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2014年3月23日 (日)

ボゴタ市長の解任

319日、サントス大統領がペトロウレゴ(以下、ペトロ)・ボゴタ市長を解任し、パルド労相を市長代行に指名した。3ヶ月前、行政監察庁が罷免と15年間の公職追放処分を発表、これを大統領が追認したものだ。ペトロ氏は41日まで引継ぎに当たる、と言う。パルド氏の代行期間は選挙を経て正式な後任者が就任するまで、となるが、選挙日程は、現時点では未定だ。

コロンビアでは、公職にある人たちに対する監察に当たる行政監察庁に、懲罰を科す権限が与えられている。対象が官僚に留まらず、選挙で選ばれた県知事や市長にまで及ぶ。1991年憲法に定められている。実は、ペトロ氏の前任者も罷免された。公共事業スキャンダルを理由とする。ペトロ市長の解任理由は、その一年前の201212月、従来民間業者の仕事だったゴミ収集事業を、利水公団に委ね、結果的に元に戻したが、その間に市中に溜まった大量のゴミに起因する社会的混乱と衛生上の懸念を惹き起こしたことだ。翌月本年1月、クンディナマルカ(ボゴタが所在する県)地方裁判所が同請求の棚上げ判決を出し、決着は持ち越された。

この間、ペトロ市長は罷免が不当、として、支持者を動員した抗議デモや、国際世論への訴えを進めた。だが、318日、高等司法評議会が上記地方裁判所判決を棄却、結論を大統領の政治判断に委ねた。彼の訴えを受けていた汎米人権委員会(在ワシントン)は、民選首長の罷免には、司法による有罪判決か、当該住民によるリコールが必要、として、サントス大統領には慎重な対応を求めたが、拒絶されたことになる。 

ペトロ氏は、ゲリラ出身の政治家、と言われる。事実、1718歳の頃、左翼ゲリラの「4月19日運動」(M-19)の活動家になった。25歳だった198510月、武器の不法保持を理由に拘束され、懲役2年の判決を受け、873月まで服役した。ゲリラ兵士としての活動がどの程度のものだったか、この経歴だけでは私には分からない。釈放後、M-19に復帰した。1年半後の889月、当時のバルコ政権(1986-90)はゲリラとの和平イニシアティヴを発表、M-19がこれに乗る形で、和平に向け動き出した。翌8910月に合意に至り、903月に武装放棄、「M-19民主同盟(AD-M19」で政党登録を果たしている。彼が26歳から29歳までのことだ。

199112月、そのAD-M19から31歳で、初めて下院議員になった。さらに、98年から二期8年間、下院議員、2006年から10年まで上院議員を務めた。同党はその後他の左派政党と合流し党名を変えてきており、2002年に「独立民主の極」(PDI)、2006年に「民主代替の極」(PDA)となる。いずれも、ウリベ政権第一(2002-06)、二期(2006-10)の選挙の直前だ。彼の政権時代、ペトロ議員がパラミリタリー・スキャンダルを追及したことは有名だ。大統領はPDAの議員を「市民の服装をしたテロリスト」と呼んだ、とも言われる。 

2010年5月には、PDAから大統領選に出馬し、第四位に終わった。ただ、小党にしては得票率が9%、善戦だったと言えるかも知れない。翌1110月、ボゴタ市長選に臨み、当選した。上述の罷免された前任者、モレノロハス氏、さらにその前のガルソン氏もPDAから出ており(但し在任中「緑の党」に鞍替え)、その意味で三代続けての同党からのボゴタ市長ともいえるが、ペトロ氏は同党の正式指名を受けず「革新運動」候補としての立候補だった。因みにこの時のPDAの正式候補者は、得票率は僅か1%台に過ぎず、惨敗を喫した。なお、革新運動は、ペトロ氏解任後、消滅するようだ。

本年5月の大統領選には、PDAからはクララ・ロペス党首(62歳)が出馬している。最近のギャラップ調査によれば、サントス現大統領が32.5%、次点がいわゆるウリベ党のスルアガ元蔵相の15.6%、第三位が「緑の同盟」のペニャロサ元ボゴタ市長の11.3%となっており、彼女は保守党候補の元国防相、マルタ・ラミレス前上院議員と89%台で第四、五位を争う位置にある。思うに、PDAは退勢にあるのではなかろうか。 

現在、ハバナで政府との和平対話を続けているコロンビア革命軍(FARCにとり、PDAは、実際にはFARCを批判していても、和平後のモデルでもある。その勢いが殺がれる状況は、歓迎できまい。特にペトロ氏はゲリラ上がりだ。行政監察庁が彼を解任した時、かなり動揺した旨が国際メディアにより伝わってきた。その僅か一ヶ月前に、和平対話5項目の第二番目、政治参加について、漸く合意を見たばかりだった(FARCの正統性を問う国民投票の方法は継続協議)。今回のサントス大統領によるペトロ氏解任の追認は、和平対話に、非常に否定的なインパクトを与える忌むべき政治決着、と非難する。

