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2012年9月28日 (金)

ペーニャニエトの6カ国歴訪

121日にメキシコ大統領に就任するペーニャニエト氏が、917日から24日にかけて、夫人を伴い6ヵ国を歴訪した。

大統領就任前の外遊は、2011年のウマラ・ペルー大統領の例が記憶に新しい(本ブログhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/07/post-b38e.htmlご参照)。彼は、自国と共に地域統合体を構成する「南米諸国連合(Unasur)」の他の11ヵ国の内、ガイアナとスリナムを除く9ヵ国と、メキシコとキューバの計11ヵ国を、やはり夫人を伴って訪れている。ペーニャニエト氏の6ヵ国は、ペルーのUnasurに相当する地域統合体がメキシコに無いのだから、少ないとは言えまい。訪問先は隣国グァテマラの他に、メキシコ以外で「太平洋同盟」(http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/04/4-2ae6.html参照)を構成するコロンビア、ペルー及びチリの3ヵ国、及びラテンアメリカでG20を構成するブラジル及びアルゼンチンの2ヵ国だ。 

歴訪はグァテマラで始まった。ペレスモリーナ大統領と、治安と人的移動を二大懸案事項、として意見を交わした。前者は、メキシコの麻薬カルテルの暗躍が大きく影響していることが、つとに知られる。後者については、米国に向かう中米人がメキシコで大量に殺害されている、と言う事実がある。いずれもメキシコ側にとって耳当たりの悪いテーマだ。次が、コロンビアで、丁度サントス大統領が、バレラがコロンビアに移送された(http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2012/09/farc-ac1a.html参照)、と発表した当日だった。同大統領と語りあった最重要テーマは治安問題で、麻薬及び組織犯罪との戦いにおけるコロンビアの経験を讃え、自らの政権運営にも活かしたい、と述べた旨が伝えられる。

話は飛ぶが彼の6ヵ国歴訪が終わった後の926日、ペレスモリーナ・グァテマラ大統領が国連で演説し、麻薬犯罪に関わる従来の対策では問題は解決しない、として、新たな選択肢を国連主導で求める時期に来ている、と訴えた。第六回米州サミットで唱えた主張を国連の場で伝えたようなもので、その際に述べた「免罪化(despenalización)」(http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2012/04/post-b2f1.html参照)を含む新たな戦略」の流れだ。同じくこの日に国連で演説したサントス・コロンビア、カルデロン・メキシコ両大統領も、申し合わせた如く、麻薬問題への新たな戦略を訴えた。後者の場合、有力幹部を含むメンバーの多くを武力で逮捕、乃至は殺害した華々しい戦果を有し、誰しもが強硬策の代表格、と見て来たのに、ペレスモリーナ氏と意見を一致させた。 

次に訪れたのはブラジルだ。サンパウロでの経済界との交流で始まり、ブラジリアでのルセフ大統領との会談で終わる、2日間の日程だった。ブラジルで貧困層人口が3千万減少した社会開発の経験をメキシコに教示して欲しい、と同大統領に申し入れた旨を記者団に語っている。ブラジル同様の貧困層への給付と雇用創出を、彼の政権として政策運用に採り入れるに当たり、知恵を貸して欲しい、と言うものだ。また、衰退するメキシコ国営石油会社Pemex社の近代化に、成長著しいPetrobras社の民間との合弁手法を参考にする、とも述べた。ルラ、ルセフと続いたブラジルの中道左派政権下、この合弁手法が築かれた。一方でメキシコでは現カルデロン右派政権下、これが放置されてきた。公営企業の従業員の既得権など、労働法上の障害があったものと思われる。

両国はラテンアメリカ十九ヵ国のGDP総額、対外貿易額及び総人口の三分の二を占める、文字通りの域内二大国だ。だがメキシコは対米依存度が極端と言って良いほどに高く、ブラジルは低い。ラテンアメリカの中ではいずれも工業国で、域内でライバル同士、色々と軋轢も出る。彼は、両国間の補完関係構築への道を強調した。

