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2014年2月25日 (火)

チャポ・グスマンの逮捕-メキシコ

222日、メキシコ二大麻薬組織の一つ、シナロアカルテルのトップ、通称ホアキン・「チャポ」・グスマン(56歳)が、メキシコ海兵隊と陸軍との共同作戦により、無血で逮捕された。この2日前に、北米自由貿易協定(NAFTA)加盟国サミットが同国トルカで開催されていた。ロイター電によれば、数日前彼を取り逃がしていたそうだ。本当は、ペーニャニエト大統領としては、オバマ米大統領到着前に彼を確保していたかったところだろう。米政府は即座に、メキシコ国民にとり歴史的成果、としての歓迎を表明した。彼にはメキシコ政府からの3千万ペソ(2.2百万㌦相当)に加え、米政府からも5百万㌦の懸賞金が掛けられていた。

 http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2012/10/post-5054.htmを書いてから、2年と4ヶ月経った。大麻薬組織のもう一つ、セタスのトップ、ラスカーノ殺害後、彼を引き継いだオマルトレビーニョも翌20137月に逮捕され、リーダーをその弟に引き継いだとされる。兄同様、上記ブログで述べたメキシコ政府による懸賞金3千万ペソが掛かった麻薬犯罪者24名の一人でもある。セタスは、私には、このところ大量殺人や州政府及び警察汚職への関与などのニュースが見えなくなっているが、健在のようだ。ただこれはシナロアについても言える。 

 19894月、巨大な麻薬密売組織「グァダハラカルテル」の頭目(カポ)で当時49歳のフェリクスガヤルド、通称El Padrino(英語のGodfather、すなわち名付け親の意)が4年前の米国麻薬取締局(DEA)エージェント殺害容疑で逮捕された。同カルテルの創設メンバーだった幹部も既に数名逮捕されていた。彼の逮捕を機にカルテルは;

l バハカリフォルニア州を主たる縄張りとする「ティフアナカルテル」(以下、ティフアナ)

l チワワ州を中心とした縄張りの「フアレスカルテル」(同、フアレス)

l シナロア州中心の縄張りで「シナロアカルテル」(同、シナロア)

などに分かれた。シナロアは、当時弱冠32歳のグスマンらが得た。ほどなくしてティフアナとの縄張り争いが起こり、襲撃を回避すべく、彼は1993年5月にグァテマラに避難したが、同国軍によって捕縛、送還され、帰国後209ヶ月の懲役刑を受けている。

 メキシコでそれまで72年間政権を担ってきた「制度的革命党(PRI)」から「国民行動党(PAN)」に政権交代して間もない20011月、脱走した。これには多くの刑務官が関わった、と言われる。彼が獄中にある間も、シアロアは縄張りを拡大し、事業を伸ばした、とされる。彼は、収監されているとは言え特別待遇だった、とか、獄中から部下に司令を飛ばしていた、などと言う話もある。

 グスマンの脱走後の足跡については、よく分からない。セタスの母体「ガルフカルテル」のカポが20033月に逮捕されると、シナロアがメキシコ東北部でガルフに攻撃を仕掛け、その武装勢力だったセタスとの抗争関係に入った。これへの彼の関与も分からない。だが、彼への目撃情報も時おり出ていたようで、2005年、米国政府による懸賞金が発表されたのは、彼の所業や所在に関する何らかの情報があったためだろう。 

 200612月に政権をスタートさせたPANの二代目となるカルデロン大統領は、麻薬組織の制圧に軍部及び連邦警察の動員を図った。

l 200612月、就任早々、本人の出身地で「ファミリア・ミチョアカーナ」(以下ミチョアカーナ)が縄張りとするミチョアカン州

l 2007年1月、ティフアナのバハカリフォルニア州

l 2008年1月、ガルフ及びセタスに対するヌエボレオン、タマウリパス両州

l 3月、フアレスに対するチワワ州

l 5月、シナロア州

などに展開している。この間の200710月、米国がメキシコ、中米、ドミニカ共和国及びハイチに総額16億㌦の麻薬戦争支援を行う、と言う「メリダ計画」が発表され、20086月に発効した。メキシコへは11億ドル

