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2012年7月12日 (木)

メキシコ制度的革命党(PRI)の復権(3)

 

ロペスオブラドル(以下AMLO)氏の陣営は、712日に今回総選挙に対する異議申し立てを行う、と言う。制度的革命党(PRI)による票買いは5百万票を上回り、選挙資金は上限を遥かに超え、加えて選挙戦の最中、主要メディアがPRI有利の情報を広く流したことは、違憲の疑いさえもあり、選挙のやり直しも求める可能性もある、とすら言及する。ただ、ここではあくまでPRI勝利を前提に進める。

 

議会勢力は現地の711日現在、下院の小選挙区300議席と上院の32議席を除き、確定していない。連邦選挙管理委員会(IFE)のホームページに出ているのは開票率98.81%段階のままの数字だ。ただロイター電が710日付でIFEへの取材を通した数字見通しを出している。それによれば、制度的革命党(PRI)と「緑の環境党(PVEM)」を合わせた下院全500議席中2402009年中間選挙結果の現議席数計26222下回る)、上院128議席中612006年総選挙の結果、現議席数は合わせて40なので21増)の由だ。いずれも過半数獲得には至っておらず、ペーニャニエト氏は野党に対し、新政権発足後の協力を呼び掛ける。 

PVEMは、1986年に創設され、1997年の議会選で初めて議席を得た。2000年の総選挙では、国民運動党(PAN)と組み、「変革同盟」として下院で224議席、上院で60議席を獲得した。PANから出たフォックス候補を得票率42.5%で、ラバスティーダPRI候補に6.4ポイント差を付けて勝利させた。1917年憲法公布後83年経って初めて、政党間政権交代が実現した。フォックス氏は下院議員とグァナフアト州知事を務めた、言わば選挙を経た政治家出身である。PRI時代の大統領は、ロペスマテオス(在任1958-64)やディアスオルダス(同1964-70)のように、政治家出身もいるにはいたが、殆どはテクノクラート出身だったので、この意味でも新鮮さが感じられた、と思う。就任した時の年齢が58歳、とは、40歳代で大統領に就くのが一般的だったメキシコでは随分の高齢に見えたものだ。 

ともあれ、政権交代を招いた2000年選挙の結果は、メキシコにおける真の民主主義時代の到来、と囃す人が、欧米には多かったようだ。ただ、始まったのは少数与党時代だ。法的措置を伴う改革など困難な政治環境下、期待が大きかっただけにフォックス大統領の人気は短期間で萎んだ。加えて、フォックス政権が環境保護策に熱心ではない、とみて、2001年にPVEMPANとの連合から離脱した。中国の台頭で生産拠点としてのメキシコの存在価値が希薄化し、景気拡大に水を差していたことも影響した、との見方もある。私がブログhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2012/02/post-04cf.htmlで述べた対米協調路線や9.11同時多発テロを理由に挙げるのは、欧米専門家にはあまりいないようだ。

 

上記ブログに記した総選挙、中間(下院)選挙推移から言えることは、

1)PANは総選挙では勝っても、少数与党 

2)中間選挙では議席数でPRIに追い越される 

2点だ。PANは、2003年の中間選挙で大敗を喫したが、その後は経済安定で支持回復は顕著だった。 

2006年の総選挙は、ロペスオブラドル(以下AMLOPRD候補がカルデロンPAN候補に0.56%の僅差で敗退し、その後首都の目抜き通り閉鎖などの抗議運動を経て「政党大統領」を名乗る衝撃的な展開を見たことで注目度が高い。だが着目すべき点は他にも多い。PVEMが、今度はPRIとの連合に変わった。当選こそしたものの、カルデロン候補が得た得票率は、メキシコ史上最低の35.9%だった。AMLOと言うカリスマ政治家の出馬で割を食った分もあろう。PANの議席数は206へと大幅に伸ばしたものの、少数与党の立場は続く。一寸気が付き難いが、カルデロン氏が下院議員経験者とは言え前任者の閣僚を務め、また大統領就任年齢が44歳と若く、PRI政権時代に似て来た。  