一つ置いて5番目の訪問国、アルゼンチンは、工業品輸入規制問題で日米欧と共にメキシコも世界貿易機構(WTO)に提訴している。加えて、カルデロン政権はYPF問題で、ラテンアメリカ諸国では珍しいことに、アルゼンチンを批判した。ペーニャニエト氏は、フェルナンデス大統領に対し、両国関係を貿易増強と戦略的連携で素晴らしい将来を築いていくと申し入れた。同大統領の対応は、礼儀正しく友愛に満ちたものだった、と記者団に述べた由だ。 

アルゼンチンの前後に訪れたチリとペルーはコロンビア同様、「太平洋同盟」の相手国だ。前者は一人当たりGDPでラテンアメリカ随一、貧困率は最も低く、経済社会政策で最も成功した国である。彼はピニェラ大統領に、チリに見習い、メキシコにおける貧困との戦いを自らの政権の最優先課題として取り組む旨を述べた由だ。最後の訪問国ペルーは、ここ数年、年率ではラテンアメリカで最も高い経済成長を謳歌する。ウマラ大統領との会談では二国間経済・貿易関係の増強は勿論、ラテンアメリカ域内での麻薬、組織犯罪対策での情報共有化や、通商連携の強化で意見交換したようだ。 

ペーニャニエト氏のブレーンによれば、国民行動党(PAN)政権時代、メキシコのラテンアメリカ域内での存在感は薄かった。域内との経済補完関係を深化させることで、貿易(輸出)が増え、メキシコ国内の雇用増が図れる。加えて、経済、社会政策で域内諸国の成功例を追求し、学び、彼の政権運営に活かしていく重要性は大きい。以上については正しい見かただろう。

彼らは、今回の歴訪は、域内存在感の回復に繋がった、とも言う。一方で、彼を迎えた国々の専門家らは、メキシコの次期大統領が真っ先に、具体的なアジェンダを持ってラテンアメリカ諸国を訪問したことを歓迎する。従来では考えられなかった、と言う。また、近年イデオロギーを重視する政権が域内諸国に続出して来たが、「太平洋同盟」は環太平洋の巨大市場を睨んだグローバリズムを重視する。ラテンアメリカでは新たな発想だ。彼らは、対米依存が極端に高いメキシコが、ラテンアメリカ諸国との同盟に本気で取り組む姿勢を見せた点、大きく評価したのだろう。

 

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2012年9月25日 (火)

成るか、FARCとの和平(3)

918日、先ごろベネズエラで逮捕された通称「ロコ・バレラ」がコロンビアに身柄を移された。これを発表したサントス大統領によれば、現在も残る麻薬犯罪の首領(Capo)としては最大の大物だそうだ。FARCの有力メンバー、通称ネグロ・アカシオ(2007年死去)や、FARCと敵対するAUCと、驚くべきではないかも知れぬが、コロンビア軍のメンバー、及び「ノルテデルバリェ」などコロンビアの麻薬カルテルとの繋がりを持って麻薬密売に関わって来た、とある。また逮捕にはコロンビアとベネズエラ、米国のCIAとイギリスのM16が協力して当たった由だ。それだけ大変な人物、と言うことだろう。

コロンビアの麻薬取引自体は1970年代から知られるようになる。当初はヘロインを扱っていたが、ボリビアやペルーで買い付けたコカをコロンビア国内で精製し、コカインとして、主として米国への密売が主流となる。米国は麻薬犯罪者を自国司法で裁くべく「身柄引渡し条約」の締結をコロンビアに要求、1979年にこれが実現した。ただ国家主権の侵害とみる政治勢力の抗議も激しく、合憲性についての判断が先送りされ、実際の運用までには時間が掛ったようだ。 

1980年頃、パブロ・エスコバル(194993)が「メデジン・カルテル」を創設した。コカ栽培にも乗り出し、一大農園主にもなった。農園やコカイン精製所の自衛に加え、自らの安全確保のため、組織を武装化した。コロンビア革命軍(FARC)や民族解放軍(ELN)などの左翼ゲリラからの自衛もあったが、麻薬犯罪者の対米引き渡しが行われるようになると、反政府行動も強まる。844月、ボニーリャ法相(当時)が誘拐、暗殺されたが、これはメデジン・カルテルの犯行とされる。898月、与党のガラン大統領候補の暗殺も同様だ。この直後に当時のバルコ政権が「麻薬戦争」宣言に踏み切ると、同カルテルは、コロンビア航空機や安全保障局(DAS)ビルの爆破事件も惹き起こしている。9312月にエスコバルが殺害され、同カルテルは分解した。

