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2012年7月 2日 (月)

メキシコ制度的革命党(PRI)の復権(1)

気が早いと言われそうだが、71日のメキシコ総選挙の結果発表が無いまま、連邦選挙管理委員会(IFE)の速報値だけを頼りに、今回の大統領選当選者を制度的革命党(PRI)のペーニャニエト候補と判断し、話を進める。NHK6時のニュースでも、彼の勝利、と報道している。議会選の速報は出ておらず、仮に彼が勝利しても、PRIとしての勝利と言えるかどうか、それは次回に述べたい。先ずはPRIの歩みを追う。

なお、公的選挙管理委員会は、どこの国でも開票率何パーセントの段階で夫々の得票数がどうこう、と報せるものだが、人口面、経済力でラテンアメリカ第二位のこの国で、管理委員会はただグラフ化した速報値を表してくれるのみだ。第二位のロペスオブラドル民主革命党(PRD)候補は、公式結果が出るまで、敗北を認めない、と言っているが、現地では既に72日の未明で、7ポイント差が付いている。現与党国民運動党(PAN)のバスケスモタ候補はそれよりさらに5ポイント低い第三位で、ここからの挽回は考え難い。 

19172月、現在も有効ないわゆる「17年憲法」が公布され、メキシコ革命が成立した(私のホームページ「ラ米の革命」のメキシコ革命参照)。労働基本権を定め、資源の国家帰属や土地再分配など、社会主義的な思想が色濃く反映されている。尖鋭的なマルクス主義とは異なるが、ロシア革命の9ヵ月も前に、西半球で成立した革命は、世界史的にも重要視されて良かろう。革命そのものは、長期に亘る一個人の政権を終わらせることが切っ掛けだった。カランサが首都に革命政府を樹立したのが19148月、17年憲法公布後、選挙で大統領に就任したのが19178月、以後今日にまで一個人が政権を複数回担うことは無くなった。

PRIは、メキシコ革命の申し子と言って良い。だから、与党となった起点を、通常言われる前身、全国革命党創設の19293月とするのではなく、革命政府樹立の19148月とすれば、200012月までの86年(通常言われる71年ではなく)もの間、政権を担って来た、とも言える。その中で、初代のカランサは在任中(立憲大統領在任は1917-20)、二代目のオブレゴン(同1920-24)は二期目就任前に暗殺された。三代目のカイェス(同1924-28)は、任期満了による退任の後、全国革命党を創設、最高権力者として影響力を行使した。カルデナス(同1934-40。私のホームページ「ラ米のポピュリスト」ヴァルガスとカルデナス参照)も、事実上彼が指名した。

カルデナス政権下、カイェスは国外追放、党もメキシコ革命党へと改名されたが、その際にメキシコ労働総同盟(CTM)及び全国農民総同盟(CNC)を取り込み、強力な組織政党に仕上げた。石油を国有化した直後のことだ。彼の後任で最後の軍人出身大統領となったアビラカマチョ(同1940-46)が、政党から軍人部会を廃止し、党名をPRIに変更したのは、19461月のことである。以後54年間に亘り9名の大統領を連続輩出し、全員が6年間の任期を務めあげた。

カルデナスはナショナリズムを前面に出して対米関係を毀損したが、アビラカマチョがこれを修復した。第二次世界大戦で、ラテンアメリカ諸国の連合軍支持を纏めたり、ブラジル共々派兵したり、労働力不足に悩む米国に労働者を送り込んだりした結果だろう。対米関係を深化させたのは彼の後任、アレマン(同1946-52)だが、国際的には東西冷戦が始まり、米国を中心とした相互援助条約(リオ条約)や米州機構(OAS)発足で、基本的にソ連圏への対抗と共産主義排斥機運がラ米で一般化した時代である。一代飛んだロペスマテオス(同1958-64)政権は、米州諸国がキューバとの外交関係を絶つ中で、これを維持することにした。だが、対米関係も良好に進んだ。

メキシコの経済発展は、1970年代の石油生産急増に伴うものだ。その中で対外債務が急増し、デラマドリー政権(同1982-88)はこの解決に苦しんだ。IMFによる経済構造調整の要求に応じ、補助金削減、公共料金値上げ、国営企業の民営化、などを進め、社会不安が高まった。加えて1985年には史上最大規模の地震が首都を襲った。それでも、PRIは議会の大半を押さえ、次の大統領選でサリナス(同1988-94)候補は、それまでと同様に、過半数を得票した。 

セディヨ氏(在任1994-2000)は、初めて過半数割れの得票で選出された大統領だ。この時の議会選挙では、PRIが得票率で50%だったものの、上院は4分の3、下院は6割の議席を占めた。1996年、この国でも漸く連邦特別区(メキシコ市)の長が、大統領による任命制から公選制に移行し、クワテモック・カルデナス(上記カルデナスの息。民主革命党(PRD)創設者。1988年、94年、及び2000年にも続けて大統領選に出馬)が当選した。1997年の中間選挙では、下院の議席数は野党がPRIを上回った。PRIは得票率も39%に落とした。国際社会ではメキシコで民主化が進んだ、と好意的な捉え方をしたものだ。

セディヨ氏は、伝統の現職大統領による後任候補指名(dedazo、即ち「指し指」と揶揄される)を行わず、党内予備選で2000年大統領選候補を決めた。そして、PRI候補は得票率37%で、フォックス国民行動党(PAN)候補の得票率42%を下回り、見事に敗退した。民主主義なら当然あって然るべき政権交代が、漸く実現した。そして今日まで12年間続き、今回、今度はPRIに政権交代した。

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