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2013年4月24日 (水)

パラグアイの政権交代

421日に行われたパラグアイ総選挙で、実業家のオラシオ・カルテス氏(56歳)が大統領に選出された。得票率46%だが、この国は、キューバを除くラテンアメリカ18ヵ国で決選投票制を採っていない5ヵ国の一つだ。同じく5ヵ国の一つベネズエラと異なり、次点の与党候補には9ポイント差を付けており、すんなりと確定した。

パラグアイはメルコスル結成メンバー国だが、201222日の議会によるルゴ前民選大統領弾劾、罷免が、いわば議会によるクーデター、と見た他加盟諸国により加盟資格停止状態にある。また南米諸国連合(Unasur)も同様の措置を採っている

そのメルコスル諸国はこぞって、今回選挙結果を民主主義に則ったもの、として、当選したカルテス氏に祝意を寄せ、メルコスル、加えてUnasurへの復帰に同意を表明した。現在メルコスル持ち回り議長を務めるウルグアイのムヒカ大統領は、6月にモンテビデオで開催するサミットにカルテス氏を招待したが、彼は就任する815日まではサミット出席には自分は不適任、として、断ったようだ。彼は、メルコスル復帰の意向は強い。

だが、何しろ、ベネズエラ加盟を阻んできたパラグアイが資格停止の最中に、メルコスルがその正式加盟を実現させた、と言う経緯がある(以上http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2012/08/post-76e4.html参照)。現フランコ政権は、パラグアイが中南米で孤立していることに反発を強めて来た。ベネズエラの大統領選に就いて、マドゥーロ政権承認を留保しているのは、米州では米国とパラグアイのみ、と言うほどに、硬化している。そのベネズエラのマドゥーロ政権も早々とカルテス氏に祝意を伝えて来た。 

カルテス氏は政治経験が殆ど無い一実業家だ。1947年から2008年までの61年間(内35年間はストロエスネル独裁)連続して政権党の地位を享受して来たコロラド党が、政権奪回に選んだ大統領候補がタバコ産業で成功し今やパラグアイ最強のサッカーチームのオーナーとして知られる。

コロラド党は、ソラノロペスと共に「パラグアイ戦争」(私のホームページの「ラ米の戦争と軍部」のラ米確立期(1860-1910年代)の戦争参照)を戦い、生き残ったカバジェロ(1839-1912)が、1887年に創設した。中南米の現存する政党の中で最も古い。同年、これに対抗する政治勢力として自由党も結成されたが、その後1904年までの14年間、政権を担った。1940年までの36年間は、自由党に政権党の座を譲っている。ボリビアと「チャコ戦争」(同、二十世紀の国家間戦争参照)を戦った時の政権党だ。

1940年代、政党活動は一時的に非合法化され、1947年にコロラド党のみが唯一の合法政党となった。この状態は1962年に共産党を除く他政党が合法化されるまで続いた。だが、当時はストロエスネル時代であり、政党としてはコロラド党が圧倒的勢力を誇った。彼が追放された後、多党が勢力を伸ばしたが、2008年まで同党政権が続いた。

今回選挙では、コロラド党が下院で2003年以前の過半数議席を回復した。上院も過半数の可能性を伝える外電もあるが、少なくとも大きく議席を伸ばしたのは確かなようだ。現在のフランコ政権は少数与党で、政策実行もままならぬ状態だろう。カルテス氏は実業家らしく民間企業育成のための社会インフラ整備、そして貧困層対策と歯切れは悪くない。 

メキシコの制度的革命党(PRI)は前身の結党から70年間に亘り、政権を担った。この国にはパラグアイのストロエスネルのような個人の独裁者こそいなかったが、選挙制度面で第一党有利が二十世紀末まで貫かれ、長期連続政権を可能にした。2000年選挙で第二党の国民行動党(PAN)が大統領候補に担ぎ出したのは企業経営者のフォックス氏(当時58歳)だった。ただ彼は46歳から議員、州知事を歴任、政治に素人ではない。彼が大統領になり、二代目カルデロン氏に繋がれ、2012年にPRIが政権を奪還するまでの12年間、PAN政権が続いた。