強力な麻薬カルテルとしてもう一つ有名なのは、メデジンと同じ時期にロドリゲス兄弟により創設された「カリ・カルテル」だ。両カルテルは協調関係にもあったようだが、90年代に入ると敵対するようになる。メデジン分解から暫く経ち、95年央に兄弟が逮捕され、間もなく分解の道を辿った。兄弟は2006年に米国に身柄を引き渡され、米国で懲役30年の判決を受けている。

上記の強大なカルテルが無くなったところで、「ノルテデルバリェ」や「コスタ」と言ったカルテルが残る。また冒頭で述べたベネズエラで逮捕されたロコ・バレラが持つ組織などもある。政府との和平対話を開始するFARCも麻薬取引に関わっている、とされ、米国が指導者の身柄移送を要求する際に挙げる罪状は、米人誘拐・殺害よりも麻薬犯罪の方が一般的だ。麻薬は、相変わらずコロンビアで作られ、中米、メキシコ経由で、或いはカリブ海を通じて、米国に流れている。1999年、まさしくFARCが前回の和平対話を開始した年、米国は麻薬撲滅のための「プラン・コロンビア」を打ち出し、2001年以降、数億ドル単位でコロンビア支援を行っていながら、だ。 

ここで、自警団(パラミリタリー)について述べる。コロンビアの自警団は1962年、米軍特殊部隊高官の勧めにより、左翼ゲリラによるテロ活動に対する自衛のための民兵組織、として、各地に出来たのが始まりだ。FARCELNよりも先行している。民兵の募集は当初、コロンビア軍が行い、組織間連携にも協力した。61年に発足したケネディ政権の有名な「進歩のための同盟」(ホームページ「ラテンアメリカと米国」の「進歩のための同盟」ご参照)が、後年「対ゲリラ戦(Counter-insurgency)」支援に変貌していく一環として理解したい。強大化するのは、ゲリラによる身代金目的の誘拐の根絶を図るため、として「誘拐者に死を(MAS)」が結成された1980年代になってからのようだ。その他の自警団も強大化を進めた。FARC3年間、愛国連合(UP)での活動に注力した時期だ。自警団自体はもともと非合法とは言えない。それでも1980年代末には、暴力行為に規制をかける政令が出され、非合法化も進んだ。

1994年、国防省による「私的保安特別監視団(CONVIVIR)」創設の政令が出されると、自警団がこれに加入、再合法化が進んだ。よく知られるカスターニョ兄弟が経ちあげていた「コルドバ・ウラバ農民自衛団(ACCU)」も同様と思われる。19974月にCONVIVIRグループで構成される「コロンビア自衛組織連合(AUC)」が結成されたが、ACCUがその中核となった。正直申し上げ、AUCを構成する他の組織について私は存じ上げない。FARCが和平対話に臨んだ1999年から2002年までの間、全国組織化した自警団AUCは、いかなる活動を行っていたか。これもよく存じ上げない。FARCは確かにAUCと武力衝突しただろうし、これを理由に和平対話を遅らせたこともある。だが、この間のAUCの名は住民虐殺事件などのテロ行為によく現れる。国際人権団体から人権侵害で強く非難されてきた。2001年、米国政府もFARCELNに加える形でテロ組織リストに組み入れた。麻薬取引にも関わった。その程度の知識だ。

20022月、FARCとの和平対話が決裂した。その半年後に成立したウリベ政権とAUCが武装解除に向けた和平プロセスに合意したのは、20037月のことだ。3年間でAUCとしての武器引き渡しは完了した、とされる。事実、コロンビアの治安が眼に見えて好転した。プロセスの過程で、カスターニョ兄弟を含む数名の最高幹部が殺害され、多くが逮捕、麻薬取引を理由に対米身柄引渡しに遭っている。プロセスに応じなかった自警団には「アギラス・ネグラス」など幾つかあるが、自警団と言うよりは麻薬組織の性格が強いところもあるようだ。

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2012年9月14日 (金)

成るか、FARCとの和平(2)

