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2012年6月27日 (水)

パラグアイ議会がルゴ大統領罷免(その2)

共産党一党支配下の社会主義国、キューバを除くラテンアメリカ18ヵ国の内、13ヵ国までが、大統領選に関しては決選投票制を敷く。パラグアイは、メキシコ、ホンジュラス、パナマ、ベネズエラと共に決選投票が無いと言う点で特殊、と言える。この中で、議会が二院制、と言うのはパラグアイとメキシコだけだ。

メキシコとパラグアイでは、夫々制度的革命党(PRI)とコロラド党が連続して、夫々71年間及び61年間もの長期政権を担った歴史を持つ。これまた、ラテンアメリカはおろか、世界的に見ても極めて珍しい。ただ後者はその内の35年間もの間、連続してストロエスネル(1912-2006。在任1954-89年)個人が大統領を務めた。1920年以降、大統領を経験した同一人物は二度と大統領を務めなくなったメキシコと異なる。メキシコではディアス(1830-1915)独裁が1910年にメキシコ革命を勃発させた(私のホームページ「ラ米の革命」のメキシコ革命参照)。大統領再選禁止は、ディアス期を反面教師にしている。パラグアイではストロエスネル時代を反面教師として、彼をクーデターで追放した後、メキシコと同じように大統領の再選は無くなった。 

前回述べた3年前のホンジュラスのセラヤ追放劇との関連で、同国とパラグアイを比較してみたい。両国とも人口の九割が白人と先住民の混血、メスティソだ。国土面積こそ前者が後者の四倍近いものの、人口では大差無い。一人当たりGDPは前者が後者の二倍とは言え、ラ米全体として貧困国に位置する。そして、いずれも一世紀以上も続く二大政党による政治文化にある(前者の真正急進自由党は創設後半世紀とは言え、1887年に結成された自由党の流れを引く)。

議会は、ホンジュラスが一院制、という違いこそあれ、いずれもラテンアメリカで一般的な比例代表制だ。ホンジュラスでは与党国民党が議会定数128議席の内、過半数の71、野党自由党は45だ。この二大伝統政党だけで計117議席を占める。パラグアイは上院が定数は45名、下院が80名だ。前者は全国区、後者はブロック別に分けられる。定数合計125議席の内、与党の真正急進自由党が43、野党のコロラド党が45で、この二大伝統政党が占めるのは88議席となっている。割合はホンジュラスほど高くはないが、それにしても伝統的二大政党制が残っていること自体、二十一世紀のラテンアメリカでは稀有と言える。 

パラグアイは、ラテンアメリカ諸国では最も早い1813年に独立した。建国後の最高権力者は、57年間にもわたってフランシア(1766-1840)、アントニオ・ロペス(1790-1862)、フランシスコ・ソラノロペス(1827-70。前記アントニオの息)の僅か3人だった。彼らによる殖産振興が奏功し、軍事力を含む国力が高まり、国民の教育水準も域内で最高だった、と伝わる。ブラジル・アルゼンチン・ウルグアイ三国同盟との戦争(「パラグアイ戦争」、ホームページ「ラ米の戦争と軍部」のラ米確立期(1860-1910年代)の戦争参照)も、緒戦は優勢に展開された。ただ、結果的には人口の半分が失われたと言われる破滅的な敗戦に至った。その責任者であるソラノロペスは今も国民の英雄であり、今なお続く隣国への反骨精神を物語る。ストロエスネル時代を加算すると、この4人が最高権力者だったのは、1989年までの独立後176年間の内、92年間にもなる。

ホンジュラスは、中米統合の父と敬われるモラサン(1792-1842)の生国だが、建国以来隣国、特にグァテマラの影響を受け易い状況が続いた。長く最高権力者の座にあった、として私が思い浮かべられるのは、カリアス(1876-1969)程度だ。パラグアイは飛び抜けた例外だろうが、メキシコ及びグァテマラとも比較になるまい。一生涯に一度しか大統領になれないのは、自国内に反面教師が存在する、というよりも、グァテマラに歩調を合わせた結果ではなかろうか。 

