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2014年4月22日 (火)

ガルシアマルケスの時代

417日、ノーベル賞作家でコロンビア人のガルシアマルケスが、居住地メキシコ市で死去した。1927年生まれ(参考までに、長く1928年生まれとの説があった)で、87歳になって間もない。このブログでもhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2012/05/post-5770.htmlでお伝えしたが、ノーベル賞作家はラ米18ヵ国に6名。彼が死亡したことで、生存者は2011年の受賞者、ペルー人のバルガスリョサだけ、となった。 

彼はコロンビア人だが、母国在住期間は短い。彼のクロノロジー(個人年代表)を見ると、コロンビアで最も古い歴史を誇る新聞紙、エクスペクタドル紙の特派員として、1955年にジュネーヴに行った後、3年間ヨーロッパに滞在している。この間、ソ連・東欧諸国をも訪問した。一方で、同紙はロハスピニーリャ軍政(1953-57年)により一時的休刊に追い込まれ、彼はカラカスの雑誌社に投稿しながら生活していたようだ。同紙は程なく発行が再開されている。

その後彼は結婚で帰国したが、カラカス(ベネズエラのペレス・ヒメネス独裁政権崩壊)、ハバナ(キューバ革命成就。その後暫く革命政府機関紙プレンサ・ラティーナ紙に記者として務める)滞在を経て、1961年からメキシコ市に家族と共に移り住んだ。これ以前に米国を旅したが、以後、同国は彼への入国ビザを、一時的な例外扱いを除き、何と1993年まで、危険思想を理由として、拒否するようになる。

ともあれ、彼を一躍有名にした作品、「Cien años de soledad百年の孤独」は、1967年、メキシコ市で完成した。ほどなくバルセローナに移り住み、1975年にやはり代表作の一つ「El otoño del patriarca=族長の秋」を発表、同年メキシコ市に帰還している。1980年、コロンビアに帰国したが、ゲリラ組織「419日運動(M-19)」との関係を疑われ、翌81年、メキシコへの亡命を余儀なくされたものの、8210月のノーベル賞受賞後、時のベタンクール政権に国内における身の安全を保証され、何度か帰国を繰り返せるようにはなった。

長い国外生活の理由は、私には分からない。なるほど、キューバ革命を成し遂げたフィデル・カストロ氏との親交はよく知られる。思想的にはラ米の理想は社会主義、と語った、との証言もある。だが彼自身に革命思想があったわけでも、チリ人のノーベル賞受賞者のネルーダのような共産主義者だったわけでもない。M-19への関わりがどうだったか、これも私は存じ上げないが、このゲリラ組織が立ち上げられたのは、1974年のことだ。母国居住ができない、など考え難い。 

彼はカリブ沿岸のマグダレーナ県の小都市、アラカターカに生まれた。かのボリーバルが最期を迎えたサンタマルタから南に80kmのところだ。後年、カリブ沿岸の大都市、バランキーリャに移った。1947年、ボゴタの国立コロンビア大学法学部に進んだが、翌484月のガイタン(私のホームページのラ米のポピュリスト中のアヤ、ベラスコ・イバラ、ガイタンご参照)暗殺に始まる「ボゴタソ」で同大は閉校に追い込まれ、カルタヘナ大学に転校、結局はここを中退し、バランキーリャでヘラルド紙の記者、54年にボゴタでエル・エスペクタドル紙の仕事を得た。その後メキシコに移住するまで報道関係に携わっている。ジャーナリズム出身、とされる所以だろう。

この頃のコロンビアは、「ビオレンシア」の時代にあった。19465月の大統領選で与党自由党が分裂し、結果として保守党に16年ぶりに政権を奪還された。これより自由・保守両党の敵対関係が激化し、ボゴタソ後も両派の流血を呼ぶ抗争が続き、自由党がボイコットした505月の選挙を挟み、内乱状態にあった。19536月、ロハスピニーリャ将軍による無血クーデターにはその平定を目指す狙いもあったが、内乱は続いた。ジェラスカマルゴ元大統領が進めていた「国民戦線」(自由・保守両党の政権協同化)が彼の復帰で成立した1958年まで、とされる。1964年まで、とする説もある。ガルシアマルケスは、「ビオレンシア」を1960年代まで続き数十万のコロンビア人の命を奪った野蛮な内戦、と位置づけ、初期の幾つかの作品のモチーフとした。 

1965年、非共産党系学生らが結成した国民抵抗軍(ELN)がゲリラ活動を開始、そして1966年、ビオレンシア時代に農村部に潜んだ自由党と共産党の急進派がコロンビア革命軍(FARC)を結成した。時代は若干後にはなるが、これにM-19も加わった。大半の南米諸国が軍政時代に入っていた中で民政を維持していたコロンビアは、ゲリラとの内戦時代にあった、と言える。ガルシアマルケスのメキシコ市、及びバルセローナ滞在時代と重なる。