サントス大統領は左翼ゲリラに対し、襲撃の停止、誘拐した人質の解放、麻薬取引の放棄、年少者の募集停止を強要する一方で、ウリベ前大統領の政策を踏襲するかのように、一切の交渉を拒む、としてきた。事実コロンビア軍や警察によるFARCとの戦闘も繰り返されている。それでもウリベ氏はゲリラ対策に不熱心と映り、自らの政権で国防相を務めたこの後継者と距離を置くようになったようだ。

223日に始まったハバナでのFARCとの折衝は、サントス政権としては機密事項だったろう。223日、というのは、チャベス・ベネズエラ大統領が癌の二度目の摘出手術を受けにハバナに飛んだ前日のことだ。その1週間後、サントス氏がハバナに飛んだ。目的は416日からのカルタヘナ第六回米州サミットに招けないことをキューバに伝え了解をとり、加えて、その場合は自らも欠席すると言っていた同地滞在中のチャベス氏への出席の説得、となっている。はっきり言って、物凄いタイミングだ。チャベス氏はその更に2週間もハバナに残った。もっと言うなら折衝開始の1週間前に、彼は検査を受けるため、としてハバナを訪れている。

FARCは、サントス政権との折衝開始後間もない226日、軍及び警察制服組の最後の人質10名を解放した。チャベス氏の癌摘出手術が行われた、とされる当日だ。少なくともサントス氏が強要する「誘拐した人質の解放」は実現したことになる。彼らは4月にもフランス人ジャーナリストを誘拐、戦争捕虜扱いとしたが、国連諸機関や国際人権団体、米州報道協会などの強い圧力で530日に解放する。 

ゲリラとは、ホームページの軍政時代とゲリラ戦争の冒頭にも書いたが。あくまで反権力勢力の武闘組織を言う。革命を成立させたゲリラもあれば、和平交渉の結果、武装解除し政党として立法機関を通じ国政に参加し、中には政権を担う様になったゲリラもある。民主主義の理想的な国家、とヒラリー・クリントン米国務長官が讃えたウルグアイだが、同国のムヒカ大統領は、軍政時代に名を馳せたゲリラ、「トゥパマロス」の戦闘員出身だ。エルサルバドルでは、大統領がゲリラ出身ではなくとも、その政権与党が中米危機時代の強力なゲリラ組織だった「ファラブンドマルティ民族解放戦線(FMLN)」である。

ただ、欧米では左翼ゲリラ、とい言うだけで彼らをテロリスト、と呼ぶ向きもある。日本でも同様ではなかろうか。サントス氏の前任、ウリベ氏も、そう呼んでおり、交渉での和平ではなく、法の下での制圧有るのみ、との立場だった。彼がサントス政権はキューバでFARCと交渉している、政権側交渉団には大統領の実弟も加わっている、と、非難を込めて公けにしたのは、「和平枠組み合意」調印の1週間前、819日のことだった。情報源は伏せている。機密情報がこうしてあっけなく漏洩した。最近では、彼はサントス氏が、オスロでの対話開始とほぼ同日の107日のベネズエラ大統領選で、チャベス氏を勝利に導こうとしている、と強く非難する。和平仲介の偉業を仲介したチャベス氏を名指しで挙げ過ぎる、と言うものだ。チャベス氏は、2008年早々、FARCが拘束して来たいわゆる政治的人質の内の6名を解放した際にも仲介者を務めた。ウリベ氏はこれには感謝しながらも、その後の人質救出作戦などをみる限り、彼の世話にはなりたくなかった。チャベスはテロリストの国境を跨ぐ退路提供者、との意識が強かったようで、政権末期に、未遂に終わったが、ベネズエラ越境攻撃の軍事作戦を立てたこともある。国は違っても、許し難い政敵なのだろう。 

軍や警察への襲撃、その過程で一般人を巻き込む殺害行為、社会インフラ破壊、要人の拉致や暗殺、など、ゲリラによるテロ行為は事実としてある。フジモリ元ペルー大統領は、日本大使公邸人質事件の際に、犯人グループを「ゲリラではない、テロリストだ」と繰り返していたが、その際彼らの属する「トゥパクアマルー革命運動(MRTA)」自体をテロリストと断定したのか、私には分からない。ともあれゲリラは、革命遂行を唯一の目標とするのでなければ、政府に対して要求をぶつけ、いずれは和平に至ることを望む。FARCとて例外ではなく、1984年から3年間、自警団の攻撃を受けながらも、合法政治組織の愛国連合(UP)での活動に注力していた。ゲリラ活動に戻っても、政府との和平努力を一切断っていたわけではない。ラテンアメリカの為政者が、左派であれ右派であれ、ゲリラ即ちテロリスト、と決めつけるのは、あまり一般的ではあるまい。 