パラグアイの南米南部での地位は、経済規模では南米最小国だ。国民に人種偏見が希薄なことでも知られ、グアラニー族先住民と白人との混血、メスティソ及びその子孫が、全体人口の9割を超え、ボリビアを除くと、白人が大半を占める周辺諸国とは異なる。では遅れた国か、と言えば、識字率や平均寿命はブラジルの数値を上回り、域内先進国のウルグアイ、チリ、アルゼンチンと比べ遜色無い。ホンジュラスは南米北部に連なるチブチャ系先住民を中心としたメスティソが人口の9割を超える。割合は低いが、南の隣国ニカラグアと似る。西の隣国グァテマラとエルサルバドルには、メキシコ南部同様、マヤ系先住民を中心としたメスティソが多い。白人国で囲まれるパラグアイと異なる点だ。識字率こそグァテマラやニカラグアを上回るが、平均寿命は中米で一番低い。いずれもパラグアイとは大きな開きがある。

治安面ではどうか。国際連合薬物犯罪事務所(UNODC)の世界の殺人率(人口10万人に対する殺害された人数)によれば、パラグアイは11人、チリ、ペルー、アルゼンチン、ウルグアイより高いが、ブラジルの半分だ。ホンジュラスは繰り返すが、82人、世界一高い。パラグアイと比べようもない。 

現地時間の明日、アルゼンチンのメンドーサでメルコスルの首脳会議が開始される。ただメルコスルとしては、去る624日、パラグアイを資格停止にしており、フランコ臨時大統領の出席は叶わない。引き続き、と言えようが、南米諸国連合(Unasur)特別首脳会議も開かれる。実はルゴ氏はUnasur持ち回り議長に就いたばかりだったが、退陣によりペルーのウマラ大統領に代わった。引き継ぎも兼ね、この会議にルゴ氏が出席する話もあったが、彼には代表権限が無く、出席すれば懲罰を受ける、とのパラグアイ新政府の発表で、取り止めとなった。Unasur事務局長も、ベネズエラのロドリゲス前外相に交代したばかりだ。この首脳会議で南米諸国が新政権の承認に踏み切れるのだろうか。

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2012年6月25日 (月)

パラグアイ議会がルゴ大統領罷免

622日、ルゴ大統領に対する罷免のための審議が上院で5時間行われ、賛成39名、反対4名、棄権2名で決議(言語ではjuicio político、即ち「政治判決」)された。聞き慣れない表現だが、憲法にも規定がある由だ。弾劾審議のようなものだが、通常はスキャンダルや国家指導者としては破廉恥な行為、或いは著しい失政が対象となろう。彼への罷免理由は、パラグアイにおける社会対立激化への任務の不履行とされている。報道を読むと、彼に対する弾劾事由は;

1)615日に17名の死亡者が出た(土地無し農民と警官隊との衝突)

2)2009年に左派政党が軍基地で政治集会を開催させた

3)ブラジル人所有の大豆農園を3千人が不法占拠した

4)誘拐や警察署襲撃を行って来たパラグアイ人民軍を名乗るゲリラのメンバー逮捕に失敗した

5)大統領は適正な議会承認を経ず国際議定書に署名した

判決文をきちんと読んでおらず、間違いかも知れないが、私の解釈では、上記の内、1)と3)は、大統領が力を入れる農地改革政策で、甘やかし過ぎた土地無し農民の左派グループが惹き起こしたもので、大統領に責任がある、また、2)と4)も左派に甘い大統領の体質に原因がある、との判断ではなかろうか。5)は何の事を指すのか、どなたかご存知なら教えて頂きたい。よく知られたことで、彼に隠し子がいた、という理由なら、どこの国でもあるスキャンダルによる弾劾だが、1)~4)の理由が弾劾に相当するとは、普通にあり得ようか。 

