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2013年3月 6日 (水)

チャベスの死

35日、マドゥーロ・ベネズエラ副大統領は、同日午後425分(日本時間の午前525分)にチャベス大統領が死去した旨を、午後6時(同7時)過ぎに発表した。私はNHKの朝9時のニュースでこれを聞き、大急ぎでネットを開いた。スペイン語版はこのニュースで溢れている。NHKは正午のニュースで当時のブッシュ米大統領を悪魔呼ばわりした国連総会の演説を加え、やや詳しく伝えた。ラテンアメリカ諸国首脳は続々と彼を追悼するコメントを発した。国連や米州機構(OAS)の事務総長も同様だ。

オバマ米大統領は、ベネズエラ国民への支援し、その政府との建設的な新たな関係構築を望んでいる、との声明を発表した。両国関係の実態はともかく、一国の最高指導者が死去した場合は、先ずは死を悼む言葉が寄せられようが、今の段階では、少なくとも外電報道にはそれが見当たらない。マドゥーロ副大統領は、チャベス氏が死去するほんの少し前に、チャベス氏の闘病をもとに、ベネズエラ国情不安定化を図っていた、との理由で、在カラカス米国大使館の駐在武官二名に国外退去命令を出し、米国側は当然これを否定する、との経緯を付記しておきたい。 

チャベス氏は199922日、44歳の若さでベネズエラ大統領に就任した。先ず憲法を改正し、2001110日、選挙を通じて新憲法下の初代大統領となった。ベネズエラ史上、国民の直接選挙で大統領になったのは19482月のガリェゴ(1884-1969)が初めてだ。彼を含め民選大統領は、ベタンクール、レオーニ、カルデラ、ペレス、ヘレラカンピンス、ルシンチの7名(内、非連続でも再選を果たしたのは2名)しかいないが、皆、50歳代以上で就任した。だからチャベス氏の若さは抜きんでていた。

民主行動党(AD)の創設者、ベタンクールは37歳で初めて最高指導者になっている。だがこれはあくまでクーデターによる臨時革命評議会議長として、だ(私のホームページの中で「ラ米のポピュリストたち」のペロンとベタンクールご参照)。また、民選初代の上記ガリェゴ大統領は、就任9ヵ月後、ベタンクールと共に、軍部により国外追放された。その後ペレスヒメネス(1914-2001)将軍が若干34歳で事実上の最高司令官となり、彼が招集した制憲議会によって指名される立憲大統領に就任したのは39歳になる直前だった。

彼らと比べるとすれば、チャベス氏の44歳が飛び抜けているわけではない。彼が表舞台に登場したのは、199224日のクーデター未遂事件と言って良かろう。1945年のクーデター時のベタンクールと同じ、37歳だった。だがチャベス氏のクーデターは失敗した。 

チャベス氏は若くして軍事科学アカデミーに入学し、軍人としての人生を歩み始めた。アカデミー卒業後ほどなくして、軍の中に密かに「ベネズエラ人民解放軍」というグループを作る。第一次ペレス政権(1974-79)の頃だ。1983年には、彼が尊敬する南米解放者、ボリーバルの誕生200周年を記念して「EBR-200」、別名「革命ボリーバル軍」を組成した。左翼革命を胸に秘めていたようだ。

19892月末、ペレス第二次政権がスタートして間もなく、「カラカソ」と言われる大暴動が起きた。犠牲者数は政府発表で276名、実態は3千名、との見方もある。チャベスグループはこれを米国及びIMFが強要する新自由主義経済政策によるもの、とみて、反体制クーデター志向は高まり、92年、行動に移した。十数名の死者を出し失敗に終わり、逮捕され収監されたが、同年11月に、172名と言われる死者を出す大規模クーデターを招来している。この半年後の935月、ペレス大統領は不正疑惑で、最高裁判所により解任された。このブログの中のhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/10/post-b192.htmlをご一読頂きたい。 

ペレス解任後の199312月に行われた大統領選では、自身が創設した伝統政党のCopeiからではなく、左派系政党グループの支援を受けたカルデラ(1916-2009)が当選した。それまでCopeiADの二大政党から、大統領乃至はその経験者個人の、いわゆる指先指名(Punto Fijo)で決まる候補者間の選挙、と言う悪習を攻撃していた。当時はこの二党だけで80%以上の議席を占めていた。93年選挙から多党化の傾向が一気に進む。チャベス氏及び他のEBR-200メンバーに、軍への復帰を禁じた上で恩赦を与えたのは就任後のカルデラである。だが彼の第二次政権がインフレや貧困率上昇、治安悪化などを招く状況下、チャベス氏は彼への批判を強め、自ら9812月の大統領選に出馬すべく、97年に現与党PSUVの前身、「第五共和運動MVR」を創設、選挙運動中に存在感を高め、最終的に勝利した。

一方、議会である。多党化はさらに進んだ。MVRADに次ぐ第二党となったが、全議席の僅か15%に過ぎず、圧倒的な少数政党の地位を余儀なくされた。新憲法制定が狙ったのは、チャベス氏だけでなく、それまでの二院制を止め一院制にした議会でのMVRの大幅議席増だ。一気に過半数を制した。以後、チャベス氏は動き易くなった。大統領授権法で、期限付きとはいえ、立法権限を確保した。彼の強権ぶりを懸念した人たちが、ゼネストなどで応じ、クーデターにまで進んだが、直ぐ復権した。

2005年の議会選では、ADCopei等がボイコットしてくれたお陰で、70%の議席を得た。彼の実権は強まる一方で、2006年大統領選では60%台の得票率で、新憲法下の初めての連続再選を果たした。そして20092月の国民投票で、連続再選回数制限を撤廃する憲法改定に漕ぎ着け、201210月に、新憲法下の連続三選を果たした。だが、連続三回目の大統領就任は果たせず、逝ってしまった。

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コメント

亡くなりましたね!それにしても米国と南米のすれ違いは大きいです。何が大元なのか一遍教えてください。もっとも米国はアラブ諸国とのすれ違いも大きいですが。貧困が強いところでは、諸悪の根源が米国と見える面も強いのでしょう。

投稿: 元体操のおじさん | 2013年3月 7日 (木) 09時45分

チャベスが敬愛する南米の解放者、ボリーバルは、スペイン植民地全てを一つの独立体として統合することを希求していた、とされ、これがチャベス思想の根本にあり、社会主義は一つの手段に過ぎない、と僕自身は捉えています。
そのための南米諸国連合、或いはラテンアメリカ・カリブ共同体の建設に向かい、主導的な役割を果たしてきた人がチャベスですから、また、中南米統合思想が、左派系、中道、右派系に拘わらず、中南米諸国の指導者を惹きつけているのは間違いありませんから、彼の死に深い哀悼の気持ちを持つのは、自然ではないでしょうか。米国の関心は、中南米独自の統合体建設には無く、世界の、なかんずく地続きの中南米の民主主義価値観の共有にあり、米州大陸の一主要国で非民主的な連続再選を続けるチャベスの存在は、我慢ならなかったのではないでしょうか。

投稿: 管理者 | 2013年3月 7日 (木) 14時29分

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