FARCは何しろ結成後46年間の、ゲリラとしては長い歴史を持つ。コロンビア内務省によれば戦闘員は9千人、と言う。1990年代から半減した、とも言う。それでも、中米一国の正規軍の規模に近い。これを和平によって武装解除させれば偉業だろう。サントス氏の名声は高まる。事実、AFPが伝えるIpsos社による世論調査では、対話開始を発表した後の彼の支持率が7月の42%から57%へと急上昇した。彼の決断を支持する、としたのは、77%にも上る。

今回交渉の先行きに楽観している人が54%だそうだ。19991月に開始された和平交渉は3年間続き、結局失敗に終わった。だが、当時活発だったコロンビア自衛組織連合(AUC)は、ウリベ政権時代に消滅した。AUCの一部は形を変えて残ってはいようが、FARCにとって国内環境は当時とは異なる。この間、ラテンアメリカでは左派系の政権が次々に、選挙によって成立して来た。つまり域内の国際環境も変わった。それでもウリベ政権時代には、FARCとの和平は選択肢として無かった。サントス大統領も表面的にはこれを踏襲した。その一方で就任早々、チャベス氏との会談に臨み、首脳関係の修復が成った。FARCにとり、チャベス氏を挟む政権側との関係環境も変化した。国民の多くが、FARCが和平への千載一遇の機会と捉えた、と見ているのだろう。

サントス政権はFARCとの休戦抜きで交渉を行う、と言明し、また(交渉を長々と続け決裂に至った)過去の失敗に鑑み1年以内に解決する、と述べた。果断とみるか、危険な賭け、と見るか、専門家の見方は分かれる。

 

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2012年9月11日 (火)

成るか、FARCとの和平(1)

このところコロンビアのサントス政権とコロンビア革命軍(FARC)との和平交渉についての外電報道が続いている。ハバナで、政府とFARCの両代表による予備折衝は、223日から行われてきた。サントス大統領が初めてこれに触れたのは、双方が「紛争終結のための枠組み合意」調印翌日の827日のことで、正式発表は94日だ。枠組み合意(スペイン語でAcuerdo marco)とは、この場合「最終的和平協定」を目的として、討議するテーマを特定した文書のことのようで、野党勢力の政治活動への保証、犠牲者への賠償、農村開発、など具体的な項目が記されている。和平交渉は108日、ノルウェーのオスロで開始される。保証国としてキューバとノルウェーに加え、ベネズエラとチリが交渉の場に同席する。

この発表を受けた米国政府はホワイトハウスの声明と言う形で、その同日中にこれを歓迎した。仲介したベネズエラのチャベス大統領は翌5日の記者会見で、サントス大統領を政治家中の政治家、と最大級の表現で讃え、交渉には介入せず協力を惜しまず、と約束した。 

コロンビアを語る時、往々にして麻薬とゲリラが話題に出てくる。多くの日本人には、怖い国の代表的存在、とも言えよう。誘拐犯罪も頻発し、日本人が誘拐された事例もある。一方で在住経験者は、コロンビア人の人情深さや優しさ、真面目さを語る。コロンビアは南米諸国が次々と軍政に陥っていた時代、文民政権を貫いた。1980年代、ラテンアメリカ諸国は悉く対外債務危機をリスケで、できれば元本削減で乗り切ろうとしていたが、コロンビアは債務履行に忠実だった。

以下、私のホームページの中の「軍政時代とゲリラ戦争」のゲリラ戦争及びゲリラとの和平をご参照願いたい。

中米危機の最中の19831月、コンタドーラグループ発足の際、その一員となり和平促進に尽力した。ベタンクール保守党政権(1982-86)下のことだ。ベタンクール大統領は就任早々、ゲリラを含む政治犯に恩赦を出した。その2年後の19848月には、国民解放軍(ELN)を除くゲリラ勢力との休戦協定に漕ぎ着けている。その内のFARCは、翌855月、愛国連合(UP)創設に参加した。だが自警団(パラミリタール)による攻撃で、最高幹部を含む大勢が殺害され(3千人というメディア報道もある)、バルコ自由党政権(1986-90)下の87年央、ゲリラ活動を再開した。コンタドーラグループの努力もあり中米首脳会議で和平枠組みを決めた「エスキプラスII」発表と同じ時期のことである。