もう少し見よう。621日、つまり前日、下院が761の大差で彼を「政治判決」を受けさせる決議を行った。政治判決は上院の役割のようだ。一種の裁判であり、被告には当然弁護士が就く。「被告」は大統領であり、弁護団が組成された。彼らは審議に18日間を提示した。だが「裁判長」に相当すると思われる上院議長はこれを拒絶、僅か2時間の弁明時間が与えられただけだ。

街頭では彼の支持者らがデモで警官隊と衝突した。支持者の抗議活動激化への恐れを受け、学校は休校、都心の商店街は閉店が目立った、と報じられる。ルゴ大統領は、国民と民主主義に挑むクーデターである、と断じながらも、国情不安に陥る可能性を理由に、上院決議を受け容れ、任期を1年余り残し、退陣した。そして直ちに、政権与党である真正急進自由党のフランコ副大統領(49歳)が、ルゴ氏の任期残を務める大統領宣誓を行った。ルゴ氏は市民議会による判決をたった一日の出来事で、このニュースに私も驚いてしまった。 

19892月に35年間も続いたストロエスネル(1912-2006)政権がロドリゲス(1923-97)将軍によるクーデターで崩壊し、同将軍が民選大統領に就いてから23年経った。最初の文民大統領に就いたワスモシ政権下の19964月、オビエド将軍がクーデターを試みたが、未遂に終わった。民主主義を後戻りさせない、と言う他のメルコスル諸国の強い意志による外交努力で解決した事例として語られたものだ。

19993月、クバスグラウ大統領が政権を発足させて7ヵ月で辞任した。就任直後にオビエド将軍に恩赦を与えたが、これが違憲であるとの最高裁判決を引き出し、議会が同調、アルガーニャ副大統領が暗殺され、また反政権デモの中で4名が死亡し、議会で進められていた大統領弾劾手続きに先手を打ったものだ。副大統領が死去していたため、ゴンサレスマキ上院議長が、45ヵ月もの任期残を担う臨時大統領に就いた。クバスグラウ氏はブラジルに亡命した。ついでながら、ロドリゲスマキ氏も二度、議会による弾劾を受けたが、任期は全うした。 

20096月のホンジュラスにおけるセラヤ大統領追放事件(本ブログhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2009/06/post-e8d4.html参照)では、いかに最高裁が合憲を断定し、臨時大統領となった国会議長が正統を叫んでも、国際社会は押し並べて正統性に欠ける、とし、臨時政権を認めずセラヤ復帰を求めた。これが実現せぬまま臨時政権下で行われた同年11月の総選挙結果に対する評価は、民意であり尊重すべき、とする米国などと、正統性の無い政権下での選挙は無効、とする、主として南米諸国とが真っ向から対立(この点、次のブログ記事を参照願いたい。http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/post-31eb.html)、セラヤ帰国で最終的解決を見るまで、二年もかかった。

ルゴ大統領罷免劇は、本人に十分な弁明時間も与えなかったことで、ラテンアメリカ諸国から厳しい批判を受けている。ルゴ氏本人は、議会による「判決」を受け容れ、2013年の総選挙で上院議員に立候補することを表明しており、軍が関与して追放され、その後復帰を訴えたホンジュラスのセラヤ氏のケースとは性格が全く違う。それでも米州ボリーバル同盟(ALBA)諸国やアルゼンチンなどは収まらない。これを「議会クーデター」と表現、新政権を承認しない姿勢を早々と打ち出した。フランコ臨時政権の正統性を巡る米州諸国の意見集約がとうなるのか、注目したい。

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2012年6月22日 (金)

フォークランド戦争30周年

619日、メキシコのロスカボスで前日始まったG20サミットの休憩時間で起きた一コマである。イギリスのキャメロン首相がアルゼンチンのフェルナンデス大統領に近寄り、フォークランド(イギリスの呼称。アルゼンチン名はマルビナス。この領有権問題については、一度このブログで出したhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/post-8a42.htmlを再読願いたい)島民が2013年に行う自治権に関する住民投票の結果を見よう、と語った。彼女はすぐさま、国連決議に従い二国間協議に入ろう、と返し、決議文の入った封筒を彼に渡そう、としたところ、彼は受け取りを拒否、引き返した。 

