成るか、FARCとの和平(1)
このところコロンビアのサントス政権とコロンビア革命軍(FARC)との和平交渉についての外電報道が続いている。ハバナで、政府とFARCの両代表による予備折衝は、2月23日から行われてきた。サントス大統領が初めてこれに触れたのは、双方が「紛争終結のための枠組み合意」調印翌日の8月27日のことで、正式発表は9月4日だ。枠組み合意(スペイン語でAcuerdo marco)とは、この場合「最終的和平協定」を目的として、討議するテーマを特定した文書のことのようで、野党勢力の政治活動への保証、犠牲者への賠償、農村開発、など具体的な項目が記されている。和平交渉は10月8日、ノルウェーのオスロで開始される。保証国としてキューバとノルウェーに加え、ベネズエラとチリが交渉の場に同席する。
この発表を受けた米国政府はホワイトハウスの声明と言う形で、その同日中にこれを歓迎した。仲介したベネズエラのチャベス大統領は翌5日の記者会見で、サントス大統領を政治家中の政治家、と最大級の表現で讃え、交渉には介入せず協力を惜しまず、と約束した。
コロンビアを語る時、往々にして麻薬とゲリラが話題に出てくる。多くの日本人には、怖い国の代表的存在、とも言えよう。誘拐犯罪も頻発し、日本人が誘拐された事例もある。一方で在住経験者は、コロンビア人の人情深さや優しさ、真面目さを語る。コロンビアは南米諸国が次々と軍政に陥っていた時代、文民政権を貫いた。1980年代、ラテンアメリカ諸国は悉く対外債務危機をリスケで、できれば元本削減で乗り切ろうとしていたが、コロンビアは債務履行に忠実だった。
以下、私のホームページの中の「軍政時代とゲリラ戦争」のゲリラ戦争及びゲリラとの和平をご参照願いたい。
中米危機の最中の1983年1月、コンタドーラグループ発足の際、その一員となり和平促進に尽力した。ベタンクール保守党政権(1982-86)下のことだ。ベタンクール大統領は就任早々、ゲリラを含む政治犯に恩赦を出した。その2年後の1984年8月には、国民解放軍(ELN)を除くゲリラ勢力との休戦協定に漕ぎ着けている。その内のFARCは、翌85年5月、愛国連合(UP)創設に参加した。だが自警団(パラミリタール)による攻撃で、最高幹部を含む大勢が殺害され(3千人というメディア報道もある)、バルコ自由党政権(1986-90)下の87年央、ゲリラ活動を再開した。コンタドーラグループの努力もあり中米首脳会議で和平枠組みを決めた「エスキプラスII」発表と同じ時期のことである。
FARCの結成は1966年3月だ。ビオレンシア(暴力)の時代(1946-58)が終わった後に地方に開放区を作っていた勢力をルーツとする。南米で最も古い左翼ゲリラ、と言われる所以だ。結成を起点にしても、今日まで46年以上も経った。中米では、ニカラグアのサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)は結成後17年で革命を成立させ(ホームページ中の「ラ米の革命」のニカラグア革命参照)、その後の内戦を経てなお、政界に影響力を行使する大政党となっている。エルサルバドルもファラブンドマルティ民族解放戦線(FMLN)は、前身の結成から数えても22年で和平、その後議会の第一、二党として存在感は大きい。中米で和平が飛び抜けて遅かったグァテマラの国民革命連合(URNG)も、前身結成後35年で和平し、政党化した。FARCの46年強、という年数が、如何に異様か、お分かり頂けよう。
1980年代のコロンビアのゲリラで最も目立ったのは、実はFARCではなく「4月19日運動(M-19)」だ。彼らは上記休戦協定を1年ほどで破棄、FARCがUPを結成した頃、ゲリラ活動を再開した。だが、その4年後の89年11月、バルコ政権と和平に漕ぎ着け、武装解除に至っている。結成から16年だった。
ベネズエラとエクアドルに挟まれたコロンビアだが、政治面で左派勢力は極めて小さい。かつてのM-19が創設した政党は今日の「民主代替の極(PDA)」だが、党勢は弱い。FARC、そして結成後48年にもなるELNという左翼ゲリラの活動実態が、国民に左派勢力に対する一種の嫌悪感を植え付けてきたのだろう。ペトロ現ボゴタ市長は、元はM-19のゲリラだった。2010年大統領選でPDAから立候補したが、結果は第四位だ。翌11年の市長選に出馬する際にPDAを離党、「革新運動(MP)を創設している。ただMPがPDAより左派傾向を弱めているのかどうかは、私は存じ上げない。
ともあれFARCである。上記の通り結成後18年でゲリラ脱却の絶好の機会があった。政府が自警団の活動を押さえられず、結局破綻した。それからも和平の試みは続いた。一方で自警団も強化され、1997年4月にコロンビア自衛組織連合(AUC)が結成されている。翌98年8月、パストラーナ保守党政権(1998-2002)が発足した。選挙公約にFARCとの和平を掲げていた。就任3ヵ月後、和平交渉のため4万平方㌔という広大な非武装地帯を設定、軍と警察を撤退させた。翌99年1月、非武装地帯南部にあるカグアンという町で和平交渉を開始した。ベネズエラにチャベス政権が発足したタイミングではあるが、関連付ける必要はあるまい。AUCによるテロを理由に中断したこともあったが、交渉はとにもかくにも続けられた。だが2002年2月、交渉は決裂し政権側は非武装地帯指定を解除、今日に至る。
この2002年5月の大統領選挙で、新党「国民社会党統合党(la “U”)」を結成したウリベ氏が当選した。父親をFARCに暗殺されていることもあろうか、彼はゲリラ勢力との妥協の姿勢は見せなかった。ただ、AUCの武装解除には取り組んだ。2002年に10万人当たり66人にも上った殺人率は、彼が連続2期の任期を終えた2010年に35人にまで減少した一つの原因と言っても間違いあるまい。(続く)
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