が当てられる内容だが、小型偵察機やヘリコプター、監視ソフトウェアやサービス要員派遣から成る。

 上記懸賞金3千万ペソ対象者の24名を指名したのは、20093月のことだ。今日まで15名が逮捕、乃至は殺害されているので、それなりに成果があったとは言えよう。一方でいわゆる麻薬戦争が激化した。カルテル間での報復が報復を呼ぶ。カルデロン政権下の6年間で、巻き添えの一般国民を含む5万とも6万とも言われる犠牲者は、当局との衝突によるものばかりではない。201212月、政権はPRIが復帰しペーニャニエト大統領に代わった。グスマン逮捕を伝えるロイター電は、その犠牲者数を何と85千人、としている。万一にもこんな数字が正しいとすれば、眼を覆いたくなる惨状だ。当局の力による制圧作戦が多大な犠牲を伴うもの、との見方が、幾つかのラ米諸国指導者たちにも広がっている。ウルグアイのマイフアナ合法化は、その流れで見るべきだろう。 

 この間、グスマンはどうしていたか。上記懸賞金3千万ペソのリストにシナロアは彼を含め5名が入っており、彼の逮捕以前に1名殺害、1名逮捕されていた。当局による制圧作戦で、シナロアは弱体化したのだろうか。彼の家族や親戚にも逮捕者が何人か出ている。一方で、敵対するティフアナやフアレスの勢いは、確かに小さくなったようだ。ならば、逆にシナロアの縄張りは広がっているのかも知れない。そんな中で、彼は他2名同様、逃亡を続け得た。

 グスマンの逮捕で、イスマイル・サンバダ(66歳)がシナロアのカポになる、と言われる。もともとシナロアの創設者の一人だ。彼も3千万ペソの対象者の一人だし、家族や縁者が捕まっているが、彼本人は逮捕されたことが無い。シナロアに限らず、メキシコの麻薬組織は、米国と言う一大市場を目前にして、また、武器の密輸が続く限り、消滅することなどあるいまい。

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2014年2月 6日 (木)

二つの選挙-コスタリカとエルサルバドル(2)

エルサルバドルのここ5回の大統領選の立候補者数推移は;

7名(1994)→7名(1999)→4名(2004)→2名(2009)→3名(今回)

で、近年随分減っている。1994年には決戦投票も行われたほどだが、半世紀前に創設された、いわば伝統的政党の「キリスト教民主党(PDC)」と「国民和解党(PCN)」が、2009年から候補者を出さなくなった。

コスタリカの1994年からここ6回の推移をみると;

7名(1994)→12名(1998)→12名(2002)→8名(2006)→9名(2010)→10名(今回)でありあまり変わらない。決選投票は、平和憲法下の1948年以来、経験して来なかった。政権党は「国民解放党(PLN)」→「社会キリスト教連合党(PUSC)」→PUSC(二期連続)→PLNPLN(二期連続)と変遷した。 

今回のエルサルバドル大統領選では、大統領経験者の出馬が一つの特徴、と言える。2010年に創設され12年議会選で議会第三党になった「国民統合のための大同盟(GANA)」が、伝統政党のPDC及びPCNを加えて組成した「統一運動(Movimiento Unidad)」の候補が、サカ前大統領(在任2004-09)だ。名実共に民政移管して30年間、大統領になった6人の内、初代のナポレオン・ドゥアルテ(1925-90。在任1984-89)を除く5人の大統領は、全て40代、若くして任期満了を迎え、再出馬が無かったことの方が奇妙ではなかろうか。再選そのものが禁止、との憲法解釈があったのかも知れない。

サカ候補は一期おいての再出馬ながら、まだ49歳、決選投票に進むFMLNのサンチェスセレス(69歳)、ARENAのキハーノ(67歳)両候補の年齢と比べて、飛び抜けて若い。だが得票率は11%で、圧倒的最下位に終わった。彼はもともとARENAから大統領になった人だ。だが大統領任期満了の2009年、党から追放された。この年の大統領選は、上記の通り、世界的にも珍しい2候補だけの一騎打ちで、ARENA20年ぶりの敗北を喫した。その候補に不利な動きを行ったグループの背後にいた、との理由から、とされる。そのグループがGANAを立ち上げ、フネスFMLN政権と協力関係を持った。

だが、今回FMLN候補とは別途、大統領選に出馬した。お陰で、サンチェスセレス候補は勝利に僅か1ポイント足りないだけで、1994年選挙以来、20年ぶりの決選投票に進まねばならなくなった。同年第一位だったカルデロン候補(ARENA)の得票率も49%だった。