パラグアイのコロラド党が野党にあったのは、一期5年だった。その唯一の野党時代は、ルゴ氏が勝ちとったもので、議会勢力としての与党第一党は議会第二党(第一党はコロラド党)の急進真正自由党(PLRA)である。結党はストロエスネル時代の1978年で、比較的若い。上記の自由党が1989年以来消滅状態にあり、同じ政見の政治課たちの受け皿的存在となって来ている。2012年のルゴ罷免劇を経て、今回選挙で少しではあるが議席を減らした上で野党に転落し、元の木阿弥となった。ルゴ氏は「グァスー戦線」を結成し、その上院議員になったが、この政党が上院ではコロラド、PLRAの二大政党に次ぐ第三党となった。ただ下院では1議席取ったのみだ。 

パラグアイは人口650万人でラテンアメリカ十九ヵ国の1.1%GDPでは0.5%に過ぎない小国だ。だが最初に独立を達成し、「パラグアイ戦争」では果敢に「三国同盟」軍に挑んだ。ラテンアメリカ最大の人口、経済大国ブラジルだろうが、GDPでは第三位のアルゼンチンだろうが、この国をゆるがせに出来ないことは、承知している。先ずは、現実にメルコスル及びUnasur復帰が何時になるか、注目したい。

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2013年4月16日 (火)

チャベス後継、僅差の勝利

 

414日のベネズエラ大統領選では、ベネズエラ全国選挙評議会(CNE)によれば、マドゥーロ候補の得票が7,564千票で、カプリーレス候補の7,298千票を266千票上回った。得票率で前者は50.8%、後者は49%、つまり1.8ポイントと言う僅差だ。翌15日、CNEはマドゥーロ候補勝利を宣告した。18,094千人の有権者の内、投票したのはその80%14,984千人と言うから、投票率はかなり高かった、と言えよう。

 

彼の勝利への祝意は一番目にラウル・カストロ・キューバ議長から寄せられた。その後もルセフ・ブラジル、ウマラ・ペルーなど域内主要国大統領、乃至は殆どのラ米諸国の政府から祝意が寄せられている。また、ベネズエラが加盟するメルコスルも、選挙が高い投票率で行われ透明性も高く、民主的だった、として勝者のマドゥーロ氏に祝意のメッセージを送った。何人かの首脳は、419日の就任式に参加を決めている。

一方、カプリーレス陣営は選挙不正があった、として、結果受け入れを拒否、全票の再集計を求め、これを米国及び米州機構(OAS)が後押しする。またメルコスルから資格停止扱いを受けているパラグアイも、これに同調している。これに対しCNEは、ベネズエラでは投票が機械化されていて、自動的に読み込まれた中身は54%がプリントアウトされる仕組みとなっている、として、100%全ての再集計はしない方針のようだ。ただCNEの一部の委員にもカプリーレス陣営の反発先鋭化回避には100%再集計にも応じた方が良い、という意見もある、とする報道も目につく。

 

ともあれ、この僅差には驚いた。4月初めの世論調査では両陣営の差は縮小したものの、なお10ポイント内外だった。これほどの僅差では、3分の2の議席を持つ与党の支援こそ得られても、マドゥーロ氏自身の指導力は確実に落ちる。彼は副大統領に、ハバナでの闘病中、チャベスの傍らにあった女婿で、40歳のアレアサ暫定副大統領を任命するが、チャベスとの絆を背負うことで自らの指導力不足を補おうとしているようだ。

一方のカプリーレス氏だが、15日夜、抗議のためのcacerolazo鍋を叩いて練り歩くデモ)を招集し、1時間ほどのカラカス市内は騒々しかったようだ。これとは別に、学生らが抗議デモを行い警官隊に投石し、催涙ガスを受けた、などの騒ぎも起きた。CNE が全票再集計を約束せぬ限り翌日もcacerolazoを行う、と言えば、マドゥーロ氏はクーデターに備える、として市内への武力動員を呼び掛けた。聊か物騒な展開になっている。

