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2013年12月18日 (水)

バチェレの勝利(チリ)に思う

1215日のチリ大統領決選投票で、予想通りミチェル・バチェレ前大統領(62歳)が当選した。最終得票率は62%、民政復帰後最高だ、と言う。まだ開票半ばの段階で、エヴェリン・マテイ前労相(60歳)が敗北を認め、バチェレ氏を祝福した。最終票差が24ポイントだったことから、この段階でも明確な敗戦傾向を示していたのかも知れない。 

このブログの前回の記事はホンジュラス総選挙だった。大統領選で決選投票の制度が無いこの国の第一位の得票率は37%、第二位には8ポイントの票差を付けていた(http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2013/11/post-bad8.html)。

1214日、つまりチリの決選投票日の前日、第二位のシオマラ・カストロ氏こそ1124日の大統領選勝者である、との訴えを最高裁に提出した。同国選挙最高裁判所(TSE)に投票再集計を行わせ、自らの再集計と突き合わせ、選挙に不正が認められると主張し、選挙無効を要求し、それが受けられない、と言うことになっての行動だ。国際選挙監視団はTSEを認めない、とまでは言わない。選挙管理の国内唯一の組織であるTSEの権威が認めず、自らの政治グループの判断を強硬に主張するのは、民主主義とは言えまい。

414日のベネズエラ大統領選の第二位得票者だったカプリーレス氏は、マドゥーロ候補を勝利者と宣言した全国選挙評議会(CNE)に、票の再集計までさせ、それでも選挙結果を受け容れない。マドゥーロ政権発足から半年以上経つ今日もなお、マドゥーロ大統領を認めず反政府運動を続ける。同大統領は自らの師である故チャベス前大統領の手法を真似て、与党の絶対多数の議会に1年間の大統領授権法を通して貰い、議会審議を経ずして、価格凍結令などを出している。128日に行われた自治体首長選でも、反政府側は大敗、カプリーレス氏が知事を務めるミランダ県の自治体の多くで敗れた。だが全国的には主要都市の市長が勝っている、として、大敗論を撥ね付ける。

12月にはニカラグアで、大統領の連続再選を無期限に認めるとの憲法改正が、政権与党サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)の絶対多数下にある議会で決まった。勿論、オルテガ政権継続を目的としたものだ。民選大統領としての彼の任期は下野期間(19902007年)を挟んだ通算15年間が確定しているが、これをさらに延長させることに繋げることになる。

ホンジュラス、ベネズエラ、ニカラグアと、民主主義の観点からはチリの対極のような国々の動きをみると、聊か後ろ寒い気がしてくる。 

決選投票の投票率は47%と伝わる。バチェレ氏の第一次政権を離れる際の支持率が80%だったことを考えると、棄権者の大半が彼女の支持者だったのではあるまいか。彼女が手を付けたい最大の課題が、ピノチェト時代に制定された、現在ラテンアメリカで最も保守的とされる1981年憲法の改定だ。彼女が得た得票率と新議会の与党勢力の状況を見る限り、民意を嵩に掛け押し通すほどではない。棄権者らは今回、そこまで見通したのだろうか。

ともあれ、20143月バチェレ第二次政権が発足する。民選大統領の第二次政権となると、チリでは自由党のアルトゥーロ・アレッサンドリ(1868-1950、在任1920-251932-38)が先駆者だ。ただ、第一期目では途中退陣している。つまり、第一次で任期を全うした大統領が二次政権を担うのは、バチェレ氏が初めてとなる。 

アルトゥーロ・アレッサンドリ第一次政権までは、議会による閣僚人事を含む、行政府への介入が行われ、大統領権限は狭まれていた。議会は、大土地所有者や鉱山主、資本家などの、いわゆる寡頭勢力の利益を代表する議員が大半を占め、頻発する労働争議に政府を介入させるなどで、労働者の強い反発を受けた。労働者階級が急増していた時代の事だ。チリでは寡頭勢力が公権力などで彼らを抑えつけることは、出来なくなっていた。19249月、軍事クーデターが起き、彼の政策実行を阻む議会を解散させた。だが、彼自身も辞任し国外に亡命、軍政が敷かれた。翌251月、それをイバニェス大佐(1877-1960)らが中心となって再転覆し、彼を復帰させた。ただ彼は、復帰後大統領権限を強化する憲法を制定すると、任期満了を目前に辞任し亡命した。

そのイバニェスも二度大統領になった(在任1927-311952-58)が、最初は副大統領からの昇格であり、民選は第二期目のみだ。また第一期目には大恐慌下でゼネストを受け辞任、やはり亡命している。その後行われた大統領選でアレッサンドリが勝利し、第二次政権を発足させた。そして任期6年間を全うした。彼の第二次政権下、社会党が創設され、それまで非合法だった共産党が合法化される。十九世紀に結成された保守党、自由党(後年国民党に統合)、及びそこから分かれた急進党に加え、多数の政党が鼎立する政治文化の時代に進んだ。

19739月のピノチェト(1915-2006)将軍によるクーデターまで、選挙を経た政権運営が続いた。彼に追放されたアジェンデ(1908-73)政権以前にも、社会、共産両党が政権に参加する人民戦線の経験も積み、右派や、新たに創設されたキリスト教民主党も、政権交代を実現させていた。チリこそラテンアメリカで代表制民主主義を最も根付かせた国と言えよう。 

バチェレ氏の父親は、アジェンデ大統領に忠実な空軍司令官であり、クーデター後に逮捕され拷問を受け死亡している。彼女自身も社会主義者を自認し、やはり逮捕され拷問を受け、家族と共に亡命生活を送った経験を持つ。1990年の民政移管に際し、アジェンデの流れを汲む社会党は諸党連合(Concertación)に参加しているが、政治姿勢は極めて現実的なものだ。

チリ独特の議会選挙制度「多数二名制(Sistema binominal)」では、各陣営が選挙区ごとに候補者を2名ずつ出し、一つの陣営が得票率で一、二位を占めても、合計得票数が次点陣営2名の合計得票数の二倍に届かない場合、議席は、第三位であろうが次点陣営に割り当てられる。まして、両陣営に属さない小党が議席を取るのは、至難の業、となる。大統領選に立候補し、第三位で11%の得票だったオミナミ候補の革新党*陣営は、今回上下院とも1議席も得ていない。議席をなるだけ多く持とうとすれば、二大勢力に入っていた方が圧倒的に有利だ。その二大勢力でも、自然と議席数が拮抗するようになり、いずれが政権を取っても政策運営は現実的なものにならざるを得ない。

(お詫び:http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2013/11/13-d569.htmlではオミナミ候補の基盤を「左翼革命運動(MIR)」)と書きましたが、「革新党(PRO)」の誤りです。訂正してお詫びします) 

ただ、今回の決選投票の結果、民意を盾に、バチェレ氏が掲げる教育制度の改革と税制改革は実現しそうだ、と言われる。注視していきたい。

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