キハーノ候補は、1994年から5期続けて立法議員を務め、2009年に首都エルサルバドル市長に転進、2013年8月まで務めた。実力政治家と言えよう。これに対しサンチェスセレン氏の政治歴は2000年に連邦議員、2009年からは副大統領を務めている。彼はFMLN前身時代からゲリラ活動に携わり、1990年から始まった政府との和平交渉で代表団を率いて92年和平に繋げた実績を持つ。彼がキハーノ氏を破れば、左翼ゲリラ出身の大統領がこの国では初めて、民選大統領制のラテンアメリカ十八カ国でもオルテガ(ニカラグア)、ムヒカ(ウルグアイ)両氏に次ぐ3人目の大統領が誕生する(メディアによってはルセフ・ブラジル大統領もこのカテゴリーに挙げているが、私は違うと思う)。 

今回のコスタリカ大統領選で特徴的なのは、上記の通り、候補者の誰もが勝利に必要な40%以上の得票率を挙げられなかった、という点ではなかろうか。大体がPLN対もう一つの有力政党(1986年以降はPUSC)乃至は政党連合候補の一騎打ちの様相を見せてきたためか、第一位の得票が40%を下回ったことは、一度も無い。決選投票は、エルサルバドルの20年ぶりどころではない。

今回PLN候補となったアラヤモンヘ(56歳)氏は、若くして首都のサンホセ市長になり22年務め、政治家としての知名度も実績も抜群、とされる。事前の世論調査では常に第一位を守っていた。蓋を開けると「市民行動党(PAC)」)候補のルイス・ソリス(55歳)氏に、僅差とは言え第一位を取られていた。彼には、同じPLN政権下で外相や大使を務めた経験こそあれ、議員や自治体首長など政治活動家としての実績が無い。2005年にはPACに鞍替えした人だ。事前の世論調査では第四位に過ぎなかった。これがコスタリカ内外の専門家を驚かせている。なおPACと言えば、2006年にPLN候補でノーベル平和賞受賞者、且つ元大統領の41%に僅か1ポイント差で敗退したオットン・ソリス氏を思い浮かべるが、姻戚関係がどうか、私には分からない。

第三位につけたのは、「拡大戦線(FA)」の、弱冠36歳で、環境保護運動家として知られるビジャルタ候補で、得票率は17%だった。実は、世論調査ではトップのアラヤモンヘ氏を僅差で追っていた。FA自体は2004年、左派勢力によって結成され、2006年以降今日まで、定数57議席の立法議会で1議席という弱小政党だ。その唯一の議員がビジャルタ氏である。第四位は11%の得票を挙げた、今回が連続四度目の大統領選出馬となる「自由運動(ML)」のゲバラ(53歳)候補だ。前回は第三位で、21%を獲得していた。ML自体も議会進出した1998年時は1議席しか確保できなかった。彼が初立候補した2002年には6議席を獲得、その後10議席にまで増やしている。

コスタリカの立法議会選挙で各党の最終議席配分は、同国の最高選挙裁判所のホームページを見ているが、現地の25日段階でははっきりしない。Wikipediaスペイン語版では、PLN18議席、以下同)、PAC14)、FA9)、PUSC8)、ML3)の順番となっている。PUSCの大統領候補の得票率は僅か6%で第五位だった。

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2014年2月 3日 (月)

二つの選挙-コスタリカとエルサルバドル(1)

22日、中米の隣国同士、コスタリカ(総選挙)とエルサルバドル(大統領選)の2ヵ国で国政選挙が行われた。「中米の父」モラサン(1792-1842)の生地であるホンジュラスでエルナンデス大統領が就任して一週間後のことだ。モラサンが中米連邦大統領として最後の職務を執った地がエルサルバドル、崩壊した連邦の再建に決起し落命した地がコスタリカ、と、彼に思いを馳せながら、これを書いている。大統領就任式は前者が58日、後者が61日、と異なる。新大統領同士、夫々の就任式にはお互いが必ず出席する筈だ。

コスタリカの大統領選では、中間発表時点の得票率で31%の「国民解放党(PLN)」のアラヤ(56歳)候補が、29%の「市民行動党(PAC)」のソリス(55歳)候補と共に、46日に行われる決選投票に進む。

エルサルバドルは、中間発表時点の得票率で49%の「ファラブンドマルティ解放戦線(FMLN)」のサンチェスセレス(69歳)候補が、39%の「国民共和同盟(ARENA)」のキハーノ(67歳)候補と共に、こちらは39日の決選投票で雌雄を決する。 

