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2013年3月16日 (土)

初めての中南米出身ローマ法王

313日、ブエノスアイレス大司教で76歳のベルゴリオ枢機卿が、ローマ法王に選出された。聖ペテロ(イエス・キリストの12使徒の一人)が西暦33年に初代に就いたとされてから1980年間で266代、319日にフランチェスコ一世が誕生する。メディアは、世界のカトリック教徒12億人の4割を占める中南米からの初めての法王、と言う点に大きなニュース性を見るようだ。

世界のカトリック教徒は、CIAWorld FactBookなど複数の出所から採ったWikipediaのデータを見ると、全世界人口の64.4億人の内の11.8億いる。リスト上は全人口の17%を占めている。前後関係を見れば2010年の数字のようだ。123百万のブラジル、96百万のメキシコ、76百万のフィリピン、74百万の米国で第一~四位を占め、ヨーロッパは、フランスが第五位の54百万、法王の大半を出して来たイタリアは53百万で第六位だ。これにコロンビアの39百万、ナイジェリア、コンゴ共和国と続き、新法王の祖国アルゼンチン(36百万)が第十位、スペインが十一番目に顔を出している。

南米10ヵ国の合計が288百万、キューバ(明らかに異常値)を除いた上でメキシコ・中米6ヵ国・カリブ(プエルトリコを含む)を加えると、424百万、全世界の36%となる。これに比べ、聖グレゴリウス三世(出身はシリア。在位731-741)の後、歴代法王の座を独占してきたヨーロッパは、全部で236百万、20%、ニュース性は尤もだろう。ただ、中南米とは言えアルゼンチンに限れば経済的にも文化的にも民族的にも、正しくヨーロッパの一国と言っても差支えあるまい。 

ベルゴリオ枢機卿はまた、イエズス会士では初めての法王になる。1534年、ロヨラ(1491-1556)や我が国でもお馴染みのザビエル(1506-1552)が結成した修道会で、新教からのカトリック防衛、異教徒への宣教、及び人文学教育を活動の基本とした。ラテンアメリカ植民時代では、先住民を強制集住(Reducción)により定住化と、奴隷狩りからの保護を図った。特にブラジル南部や現ウルグアイやパラグアイ、及びアルゼンチンの一部では、よく知られる。イエズス会から枢機卿は5名だが、ベルゴリオ枢機卿のみが大司教だ。世界に大司教が何人いるか私は不案内だが、会派としては少数派だろう。

イエズス会は従順、清貧、貞潔をモットーとする。戦国時代に我が国に来た宣教師たちもそうだったが、ベルゴリオ枢機卿も質素な生活ぶりで知られるそうだ。ラテンアメリカ史を覗くと、宗主国を含め、イエズス会士の追放が何度か行われてきた。最も大きいのは、1767年、スペイン及び同植民地からは首都での暴動との関わりに、又、ブラジルからは宗主国のポンバル改革の一環による追放と言えよう(1814年に解除)。法王クレメンス十四世(在位1769-1774年)も1773年、会派の解散を命じている。理想や本質、建前に忠実で、そのためには政治的謀略も厭わない、との態度が目障りだったのだろう。 

ベルゴリオ枢機卿はブエノスアイレス大学を卒業した後に、同市の端に在るビジャ・デボト地区のイエズス会セミナリオに入り、聖職者への道を踏み出した人だ。司祭になったのが33歳になる直前の196912月、アルゼンチンの第一次軍政に入っていた(私のホームページ軍政時代をご参照)。そしてこの695月に、「コルドバソ」と呼ばれる大規模な抗議運動が起きていた。

一時的な民政期に戻った1973年、イエズス会のアルゼンチン管区長になり、1979年まで務めた。だから、第二次軍政期初頭の19765月、貧困層の居住地区を訪問したイエズス会士2名の軍による拉致、拷問事件に関し、これを放置した責任が、後年指摘されている。本人は軍政側とは水面下で両名の釈放実現に動いた旨を語っているが、いずれにしても、軍政に対する非難や抗議を行ったふしは見られないようだ。

