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2012年5月22日 (火)

ドミニカ共和国大統領選

スペインから新世界(Nuevo Mundo)の最初の常駐総督としてオバンド(1460-1511)が着任したのが、サントドミンゴである。510年前の15024月のことで、あのコロンブス(1451-1506)が最初にこの地に着いて7年余りが過ぎていた。ここからキューバなど周辺島嶼部や南米北岸に征服者たち(コンキスタドル)が発った。キューバからはメキシコへ、南米北岸からはパナマを通じペルーへ、金銀と使役する先住民たちを求め征服事業が展開された(私のホームページのコンキスタドル(征服者)たちをご参照)。だから、メキシコ最北部からチリ南端までの、とてつもなく広大なイスパノアメリカの起点はこの地だ。

その国の新しい大統領に、現与党ドミニカ解放党(PLD)のメディーナ元大統領府官房長官(Secretario de Estado de la Presidencia60歳。在任1996-20002004-06)が決まった。ただ後述するが、選挙の対立候補、現野党ドミニカ革命党(PRD)のメヒーア候補陣営は選挙不正が起きている、として、これを書いている現時点では敗北を認めていない。それでも開票率99%51%47%だから決着はついており、米州機構(OAS)が派遣したタバレバスケス前ウルグアイ大統領率いる選挙監視団が、投票は、平静に、正常に行われ、今回選挙は成功だった、と断定、OASのインスルサ事務総長がメディーナ氏に祝辞を寄こしている。 

メディーナ氏は、サントドミンゴ自治大学で化学を専攻したが、学生運動の闘士でもあったようだ。その後税関に就職したが、30歳で改めてサントドミンゴ工科大学に入学し経済学を履修した。彼を技術者出身、としたり、エコノミストと呼んだりするのは、このためだろう。1986年、34歳でPLDの下院議員となった。社会キリスト教改革党(PRSC)のバラゲール(1906-2002)が8年ぶりに大統領に返り咲いた時で、PLDは、PRSCPRDから大きく離れた議会第三党だった。PLD90年選挙で一気に下院第一党にのし上がり、94年は元に戻って第三党に凋落している。彼は連続当選を続け、その94年に、43歳で下院議長に就いている。

1996年の大統領選を制したPLDのフェルナンデスレイナ第一次政権で、大統領府官房長官に抜擢され、2000年、当時連続再選が禁止されていたため大統領自身が出馬できず、メディーナ氏が48歳で大統領選の党候補となった。この時の対立候補が今回同様、PRDのメヒーア元農相(当時59歳)で、ボッシュ(1909-2001。バラゲールと並ぶ政界の巨頭)の姪、ミラグロス・オルティス氏を副大統領候補に立て、ボッシュの党PLDから出馬したメディーナ氏を得票率50%25%の大差で破った。ついでながら、バラゲールもその選挙に立候補し、メディーナ氏とは得票率でごく僅差の第三位に付けていた。そして発足したメヒーア政権(2000-04)下、憲法改正で大統領連続再選が解禁された。だがメヒーア氏は04年大統領選でフェルナンデスレイナ氏に敗れた。彼の在任中に銀行の経営破綻が相次ぎ、金融危機に見舞われたことが影響した。今12年選挙で、与党陣営が彼に政権を担うだけの素質があるのかと声高に叫んだが、この時の「失政」を指している。08年の選挙には、PRDの候補にすらなれなかった。方やフェルナンデスレイナ氏は、メヒーア氏が用意した連続再選の果実をものにした。 

2012年選挙戦の模様は、私にはよく分からない。APAFPReutersEFEの報道をネットで探して来たが、投票日を目前にして、ここ数日来、漸く眼に着くようになった程度だ。外電の関心の低さが見てとれる。夫々12歳年齢を重ねたメディーナ対メヒーアの一騎打ちであることが影響しているのだろうか。Wikipedia英語版に記事そのものが掲載されたのは、投票が始まる直前だ。両候補の支持率がいずれも50%内外で拮抗していることなどを含め、夫々の予備選状況から今日に至る大雑把な推移は、私はスペイン語版Wikipediaで追い掛けて来た。

