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2012年12月13日 (木)

チャベスの再々手術

107日に連続三選され2019年までの政権期を確定させたチャベス・ベネズエラ大統領。1127日、キューバに飛び、127日に帰国、8日、つまりベネズエラが正式に加盟国となって初めてのメルコスル首脳会議で、盟友モラレス大統領のボリビアが新加盟国となった日、癌が再発し、これまでに無い難しい手術を受けに暫くキューバに行く、と公言、10日にハバナに向かった。このことは日本のメディアも報じている。11日、メルコスル首脳会議を終えて間もないコレア・エクアドル大統領が、彼がベネズエラのみならずラテンアメリカに必要な人、として、ハバナまで出掛け、彼を見舞った。ラテンアメリカ各国首脳から彼の健康回復を心から願う旨のメッセージも入っている。

当日、6時間に亘る手術が行われた。成功だった、と、マドゥーロ副大統領兼外相が発表した。ただ、大統領が術後の治療などこれまでにない厳しい状況に置かれており、彼の健康回復を祈る、と悲壮な表情で述べた、とも伝わる。 

そもそも5月に帰国し、7月に正式な選挙戦が始まった時、癌は克服し健康である、と宣言したのは、チャベス氏本人である。11月半ば頃から公の場に姿を見せず、高酸素バリウム治療が必要と突然キューバに出掛け、10日も過ごし、国内外で本人の健康問題で騒がせ、結局、実は癌が再発していた、とは、この期に及んで、と言いたくもなる。2011610日に骨髄腫瘍(absceso pélvico)、20日に癌(tumor con células cancerosas)、2012227日に何らかの瘤(lesión)の摘出手術をハバナで行って来た。その間にも化学療法、放射線治療と何度もハバナに向かった。ただ、今回は様子が明らかに異なる。

先ず、マドゥーロ副大統領兼外相(50歳)を、不測の事態における彼の後継に指名した。チャベス不在が議会で宣言されるか、本来の新政権発足日の2013110日に彼が復帰できねば、それより30日以内に大統領選挙を行うことが憲法で義務付けされている。その場合の与党PSUV(ベネズエラ統一社会党)候補をマドゥーロに決めた。後継指名は、初めてのことだ。

次に、地方選挙を直前に控えたタイミングである。4年毎に23州の知事が改選される。2008年の選挙では与党PSUVがこの内の17州を押さえた。反チャベス陣営では、107日の大統領選の野党統一候補となったカプリーレス氏が、カラカスの一部を包括するミランダ州の知事になった。大統領選で敗北後、同州知事に立候補した彼の対立候補として、与党はハウア前副大統領をぶつけた。知事選直前のチャベス氏の厳しい健康状況に対し、23州全てをプレゼントしようではないか、との檄が、マドゥーロ氏やカベーリョ国会議長の口から出ている。ベネズエラの州知事の裁量権が日本の県知事と比べて如何ほどのものか、私は存じ上げないが、かなり強いことは間違いないようだ。全国の知事を与党が取れれば、社会主義革命を奉じるいわゆるチャビスモ(Chavismo。チャベス主義)が国全体にあまねく広がる。 

ベネズエラ指導部の面々は、チャベス大統領を「司令官(Comandante)」と呼ぶは大統領だから、行政権が付与される大統領制を採る民主主義国でもそうであるように、国軍の「最高司令官(Comandante en Jefe)」なのだが、大統領をこう呼ぶのは、普通の民主国では有り得ない。若くして軍に入隊した生っ粋の軍人出身のためだろうか、それとも、フィデル・カストロ前議長をそう呼ぶキューバを真似たものなのだろうか。

その彼が後継指名をしたマドゥーロ氏は、元々「メトロ・カラカス」(鉄道・バス運行公団)の運転士で、労組活動をしていた人だ。チャベス氏同様、大学教育は受けていない。PSUVの前身、第五共和国運動(MVR)に加わり、1999年の制憲議会の議員、2000年、新憲法下の初めての議会選で国会議員となった。2005年、42歳の若さで国会議長となり、翌年外相に転身している。128日のスペイン語版AP電を見ると、若い時からキューバを往来しキューバ革命への親近感を深めた由だ。チャベス外交の実働を担う責任者として、ALBAUnasur強化に取り組み、対コロンビア関係改善にも貢献した、とある。この1年半、健康問題を抱えるチャベス氏の側近中の側近だったことは、誰もが認める。

マドウーロ氏の夫人は名うての弁護士であり、勿論大学教育は受けている。1994年の対チャベス恩赦(1992年のクーデター未遂で服役していた)で時のカルデラ大統領とかけあった、とされる。2000年から12年早々まで間議員を務め、現在司法長官の職にある。 