 

だが、カプリーレス氏が無理を通して選挙結果をひっくり返しても、上記の通り、ラテンアメリカでは次期大統領はマドゥーロが既成事実で動いている。付き合い難かろう。国内政治状況を言えば、2015年までは議会で3分の2の壁に阻まれ、23州中20州が現与党の政権で担われており、政権運営には極め付きの難しさが眼に見えている。

第一、ひっくり返せまい。暴動に発展すれば、その責任を問われ逮捕される恐れもあろう。素直に考えると、それこそ彼を支える民主統一会議(MUD)の足腰を鍛え、20159月の議会選での勝利が第一だろう。その日まで2年半も無い。その間に、現時点で国会に議席を有する政党だけでも11もあるMUDでの指導力を確かなものにする。MUDは何しろ、右から左まで政治姿勢は広い。ブラジルのルラ前大統領をモデルにする、と言い切る以上、彼の政治的立ち位置は中道左派となる。その彼が、MUDを一つに纏め挙げるだけでも、相当なエネルギーが必要だ。

 

お互いを中傷誹謗し合う選挙戦だった。チャベスの魂が小鳥の形をして自分を励ましている、とか、自分に対する暗殺謀議の発覚とかの奇妙な発言の一方で、チャベス路線の踏襲、と言う以外に具体的政策を語らずに選挙戦を済ませて来たマドゥーロ次期大統領。確かに治安対策、インフレ退治、貧困層支援、など具体的な政策課題を述べるが、一方で対キューバ援助の年40億ドルを国内問題の解決に充てる、など外交の継続性を無視、一方で相手のマドゥーロ暫定大統領の能力をこき下ろす非礼さで応じ続けたカプリーレス候補。

選挙戦が終わった今、一日も早く不安定な状況に終止符が打たれ、次に進むことを祈りたい。

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2013年4月12日 (金)

成るか、FARCとの和平(4)

20121018日、ノルウェーのオスロより75キロメートルのフルダルという町で、コロンビア政府とFARC夫々の代表団同士による和平対話が行われて、もう半年以上が過ぎた。対話が本格化したのは同年1119日、ハバナにおいてだ。翌日、FARCは政府軍及び警察に対する武力攻撃を向こう3ヵ月間中断する、との一方的停戦を宣言した。政府は、FARCからの度重なる要求にも拘わらず、休戦には応じなかった。19991月から3年間に亘る和平交渉では、非武装地帯を設けたが、結果的にFARCが強気になり、交渉期間中に武力を強化していた、との思いが政府側には強い。今回、FARCによる武力活動が何度か行われている。

以後、概ね10日間単位で、2013321日まで7回行われた。第二回目から第五回目までの12月から20132月にかけて、対話実現に助力しただろう故チャベス・ベネズエラ大統領(当時)が、同地で手術し、術後治療のための入院生活を送っていた。彼のハバナ滞在中、且つ第四回対話の真っ最中の120日、上記の一方的停戦の期限が到来した。以後、戦闘行為が幾つか伝えられる。それでも対話は、政府側団長のデラカリェ元大統領の表現では「尊敬の雰囲気の中で推進された。 

218日、チャベスがベネズエラに帰国した。この前日、ハバナでは政府・FARC間の第六回対話が開始された。その最終日の227日、最大のテーマである農地改革に就いて、双方が「大きな前進」を謳う共同コミュニケが出された。コロンビアでは地元から追い出され難民となった農民とその家族は、350万人とも400万とも言われる。麻薬組織の進出やゲリラと自警団との抗争、国軍によるゲリラ掃討作戦など原因は多かろうが、彼らを復帰に障害となっている諸問題の解決を図るものだ。