メディーナ氏は世界経済危機下での現政権は経済成長を果たした、として、当然、政策上の継続性を訴えた。だが単なる後継者ではなく、格差と治安、インフレ、失業などの社会問題に必要な変革に取り組む、とした。これに対しメヒーア氏は、現政権下、経済成長の中で社会格差が増大し、農業政策を置き去りにした結果食料自給率が下がった、などと攻撃し、結局、社会問題解決のために必要な変革を約束した。現政権是認と批判、と切り口は正反対でも、二人の主張のどこがどう違うのか、さっぱり分からない。

PLDPRDは、バラゲールの死後PRSCが凋落し、今は圧倒的二大政党、となっている、とは言え、いずれも上記ボッシュが創設した。イデオロギーや政見に大した違いはない。トルヒーヨ(1891-1961)独裁(ホームページの「軍政時代とゲリラ戦争」軍政時代前夜参照)下、亡命時代のボッシュは、1939年、PRD結成に参加した。615月のトルヒーヨ暗殺から1年半経って行われた大統領選に出馬し、トルヒーヨ体制の最後の大統領を務めたバラゲールを下した。だが、就任後半年ほどでクーデターにより追放された。これが65年のドミニカ内戦(ホームページの「ラ米の戦争と軍部」ラ米の内戦参照)に繋がり、二人とも亡命した。内戦終結後の666月に再び大統領選が行われ、帰国したこの二人の一騎打ちが再現し、今度はバラゲールが勝利した。73年、ボッシュはPRDから離れ、PLDを創設する。若きPRD活動家だったメディーナ氏は彼を師と仰ぎPLD支持に変わった。ボッシュは78年から85歳になる94年まで毎回立候補し、敗れ続けた。ついでながら、PRD78年、82年と二期連続で政権を取った。PLD政権が初めて誕生したのは、ボッシュが引退しフェルナンデスレイナ氏を後継に立てた96年選挙による。二位につけ、決選投票でPRD候補に逆転勝利した

ともあれ、PRDPLDは、根元は同じだ。2012年選挙で双方が掲げた政見も、煮詰めれば同じだった。こう言う場合、ネガティヴ・キャンペーンが繰り広げられる。相当激しかったようで、対立候補支持者同士の衝突で2人が死亡した。 

バラゲールは2000年選挙の翌々年に死去、強力な後継者が不在の彼のPRSCは弱体化が進んだ。大統領選は、PLDPLDの夫々の候補同士が一騎打ちをするようになった。2012年選挙では2000年と異なり強力な第三の候補不在の中で、同じメディーナ対メヒーアの一騎打ちとなった。前者は、8年間の第二次政権を担うフェルナンデスレイナ大統領の妻、マルガリータ・セディーニョ氏(47歳)氏を副大統領候補に立てた。同じ対立候補が12年前に採った手法に似ている。そして雪辱を果たした。但し得票率は上述の通りで、12年前には大敗を喫したメヒーアス氏に対し、僅差と言えなくもない。 

1966年のバラゲール大統領就任から今日まで46年間、ドミニカ共和国の大統領はバラゲール(PRSC)、グスマン(PRD)、ブランコ(PRD)、フェルナンデスレイナ(PLD)及びメヒーア(PRD)の5名のみだ。バラゲール時代は連続再選が可能で、彼は通算22年間もの政権を担った。連続再選が一旦禁止されたことがあるが、それが解禁された後に第二次政権を発足させたフェルナンデスレイナ大統領は、通算12年間の政権を担うことになった。PRD3人は全て、一期4年で辞めている。メディーナ氏は、与党が圧倒的議会第一党だ。長期政権になるのだろうか。

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2012年5月18日 (金)