その5日前の614日のことだ。この日はイギリスにとってアルゼンチンとの74日間に亘るフォークランド戦争を制した日で、前13日、キャメロン首相が、島民がアルゼンチンの脅威に晒されている、として、彼らの保護を改めて約束していた。さらにその前日の12日、フォークランド議会(政府)が明2013年の住民投票を実施する旨を発表、彼はこの投票こそが全てを決める、と支持していた。この日、フォークランドの首府ポートスタンレーで戦勝祝賀行事が行われ、ここには英軍統合参謀長のリチャーズ卿も列席している。

その614日、フェルナンデス大統領が、国連の「Decolonization(植民地支配終結)委員会 」に、居並ぶ8名の島民代表団を前に、ティメルマン外相など4名の閣僚、野党を含む国会議員団など、計60名を引き連れて出席した。国家最高指導者自らがこの委員会に出席するのは初めてだそうだ。彼女はパタゴニア半島の南端に近いウシュアイアで42日に開催されたマルビナス戦没者(アルゼンチン649名。イギリスは255名)追悼30周年記念式典に出席した。その一週間後の第六回米州サミットの共同宣言にマルビナス領有権、乃至は対英交渉再開を入れようとして失敗したことについては、このブログでも紹介した(http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2012/04/post-767a.html)。島民の意志を尊重すべき、との主張一辺倒で交渉のテーブルに就くことすら拒絶し続けるイギリスの交渉引っ張り出しに、結局同委員会にまで足を踏み入れた。

彼女は、対英要求はただ一点、対話である、と強調、19747月にイギリス政府から当時のペロン政権に対し秘密裏に提示され、彼の死去、軍政復活により陽の眼を見なかった共同統治案を例示して見せた。島民代表団は、自らの自決権に関わる対話は、アルゼンチンがイギリスと行うのではなく、島民と行うべき、とする書簡を彼女に渡そうとしたが、対話相手はあくまでもイギリス政府、として、受け取りを拒否された。これは領土問題だ。島民が幾ら自決権を訴えても、国際的には国連憲章第11条に基づく非自治地域に指定されている。国家としての統治はイギリスが行っている。統治権はアルゼンチンチンが主張している。どちらに主権があるかは、当事国同士で交渉の上決める。 

非自治地域とは、自らの政府を持ち得ない地域で、州や県、と言った母国の海外自治体にも成りえぬ場所を指す。要するに植民地のようなものだ。現在、フォークランドを含め世界に16箇所有り、その内の9箇所がフォークランド同様、大西洋・カリブ地区にある。8箇所までが英領で、オフショア金融や観光地で日本でも馴染みの深いケイマン及びバミューダは、人口56万人と独立国のドミニカやセントキッツ並みなので、独立を含む脱植民地への新たな展開も有り得よう。フォークランドの人口はその8箇所中最少の3千人だ。母国の庇護は必要だろう。一朝ことがある、或いは予見されれば、14千キロ離れた本国、イギリスから軍が派遣される。今年は英企業の石油開発に対するアルゼンチンの警告を理由に、イギリス王位継承権者の一人、ウィリアム王子まで加わった艦隊を派遣した。

非自治地域は夫々が自前の旗を持つ。英領は、全てユニオンジャックをあしらっている。14日、フェルナンデス大統領が「フォークランドを名乗るマルビナスの旗を見ると恥辱を覚える」と言ったものだ。この旗を掲げる船舶は、現在アルゼンチンを含むメルコスル諸国とチリへの寄港が阻まれる。ALBA諸国も同様だ。また、アルゼンチンの立場は、全てのラテンアメリカ・カリブ共同体(CELAC)の支持も得ている。国連に交渉の命令権が無い以上、たな晒し状態は続く。