FARCの前身は、「ビオレンシア」の時代(1947-58)の後、農村部に散った活動家たちが作り上げた自衛組織で、戦闘員には半世紀も過ぎた今なお、農民が多い。FARCは解放区と言う形で活動基盤を維持して来た、いわゆる農村ゲリラだ。農地問題は彼らにとり一丁目一番地とも言える。

35日、チャベスが死去した。8日に行われた国葬に参列したサントス大統領だが、彼に何かあっても、ベネズエラとして、この和平プロセス維持への助力を期待する旨、前々から述べていた。だが、合意できるものは急がせよう、との意図もあったのか、デラカリェ和平団長に対し、対話前進、及び農業の発展に関わるアジェンダ(農地改革)の決着を指示した。この旨は公表された。そして11日に始まった第七回目の対話に臨んだ。チャベス死去で意気消沈していただろうFARC側の期待も膨らんだようだ。20日には合意形成が為されよう、との感触を示している。だが実現できぬまま、21日に対話が終了した。 

194849日、65コロンビア自由党の指導者、ガイタン(私のホームページの「ラ米のポピュリストたち」中のアヤ、ベラスコ・イバラ、ガイタンご参照)がボゴタで射殺された。当時、そこでは米州機構(OAS)創設の為の重要な国際会議が行われていた。犯人は特定され逃げるところを集団に取り押さえられ、リンチを受けて死亡した。犯行理由などは謎のままとなっている。問題は、これが引き金となって大衆による略奪、建物への放火、打壊しなど大暴動を呼び起こしたことだ。当時のオスピナペレス保守党政府(1946-50)は大暴動に対し、軍と警察による武力鎮圧で臨んだ。数百人とも数千人とも言われる死者が出た。「ボゴタソ」と呼ばれる。そしてビオレンシアの時代へと発展して行く。FARCの前身は、この時代の申し子と言って良い。

その49日は、20121月発効の「犠牲者法」に定められた「国内紛争の犠牲者に捧げる日」となっている。ボゴタソから65年経った201349日、AP電が伝えるところでは、ボゴタで20万人、他の都市で計30万人が白いシャツを着用し、ハバナでの「和平交渉を後押し」するデモ行進を繰り広げた。20082月に「FARC及び誘拐に反対し人質解放を求める」デモが全国で繰り広げられたが、その時の動員数は百万人と言われる。今回の数字は、それに次ぐ規模、とのことだ。

今回のデモを呼び掛けたのは人権団体や左派組織の由だが、多くの公務員も動員されたようで、言わば官製行事だ。それだけに参加者には和平交渉後押しの意志はなくとも参加した人もいた。それでも参加者の数は凄い。サントス大統領は白シャツ姿で行進に参加した。武力抗争に将来は無い、との一念からだそうだ。キューバでの対話は国民が熱望して来た平和を手に入れるための大きな機会であり、良いリズムで進行している、と語った旨が同じAP電で伝わる。 

42日からベネズエラの大統領選が正式に始まった。マドゥーロ、カプリーレス両候補のいずれが勝とうとも、この対話推進への助力は継続されよう。次回対話は、その選挙が終わって4日後に始まる。FARC代表団には、武装部門の西部地区最高幹部、通称カタトゥンボが加わる。代表団長の通称イバン・マルケス共々、FARCのトップ6名に名を連ねる。サントス大統領は、武力活動の現場を知悉する幹部の参加を、対話の効率化の面から歓迎している。

農地改革については、実は2012121719日の3日間、ボゴタで関係者1,200名が集まり、農村問題について国を挙げての真剣な意見交換が行われた。政府とFARCとの対話もそれを踏まえての現実的なものになって来ていた。これに決着が付けば、次はFARC自体の政治参加保証についての協議に移るようだ。何しろFARCは誘拐やテロ活動を行い、その犠牲者や遺族は多い。自らが幾ら否定しようと、麻薬犯罪に関与している、と断定されている。彼らの免罪及び政治参加については、ボゴタで4月末に国民フォーラムが開催される。

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