FARCの結成は19663月だ。ビオレンシア(暴力)の時代(1946-58)が終わった後に地方に開放区を作っていた勢力をルーツとする。南米で最も古い左翼ゲリラ、と言われる所以だ。結成を起点にしても、今日まで46年以上も経った。中米では、ニカラグアのサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)は結成後17年で革命を成立させ(ホームページ中の「ラ米の革命」のニカラグア革命参照)、その後の内戦を経てなお、政界に影響力を行使する大政党となっている。エルサルバドルもファラブンドマルティ民族解放戦線(FMLN)は、前身の結成から数えても22年で和平、その後議会の第一、二党として存在感は大きい。中米で和平が飛び抜けて遅かったグァテマラの国民革命連合(URNG)も、前身結成後35年で和平し、政党化した。FARC46年強、という年数が、如何に異様か、お分かり頂けよう。

1980年代のコロンビアのゲリラで最も目立ったのは、実はFARCではなく「419日運動(M-19)」だ。彼らは上記休戦協定を1年ほどで破棄、FARCUPを結成した頃、ゲリラ活動を再開した。だが、その4年後の8911月、バルコ政権と和平に漕ぎ着け、武装解除に至っている。結成から16年だった。 

ベネズエラとエクアドルに挟まれたコロンビアだが、政治面で左派勢力は極めて小さい。かつてのM-19が創設した政党は今日の「民主代替の極(PDA)」だが、党勢は弱い。FARC、そして結成後48年にもなるELNという左翼ゲリラの活動実態が、国民に左派勢力に対する一種の嫌悪感を植え付けてきたのだろう。ペトロ現ボゴタ市長は、元はM-19のゲリラだった。2010年大統領選でPDAから立候補したが、結果は第四位だ。翌11年の市長選に出馬する際にPDAを離党、「革新運動(MP)を創設している。ただMPPDAより左派傾向を弱めているのかどうかは、私は存じ上げない。 

ともあれFARCである。上記の通り結成後18年でゲリラ脱却の絶好の機会があった。政府が自警団の活動を押さえられず、結局破綻した。それからも和平の試みは続いた。一方で自警団も強化され、19974月にコロンビア自衛組織連合(AUC)が結成されている。翌988月、パストラーナ保守党政権(1998-2002)が発足した。選挙公約にFARCとの和平を掲げていた。就任3ヵ月後、和平交渉のため4万平方㌔という広大な非武装地帯を設定、軍と警察を撤退させた。翌99年1月、非武装地帯南部にあるカグアンという町で和平交渉を開始した。ベネズエラにチャベス政権が発足したタイミングではあるが、関連付ける必要はあるまい。AUCによるテロを理由に中断したこともあったが、交渉はとにもかくにも続けられた。だが20022月、交渉は決裂し政権側は非武装地帯指定を解除、今日に至る。

この20025月の大統領選挙で、新党「国民社会党統合党(la “U”)」を結成したウリベ氏が当選した。父親をFARCに暗殺されていることもあろうか、彼はゲリラ勢力との妥協の姿勢は見せなかった。ただ、AUCの武装解除には取り組んだ。2002年に10万人当たり66人にも上った殺人率は、彼が連続2期の任期を終えた2010年に35人にまで減少した一つの原因と言っても間違いあるまい。(続く)

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2012年9月 2日 (日)

ペーニャニエト政権の確定

831日、メキシコ連邦選挙法廷(TEPJF)が、71日に行われた大統領選で、制度的革命党(PRI)のペーニャニエト候補が38.2%の得票率(1,916万票)に対し、ロペスオブラドル(以下AMLO)民主革命党(PRD)候補が31.6%1,585万票)で、前者が勝利した旨を、判事全7名が全体一致で評決した、と発表した。これで、彼はメキシコの司法によっても、次期大統領として認定されたことになる。もっと言えば、彼の大統領就任が確定した。