フエンテスの死に思う

メキシコ、と言うよりラテンアメリカを代表する作家、カルロス・フエンテスが15日、83歳で死去した。大統領、ノーベル賞作家、歌手など、各界からツイッターなどを通じ弔意が寄せられている。米国でも有名だったようで、数年前ニューヨーク旅行した際、大手書店で彼の作品、特に小説がずらりと並んでいた。邦訳された作品も多く、読まれた方もおられると思う。私個人は、小説は読んでいないが、1992年の作品で96年に中央公論社から出された「埋められた鏡」を、出版翌年に、図書館から借りて読んだ。言わば歴史書であり、メキシコに限らずラテンアメリカ全体の、いわゆる新大陸発見からの歩みを追っている。翻訳が上手いのか、文章が生き生きとし、一気に読み通せた。確か英語訳版からの邦訳ではなかっただろうか。ともかく、彼の学識の広さに感銘を受けた憶えがある。調べてみると、外交官の子で、16歳になるまで米国や南米の各首都で暮らし、長じてより、自らも50歳になるまで外交官としてロンドン、パリに駐在し、また学者として米国の複数の大学で教壇に立っていた。メキシコで唯一のノーベル賞作家、オクタビオ・パス(1914-98)に似た経歴だ。

余談だが、「埋められた鏡」と同時に、ウルグアイのガレアーノ氏(1940~)が書いた「収奪された大地」も読んだ。2009年、初めて米州会議に臨んだオバマ米大統領に、チャベス・ベネズエラ大統領が進呈した作品で、1971年に初版が出された。邦訳の初版は1986年だったが、元にしたのは英訳で、これが1980年だったので遅くなったようだ。これは買った。ガレアーノ氏はジャーナリスト出身で、197385年の軍政時代にアルゼンチン、スペインに亡命している。外交官出身で欧米の大学で教鞭をとったフエンテスとは史観も視点も異なるし、確か小説は手掛けていない。私は、要するにラテンアメリカの知識人によるラテンアメリカの歴史を読みたかった。 

ところで、ラテンアメリカ十八ヵ国でノーベル賞作家は少ない。ミストラル(1945年受賞、以下同、チリ)、アストゥリアス(1967年、グァテマラ)、ネルーダ(1971年、チリ)、ガルシアマルケス(1982年、コロンビア)、上記パス(1990年、メキシコ)、及びバルガスリョサ(2011年、ペルー)の6人程度だ。米国が10人、スペインが4人、とくれば、これだけか、と思わざるを得ない。域内大国のブラジルやアルゼンチンにはいない。一方で、先進国でもないのにたいしたものだ、とも思う。

私は詩歌を嗜まないので、詩人であるミストラル、ネルーダ及びパスは寧ろ避けて来た。常識的に、ネルーダが共産主義者でありアジェンデ大統領の誕生(1970年)を喜び、政権崩壊(1973年)直後に癌で死去したくらいの知識があるのみだ。私が読んだノーベル賞作家の作品は、アストゥリアスの、エストラダ大統領(在任1898-1920)時代のグァテマラ社会を描いた「大統領閣下」、ガルシアマルケスの、ボリーバルの晩年を描いた「迷宮の将軍」、バルガスリョサのブラジル北東部バイア州奥地に築かれた「カヌードス」という共同体(1893-97)の反乱を扱った「世界終末戦争」、など有る意味で歴史小説の類が多い。ご多分に洩れず、ノーベル賞作家の作品は純文学故に大衆受けしない。だが歴史小説ならすっと入って行ける。加えて、ガルシアマルケスなら「誘拐」、バルガスリョサなら「都会と犬ころ」は、言わば社会派小説の類で、読むほどに引き込まれそうな印象を受けた。 

ラテンアメリカ人の著作は、日本では、ノーベル賞作家の作品に限らず、あまり読まれていないのではなかろうか。英米人の著作以外で読まれる外国人作品そのものがさほど出回っていない中では、止むを得ない面もあろう。米州の盟主を自負し、5千万人のヒスパニック人口を有し、しかも書籍そのものが良く売れ、図書館の充実度では世界に冠たる米国と比較しても仕方が無い。加えて、ラテンアメリカ自体が書籍フェスティバルこそ時々開催されてはいるものの、大型書店は殆ど見当たらず、図書館も少ない。国民の読書習慣が、活字離れを喧伝される昨今の日本人と比べても、低いように思われる。ならば尚更、日本であまり読まれないことに不満は言えない。