マドゥーロ氏は本心でチャベス氏の復帰を祈っていよう。単なる遠い日本のラ米ウォッチャーを気取る私も、同じ思いだ。彼の不在が続き、反チャベス陣営が勢いづくと、国が不安定化する気がする。そうなると、軍出動も有り得よう。民主国では軍には政治的中立が求められる。軍の先輩であるチャベス氏への尊敬の念が極めて強固な軍が、どう動くだろうか。

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2012年12月10日 (月)

ボリビアのメルコスル加盟

127日にブラジリアで開催されたメルコスル首脳会議に出席したモラレス大統領のボリビアの加盟が決まった。パラグアイが資格停止扱いの中でのことだ。もっと言えば、同様出席したコレア大統領のエクアドルも加盟する、との事前報道もあった。自国通貨不在(通貨として米ドルを使用)という特殊事情や域内競争力の低い品目の多さを理由に、検討に時間的余裕が欲しい、として今回の加盟は見送ったものの、パラグアイの資格回復前には加盟しそうだ。

この首脳会議にはフランコ・パラグアイ、チャベス・ベネズエラ両大統領は欠席した。前者は資格停止中だから当然なのだろう。後者は、1127日から10日間のキューバでの治療を終えて、この日帰国したばかりだった(9日、キューバに戻った。ちょっと大変なことになっている)。

ボリビアとチリは、メルコスル発足の1995年の翌年、準加盟国となった。200212月にはメルコスル諸国との間で居住(就業地)協定を結んだ。協定国は他の協定国民の就業期間が2年を超えると永住権を付与する、というもので、言わば国民同士の共通地位協定である。ところが、これに調印していないベネズエラが、20067月に先に加盟承認を得た(正式発効は20128 12日)。この年の1月に発足したボリビアの現モラレス政権が、同年12月、加盟を申請した。そして6年を経て漸く、加盟が認められたことになる。チリは、メルコスルより対外関税率が低いため加盟は難しい。 

ボリビア加盟が発効するには、現加盟諸国全ての議会承認が必要で、半年後のパラグアイ選挙までに手続きが終われば良いが、そうでなければベネズエラ同様、この国が障害となる気がする。

スペインの南米征服期、インカ帝国の版図にありケチュア、アイマラ族が首長制の高度文明社会を築き、金銀を差出したボリビアと、資源に乏しく非定住型社会を形成していたグァラニ族のパラグアイ。スペイン人が前者の征服拠点としてチャルカス(現スクレ)を建設したのは1538年で、ここにはペルーから入った。ペルーとは無関係にラプラタ川を遡航して後者のアスンシオンを建設したのは、その前の年だ。いずれも数年後、ペルー副王領に組み込まれ、1559年、チャルカスにはアウディエンシア(聴訴院)が置かれた。事実上の司法行政機関で、ここがアンデス東麓より東側の広大な地域を、副王に代わって管轄することになる。つまり、アスンシオンも、形式上はその支配をうける。 

1776年、ブエノスアイレスにペルー副王から独立して、リオデラプラタ副王府が置かれた。現パラグアイは、現アルゼンチンと現ウルグアイ同様に、この副王府の支配下に置かれた。そして、アルトペルーと呼ばれ、人種的にも文化的にも当時のペルーの一角を占めていた現ボリビアも、この副王領に組み込まれた。18105月の独立革命(私のホームページの中のスペイン領独立革命の勃発参照)で、ブエノスアイレスで副王罷免後成立したフンタ(自治評議会)は、自らの領土を旧副王領全体、とした。現パラグアイはこれに従わず、1年後さっさと独立を宣言し、ボリビアはペルー副王軍に押さえられ、15年後、同副王領からボリビアとして独立、その後ペルーとの連合関係を強めて行く。

対チリ太平洋戦争(ラ米確立期(1860-1910年代)の戦争参照)で太平洋の出口を喪失したボリビアは、大西洋への出口を求め、河川支配を巡り隣国パラグアイと軋轢を起こし、チャコ戦争(二十世紀の国家間戦争参照)に突っ走り、これにも敗北した。その後、対チリ関係と異なり、対パラグアイ紛争は耳にしないが、国民感情面では、決して関係良好、とは言えまい。 

メルコスルとは、ラプラタを構成するアルゼンチン、ウルグアイ及びパラグアイと、ブラジルで立ち上げた関税同盟を基本とする経済統合体である。ペルーとの民族的、文化的近似性の強いボリビアは、ラプラタの独立革命時点では、その構成国だった。それから200年を経て、ラプラタに復帰した、と見れば分かり易い。ことこの点については、ボリビアさえ国民感情を押さえれば何の問題もあるまい。だが現実に正式加盟の発効には、パラグアイが壁となると思う。半年後の選挙結果がどうあれ、ルゴ前政権下を通じ、この国の議会に、左派政権への強いアレルギーを感じざるを得ないからだ。

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