1980年、首都郊外のサンミゲル地区に在る神学校の学長(Rector)に就任、83年の民政移管を経て86年まで続けた。その間を含め、司祭としての教職に従事、92年に55歳で司教、98年に61歳でブエノスアイレス大司教へと出世して来た。ヨハネ・パウロ二世(在位1978-2005年)によって枢機卿に任じられたのは、その3年後、64歳の時である。 

20035月に大統領に就任したキルチネルは、独立記念日の大聖堂で行うベルゴリオ大司教のミサには一度出たきりで、後は避けていた、と伝えられる。200712月に大統領になった彼の妻、フェルナンデス氏が翌年に同性婚を認めた時、イエズス会出身だけに伝統的な倫理観の強い保守的な聖職者である大司教は、厳しい嫌悪を示した。彼女の政権運営についても批判は持っていよう。だが彼女自身は彼が法王に選ばれたことに、一般国民同様、大変な喜びようで、19日の就任式には必ず参列する、と張り切っている由だ。

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2013年3月13日 (水)

新たな大統領選-ベネズエラ(1)

38日の故チャベス氏(以下、故人につき敬称略)の国葬には、死亡発表後、モラレス・ボリビア、ムヒカ・ウルグアイ両大統領と共に直ちに駆け付け、軍事アカデミーでの遺体安置に参加し、ほどなく帰国したフェルナンデス・アルゼンチン大統領(他の二人はそのまま留まった)、及び南米諸国連合(Unasur)資格停止中のパラグアイのフランコ臨時大統領を除く、中南米の全首脳が参列した。チャベスが親しかったアフマデネジャド大統領、他、域外諸国の首脳も何名か参列している。

この日、マドゥーロ副大統領(50歳)が暫定大統領に就任した。国会指名の形を採った。憲法上は、大統領が任期途中で辞任、乃至は死去した場合、国会議長が大統領代行になる旨の規定がある。だから、カベーリョ議長が就任するのが自然だ。野党はこれを茶番、としてボイコットした旨、報道された。 

39日、ベネズエラ全国選挙評議会(CNE)は、大統領選を、憲法解釈上も技術的にも認め得る範囲で414日に行うこと、そのための選挙戦は4211日の9日間とすること、Unasurに選挙監視ミッション派遣を要請すること、を発表した。最高裁判所が1月早々に出した、当時のチャベス政権が継続中、との裁定はあるが、本来の任期満了の去る110日から新政権に入っている、新政権発足から4年以内に大統領が死去した場合、30日以内に新たな大統領選を行うことを定めた憲法に沿ったもの、と言う。ややこしいが、与野党ともにその積りでいたので問題はあるまい。

311日、与党ベネズエラ統一社会党(PSUV)からマドゥーロ暫定大統領、反政府勢力の民主統一会議(MUD)からカプリーレス・ミランダ州知事が、大統領候補として正式に登録した。 

マドゥーロ氏は、故チャベス後継を自認し、事実、昨年12月に癌手術のためハバナに向かう前に彼によって後継指名されていた。だが憲法上、現職副大統領のままでは、大統領選に立候補できない。大統領選に出馬するからには、副大統領は辞任せねばならない。それで暫定大統領になった。最高裁は、わざわざ暫定大統領は大統領選立候補が可能、との裁定を下した。結果、(暫定)大統領として選挙に臨めることになった。国民全体からすれば、「長い癌との戦いの末に逝った我らが指導者」への愛着は強い。その後継指名を受けた現職の大統領。戦いの優位性は極めて高い。

MUDは、この経緯に対し不正、違憲を叫びつつも、それ以前より彼が与党候補になることを前提に動いて来た。昨年107日の大統領選(ブログ記事http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2012/10/20-b98f.html参照)で、統一候補として、あのチャベス氏に得票率で11ポイント差まで迫った実績を持つカプリーレス氏に、再び候補を一本化したものだ。インフレ、悪化一途の治安、通貨ボリーバルの突然の切り下げ、生前のチャベスの健康問題に関わるあまりに不自然な情報で、政府攻撃を進めて来た。 