英領非自治地域でイギリスが他独立国と領有権を争っているのは、私が知る限りフォークランドのみだ。カリブ島嶼部には十六世紀に進出し、人口過小地帯を支配し、十七世紀にはキューバ、現ドミニカ共和国及びプエルトリコを除く全てがスペイン以外のヨーロッパ列強の支配下に落ちた。大半が、英領となった。1670年のマドリード条約で、スペインはカリブ海域に限り現実を追認し、領有権を放棄した。フォークランドへは、18331月、アルゼンチンが独立後の国情不安な時期に、軍艦を派遣し入植地を占領する形で踏み込んで来た。ポツダム宣言受諾に動いていた日本の北方領土に侵攻し、日本の戦えない北方防衛軍を前に、殆ど一方的武力制圧で自国領土に組み入れた旧ソ連とよく似た経緯だ。

Decolonization委員会は24ヵ国で構成される。モレホン委員長(エクアドル人)は、大統領の出席は国連システムへの信頼性を高める上で歴史的、と評価したが、行われた決議は従来通り、両当事国間は交渉を通じて平和裡に問題解決策を求めるべき、としたものだった。何度同じ議決を繰り返そうが、国連の議決であろうが、イギリスは、住民の意志に委ねるべきで、アルゼンチンとの国家間交渉は無用、として、無視し続けてきている。同委員会にアルゼンチン大統領が出席しようが、イギリスからは代表団参加はおろか、国連大使すら出席しなかった。 

G20に話を戻す。キャメロン首相は名指しこそしなかったが、演説に、国内産業保護のため輸入規制を敷き、また進出した外国企業から子会社を接収したG20メンバーに相応しからぬ国の存在、に言及した。非礼を通り越した演説でフェルナンデス大統領には悔しい思いもあったろう。

アルゼンチンは今、輸入規制(事前審査制度導入及び関税引き上げ)で日欧米など諸外国の批判を受けている。輸入代替産業育成、という、半世紀以上も昔の政策の復活を図るものと言われ、批判は身内のメルコスル諸国からも受ける有様だ。また会場にはYPF接収という問題を抱えるスペインのラホイ首相も来ていたが、スペインのみならず外国企業のアルゼンチン向け投資意欲に水を差す。アルゼンチンの今後について極めて重大な問題であり、イギリスの非礼と傲慢に向かうには、輸入規制と外国投資の問題解決が急がれよう。

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2012年6月13日 (水)

ベネズエラ大統領選の行方

610日、エンリケ・カプリーレスラドンスキ-(以下カプリーレス)氏が107日の大統領選立候補を正式に届け出た。それより数日前に、ミランダ州知事を辞任した。カラカス東部から選挙管理事務所(CNE)までの約10kmを、数十万の支持者の中をジョギングで辿った。翌11日にはチャベス現大統領が新憲法下の第三回目の連続再選を狙って、政権綱領を携え同様の届け出を行った。彼は大統領官邸と選挙管理事務所の僅か数ブロックを、数十万人の支持者に囲まれながらオープンカーで華々しくパレードした。久し振りの大衆面前登場だ。前日のカプリーレス氏のパフォーマンスを意識したものかどうかは分からない。正式に大統領選挙戦がスタートするのは、71日、となっている。

世論調査は幾つか出ている。両氏の支持率は調査会社によりえらく異なり、カプリーレス氏優位のものあり、チャベス氏の圧倒的優位ありで、余り参考になるまい。寧ろ、チャベス氏の健康問題が尾を引く。万が一、大統領選出馬断念に追い込まれても、投票日の10日前までであれば彼の陣営からの交代は認められている。だが、外電が囃す有力後継候補(国会議長、国防相、外相など)の誰が出ても、苦戦は免れまい。ともあれ、ここではチャベス対カプリーレスで書き進める。 

