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2013年6月21日 (金)

メネムの時代(2)

カルロス・メネム政権発足の1989年は、世界史的には東西ドイツを分ったベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦時代の終焉が現実なものになった年だ。91年末にはソ連も消滅した。同年、ユーゴスラビアが解体に入る。内戦を回避すべく、ユーゴ構成国に対する武器禁輸の声明が国連安保理から出された。アルゼンチンもこれに署名した。だが、結局内戦に陥り、2000年まで続く。アルゼンチンは旧ユーゴスラビア、後にはその中心国でもあるセルビアと外交関係を持っており、一方で、1992年には、ユーゴスラビア構成国の一つだったクロアチアとも外交関係を樹立している。そのクロアチアに対して、秘密裏に武器供与を行った。何のための武器支援なのか、私にはさっぱり分からない。

19951月、ドゥラン・バイェン政権(1992-96)下のエクアドルが、フジモリ政権(1990-2000)下のペルー側国境地帯に侵攻(ホームページのラ米の戦争と軍部二十世紀の国家間戦争参照)、半世紀以上前の1941年に続いて、二度目の交戦を招いた。前の戦争の翌42年、米国、アルゼンチン、ブラジル及びチリの4ヵ国を「保証国」として、両国は和平のための「リオ議定書」を締結した。だが、エクアドルとして国境問題は未解決との立場から、実力行使に及んだものだ。アルゼンチンはエクアドルに武器を供与した。海路のクロアチア向けと異なり、空輸した。マルビナス戦争時、戦闘機まで出してアルゼンチンを支援した大恩あるペルーにとってみれば、恩知らずの利敵行為だ。まして、「リオ議定書」保証国が、一方の武力行為に与する、とは何事だ。ペルーには許し難い行動だった。20103月のフェルナンデス訪問まで、アルゼンチン首脳がペルーを公式訪問するには、16年間掛った。

クロアチア及びエクアドル向けの武器密輸は、従って、国際的には非合法に当たる。1995年、アルゼンチンの新聞、クラリン紙がこれを暴露したそうだ。それに基づき、汚職追及で知られた法律家が、司法手続きを訴えた。驚くのは、この年11月、武器の供給元とされる陸軍傘下のリオテルセロ弾薬工場が爆破された事件だ。12名が死亡し、数百人の負傷者が出た。これが証拠隠滅のために仕組まれたもの、とのことで、スパイ小説さながらだ。 

1989年、ラテンアメリカでは、2月、パラグアイで35年間の長期独裁政権を担ったストロエスネル(1912-2006)大統領がクーデターで追放された。11月にブラジル(29年ぶり)、12月にチリ(19年ぶり)でピノチェト(1915-2009)独裁を終わらせる大統領選が実施される。実質的なラテンアメリカ軍政時代(同、軍政時代とゲリラ戦争軍政時代参照)終焉だ。12月末には米軍がパナマの最高権力者、ノリエガ将軍(当時55歳)を米国で裁くために侵攻した。翌90年、内戦中のニカラグアで、1月の大統領選を経て、4月にコントラ(反政府ゲリラ)が停戦協定に合意した。

1980年代のラテンアメリカは全体としては民政復帰の動きの中で、828月のメキシコ債務危機に端を発する「失われた十年」の、明るさと重苦しさが併存していた。経済問題に留まらず、一部地域では内戦状態にあった。797月のニカラグア革命後、エルサルバドルとグァテマラでは左翼ゲリラ、ニカラグアでは「コントラ」と夫々の政府との本格的内戦、いわゆる「中米危機」(同、軍政時代とゲリラ戦争ゲリラ戦争及びゲリラとの和平参照)が続いた。それが、90年のニカラグアに続き、9112月にはエルサルバドルでも停戦協定が結ばれた。グァテマラはこの5年後にはなるが和平への機運は高まっていた。

ペルーでも、1980年に民政移管された後に左翼ゲリラが活動を激化させていた。924月、ペルーではフジモリ大統領が憲法を停止し議会を閉鎖する、大統領自らのクーデター、いわゆる「(Autogolpe)」を起こし、左翼ゲリラ制圧を本格化させた。60年代からゲリラが活発だったコロンビアでは逆に、80年代には和平の動きがある。ただこの国では左翼ゲリラのみならず、武装勢力には右翼パラミリタリーや麻薬組織の存在で状況は輻輳しており、当時の中米やペルーと同列には語り難い。

東西冷戦の終結に大きく影響を受けたのは、勿論唯一の社会主義国家、キューバである。19891月より、アンゴラ駐留軍を撤退させた。そして92年、旧ソ連のキューバ駐留軍が撤退を開始した。 

要するに、メネム政権発足の前後は、こう言う状況下にあった。中米地域での軍縮も内戦終結で大きく進んだ。米軍侵攻後のパナマでは国防軍が解体している。国家の軍事費、という観点から見れば、ラテンアメリカでは79年に始まった民政移管でどれだけ削減されたか、定数面の知識を私は持ち合わせない。相当なものだろう、と推測するしかない。これには、有力兵器産業国でもあるアルゼンチンは無関心ではいられないところだったのではなかろうか。

ともあれ、1995年に明るみに出て、告発も行われたメネム大統領は、この年の選挙で自らは連続再選、与党も快勝した(続く)。

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2013年6月19日 (水)

メネムの時代(1)