マドゥーロ暫定大統領は、チャベス亡き後のPSUV序列第一位のカベーリョ国会議長と異なり、軍人出身ではない。労組幹部出身とは言え、ブラジルのルラ前大統領のように自ら政党を創設したわけでもない。若くして国会議長になり、また外相にもなったが、どうしてもチャベス氏の影が透けて見える。彼が訴えるのは、「チャベス革命」の継承であり、MUDに対する「米国帝国主義配下」断定だ。政策面の具体的な施策は、少なくとも外電ニュースからは窺えない。MUDの上述の攻撃に対する反論も、あまり見えない。米国帝国主義に操られベネズエラの不安定化を謀りチャベス革命を破壊する、と決めつけ、カプリーレス氏をファシスト呼ばわりする。

だが、国葬に殆どの域内首脳を呼び寄せた国際的知名度、国内では貧困率が高い中で強力に推進して来た貧困対策、何より強い指導力、カリスマ性で国民を惹きつけてきたチャベスの、正統な後継者である。2年間に及ぶ、特にここ2ヵ月間は壮絶さを想起させる、彼の癌との闘いが、国民の脳裏に焼き付いている。一月後の選挙時も変わるまい。

マドゥーロ候補が大統領になれば、言わば「チャベス無きチャベス体制」に入ろう。ベネズエラではビセンテ・ゴメス(1857-1935。私のホームページから十九世紀末以降のカウディーリョでも少し述べている)死後の10年間が「ゴメス無きゴメス時代」とされる。この頃は議会による間接選挙で大統領が選ばれたが、初代のロペス・コントレラス(1883-1973。暫定含め在任1935-41)はゴメス政権の陸海軍相だった人だ。その政権下で同じ陸海軍相を務めていたメディーナ(1897-1953。在任1941-45)が引き継いだ。ただ、ゴメスは親米姿勢が強く、発見された石油資源を、当時ではどこの国も国有化するのに、英米の石油メジャーに委ねた。だから、並び立てられるのは、マドゥーロ氏にとって我慢できないところだ。

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2013年3月 6日 (水)

チャベスの死

35日、マドゥーロ・ベネズエラ副大統領は、同日午後425分(日本時間の午前525分)にチャベス大統領が死去した旨を、午後6時(同7時)過ぎに発表した。私はNHKの朝9時のニュースでこれを聞き、大急ぎでネットを開いた。スペイン語版はこのニュースで溢れている。NHKは正午のニュースで当時のブッシュ米大統領を悪魔呼ばわりした国連総会の演説を加え、やや詳しく伝えた。ラテンアメリカ諸国首脳は続々と彼を追悼するコメントを発した。国連や米州機構(OAS)の事務総長も同様だ。

オバマ米大統領は、ベネズエラ国民への支援し、その政府との建設的な新たな関係構築を望んでいる、との声明を発表した。両国関係の実態はともかく、一国の最高指導者が死去した場合は、先ずは死を悼む言葉が寄せられようが、今の段階では、少なくとも外電報道にはそれが見当たらない。マドゥーロ副大統領は、チャベス氏が死去するほんの少し前に、チャベス氏の闘病をもとに、ベネズエラ国情不安定化を図っていた、との理由で、在カラカス米国大使館の駐在武官二名に国外退去命令を出し、米国側は当然これを否定する、との経緯を付記しておきたい。 

チャベス氏は199922日、44歳の若さでベネズエラ大統領に就任した。先ず憲法を改正し、2001110日、選挙を通じて新憲法下の初代大統領となった。ベネズエラ史上、国民の直接選挙で大統領になったのは19482月のガリェゴ(1884-1969)が初めてだ。彼を含め民選大統領は、ベタンクール、レオーニ、カルデラ、ペレス、ヘレラカンピンス、ルシンチの7名(内、非連続でも再選を果たしたのは2名)しかいないが、皆、50歳代以上で就任した。だからチャベス氏の若さは抜きんでていた。