2006年総選挙のAMLO登場で、PAN以上に割を食ったのがPRIだ。PVEMとの連合にも拘わらず大統領選ではマドラソ候補が得票率22.3%に終わった。議会では下院で初めてPRDに第二党の座を奪われ、同党史上最低の議席数、と言う屈辱を味わう。だが2009年下院選で議席数を倍増以上の241へと大きく回復、PVEMと合わせれば議会過半数を得た。PANの獲得議席数は147で、59減らした。国民の多くがAMLOに愛想を尽かし、彼のPRDも議席数を54減らした。その分、PRIの議席増に繋がっている。 

カルデロンPAN政権にも、少数与党の宿命で思い切った内政改革は難しい。打ち出した麻薬カルテルに対する強硬策は、勿論対米協調を進める意味合いが強かったにせよ、国民受けを狙ったものだったのは明らかだろう。これがすっかり裏目に出た。カルデロン政権の麻薬戦争は一般国民の眼で見れば泥沼化の一途を辿った。PANへの支持率は凋落を続けた。そして今回総選挙では大統領選でのバスケスモタ候補の得票率25.4%、下院予想議席数は3年前をさらに下回る114と、何とも6年前のPRIの再現を見ているようだ。

 

2000年以降、メキシコが政権交代の可能な民主国家に脱皮した、と言うのは、3年毎に訪れる選挙で、ただでさえ少数与党を大敗させる政治に進んだ。ペーニャニエト氏は今のPRI2000年の時とは異なる、と新生PRIを強調し、政権運営に野党に協力を求めているのは、独立独歩のPAN政権時代から学んだ教訓からだろう。

 

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2012年7月10日 (火)

メキシコ制度的革命党(PRI)の復権(2)

76日、大統領選の開票結果が出た。速報段階で第二位のロペスオブラドル(以下、彼のフルネームであるAndrés Manuel López Obrador を略して通称となっているAMLOで表記、敬称を省略する)民主革命党(PRD)候補が全票の再集計を要求し、連邦選挙管理委員会(IFE)が全部で14万箱余りの投票箱の内、半分の再集計を行った結果で、彼の得票率は31.6%、第一位のペーニャニエト制度的革命党(PRI)候補の38.2%6.6ポイント、330万票下回った。だがAMLOPRIによる票買いや法定枠を大きく上回る選挙資金などの選挙不正を理由に、連邦選挙法廷に申し立てた。

2006年選挙ではカルデロン現大統領に0.58%、約24.3万票差で敗退した。AMLOはこれを認めず、今回とまったく同様に、全票再集計を要求、連邦選挙法廷への申し立てを行った。また自らこそが次期大統領である、として数十万規模の支持者集会を何度も行い、7月末には支持者らによる首都の目抜き通り封鎖で、経済活動を著しく妨害する行動にも出た。8月に入り、法廷はIFEに全体の9%ほどの再集計を命じ、1ヵ月後の95日、0.56%、約24.4万票差でカルデロン国民運動党(PAN)候補の勝利を全会一致で評決した。AMLOの抵抗は続く。916日の独立記念日から「国民民主コンベンション」と呼ぶ集会を繰り返し、1120日のメキシコ革命勃発記念日に、自らを「正統大統領」として「並行政府」宣言を行う。

今回も同様の動きを辿るのか心配だが、得票差は6年前とは比較にならないほど大きい。AMLO自身、選挙不正への抗議はあくまで平和裏に行う、と言っている。今後の推移を見守りたい。 

YoSoy132運動は、要するにPRI復権を拒否するものだろう(http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2012/06/post-df1f.html参照)。だが、AMLOを応援するものではない、としながらも、実際にはAMLOを利する動きだった、と言えよう。現実に、ペーニャニエト氏の圧倒的優位を、選挙戦終盤にAMLOが猛追した。

外国メディアは選挙戦の頃からPRI復権への懸念を思わせる報道が目立った。どうも行きつくところは、麻薬問題のようだ。彼の当選にすぐさま祝意の電話を入れた一人がオバマ大統領だが、米国が最も気にするのは、新政権による麻薬戦争の見直し、と思う。現カルデロン政権が進めて来た麻薬戦争は、米国の意向に沿うものだった。結果が、夥しい犠牲者の数だ。麻薬カルテルは、そのままの形ではなくとも、健在、と言える。あまり国民の支持を受けているとは言い難い。