201211月に始まった和平対話の第22回目がこの320日に始まったところだ。第一番目の農地改革については135月に合意した(ブログhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2013/05/farc-671e.htmlで参照)。政治参加合意後、第三番目の麻薬問題について協議を始めたが、遅々として進まない。大体、和平対話期間も、政府側に休戦の意志は無く、武力抗争は続き、双方に犠牲者が出ている。それでも対話を通じ、相互信頼関係が築かれて来た。今回の大統領の決定は、それを覆す懸念を孕むものではなかろうか。

サントス大統領の5月の大統領選に臨むに当たっては、半世紀も続いた内戦の当事者たるFARCとの和平対話は、重要な材料である。今年のクリスマスまでには合意形成を実現させたい、と公言している。上記の通り、世論調査では第二位の候補者に大差を付ける。去る39日の議会選の結果は、今日に至るまでコロンビアの選挙当局のホームページには出ていないが、Wikipedia英語版で見る限り、和平対話に反対する勢力は、議会では少数派、と言える。だが、FARC自身が、彼の選挙勝利への戦略に良い様に利用されているだけだ、という被害者意識に至れば、白紙に戻ってしまう恐れが強まる。 

ペトロ氏は、憲法改正に向けたゼネストを呼び掛け始めた。確かに一行政機関が民選首長を解任できること自体、汎米人権委員会の指摘を待つまでも無く、異様ではある。パルド市長代行の市庁舎への「入城」に、ペトロ支持者らは抗議する。注視していきたい。

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2014年3月14日 (金)

僅差の敗北がもたらすもの-エルサルバドル

39日、ラテンアメリカの二ヶ国で二つの国政選挙が行われた。エルサルバドル大統領選の決選投票とコロンビアの議会選だ。 

現地時間の313日未明、エルサルバドル選挙最高裁判所(TSE)が決選投票の結果、「ファラブンドマルティ国民戦線(FMLN)」のサンチェスセレン候補勝利を宣告した。TSEのホームページにも、決選投票の最終結果として、下記が明記されている。

l サンチェスセレン候補が50.11%1,495,815

l 国民共和同盟(ARENA)」キハーノ候補が49.89%1,489,451票、

その差6,364票、率にして0.22%だ。事前の世論調査によれば、前者が10ポイントを上回る差をつけての楽勝の筈だったのに、20134月のベネズエラhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2013/04/post-5413.htmlどころではない凄まじいばかりの僅差だ。決選投票のキャンペーン期間中、先日お伝えしたベネズエラの抗議活動が繰り広げられていた。キハーノ候補にとり、サンチェスセレン候補への攻撃に格好の材料だ。前回お伝えしたhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2014/02/post-5c18.htmlを併読願いたいが、サカ元大統領支持層の多くが、サンチェスセレン候補から離れたことは明らかだろう。

僅差の敗北を選挙不正の結果、と決め付け、抗議行動や、外国や国際機関にも訴え、選挙無効を執拗に要求し続けたベネズエラに加え、ホンジュラスhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2013/11/post-bad8.htmlでも似た展開が見られた。ただ後者は短期間に終わった。 

TSEによる速報値段階でも約6,600票差でキハーノ候補が負けていた。彼はこれを認めず、一票ごとの再集計を最高選挙裁判所に求めたが、TSEは彼の要求を受け容れなかった。そもそも、あまりの僅差であれば、TSEは手作業による再集計を行う。この作業には、キハーノ側代表も参加した。作業中、支持者らが再集計会場となったホテルを取り囲み、圧力もかけたようだ。だが、上記最終結果が出た。サンチェスセラン候補の勝利が、選挙制度上、確定した。キハーノ候補側は、それでも選挙の無効を訴え、再選挙を唱える。ただ、大規模街頭デモは一般市民の顰蹙を買う。上記の再集計会場包囲は、短時間で解散した。今後の展開を見て行きたいが、国連及び米州機構(OAS)からの選挙監視団も、エルサルバドル検察及び国防軍も、TSEの最終結果を尊重する旨言明しており、キハーノ陣営による挽回は先ず無いと見てよかろう。 