1980年代、メキシコとコロンビアを往復する生活を営んでいた彼の祖国は、ゲリラ、麻薬組織、自警団(パラミリタール)の間での抗争激化を見ていた。彼が関係を持った、と疑われたM-1980年にドミニカ共和国大使占拠事件を起こしている)は、84年に政府との停戦に合意したが、数ヶ月で破棄、85年には多数の犠牲者が出る最高裁襲撃、占拠に出た。87年にはELNFARC共々政府との和平交渉に参加、8911月に和平受け容れ、903月に武装放棄、政党化を実現した。82年にノーベル文学賞を受賞し、国民の尊敬を集めていたガルシアマルケスが、この和平プロセスに大きな役割を果たした、と言われる。

彼がシモン・ボリーバルの落日の日々を書いた「El general en su laberinto迷宮の将軍」を著したのは1989年のことだ。91年、64歳にして、コロンビア定住を決心した。1996年、ノンフィクションの代表作、「Noticia de un secuestro誘拐」を発表した。だがその翌97年に、メキシコ市に戻る。死去するまで同地が生活の拠点だった。 

1998年からの国内非武装地帯での政府とFARC間和平交渉に立ち会ったことは知られる。ELN については、2005年末からハバナで交渉が行われていたが、これにも立ち会ったことがあるようだ。いずれも決裂に終わっている。現在ハバナで進行中のFARCとの和平対話には、彼は記憶障害をきたしており、立会いは不可能になっていた。

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2014年4月18日 (金)

ベネズエラの反政権抗議活動(2)

昨日417日の朝日新聞の朝刊の国際欄に、ベネズエラの反政府抗議活動の記事が大きく載った。一触即発の様相で眼が離せないウクライナ情勢が紙面を賑わしているが、反ヤヌコヴィッチ運動が大統領追放、ロシアのクリミア併合、東部諸都市での武装分離運動、と展開する状況下で、ベネズエラの動きを報道してくれた。

ベネズエラにはウクライナとは事情が全く異なる。親欧・反ロと親ロ・反欧という、お互い歩み寄れない対立軸や、ロシアという強大国が直接介在する領土や民族の問題が、ベネズエラには無い。反政権抗議運動が本格化して既に2ヶ月以上が経過したが、41名の犠牲者や数百人の負傷者は出しているが、武力抗争には発展していない。ただ、親政権・反政権両派が憎み合い流血をもたしているのに、国際社会が動かなかったことは、私には不思議だった。マドゥーロ大統領が内政干渉を嫌ったことも一因だろう。一年前の大統領選で僅差敗退したカプリーレス氏が、何時までも彼を大統領として認めようとしないように、妥協を嫌う国民性もあろう。この点、何やらタイに似た気がしないでもない。それにしても、だ。 

410日夜から11日未明にかけて、「民主統一会議(MUD)」及びマドゥーロ政権側の両派リーダーたちとの会合が行われ、全行程がテレビ中継された。これにはブラジル、コロンビア及びエクアドルの3カ国外相と、ローマ法王庁の特使が「善意の証人」として同席した。全国規模の抗議活動(http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/03/post-f9f2.html参照)

が始まった212日の「若者の日(Día de la Juventud)」以来、MUDが、カプリーレス・ミランダ州知事以下が集まってマドゥーロ大統領以下との会合を持ったのは、実に初めてのことだ。

415日夜、同じく「善意の証人」が同席する二度目の会合が持たれた。今度は政権側からはアレアサ副大統領、MUD側からはアベレード幹事長以下であり、多忙な中で駆けつけてくれている三ヵ国外相には失礼な話ではなかろうか。だが双方が、立憲主義、暴力反対、真実委員会の設置など、幾つかのテーマで合意が形成されたことで、進展があった、との見解を示しており、外相らの評価はそれなりに高いようだ。 

国際社会の仲介を嫌うマドゥーロ大統領だが、南米諸国連合(Unasur)には助力を求めた。これが、上記ブログで述べた312日のサンティアゴでのUnasur外相申し合わせに繋がっている。彼が断交宣言したパナマが推し進めた米州機構(OAS)は、322日の常任評議会で、ベネズエラ問題の議題化を否決した。パナマは、反政権派の急先鋒と目されるマチャード議員にベネズエラ情勢を訴える機会を与えるべく、この日の評議会でパナマ代表席を譲り出席させたが、発言機会は失われた。