去る511日夜、チャベス大統領が、このブログでも採り上げた癌の再摘出手術http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2012/03/post-e1da.htmlを含め、224日から数えて僅か2ヵ月半で6回目のキューバとの往復を終え、カラカスに帰着した。ハバナ滞在期間は、最初は21日間、3度の45日間の繰り返し、前回11日間、今回12日間と計算して行くと、この間の半分以上になる。その後のハバナ往復は無いが、テレビを通じたものも含め公衆に姿を見せる機会は、数えるほどしか無い。

69日、彼は、キューバでの放射線治療を経て帰国後行った様々な検査の結果、癌の再々発の脅威は無くなり、これまでの治療が成功したことを証明した、体調は非常に良い、と語った。4月、「やり残したことがあり、我に命を」と涙して祈った、とのニュースが出たことがある。だが、最後にハバナに発つ直前の430日、大統領授権法により自ら纏め挙げた改正労働法に署名し、確か一週間後に発効した。週40時間労働(従来は44時間)など、労働者保護を強化する内容だ。労働基本権に関わる重要な法律で、議会審議を経ずに通したことを、野党は批判したし、カプリーレス氏も、明らかな選挙目当てだ、と明言、且つ、最も重要な失業問題の解決にはマイナス、とも指摘したものだ。 

カプリーレス氏の政見については、予備選挙結果を報告した本ブログのhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2012/02/post-5085.htmlを参照願いたい。チャベス氏が盟友とし、暫く彼同様の癌治療で騒がれたブラジルのルラ前大統領の政治をモデルにしており、決してチャベス政治の対極にある右派志向ではない。それだけに、チャベス氏には政見論争で彼を攻撃し難い。だから、米国が支援する、だの、ユダヤ系ブルジョアジーだの、チャベスを真似ると言いながら実は本性を隠しているだの、情緒的な攻撃を、いやしくも一国家の最高指導者としては驚くべき口汚さで繰り返す。

だがかかる攻撃が全くの的外れでもないことは、確かだろう。430日のハバナ出発直前、チャベス氏は米州機構(OAS)に帰属する米州人権委員会(Inter-American Commission on Human RightsIACHR。本部ワシントン)よりの脱退の意向を表明した。ちょうど10年前の20024月、彼が短期間失脚した際に発足したカルモナ政権を同委員会は承認した。これを理由に彼は同委員会を「米国の利益のためのサービスに偏重した機関」として糾弾して来た。だが同委員会にコミッショナーを出すなど、現実に忌避している様子は見られなかった。実際にはメディア規制批判を繰り返す同委員会が煙ったいからだろうし、ブラジルなどラテンアメリカ諸国の幾つかの国も、国家主権に介入し過ぎる、として同委員会を嫌う。カプリーレス氏は、無責任である、としてチャベス意向を批判、すぐさま反応したのは、やはり対米修復を念頭に置いているから、と思われる。

チャベス大統領は、言うまでもなく米国にえらく評判が悪い。彼が進める外資系企業に対する規制や接収は、米国にはもっての他だ。仮にカプリーレス政権が誕生すれば、真っ先にこの路線の破棄を要求して来よう。また口にせずとも米国がカプリーレス勝利を望んでいることは確かだ。 

チャベス大統領は癌手術、癌治療で闘って来た上で粉骨砕身している、と彼を再評価する国民も多かろう。ラテンアメリカ最悪と言われるインフレ、高い失業率、そして高い殺人率(公的機関によるものではないが)に示された治安の悪さ、非常識に映る彼の言動にも拘わらず、今の彼の国民的人気は高い。チャベス党とも言える与党統一社会党(PSUV)が2010年議会選で獲得した議席数は全体の6割超ではあっても、得票率では48%だった。それから時間も経ち、PSUV自体への有権者支持率がどうなっているかは分からないが、少なくとも今年の大統領選での彼自身の敗北を予想するのは難しい。