サンチェスセレン氏は元教師で、19704月に結成されたファラブンドマルティ人民解放軍(FPL。ホームページの軍政時代とゲリラ戦争中のゲリラ戦争をご参照)に参加した。FPLが他左翼ゲリラと合流しFMLNとなる198010月以前の話だ。エルサルバドル内戦は1980年から92年までとされるようだが、ホンジュラスとのいわゆる「サッカー戦争(ラ米の戦争と軍部中の二十世紀の国家間戦争をご参照)」の結果、経済疲弊と社会不安の中でゲリラ活動が頻発し、多くの犠牲者が出た。彼はこの頃から活動しており、筋金入りのゲリラ戦士と言えるかも知れない。FMLNではレオネル・ゴンサレスという別称を持ち、1984年、総司令官を表すComandante Generalとなり、199092年の政府との和平交渉を経て武装放棄に至る過程で強い指導力を発揮したことが知られる。

キハーノ氏は、ARENA創設者のドブィッソン(1944-92)大佐を尊敬している、と言われる。1993年、国連エルサルバドル真実委員会は、803月に起きたロメロ大司教暗殺事件に関し、殺害への関与を断定した人だ。問題は、国家や軍の支配下から離れた形で、ゲリラやその関係者の疑いのある住民を殺害する「死の部隊」の司令塔のような存在だった、とされることだ。標的は左翼ゲリラだった。その中には、当然、同年輩のレオネル・ゴンサレス司令官(サンチェスセレン)も含まれたことだろう。

  

キハーノ氏及び右派勢力は、エルサルバドルでベネズエラ政府の利益を代表し、二十一世紀の社会主義を植えつけようとしている、と攻撃してきた。TSEの勝利者宣告を受けて、記者団の前に姿を現したサンチェスセレン氏は、チャベスを目指すか、と訊かれ、いや、ムヒカ・ウルグアイ大統領だ、と応え、理由として、ムヒカ路線が開発と社会投資を両輪としている、エルサルバドルがベネズエラになれる筈も無い、と述べた。また、過去の政権下で拒まれた国民の権利の保護、雇用の増大、犯罪に対する情報を活用した全力の戦い、国民生活を良い方向に深める真の好転、を約束する、とした。

FMLN政権としては、これで連続10年間が確定する。初代の政権はカリスマジャーナリストのフネス大統領が担っているが、サンチェスセレンに代わって、何がどう変わるのか、連立政権はこれまで通り不可避だが、先ずはここから見ていきたい。 

同じ39には、コロンビアで議会選挙が行われた。サントス大統領支持の国民連合(「国民社会統合党、la U’」、「自由党」及び「急進改革、Cambio Radical」で構成)が下院でこそ過半数を確保したが、上院では半数に12議席届いていない模様だ。ハバナでコロンビア革命軍(FARC)との和平対話を進めているサントス政権に批判的なウリベ前大統領が立ち上げた「民主センター」が、上院でいきなり保守党と共に第二党に躍り出た(但し、下院では第五党に留まった)。FARCとの対話に立会い国として関わるベネズエラの現状が、かなり奏功したように思える。ともあれ、FARCとの和平対話を止められるような勢力にはなっていない。

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2014年3月13日 (木)

ベネズエラの反政権抗議活動

一ヶ月前の212日は、ベネズエラの「若者の日(Día de la Juventud)」に当たる。1814年のこの日、修道院などの学生が加わった部隊が、強力な王党軍に勝利した「ビクトリアの戦い」に因んだ。その200周年を祝うデモが各地で行われたが、一方、反政権派の学生らも38の都市で、抗議デモに出た。22日にマチャード議員やロペス元チャカオ市長ら反政権派政治家数名が呼びかけたのは、治安(殺人率が公式発表でも南米で最悪の10万人に対し39人)、インフレ(今年1月時点で年率56%)、物資不足に抗議するデモだった。

だが、各地で親政権、反政権双方の衝突、発砲や、反政権側によるテレビ局、首都交通バス部門、或いは幾つかの政府機関襲撃などの幾つかの暴力事件に発展した。犠牲者(後日死亡した人を加え)3名も出た。大勢が逮捕された。反政権側の過激化を受け、マドゥーロ大統領は「右翼でファシストのクーデター」として、激しく非難した。反政権側による暴力事件への関与を理由に、上記ロペス氏に逮捕命令が出された。同氏は18日に支持者らに付き添われる形で国家警察に出頭し、逮捕された。

逮捕者が出れば、抗議の対象に釈放要求が加わる。スペイン語Wikipediaによれば、反政権派がカストロチャベス主義(«castrochavismo»)と呼ぶ政治経済モデルの変革、及びマドゥーロ大統領及び閣僚らの辞任も叫ばれているようだ。抗議活動は一ヶ月経っても、まだ続いている。道路封鎖に加え、首都交通のバスや石油公団(PDVSA)のトラックが焼かれたり、テレビ局を数日間に亘って力ずくで包囲したり、警官隊に石礫で攻撃したりで、反政権派による暴力行為も繰り返され、警官隊が催涙弾で押し返す状況が報じられる。銃器を携行する自警団グループなどとの衝突も多発しているようだ。累積犠牲者数は、312日付けロイター電の集計で、25名となった。犠牲者や逮捕された人には自警団メンバーら親政権派や、警官らも含まれる。 