それでも、ラテンアメリカに関わる一人として、私個人で言えば、邦訳された作品くらいは詩歌を除き全部読んでおくべき、と、フエンテスの死を契機に、自戒する。何しろ、ラテンアメリカを代表する大作家の作品では、読んだのは「埋もれた鏡」だけなのだから。

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2012年5月 4日 (金)

アルゼンチンYPF再国有化

このブログで前回の「第六回米州サミットに思う(4)」http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2012/04/post-cabd.htmlの中でお伝えした416日にフェルナンデス大統領発表のYPFYacimientos Petrolíferos Fiscales再国有化法案の続きとしてお伝えすると、その後、アルゼンチン上院(定数72議席。425日)は賛成63、反対3、棄権4で、下院(定数257議席。53日)は夫々207326で採決、YPF株の51%が公的部門に接収されることが決まった。

フェルナンデス氏は数ヵ月前にYPFが生産量を減らしたためにエネルギー輸入が急増し貿易収支縮小を呼んでいる、と述べ、この頃から再国有化の噂は絶えなかったそうだ。法案発表時に彼女が述べたかったのは、YPFの生産減は、これまでの収益を高配当と親会社Repsolの国際展開に回し、国内での生産活動に回す資金は不十分だったため、と断じ、加えて、国策として国内向け燃料価格を抑える必要があるのに、協力せず、より高値で売れる国際(輸出)市場で販売した、だから、アルゼンチン全体としては高値の国際(輸入)市場からの調達を余儀なくされた、と言うものだ。上記Repsolの反論と、ぴったり対を成す。事実、2011年のエネルギー輸入額は前年比倍増の93億㌦になり、実に1987年以来初めて、エネルギー貿易赤字となった、しかも30億㌦の巨額だった、と報道されている。

生産減について言えば、一つの油田はいずれ枯渇する。だから石油会社は別の油田を常に求め、巨額の探査投資を続ける。これが不十分だと生産は落ちる。YPFの生産量の推移を調べたが、1998年のピークに日量54万バーレルだった原油生産量は、2011年には27万バーレルに半減している。ガスはそれほど酷くないが、年間147億立米から、2004年の200億立米でピークを付けた後、125億立米に減った。これには、アルゼンチン政府が国内市場向け補助金、価格統制、輸出税と、生産意欲を殺いだことが大きい、とのRepsolの反論が伝わる。逆に、フェルナンデス氏の言を裏付ける。 

アルゼンチンにある石油会社はYPFだけではない。元国営会社である同社の国内生産シェアは、驚いたが、2011年で石油34%、ガス23%に過ぎないと言う。しかも、フランスのTotal、ブラジルのPetrobras始め、外資系が殆どだ。Wikipediaで調べたところ、アルゼンチン全体でみれば石油生産量は1998年の日量84万バーレルから2011年は57万バーレルに、ガスは2004年の520億立米から455億立米に減少したが、計算上はYPF分を除くと横這いだ。仮に、YPFが生産維持乃至増産努力もせず、一方で生産の殆どを上記のような理由で輸出に回し、その他が国策に協力して国内向けに廉売しているのであれば、アルゼンチン政府の怒りも尤もだが、実態はどうなのだろうか。

CIAの最新のWorld FactBookによると、2010年推定でアルゼンチンの石油生産量日量76万バーレル、消費量62万バーレル、輸出は2009年で24万バーレル、輸入は同2万バーレルで22万バーレルの輸出超過だった。またガスは2010年生産量年401億立米、同消費量435億立米、2009年輸出8.8億立米、同輸入19.4億立米で11億立米の輸入超過、となる。生産量及び消費量との絡みで言えば、さほど異常とは思えない。残念ながらYPF個別の輸出実績は私には分からない。2010年、11年のアルゼンチン全体の石油、ガス輸入実績も、だ。メディアもそこまでは伝えない。 

