ドミニカ共和国大統領選
スペインから新世界(Nuevo Mundo)の最初の常駐総督としてオバンド(1460-1511)が着任したのが、サントドミンゴである。510年前の1502年4月のことで、あのコロンブス(1451-1506)が最初にこの地に着いて7年余りが過ぎていた。ここからキューバなど周辺島嶼部や南米北岸に征服者たち(コンキスタドル)が発った。キューバからはメキシコへ、南米北岸からはパナマを通じペルーへ、金銀と使役する先住民たちを求め征服事業が展開された(私のホームページのコンキスタドル(征服者)たちをご参照)。だから、メキシコ最北部からチリ南端までの、とてつもなく広大なイスパノアメリカの起点はこの地だ。
その国の新しい大統領に、現与党ドミニカ解放党(PLD)のメディーナ元大統領府官房長官(Secretario de Estado de la Presidencia。60歳。在任1996-2000、2004-06)が決まった。ただ後述するが、選挙の対立候補、現野党ドミニカ革命党(PRD)のメヒーア候補陣営は選挙不正が起きている、として、これを書いている現時点では敗北を認めていない。それでも開票率99%で51%対47%だから決着はついており、米州機構(OAS)が派遣したタバレバスケス前ウルグアイ大統領率いる選挙監視団が、投票は、平静に、正常に行われ、今回選挙は成功だった、と断定、OASのインスルサ事務総長がメディーナ氏に祝辞を寄こしている。
メディーナ氏は、サントドミンゴ自治大学で化学を専攻したが、学生運動の闘士でもあったようだ。その後税関に就職したが、30歳で改めてサントドミンゴ工科大学に入学し経済学を履修した。彼を技術者出身、としたり、エコノミストと呼んだりするのは、このためだろう。1986年、34歳でPLDの下院議員となった。社会キリスト教改革党(PRSC)のバラゲール(1906-2002)が8年ぶりに大統領に返り咲いた時で、PLDは、PRSCとPRDから大きく離れた議会第三党だった。PLDは90年選挙で一気に下院第一党にのし上がり、94年は元に戻って第三党に凋落している。彼は連続当選を続け、その94年に、43歳で下院議長に就いている。
1996年の大統領選を制したPLDのフェルナンデスレイナ第一次政権で、大統領府官房長官に抜擢され、2000年、当時連続再選が禁止されていたため大統領自身が出馬できず、メディーナ氏が48歳で大統領選の党候補となった。この時の対立候補が今回同様、PRDのメヒーア元農相(当時59歳)で、ボッシュ(1909-2001。バラゲールと並ぶ政界の巨頭)の姪、ミラグロス・オルティス氏を副大統領候補に立て、ボッシュの党PLDから出馬したメディーナ氏を得票率50%対25%の大差で破った。ついでながら、バラゲールもその選挙に立候補し、メディーナ氏とは得票率でごく僅差の第三位に付けていた。そして発足したメヒーア政権(2000-04)下、憲法改正で大統領連続再選が解禁された。だがメヒーア氏は04年大統領選でフェルナンデスレイナ氏に敗れた。彼の在任中に銀行の経営破綻が相次ぎ、金融危機に見舞われたことが影響した。今12年選挙で、与党陣営が彼に政権を担うだけの素質があるのかと声高に叫んだが、この時の「失政」を指している。08年の選挙には、PRDの候補にすらなれなかった。方やフェルナンデスレイナ氏は、メヒーア氏が用意した連続再選の果実をものにした。
2012年選挙戦の模様は、私にはよく分からない。AP、AFP、Reuters、EFEの報道をネットで探して来たが、投票日を目前にして、ここ数日来、漸く眼に着くようになった程度だ。外電の関心の低さが見てとれる。夫々12歳年齢を重ねたメディーナ対メヒーアの一騎打ちであることが影響しているのだろうか。Wikipedia英語版に記事そのものが掲載されたのは、投票が始まる直前だ。両候補の支持率がいずれも50%内外で拮抗していることなどを含め、夫々の予備選状況から今日に至る大雑把な推移は、私はスペイン語版Wikipediaで追い掛けて来た。