万が一カプリーレス氏が勝利すれば、早速任期3年を残す議会対策で苦慮することになる。彼の政治基盤はまた、定数165の議会で僅か6議席の「正義第一(PJ)」と言う弱小政党で、民主統一会議(MUD)を構成する政党の中で四番目の勢力に過ぎない。果たしてMUDを纏め切れるのか気になるほどだ。加えて、上記の通りPSUVという巨大な野党を抱えることになる。そんな大統領に、インフレ退治や雇用創出、治安回復は難問で、チャベス氏が選挙戦でここを突き付ければ、それだけでも苦戦しそうだ。

カプリーレス暗殺謀議の情報がある、しかも保守層によるものだ、とチャベス大統領が警告した、とのニュースが流れたことがある。対抗することへの脅迫とも取れる。また、我々はチャベスと共にある、などと言う軍幹部の発言も流れた。軍の中立性を絶対とする民主主義の根幹に関わる暴言だ。いずれも外電で読んだものだが、チャベス氏の立場では泰然自若として当然の中、事実とすれば何ともおぞましい。加えて、最近彼自らが設置した「国家評議会」(評議員がどう決められたか知らないが)なる大統領の最高諮問機関で重要政策を決める動きが事実として有る。

 

一個人が10年以上もの長い期間、連続して最高権力を行使するのは、如何に国民的英雄であろうが、私は好ましくない、と考える。しかしどうしても本人が国民のための革命を遂行する自分の使命だ、と主張し、周囲が、そして国民もそれを望むのであれば、せめて選挙戦くらい堂々と政策論議で臨んで貰いたいものだ。

 

 

 

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2012年6月 4日 (月)

メキシコの大統領選と麻薬戦争

メキシコ総選挙まで一ヵ月を切った。最近の各種世論調査では、これまで圧倒的優位に立っていた制度的革命党(PRI)のエンリケ・ペーニャニエト(通称EPN)候補を、民主革命党(PRD)のアンドレス・マヌエル・ロペスオブラドル(通称、AMLO)候補が猛追、このブログでも紹介した(http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2012/02/post-04cf.html)メキシコ史上初めての女性候補で且つ12年間の政権を担う与党の国民運動党(PAN)、ホセフィーナ・バスケスモタ氏はどうやら第三位が定着しているようだ。

その世論調査を含め、メキシコのテレビや新聞の報道ぶりがEPNに偏向している、と、学生たちが抗議する。このところAPAFPなどでYoSoy132運動がしきりと取り上げるが、PRIの政権復帰に反対する学生運動の呼び名だ。511日、イベロアメリカーナ大学を訪れたEPN候補に抗議した人たちを、左翼陣営から動員された煽動者たち、と決めつけた報道があった。これに対し、131名が自らの学生証をかざし、正真正銘の学生であり何も特定政党から送り込まれてはいない、として撮ったビデオを送りつけた事件に因み、我はPRI復帰に反対する反EPN132番目のどの政党からも自由な学生、と叫ぶ。国内の多くの大学に急速に広がってきた運動だ。彼が支持率を落とした一つの理由のように伝わる。

メキシコ大統領選では、ラテンアメリカの大半の諸国で導入している決選投票は無い。実は2009年末に、議員定数削減と共に大統領決選投票の法案が提示されたことがあるが、議会で審議されていない。1994年の大統領選以来3回に亘って当選者の得票率は半数を下回っている。従ってEPNAMLOに幾ら猛追されようが、得票率で追い越されない限り、負けることは無い。YoSoy132は近く選挙対応の綱領を発表するが、決選投票があればともかく、当選者を変えるほどのインパクトは、考え難い。 

メキシコが直面する大問題は、治安悪化だ。現カルデロンPAN政権が米国の後ろ盾で進めて来た麻薬戦争が、却って暴力を加速した、との見方がある。この政権は、麻薬戦争では地元警察には余る、として連邦警察と、さらに陸海軍を投入した。それなりに麻薬カルテルの首領(「カポ」と呼ばれる)や幹部らを含む多くを、武力衝突で殺害、或いは逮捕、そのために幾つかのカルテルの消滅、という成果は見られる。だがそのプロセスでカルテル同士、或いはカルテル内グループの間で疑心暗鬼が生じ、報復抗争に火を付け、犯罪は凶悪化した、と言われる。