Repsol1999年にYPFを買収して名称もRepsol-YPFに変え、2010年末の総資産676億ユーロ、株主資本260億ユーロ、従業員数4.3万人、堂々たる大企業だが、元々は1986年、スペイン政府100%出資の石油公団(INH)の石油ガス事業子会社として設立された、事実上の国営企業だった。設立翌年から民営化が始まり、1997年までに完全民間会社となったが、スペイン政府には身内意識が強いのかも知れない。フェルナンデス氏の発表に反発し早速年間10億㌦以上を輸入して来たアルゼンチン産バイオディーゼルの輸入制限を講じ、またEUを動かし経済制裁を検討させてきた。2010年の同社営業利益は76.2億ユーロだが、この内の14.5億ユーロをYPF分、としている。同社貸借対照表でのYPF分を私は探し出せていないが、YPF自身の決算書では同年末総資産466億ペソ、株主資本190億ペソとある。因みに2011年末では株主資本は187億ペソ(1ドル=4.4ペソとして43億㌦)。

YPF再国有化は勿論有償だ。スペイン政府も、賠償額次第では矛を収めるようだ。Repsol105億㌦を要求している。YPFの価値を183億㌦と主張、Repsol持ち分が57%だから、と言う。ただ接収対象は51%だから、90億㌦ちょっと、だ。Wikipedia英文を覗くと、同社がYPF97%を買収した際に費やしたのは最初の15%20億㌦を含む計150億㌦とある。これから40%相当分を第三者に売却した。残るは90億㌦の計算になる。57%51%の差は6%なので、Repsol90億㌦の支払いを受ければ、6%分の儲けとなる。勿論、こんな金額がアルゼンチン側から認められよう筈もない。常識的には、再国有化発表日の時価総額104億㌦が基準となろう。その51%なら52億㌦、Repsolの本音としては、これで決着が付けば満足なのではなかろうか。

実際に累計で幾らになったのか、私は調べていないが、フェルナンデス氏が言う「法外な高配当」もあるし、既にYPFからかなりの果実を得ている筈だ。2011年末の同社が権益を持つ埋蔵量は石油6億バーレル、ガス668億立米とあり、同年の生産量の5~6年分でしかなく、今やRepsolにとりYPFの魅力は少なくなっていよう。 

ともあれ、最終決着までには、まだ時間がかかる。Repsol-YPF操業に関わる投資や協力に参加する企業への訴訟をちらつかせる。そのくせ、ボリビアを戦略的投資市場と見て、アルゼンチン向けガス事業に参加する。スペイン政府はEU議会を通じてEUによるアルゼンチン制裁を働きかけてはいるが、何せスペインはアルゼンチンにとり、2010年末時点で第二位(17%)の米国を凌ぐ26%、金額で230億㌦という最大の直接投資国だ。その内の幾らがRepsolによるものか私は知らないが、無視できる金額ではあるまい。そうそう無茶はできまい。Repsol 以外の進出企業のコメントを訊いてみたいものだ。

一方のアルゼンチン政府である。細かく追っているわけではないが、石油、ガスの消費量が相当伸びてきているようだ。経済規模の拡大をその理由としているが、世界的なCO2削減にどれほどの努力を傾注しているのだろうか。そもそも2010年末の石油埋蔵量は25億バーレル、同年消費量の12年分、ガスは3,788億立米、同9年分である。勿論探査結果でこれは増えるが、それでも脱炭化水素の時代にあって、政府が経営に乗り出し効率が落とす再国有化に踏み切り、2002年の債務不履行以来国際金融市場から見放されている中で、外国企業に投資意欲を減退させ、結果として国際資本収支を棄損せしめる必要が、あるのだろうか。ナショナリズムだけなら理解できないことはないが。

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