メディーナ氏は世界経済危機下での現政権は経済成長を果たした、として、当然、政策上の継続性を訴えた。だが単なる後継者ではなく、格差と治安、インフレ、失業などの社会問題に必要な変革に取り組む、とした。これに対しメヒーア氏は、現政権下、経済成長の中で社会格差が増大し、農業政策を置き去りにした結果食料自給率が下がった、などと攻撃し、結局、社会問題解決のために必要な変革を約束した。現政権是認と批判、と切り口は正反対でも、二人の主張のどこがどう違うのか、さっぱり分からない。
PLDとPRDは、バラゲールの死後PRSCが凋落し、今は圧倒的二大政党、となっている、とは言え、いずれも上記ボッシュが創設した。イデオロギーや政見に大した違いはない。トルヒーヨ(1891-1961)独裁(ホームページの「軍政時代とゲリラ戦争」軍政時代前夜参照)下、亡命時代のボッシュは、1939年、PRD結成に参加した。61年5月のトルヒーヨ暗殺から1年半経って行われた大統領選に出馬し、トルヒーヨ体制の最後の大統領を務めたバラゲールを下した。だが、就任後半年ほどでクーデターにより追放された。これが65年のドミニカ内戦(ホームページの「ラ米の戦争と軍部」ラ米の内戦参照)に繋がり、二人とも亡命した。内戦終結後の66年6月に再び大統領選が行われ、帰国したこの二人の一騎打ちが再現し、今度はバラゲールが勝利した。73年、ボッシュはPRDから離れ、PLDを創設する。若きPRD活動家だったメディーナ氏は彼を師と仰ぎPLD支持に変わった。ボッシュは78年から85歳になる94年まで毎回立候補し、敗れ続けた。ついでながら、PRDは78年、82年と二期連続で政権を取った。PLD政権が初めて誕生したのは、ボッシュが引退しフェルナンデスレイナ氏を後継に立てた96年選挙による。二位につけ、決選投票でPRD候補に逆転勝利した
ともあれ、PRDとPLDは、根元は同じだ。2012年選挙で双方が掲げた政見も、煮詰めれば同じだった。こう言う場合、ネガティヴ・キャンペーンが繰り広げられる。相当激しかったようで、対立候補支持者同士の衝突で2人が死亡した。
バラゲールは2000年選挙の翌々年に死去、強力な後継者が不在の彼のPRSCは弱体化が進んだ。大統領選は、PLDとPLDの夫々の候補同士が一騎打ちをするようになった。2012年選挙では2000年と異なり強力な第三の候補不在の中で、同じメディーナ対メヒーアの一騎打ちとなった。前者は、8年間の第二次政権を担うフェルナンデスレイナ大統領の妻、マルガリータ・セディーニョ氏(47歳)氏を副大統領候補に立てた。同じ対立候補が12年前に採った手法に似ている。そして雪辱を果たした。但し得票率は上述の通りで、12年前には大敗を喫したメヒーアス氏に対し、僅差と言えなくもない。
1966年のバラゲール大統領就任から今日まで46年間、ドミニカ共和国の大統領はバラゲール(PRSC)、グスマン(PRD)、ブランコ(PRD)、フェルナンデスレイナ(PLD)及びメヒーア(PRD)の5名のみだ。バラゲール時代は連続再選が可能で、彼は通算22年間もの政権を担った。連続再選が一旦禁止されたことがあるが、それが解禁された後に第二次政権を発足させたフェルナンデスレイナ大統領は、通算12年間の政権を担うことになった。PRDの3人は全て、一期4年で辞めている。メディーナ氏は、与党が圧倒的議会第一党だ。長期政権になるのだろうか。
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