Unasur外相団がカラカスを訪れたのは、その3日後だ。ベネズエラを除く11カ国の内、コロンビア、エクアドル、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、ボリビア及びスリナムの7カ国外相が集まり、政界、経済界など各層の代表たちや、抗議活動の実際の主役である学生運動のリーダーとも、丸二日間掛け、話し合った。その結果、政権側・反政権側両派の対話を上記「善意の証人」同席で行うことを、マドゥーロ大統領とカプリーレス知事以下の政権側、MUDに納得させた。外相団は478日にも、チリも加えた8名で再訪問し、両派を準備会合の名目で一同に集めている。学生代表や上記マチャード議員らは、出席していない。 

410日(11日未明まで)と415日の二度の会合だけでは、先行きを云々することは難しい。MUDは抗議活動で拘束されたままの学生を含む「政治犯」釈放を要求の第一に掲げるが、政権側は暴力行為を働いた者(主として学生。一部に親政権派。警察も含まる)や煽動した者(政治家)は「政治犯」ではない、と主張、司法プロセスに委ねるべし、との立場だ。だが対話にMUD急進派や学生運動のリーダーを参加させ、いわゆる国民和解に進めるには、政権側の一定の譲歩は不可欠だろう。

44日、検察庁は212日以来、抗議活動による死亡者を39名、負傷者を608名、逮捕されたのは延べ2,285名で拘留中が192名、という報告を行った。この内の夫々8名、194名、17名(但し拘留中)は、公権力側から出ている、とした。夫々31名、414人、175名が、学生を中心とした市民、となる。その後死亡者は2名(1名は公権力側)増え、上記の41名になった。一般市民の中に、デモに反発する一団(Colectivosと呼ばれる。政権親衛隊のようなもの)がどれだけ含まれるか、の報道は無い。 

抗議活動の中身は一部上記のブログでもお伝えした。この国の公権力で警察を言う場合、国軍の一翼を担う「国家警備隊(GNB)」、内務・法務・平和省傘下の「国家警察(PNB)」及び、地方自治体に帰属する地方警察がある。夫々出番は異なる。Colectivosが妨害することもある。これを黙認した、彼らは火器で武装していた、として、デモ隊がGNBPNBを非難する場面も報じられてきた。デモ隊が道路封鎖のためのバリケードを築けば、公権力側これを撤去しようと動く。その際に投石や棒などを使った殴り合いが起きる。他の場でも、同じ光景は繰り広げられる。火炎瓶が投げられ、公権力側は催涙弾などで応じる。治安部隊以外による火器使用も目撃されている。デモ隊の暴発を(地方警察を動かさず)黙認したとして、二人の自治体首長が解任され、拘留中だ。

抗議活動は、もとは西部タチラ州サンクリストバルでの女子大生への性犯罪を切っ掛けに、24日、高犯罪への抗議から始まり、212日以降、全国規模に広がった。主役は各地の大学生、いわば、恵まれた中流階級の、社会人にもなっていない人たちで、彼らが高犯罪に加え、高インフレ、物資不足に抗議する一方で、貧困層がかかる抗議活動に反発するのは、何となく歪に感じる。 

国民和解に向けた対話は動き出したが、学生らは抗議デモを続けている。彼らも、反政権派の政治家たちも、対話を拒否する急先鋒の面々を含め、平和なデモであるべし、と呼びかける。政権側も、平和的デモを合憲性の観点から、容認する。両派の対話が順調に進み、抗議活動で当初提起された問題解決への糸口を両派一緒に掴み、具体的対応策が実行に移されるよう、祈るばかりだ。Unasurの役割に期待したい。

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2014年4月 8日 (火)

初めてのPAC政権誕生へ-コスタリカ

46日、コスタリカで12年ぶりの大統領決選投票*が行われ、「市民行動党(PAC)」のルイス・ソリス候補(55歳)が、得票率78%で快勝した。22日の総選挙での大統領選第一回目投票では、同候補は第一位でも得票率は30.6%で、二位の与党「国民解放党(PLN)」のアラヤ(56歳)候補の29.7%と文字通りの僅差だったので、この数字には意外感が持たれよう。

第一回目投票から1ヶ月経った35日、アラヤ氏は、世論調査などから敗北が確実視されているとして、決選投票のための選挙戦脱退を表明した。ただ法律上、それでも決選投票は行われる。低投票率が予想された。ソリス氏は、決選投票での絶対得票数で、コスタリカ大統領選挙史上、前人未到の100万票を自らに課した、と報じられている。有権者数の3分の1に相当する。理由は、政権の正統性確保のためだ。定数57議席の立法議会(国会)では、僅か13議席、一方ではPLN18議席の議会第一党を占める。政権運営に苦労することは目に見えている。絶対得票で国民支持率の高さを訴えて行く、との戦略だ。蓋を開けると、投票率は57%で、確かに22日の68%を下回ったものの、決して正統性云々されるような低さではなかった。それでも彼の得票数は、130万票だった。有権者の42%が彼に投票したことになる。