2013613日、カルロス・メネム元アルゼンチン大統領(現上院議員。82歳)に対して7年間の懲役刑が言い渡された。罪状は、1991年から95年にかけて行われた、クロアチアとエクアドルに対する違法武器供与への関与だ。当時の国防相だったカミリオン(83歳)被告も懲役5年半の判決が為された。メネム被告は現職上院議員なので、アルゼンチン法上、不逮捕特権が与えられている。刑の執行に当たっては上院議員の3分の2以上による票決で、資格が剥奪されねばならない。また二人とも70歳以上の高齢者であり、自宅監禁の形での服役が可能だ。少なくとも彼が監獄に入れられることはなかろう。

だがこの機会に、彼についておさらいをしておきたい。 

19559月、ペロン(ホームページ内のラ米のポピュリストペロンとベタンクール参照)が軍部により追放された。メネム氏は出身地リオハ州でペロン派活動家らの弁護活動を行い、当時の軍政(19559月~585月)下で短期間だが刑務所に収監されたことがある。その後、ペロン派の基盤を成していた労働総同盟(CGT)など労組の法律顧問として州内活動に従事する。

19666月、アルゼンチンは軍事クーデターで、735月から763月までの中断を挟んで、83年までの長期軍政時代(同じく、軍政時代とゲリラ戦争軍政時代参照)を迎えた。その中断期の73年、ペロン党からリオハ州知事に選出され就任したが、軍政に戻って、今度は長期収監に追い込まれている。そして最終的な民政移管後、再び州知事に返り咲き、連続再選を経て、895月、今度はペロン党の大統領候補となり、当選した。民政復帰後の初代アルフォンシン(1927-2009。在任1983-89)急進党政権下、凄まじいインフレと大型不況の中で、当然の与野党政権交代と言えようが、実はこの国では1916年以来初めてのことだった。

以上の経歴だけでも、彼にはペロン党の気骨に溢れた政治家像を見ることができよう。大統領就任日は1210日、と決まっているが、アルフォンシンは早期退陣を決め、メネム政権は198978日に発足した。955月の総選挙で連続再選を果たし、結局9912月までの10年と5カ月間の任期を務めあげた。現行憲法(1853年制定)上、一人がこれだけの長期間連続して大統領の座に居たのも、初めてのことだ。 

第一期(1989-95)の業績で特筆すべきは、やはり19951月のメルコスル(同じくラ米の地域統合メルコスル参照)立ち上げだろう。元はと言えば、前任者がサルネイ・ブラジル大統領(在任1985-90)と8511月に交わした両国の経済統合を志向するという「イグアス宣言」に遡り、長いプロセスを経て実現したもので、彼だけの業績とは言えまい。だが、彼が913月の、両国に加えウルグアイ、パラグアイを含めたメルコスル立ち上げを約した「アスンシオン条約」に漕ぎ着けなければ、絵にかいたモチに終わっていた可能性もある。

同条約締結の直前、ドミンゴ・カバロ氏を経済相に起用し、同氏の持論である兌換法(通貨の実質対米㌦等価策。「カバロプラン」)を導入させた。ハイパーインフレは収束、国営企業の民営化推進で外国の投資ファンドによる資本流入が急拡大した。国営石油会社だったYPF、郵便、電話、ガス、電力及び水道などが続々と外国資本の傘下に入った。停滞していた経済が成長に転換した。ただ、新自由主義経済路線に反発する党内左派グループが1994年離党し、「国民連帯戦線」(FrePaSo)を結成した。

加えて、199112月、アルフォンシン政権下で人権侵害を理由に終身刑判決を受け服役中だったビデラ軍政大統領(在任1976-81)他に恩赦を与え、抗議デモが起きている。また、923月には死者25名を出したイスラエル大使館爆破事件、947月には同85名を出した「ユダヤ系アルゼンチン扶助協会(AMIA)」爆破事件が起き、その対応が通り一遍だった、として批判を受けた。加えて、95年になると、クロアチア及びエクアドルへの武器不法供与が明るみにされた。

それでも、社会政策への歳出増加、懲役制度の廃止、マルビナス戦争で国交を断絶していた対英外交の回復、長年に亘る対チリ領土紛争の解決などで、国民人気は維持され、955月、連続再選をものにした。FrePaSoが議会第三党となったにも拘わらず、ペロン党は議席を伸ばし、初めて上下両院で過半数を占めることになる。 

彼の人気が陰るのは、第二期に入ってからだ。1995年のメキシコ通貨危機に発する域内経済の低迷は、アルゼンチンにも波及した。民営化にも拘わらず、歳出増大で対外債務は拡大した。失業率は高まり労働争議が頻発した。96年にはペロン党支持母体のCGTが主導するゼネストも起きている。それに先んじて、カバロ経済相は解任したが、「カバロプラン」は続けた。97年の中間選挙で、与党議席は過半数を割り込んだ。同年起きたアジア通貨危機、98年のロシア通貨危機はメルコスル諸国にも伝播した。ブラジルのカルドーゾ政権(在任1995-2002)は、94年以来の「レアルプラン」と言う対米ドルペッグ(変動幅制限)制を99年早々に打ち切ったが、メネム政権は「カバロプラン」を維持した。結果は、輸出競争力の大幅な減退だ。

メネム大統領はそれでも連続三選の道を探ったが、そのために必要な改憲に踏み切れる力は無く、断念する。199910月に行われた大統領選挙では、ペロン党候補はデラルア(当時62歳)「同盟(La Alianza」候補に敗退した。「同盟」とは、急進党とFrePaSoの連合を指す。任期6年の上院議員の改選は行われなかったが、下院の半数近くの議席を確保した。ただ、デラルア政権も「カバロプラン」は維持し、経済相に、同年の大統領選にも出馬し10%を得票したカバロ氏を起用した。(続く)

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