ペーニャニエト氏は、新たな照準として地方に根を張る小規模組織を考える。「ロス・セタス」や「シナロア・カルテル」のような大規模組織とは言え、地域の縄張りは夫々の小規模組織が持つ。彼らを押さえる方が治安戦略上効果的、との考えがあるようだ。ただそのために「国家憲兵隊(Gendarmería Nacional)」と呼ぶ自警団を創設するにしても要員は軍からの転用になり、その分軍が弱体化するとの懸念もある。そもそもかつてのPRI政権は大規模麻薬組織との繋がりがあった、と言う見方は米国で根強そうだ。今でも、PRIは麻薬組織と暴力を止めれば彼らのビジネスを目こぼしする、との密約を交わしている、という噂がある。勿論、PRIはこれを強く否定している。 

1946年からの54年間、文民大統領になった人たちは、全て前政権の閣僚を務めていた。初代文民大統領のアレマン(在任1946-52、以下、同)は内相、次のルイスコルティネス(1952-58)は大統領府長官、続くロペスマテオス(1958-64)は労相、ディアスオルダス(1964-70)とエチェベリア(1970-76)は内相、ロペスポルティーヨ(1976-82)は財務相、デラマドリー(1982-88)とサリナス(1988-94)は予算・企画相、そして最後のセディヨ(1994-2000)は教育相だった。議院内閣制ではないので、閣僚にはテクノクラートが多い。だから現職大統領による後任候補指名(dedazo)対象者でも、議員や民選知事を経験しない人も多く、上記の過半数はテクノクラートだ。そして、8人までが40歳代、と若い。最後の3人はいずれも米国の大学留学を経験している。

デラマドリーまでの得票率は、常に70%を超えていた。サリナス候補も51%だったが、これはPRIを離党しPRDを創設したクワテモック・カルデナス候補がいきなり30%強の得票率を挙げたためだ。サリナス氏は、閣僚ではなく下院議員だったコロシオ(1950-94)を後任指名したものの暗殺されたため、閣僚を務めたセディヨ氏に代えた。得票率は過半数を初めて割り込んだ、とは言え49%だった。メキシコは複数政党制を採る。その中での超長期に亘る一党政治支配だ。これを見せつけられた格好だった。自民党政権時代が続く日本では、意外ではなかったろうが、国際的に見ると異様に思える。何かからくりがあった筈だ、そもそも超長期政権で腐敗が無い筈もない、と思う人たちが、特に若者や貧困層にいてもおかしくはなかろう。

そのセディヨ政権が、従来のしがらみを越えた。これまたどういう仕組みか、私自身は検証していないが、地方選挙では非PRI州知事が誕生する。1997年に始まったメキシコ市長公選でPRD候補が当選し、以後首都市長はPRD の指定席になる。同時に行われた議会選で、従来圧倒的議席を保持して来たPRIは前議席改選の下院で過半数割れに追い込まれた。私には、欧米系のニュースで、メキシコに本来の民主主義が到来した、と歓迎する意見が強まった、との記憶がある。さらにセディヨ氏は、後任指名をしなかった。そして2000年選挙を迎えた。

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2012年7月 2日 (月)

メキシコ制度的革命党(PRI)の復権(1)

気が早いと言われそうだが、71日のメキシコ総選挙の結果発表が無いまま、連邦選挙管理委員会(IFE)の速報値だけを頼りに、今回の大統領選当選者を制度的革命党(PRI)のペーニャニエト候補と判断し、話を進める。NHK6時のニュースでも、彼の勝利、と報道している。議会選の速報は出ておらず、仮に彼が勝利しても、PRIとしての勝利と言えるかどうか、それは次回に述べたい。先ずはPRIの歩みを追う。

なお、公的選挙管理委員会は、どこの国でも開票率何パーセントの段階で夫々の得票数がどうこう、と報せるものだが、人口面、経済力でラテンアメリカ第二位のこの国で、管理委員会はただグラフ化した速報値を表してくれるのみだ。第二位のロペスオブラドル民主革命党(PRD)候補は、公式結果が出るまで、敗北を認めない、と言っているが、現地では既に72日の未明で、7ポイント差が付いている。現与党国民運動党(PAN)のバスケスモタ候補はそれよりさらに5ポイント低い第三位で、ここからの挽回は考え難い。 