(*http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/02/post-5c18.htmlの記述で「決選投票は、平和憲法下の1948年以来、経験して来なかった」は誤りで、2002年選挙でも決選投票は行われています。お詫びして訂正致します) 

ルイス・ソリス次期大統領は、学生時代の1977年に現与党PLNに加わった。英語版Wikipediaには、中米危機の際、1987年(つまり弱冠29歳の年)の「エスキプラスII」(私のホームページ中軍政時代とゲリラ戦争ゲリラとの和平を参照願いたい)にも関わり、アリアス大統領(当時)がノーベル平和賞を受賞するのに貢献した、とある。2002年から1年強、野党になっていたPLNの事務局長も務めたが、2005年に離党している。スペイン語版Wikipediaとも読み合わせたが、PLNでの活動状況は、私にはよく分からない。政治家と言うより、政治学者、歴史家として知られた人だったようだ。 

200012月に、当時46歳のオットン・ソリス氏が、PACと言う新党を結成した。こちらのソリス氏も元々PLNの一員で、アリアス第一次政権(1986-90年)で企画・経済相を務めている。1994年、同党から国会議員にもなった。だが、本来社会民主主義を奉じていたPLNの右傾化に反発するようになり、且つ同党と「社会キリスト教連合党(PUSC)」の二大政党体制への疑問が高まる。汚職も見逃せなかった。これがPLNの同志と共に踏み切った新党立ち上げの理由、とされる。そして、2002年の大統領選に出馬し26%の得票で第三位につけ、党は議会で定数57議席中14を獲得した。2006年にも出馬し、以前仕えたアリアス元大統領に、僅か1%ポイント差の39.8%で第二位につけ、党は議席数を17に伸ばした。

PUSCは、同党の元大統領2名が汚職事件で懲役刑を受け、2006年選挙では議席数が一桁にまで凋落した。これがPACの躍進に繋がった、と見て良い。オットン・ソリス氏らが目指す二大政党体制の終焉は、ここに実現した筈だ。PACは、次には政権奪取に向かう。このような状況下で、PLNのアリアス第二次政権(2006-10年)下にあった2008年、ルイス・ソリス氏もPACに加わった。 

2010年、オットン・ソリス氏は、大統領への三度目の挑戦に臨んだ。結果は、PLNチンチーヤ候補に次ぐ第二位に終わり、しかも得票率は25%に後退、党も11議席に減少した。彼は選挙後、政界引退表明までしている(ただ短期間で復帰した)。

ルイス・ソリス氏は、2010年の大統領選の予備選にも、議員選挙にも出ていない。その後も党内でいかなる活動を行ったのか、私には分からないが、20137月に行われた党内予備選に出馬、元国会議長のメンドーサ議員、及び党首のキャンベル元議員を相手に勝利した。ただ僅差だった。22日の総選挙前、彼の存在感は低かった。そんな彼が、長年サンホセ市長を務めてきていたアラヤ氏を、僅差とは言え破った。ラテンアメリカでは首都の市長と言えば、政界の大物だ。モンヘ元大統領(在任1982-86年)の甥で毛並みも良い。

アラヤ氏は、始めて出馬したPLNの予備選で、2010年はチンチーヤ現大統領に破れはしたが41%の得票だった。今回は圧倒的な強さを見せ付け、強力な候補者が次々に予備選を辞退している。総選挙前の世論調査では本命中の本命だった。結果に、政界、メディア界は驚愕した。それ以上に、アラヤ氏が受けたショックは大きかったのだろう。 

ともあれ初めてのPAC政権が誕生する。創設者のオットン・ソリス氏は、立法議員として政治活動に復帰する。PACは、少数与党で、政権運営には他党との連立、若しくは協力が不可避だ。22日に17%の得票で第三位につけた36歳のビジャルタ議員を擁する「拡大戦線(FA)」は、国会でも9議席を獲得し、一気に議会第三党に躍り出た。こことの連立が囁かれる。

コスタリカは、中米で唯一、国民の大半がヨーロッパ系人種(白人)だ。民主主義がラ米では最も早く確立した国、とも言われる。中米の中では治安はずば抜けて良好だ。平和憲法を持つことでは、日本人として親近感の湧く国でもある。中米統合の面では、中米議会にも司法裁判所にも入らず、一方ではメキシコ、コロンビア、ペルー、チリの太平洋同盟に加盟することに熱心だ。現在はラテンアメリカ・カリブ共同体(Celac)の持ち回り議長国を務める。内政面では近年社会格差が急速に広がった、との指摘がある。これらを含め、ルイス・ソリス次期政権はどう向き合って行くか、注視したい。

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