本年513日にメキシコの連邦高速道路40号のヌエボレオン州モンテレイ市近くで49の首なし死体が発見された、と言うニュースが、小さいながらも我が国の新聞にも掲載された。発見場所の名前を採って「カデレイタ・ヒメネス虐殺事件」と呼ばれる。その数日前にもハリスコ州グァダハラで18名の、さらにその数日前にはタマウリパス州のヌエボレオンで23名の、同様の死体が発見された。それ以前にも各地でかかる虐殺事件は頻発している。首を切るだけでなく顔を潰す。橋げたに死体を吊るす。対立するカルテルへの見せしめ、或いは被害者の身元を分からなくする処置のようだ。身の毛のよだつ残酷さだ。

カポが逮捕されても後継者が存在すれば、直ぐに勢力を盛り返し且つ強化し、存在せずとも独立した組織員が新たなカルテルを作り、勢力を短期間で拡大したところもある。メキシコのカルテルとしてメディアに登場するのは「ロス・セタス」と「シナロア・カルテル」くらいだが、他に幾つもある。ただこの二つが夫々に他複数カルテルと連合関係を持っているようで、一応この二つだけを例示すれば、大きな流れは掴めよう。 

大統領候補らは、麻薬戦争についての対策を具体的には示しておらず、批判されている。

バスケスモタ候補は、与党候補だけに、現政権の政策が実り、犯罪グループは弱体化し始めた、と主張、その中で連邦警察の陣容を現行の4倍、即ち15万人に増員する、と言っている。カルデロン政権下、麻薬犯罪に関わる犠牲者数が5年間で5万人、とは、よく語られる数字だ。WikipediaTimeline on Mexican drug warsには、20072010年の麻薬犯罪絡みの殺人数が出ている。初年に2,477人、二年目6,290人、三年目7,724人、四年目の2010年は15,273人だ。五年目の2011年の数字は出ていない。5年間で5万人なら、計算上1.8万人、と算出できるが、そこまでは行くまい。ともあれ、悪化の一途ではないか。

AMLOは、腐敗との戦いと社会格差是正により、犯罪を削減させる、動員されている軍は、撤収させる、と言う。カルテルが地元警察や政治家と癒着して来たことは、よく知られる。犯罪組織に流入する貧窮者が多いことも事実だ。巨額の国費を投じてカルテルを退治する、と言うのではなく、国民間の所得再分配の方が、効果が大きい、と言うのだろう。彼がメキシコ市長だった時代に、ニューヨーク前市長のジュリアーニ氏を招き、同市の治安を著しく回復させた彼の手法に学ぼうとしたことがある。何か成算があるのだろうか。

多少具体策めいたものを5月末に出したのがEPNだ。治安回復こそ重要課題であり、麻薬カルテルの幹部逮捕を優先する作戦は見直す、と言明した。名前が知られ、米国やインターポールでも指名手配されている大物の逮捕、及び麻薬や彼らが使う武器の押収を、数字で挙げる方が成果を誇示し易いのは確かだが、ひたすら殺人や誘拐、強奪行為を取り締まる方に軸足を移す、と言うものだ。そのため、連邦警察の定員を5万人に増員し、元軍兵士から成るが市民が統制する自警団を犯罪多発地域に配備する、と言う。一方で対米協調は従来通りであり、麻薬の合法化はしない、とも言う。加えて、カルデロン政権の成果は讃え、軍の撤収までは踏み込まない。具体策のイメージは、聊か見え難い。 

2009年の下院(任期は3年)中間選挙でPRIは、連合する緑の党の議席と合わせ、総定数の過半数を獲得した(中間選挙の無い上院は3分の1)。総選挙により、この議会勢力地図の行方も、気になるところだ。

 

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