ボリビアのメルコスル加盟
12月7日にブラジリアで開催されたメルコスル首脳会議に出席したモラレス大統領のボリビアの加盟が決まった。パラグアイが資格停止扱いの中でのことだ。もっと言えば、同様出席したコレア大統領のエクアドルも加盟する、との事前報道もあった。自国通貨不在(通貨として米ドルを使用)という特殊事情や域内競争力の低い品目の多さを理由に、検討に時間的余裕が欲しい、として今回の加盟は見送ったものの、パラグアイの資格回復前には加盟しそうだ。
この首脳会議にはフランコ・パラグアイ、チャベス・ベネズエラ両大統領は欠席した。前者は資格停止中だから当然なのだろう。後者は、11月27日から10日間のキューバでの治療を終えて、この日帰国したばかりだった(9日、キューバに戻った。ちょっと大変なことになっている)。
ボリビアとチリは、メルコスル発足の1995年の翌年、準加盟国となった。2002年12月にはメルコスル諸国との間で居住(就業地)協定を結んだ。協定国は他の協定国民の就業期間が2年を超えると永住権を付与する、というもので、言わば国民同士の共通地位協定である。ところが、これに調印していないベネズエラが、2006年7月に先に加盟承認を得た(正式発効は2012年8 月12日)。この年の1月に発足したボリビアの現モラレス政権が、同年12月、加盟を申請した。そして6年を経て漸く、加盟が認められたことになる。チリは、メルコスルより対外関税率が低いため加盟は難しい。
ボリビア加盟が発効するには、現加盟諸国全ての議会承認が必要で、半年後のパラグアイ選挙までに手続きが終われば良いが、そうでなければベネズエラ同様、この国が障害となる気がする。
スペインの南米征服期、インカ帝国の版図にありケチュア、アイマラ族が首長制の高度文明社会を築き、金銀を差出したボリビアと、資源に乏しく非定住型社会を形成していたグァラニ族のパラグアイ。スペイン人が前者の征服拠点としてチャルカス(現スクレ)を建設したのは1538年で、ここにはペルーから入った。ペルーとは無関係にラプラタ川を遡航して後者のアスンシオンを建設したのは、その前の年だ。いずれも数年後、ペルー副王領に組み込まれ、1559年、チャルカスにはアウディエンシア(聴訴院)が置かれた。事実上の司法行政機関で、ここがアンデス東麓より東側の広大な地域を、副王に代わって管轄することになる。つまり、アスンシオンも、形式上はその支配をうける。
1776年、ブエノスアイレスにペルー副王から独立して、リオデラプラタ副王府が置かれた。現パラグアイは、現アルゼンチンと現ウルグアイ同様に、この副王府の支配下に置かれた。そして、アルトペルーと呼ばれ、人種的にも文化的にも当時のペルーの一角を占めていた現ボリビアも、この副王領に組み込まれた。1810年5月の独立革命(私のホームページの中のスペイン領独立革命の勃発参照)で、ブエノスアイレスで副王罷免後成立したフンタ(自治評議会)は、自らの領土を旧副王領全体、とした。現パラグアイはこれに従わず、1年後さっさと独立を宣言し、ボリビアはペルー副王軍に押さえられ、15年後、同副王領からボリビアとして独立、その後ペルーとの連合関係を強めて行く。
対チリ太平洋戦争(ラ米確立期(1860-1910年代)の戦争参照)で太平洋の出口を喪失したボリビアは、大西洋への出口を求め、河川支配を巡り隣国パラグアイと軋轢を起こし、チャコ戦争(二十世紀の国家間戦争参照)に突っ走り、これにも敗北した。その後、対チリ関係と異なり、対パラグアイ紛争は耳にしないが、国民感情面では、決して関係良好、とは言えまい。
メルコスルとは、ラプラタを構成するアルゼンチン、ウルグアイ及びパラグアイと、ブラジルで立ち上げた関税同盟を基本とする経済統合体である。ペルーとの民族的、文化的近似性の強いボリビアは、ラプラタの独立革命時点では、その構成国だった。それから200年を経て、ラプラタに復帰した、と見れば分かり易い。ことこの点については、ボリビアさえ国民感情を押さえれば何の問題もあるまい。だが現実に正式加盟の発効には、パラグアイが壁となると思う。半年後の選挙結果がどうあれ、ルゴ前政権下を通じ、この国の議会に、左派政権への強いアレルギーを感じざるを得ないからだ。
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