19172月、現在も有効ないわゆる「17年憲法」が公布され、メキシコ革命が成立した(私のホームページ「ラ米の革命」のメキシコ革命参照)。労働基本権を定め、資源の国家帰属や土地再分配など、社会主義的な思想が色濃く反映されている。尖鋭的なマルクス主義とは異なるが、ロシア革命の9ヵ月も前に、西半球で成立した革命は、世界史的にも重要視されて良かろう。革命そのものは、長期に亘る一個人の政権を終わらせることが切っ掛けだった。カランサが首都に革命政府を樹立したのが19148月、17年憲法公布後、選挙で大統領に就任したのが19178月、以後今日にまで一個人が政権を複数回担うことは無くなった。

PRIは、メキシコ革命の申し子と言って良い。だから、与党となった起点を、通常言われる前身、全国革命党創設の19293月とするのではなく、革命政府樹立の19148月とすれば、200012月までの86年(通常言われる71年ではなく)もの間、政権を担って来た、とも言える。その中で、初代のカランサは在任中(立憲大統領在任は1917-20)、二代目のオブレゴン(同1920-24)は二期目就任前に暗殺された。三代目のカイェス(同1924-28)は、任期満了による退任の後、全国革命党を創設、最高権力者として影響力を行使した。カルデナス(同1934-40。私のホームページ「ラ米のポピュリスト」ヴァルガスとカルデナス参照)も、事実上彼が指名した。

カルデナス政権下、カイェスは国外追放、党もメキシコ革命党へと改名されたが、その際にメキシコ労働総同盟(CTM)及び全国農民総同盟(CNC)を取り込み、強力な組織政党に仕上げた。石油を国有化した直後のことだ。彼の後任で最後の軍人出身大統領となったアビラカマチョ(同1940-46)が、政党から軍人部会を廃止し、党名をPRIに変更したのは、19461月のことである。以後54年間に亘り9名の大統領を連続輩出し、全員が6年間の任期を務めあげた。

カルデナスはナショナリズムを前面に出して対米関係を毀損したが、アビラカマチョがこれを修復した。第二次世界大戦で、ラテンアメリカ諸国の連合軍支持を纏めたり、ブラジル共々派兵したり、労働力不足に悩む米国に労働者を送り込んだりした結果だろう。対米関係を深化させたのは彼の後任、アレマン(同1946-52)だが、国際的には東西冷戦が始まり、米国を中心とした相互援助条約(リオ条約)や米州機構(OAS)発足で、基本的にソ連圏への対抗と共産主義排斥機運がラ米で一般化した時代である。一代飛んだロペスマテオス(同1958-64)政権は、米州諸国がキューバとの外交関係を絶つ中で、これを維持することにした。だが、対米関係も良好に進んだ。

メキシコの経済発展は、1970年代の石油生産急増に伴うものだ。その中で対外債務が急増し、デラマドリー政権(同1982-88)はこの解決に苦しんだ。IMFによる経済構造調整の要求に応じ、補助金削減、公共料金値上げ、国営企業の民営化、などを進め、社会不安が高まった。加えて1985年には史上最大規模の地震が首都を襲った。それでも、PRIは議会の大半を押さえ、次の大統領選でサリナス(同1988-94)候補は、それまでと同様に、過半数を得票した。 

セディヨ氏(在任1994-2000)は、初めて過半数割れの得票で選出された大統領だ。この時の議会選挙では、PRIが得票率で50%だったものの、上院は4分の3、下院は6割の議席を占めた。1996年、この国でも漸く連邦特別区(メキシコ市)の長が、大統領による任命制から公選制に移行し、クワテモック・カルデナス(上記カルデナスの息。民主革命党(PRD)創設者。1988年、94年、及び2000年にも続けて大統領選に出馬)が当選した。1997年の中間選挙では、下院の議席数は野党がPRIを上回った。PRIは得票率も39%に落とした。国際社会ではメキシコで民主化が進んだ、と好意的な捉え方をしたものだ。

セディヨ氏は、伝統の現職大統領による後任候補指名(dedazo、即ち「指し指」と揶揄される)を行わず、党内予備選で2000年大統領選候補を決めた。そして、PRI候補は得票率37%で、フォックス国民行動党(PAN)候補の得票率42%を下回り、見事に敗退した。民主主義なら当然あって然るべき政権交代が、漸く実現した。そして今日まで12年間続き、今回、今度はPRIに政権交代した。

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