前日、TEPJF左派陣営及びロペスオブラドル(以下AMLO)民主革命党(PRD)候補が選挙の無効化を申し立てたPRIによる5百万の票買い、法定を上回る選挙費用、主要メディアや世論調査会社を巻き込んだ違憲、違法行為は、具体的な証拠に乏しく抽象的である、として、これを退けていた。

だがAMLOは、かかるTEPJF評決を認めず、従ってペーニャニエト大統領就任を非正統であるとしてこれを認めず、不服従市民行動に入る旨を述べ、先ず99日に支持者を6年前と同じソカロ広場に集合し、行動の具体的内容を決める、と言う。 

6年前の96日、TEPJF は最終的に23.4万票差(0.56%差)で国民運動党(PAN)のカルデロン候補がAMLOに勝利した旨の評決を行った。今回同様、司法の場で出た結論だった。そして今回同様、AMLO陣営はこれを認めず、同年916日の独立記念日、「国民民主コンベンション」と呼ぶ大規模デモを行った。そして1120日、ソカロ広場に集まった支持者が彼を「正統大統領」と宣言、いわゆる「並行政府」樹立に繋がった。この違法性の指摘もあったが、当時野党の一角にあったPRIが合法、との判断する経緯を辿る。

思えば不思議な展開である。司法が最終的に出した判断は、司法権の独立を確立する民主主義の鉄則だろう。ところが、意にそまない結論が出ると街頭運動に繰り出す。YoSoy132運動のようなPRI復活を嫌う大学生ならまだしも、メキシコ市長を経験しカリスマ的指導者にもなった政治指導者が、である。司法判断を無視する政治指導者の行為を許すのは、メキシコの社会文化なのだろうか。 

ペーニャニエト氏は選挙法廷の評決を受けて、穏健で責任感の強い、批判を甘んじて受け、意見には耳を傾け、メキシコ国民全体のことに思いを致す、多様、要求型及び参加型の、二十一世紀の新たな政府の形態を作る、と述べた。

議会選挙の結果は、連邦選挙管理委員会(IFE)のホームページを見ても、この期に至っても私には見えない。新議会は91日に始まった。http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2012/07/pri3-ac38.html710日付けロイター電の数字を紹介したが、上院及び下院のホームページをみると、PRI及びその政治連合の相手である「緑の環境党(PVEM)」の合計議席数は、上院が全128議席中61、下院は全500議席中241となっており、上記ロイター電をほぼ裏付ける。過半数に到達していない以上、さらに、下院については2009年選挙より議席を減らしたこともあり、強気の政権運営はやり辛い。

2006121日に発足したカルデロン現政権が、主食のトルティーヤ価格統制令を出したことがある。これはAMLO「正統大統領」に向こうを張ったもの、と言われる。今後のAMLOがどう出るか、にもよるが、ペーニャニエト氏も彼の政見の一部は取り入れざるを得なくなろうか。それとも、80年以上もの間政敵関係にあったPANとの協力関係を進めるのだろうか。 

カルデロン大統領は、発足したての新議会開会式で演説を行い、「旧態依然とした労働法」(彼の表現)を改革し労働市場の自由化を訴え、改革法案を議会に送った。労働改革は、ペーニャニエトも政見に掲げており、この機会にPRIとして法案成立に協力し、ひいてはPANとの政策連合を進める可能性も指摘される。ただPANとの協力関係構築には2000年のフォックス政権誕生後、政策連合を破棄したPVEMがどう出るか、注目して良かろう。この党の議席が2000年幾つあったか私は知らないが、連合破棄後の2003年で獲得した下院議席数17は、今回の選挙では34議席へと倍増、上院では2006年選挙時獲得の4議席が、9議席になり、無視できない政治勢力に育っている。

さらに、PRIの支持母体は労働組合である。メキシコの労働者保護策として、企業所得の労働者配分、福祉策の義務化、解雇の難しさ、等、ひょっとして現在は多少変わっているかも知れないが、外資には頭痛の種だった記憶が私には有る。この問題に入り込む、というのは、自由主義政党のPANにはあって当然だ。だが、元々政党の中に労組を組み入れた「制度的革命」の党PRIと、そこから左派勢力が独立して創設された民主「革命」の党PRDに挟まれた少数与党のPANには、立法化は困難だった。これを、労働改革を主張するペーニャニエトPRI次期大統領に踏み絵を迫っている、というのが一つの実態でもあろう。

 

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