダのような共産主義者だったわけでもない。M-19への関わりがどうだったか、これも私は存じ上げないが、このゲリラ組織が立ち上げられたのは、1974年のことだ。母国居住ができない、など考え難い。
彼はカリブ沿岸のマグダレーナ県の小都市、アラカターカに生まれた。かのボリーバルが最期を迎えたサンタマルタから南に80kmのところだ。後年、カリブ沿岸の大都市、バランキーリャに移った。1947年、ボゴタの国立コロンビア大学法学部に進んだが、翌48年4月のガイタン(私のホームページのラ米のポピュリスト中のアヤ、ベラスコ・イバラ、ガイタンご参照)暗殺に始まる「ボゴタソ」で同大は閉校に追い込まれ、カルタヘナ大学に転校、結局はここを中退し、バランキーリャでヘラルド紙の記者、54年にボゴタでエル・エスペクタドル紙の仕事を得た。その後メキシコに移住するまで報道関係に携わっている。ジャーナリズム出身、とされる所以だろう。
この頃のコロンビアは、「ビオレンシア」の時代にあった。1946年5月の大統領選で与党自由党が分裂し、結果として保守党に16年ぶりに政権を奪還された。これより自由・保守両党の敵対関係が激化し、ボゴタソ後も両派の流血を呼ぶ抗争が続き、自由党がボイコットした50年5月の選挙を挟み、内乱状態にあった。1953年6月、ロハスピニーリャ将軍による無血クーデターにはその平定を目指す狙いもあったが、内乱は続いた。ジェラスカマルゴ元大統領が進めていた「国民戦線」(自由・保守両党の政権協同化)が彼の復帰で成立した1958年まで、とされる。1964年まで、とする説もある。ガルシアマルケスは、「ビオレンシア」を1960年代まで続き数十万のコロンビア人の命を奪った野蛮な内戦、と位置づけ、初期の幾つかの作品のモチーフとした。
1965年、非共産党系学生らが結成した国民抵抗軍(ELN)がゲリラ活動を開始、そして1966年、ビオレンシア時代に農村部に潜んだ自由党と共産党の急進派がコロンビア革命軍(FARC)を結成した。時代は若干後にはなるが、これにM-19も加わった。大半の南米諸国が軍政時代に入っていた中で民政を維持していたコロンビアは、ゲリラとの内戦時代にあった、と言える。ガルシアマルケスのメキシコ市、及びバルセローナ滞在時代と重なる。
1980年代、メキシコとコロンビアを往復する生活を営んでいた彼の祖国は、ゲリラ、麻薬組織、自警団(パラミリタール)の間での抗争激化を見ていた。彼が関係を持った、と疑われたM-19(80年にドミニカ共和国大使占拠事件を起こしている)は、84年に政府との停戦に合意したが、数ヶ月で破棄、85年には多数の犠牲者が出る最高裁襲撃、占拠に出た。87年にはELN、FARC共々政府との和平交渉に参加、89年11月に和平受け容れ、90年3月に武装放棄、政党化を実現した。82年にノーベル文学賞を受賞し、国民の尊敬を集めていたガルシアマルケスが、この和平プロセスに大きな役割を果たした、と言われる。
彼がシモン・ボリーバルの落日の日々を書いた「El general en su laberinto=迷宮の将軍」を著したのは1989年のことだ。91年、64歳にして、コロンビア定住を決心した。1996年、ノンフィクションの代表作、「Noticia de un secuestro=誘拐」を発表した。だがその翌97年に、メキシコ市に戻る。死去するまで同地が生活の拠点だった。
1998年からの国内非武装地帯での政府とFARC間和平交渉に立ち会ったことは知られる。ELN については、2005年末からハバナで交渉が行われていたが、これにも立ち会ったことがあるようだ。いずれも決裂に終わっている。現在ハバナで進行中のFARCとの和平対話には、彼は記憶障害をきたしており、立会いは不可能になっていた。
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コメント
Very interesting subject , appreciate it for posting . All human beings should try to learn before they die what they are running from, and to, and why. by James Thurber. bbgcfbdcbade
投稿: Pharmd143 | 2014年4月24日 (木) 22時56分