民主行動党(AD)の創設者、ベタンクールは37歳で初めて最高指導者になっている。だがこれはあくまでクーデターによる臨時革命評議会議長として、だ(私のホームページの中で「ラ米のポピュリストたち」のペロンとベタンクールご参照)。また、民選初代の上記ガリェゴ大統領は、就任9ヵ月後、ベタンクールと共に、軍部により国外追放された。その後ペレスヒメネス(1914-2001)将軍が若干34歳で事実上の最高司令官となり、彼が招集した制憲議会によって指名される立憲大統領に就任したのは39歳になる直前だった。

彼らと比べるとすれば、チャベス氏の44歳が飛び抜けているわけではない。彼が表舞台に登場したのは、199224日のクーデター未遂事件と言って良かろう。1945年のクーデター時のベタンクールと同じ、37歳だった。だがチャベス氏のクーデターは失敗した。 

チャベス氏は若くして軍事科学アカデミーに入学し、軍人としての人生を歩み始めた。アカデミー卒業後ほどなくして、軍の中に密かに「ベネズエラ人民解放軍」というグループを作る。第一次ペレス政権(1974-79)の頃だ。1983年には、彼が尊敬する南米解放者、ボリーバルの誕生200周年を記念して「EBR-200」、別名「革命ボリーバル軍」を組成した。左翼革命を胸に秘めていたようだ。

19892月末、ペレス第二次政権がスタートして間もなく、「カラカソ」と言われる大暴動が起きた。犠牲者数は政府発表で276名、実態は3千名、との見方もある。チャベスグループはこれを米国及びIMFが強要する新自由主義経済政策によるもの、とみて、反体制クーデター志向は高まり、92年、行動に移した。十数名の死者を出し失敗に終わり、逮捕され収監されたが、同年11月に、172名と言われる死者を出す大規模クーデターを招来している。この半年後の935月、ペレス大統領は不正疑惑で、最高裁判所により解任された。このブログの中のhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/10/post-b192.htmlをご一読頂きたい。 

ペレス解任後の199312月に行われた大統領選では、自身が創設した伝統政党のCopeiからではなく、左派系政党グループの支援を受けたカルデラ(1916-2009)が当選した。それまでCopeiADの二大政党から、大統領乃至はその経験者個人の、いわゆる指先指名(Punto Fijo)で決まる候補者間の選挙、と言う悪習を攻撃していた。当時はこの二党だけで80%以上の議席を占めていた。93年選挙から多党化の傾向が一気に進む。チャベス氏及び他のEBR-200メンバーに、軍への復帰を禁じた上で恩赦を与えたのは就任後のカルデラである。だが彼の第二次政権がインフレや貧困率上昇、治安悪化などを招く状況下、チャベス氏は彼への批判を強め、自ら9812月の大統領選に出馬すべく、97年に現与党PSUVの前身、「第五共和運動MVR」を創設、選挙運動中に存在感を高め、最終的に勝利した。

一方、議会である。多党化はさらに進んだ。MVRADに次ぐ第二党となったが、全議席の僅か15%に過ぎず、圧倒的な少数政党の地位を余儀なくされた。新憲法制定が狙ったのは、チャベス氏だけでなく、それまでの二院制を止め一院制にした議会でのMVRの大幅議席増だ。一気に過半数を制した。以後、チャベス氏は動き易くなった。大統領授権法で、期限付きとはいえ、立法権限を確保した。彼の強権ぶりを懸念した人たちが、ゼネストなどで応じ、クーデターにまで進んだが、直ぐ復権した。

2005年の議会選では、ADCopei等がボイコットしてくれたお陰で、70%の議席を得た。彼の実権は強まる一方で、2006年大統領選では60%台の得票率で、新憲法下の初めての連続再選を果たした。そして20092月の国民投票で、連続再選回数制限を撤廃する憲法改定に漕ぎ着け、201210月に、新憲法下の連続三選を果たした。だが、連続三回目の大統領就任は果たせず、逝ってしまった。

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