今年227日は、チャベス中佐率いる空挺部隊が反乱を起こした遠因ともなる「カラカソ(Caracazo)」の25周年記念日でもある。1989年のこの日、公共交通料金引き上げへの怒りで、カラカスの一部市民が大暴動を起こした。数千軒とも言われる商店で、暴徒による略奪行為があった。取締りに当たらねばならぬ筈の警官は傍観した、とされ、当時のペレス第二次政権は軍隊を動員し、犠牲者300名の流血を見て、漸くこれを鎮圧した。かかる経験が未だ鮮明に記憶に残るこの国では、市民による抗議が大暴動に発展することを、政治家なら誰でも憂慮する。

22日、「平和のため」集会が親政権側、反政権側双方で開催された。前者でマドゥーロ大統領は「祖国の裏切り者、ファシストからベネズエラを守る」としつつ、支持者でも彼らに対し武器を使用した者を監獄に送った」と釘を刺した。後者では、反政権側の政治家で最高指導者と目されるカプリーレス・ミランダ州知事が、「ベネズエラの将来を求めて街頭に出よう」と訴えた。昨年4月の大統領選で得票率僅か1.5%の僅差でマドゥーロ現大統領に敗退したカプリーレス知事だが、彼を推したてた野党連合の「民主統一会議(MUD)」本部ともども、抗議活動はあくまでも平和的に行うべし、として、暴力行為に走る活動家を繰り返したしなめている。実は、ロペス氏も平和的行動を呼び掛けていた。カプリーレス氏は、治安の悪さや物資不足を解決できないマドゥーロ政権は、いずれ退場を余儀なくされる、暴力で抗議すれば、結局は政権側に居座りの大義名分を与えることになる、と見る。

 

 

対外的には、マドゥーロ政権は216日、米国大使館の3名を反体制派への関与を理由に国外追放(米国も相互主義で3名のベネズエラ外交官を追放)した。ただ、25日に、2010年以来空席の駐米大使を指名、対米関係好転の姿勢を一応は示している。またハウワ外相を227日から3月始めにかけ、南米南部諸国とジュネーヴの国連人権委員会に派遣し、政権側からみたベネズエラ情勢の説明に当たり、理解を求めている。

ラ米社会では、上記ロペス氏逮捕の218日、コロンビアのサントス大統領が、ハバナでコロンビア革命軍(FARC)との和平対話に協力するベネズエラに謝意を述べた上で、当事者双方の対話を呼び掛けた。225日、パナマのマルティネッリ大統領がOAS(米州機構)に対し、ベネズエラ情勢に関わる外相会合を要請した。前者では、マドゥーロ大統領は、ベネズエラ国内問題に口を挟むな、と応じたが、後者については35日のチャベス前大統領死後1周年式典の場で、OASによる内政干渉を諮った、として、外交断絶を宣言した。 

ラ米社会は、反政権派による暴力行為を「国を不安定化させるもの」と非難する左派政権諸国と、政権側の公権力行使への懸念を表明する右派政権諸国に分かれるようだが、いずれも双方の対話を促してきた。実際にはマドゥーロ大統領の呼び掛けで、既に226日と28日に、国民平和会議が大統領官邸で持たれている。宗教界、経済界の夫々の代表、政権側及び反政府側リーダーたち、アーティストらが出席した。だが、カプリーレス氏とMUDは、成果に乏しい行事、として、欠席を決めている。 

 

311日、チリにバチェレ第二次政権が発足した。太平洋岸のバルパライソで行われた彼女の就任式には、太平洋への出口問題で険悪な関係にあるボリビアのモラレス大統領を含む、南米諸国の大統領が出揃った。遠いメキシコからも大統領が出席し、彼女の存在感の大きさを印象付ける。マドゥーロ大統領も出席を望んでいたが欠席した。この3日前、ベネズエラでチリ人女性が反政権派により道路に置かれた障害物を除去しようとしていたところを銃撃され、翌日亡くなった。チリ大統領に会わせる顔が無い、と思ったのか。反政権派による犯行と思われるが、延々と続く抗議活動は、中身がどうあれ、政権の指導力の低さを示している。

 

12日、そのチリのサンティアゴに、就任式に代理出席したハウワ外相を含む南米諸国連合(Unasur)諸国の外相が集い、ベネズエラの「平和な共存社会(Convivencia pacífica)」の回復への諮問委員会を設ける決議を行った。第一回目の会合は、4月始めに行われる見込みだ。

 

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