1821年にメキシコと相前後して独立した旧グァテマラ軍務総監領は、短期間メキシコに組み入れられ、ほどなくメキシコから再独立、国名を中米諸州連合(中米連邦)とした。同じような名付け方に、ラプラタ諸州連合(現アルゼンチン)がある。モラサン第二次政権期に入って間もない1834年、連邦首都はサンサルバドルに移った。4年後、大統領選挙が実施される筈だったが、グァテマラ州を皮切りにニカラグア、ホンジュラス、及びコスタリカ各州が連邦から離脱を宣言、連邦は解体に進み、1840年、モラサンが大統領を退任、それまでの連邦首都から逃れた。その後5つ目の独立国、エルサルバドルが生まれた。彼が連邦復活を試み再決起したのはコスタリカだったが、失敗、この地で処刑されている。

ホンジュラス、エルサルバドル及びコスタリカを合わせて、人口面でチリ一ヵ国をやや上回り、合計面積は、南米最小国のウルグアイをやや上回る程度だ。現状の政治面では

l ホンジュラス:軍政期を挟み100年以上続く二大政党の一方が政権を担当。大統領再任が認められず、従って強力な政治指導者が出ない

l エルサルバドル: 1980年代の「中米危機」で内戦を経験、民政復帰から30年余の間に、政権は当時の反政府左翼ゲリラが重要政党

l コスタリカ:1948年に6週間の内戦を経験。その後平和憲法制定、軍隊を持たない。近年、大政党の一つが凋落し若い政党が台頭 

1931年から軍人が立憲大統領の座に座り続け、強権政治を行っていたエルサルバドルで、文民の立憲大統領が誕生し名実ともに民政移管が実現したのは8461日だ。それまでの半世紀の中で、60年、野党的立場で「キリスト教民主党(PDC)」が、翌61年、与党的立場で「国民和解党(PCN)」が、そして81年にARENAが結成された。

19823月、その民政移管直前に行われた議会選で、ARENAPCNを押さえPDCに次ぐ議会第二党になる。そのPDCは、843月の大統領選を制し、結党から四半世紀にして初めて政権党となった。だが89年には政権党は結党後8年のARENAに移り、2009年までの420年間、連続して政権を担う。

1992年末の内戦終結を機に、武装解除した左翼の反政府ゲリラFMLNが政党化した。94年の議会選挙で、いきなり議会第二党になり、以後2009年まで、第一、第二党をARENAと争い、同年、結党から17年でフネス政権を実現させた。

一方で、この国では伝統的政党と言うべきPDCPCNは凋落、2012年議会選挙で夫々「希望党(PE)」及び「全国連合(CN)」に名称変更を余儀なくされるほどに弱小化した。同年選挙で「国民統合のための大同盟(GANA)」が登場、議会第三党となった。

この国ではここ30年間、大統領選挙が議会選挙と同日に行われる総選挙を経験していない。大統領と議員の任期が夫々5年、3年で異なることもあるが、同年選挙が行われた1994年、2009年ですら、選挙日はずらしてある。旧中米連邦5ヵ国で総選挙を行わないのも、大統領と議員任期が異なるのも、この国だけだ。 

コスタリカは、旧中米連邦5ヵ国で国軍を持たない唯一の国である。軍人政権が続いたエルサルバドルとは、或いは、軍政が敷かれたホンジュラスとも、先ずこの点が違う。1917年には軍事クーデター、48年には内戦も経験しているが、1890年以降、概ね4年毎に大統領交代を繰り返した。一政党の連続政権期は最長でも416年間。ラテンアメリカで最も民主主義が根付いた国の一つ、と言われる所以だ。

選挙制度面では、ホンジュラスとは総選挙方式を採るのは同じでも、エルサルバドル同様の大統領決選投票制と非連続なら再選可能、という点で異なる。ここ64年間で再選されたのは、上記内戦で反政府側を指揮し勝利したフィゲレス(1906-90。在任1953-571970-74)と、中米危機終結でノーベル平和賞を受賞したアリアス前大統領(同1986-902006-10)の二人しかいない。

政権与党PLNは、上記フィゲレスが1951年に創設し、その後のコスタリカ政界の中軸となってきた。他にも強力な政党は存在しPLNとの政権交代を繰り返した。PLNに対抗してきた主要政党が1983年に「社会キリスト教連合党(PUSC)」に統合され、二大政党期が訪れた。1994年、PUSCを離党した政治家を中心に「自由運動(ML)」が、2000年には、PACが、かかる二大政党に挑む形で結成された。2004年、PUSCから出た大統領の2名が、収賄容疑で逮捕された。政権党はPUSCだった。2006年選挙では同党は、政権維持はおろか、議会では第四党に落ちた。2010年選挙でも同様だった。 

(続く)

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