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2012年3月31日 (土)

ローマ法王のメキシコ・キューバ訪問

323日から28日まで、ローマ法王ベネディクト十六世がメキシコのレオンを中心としたグァナフアト州と、キューバのサンティアゴデクーバとハバナを訪問した。 

メキシコは、ブラジルに次いで世界第二位のカトリック教徒を抱える。彼の前任者、ヨハネ・パウロ二世は5回も訪れた。だから20075月に4日間のブラジル訪問実績のある彼が訪れるのに、何の違和感は無い。寧ろ、84歳にして初めての訪問、と言うことの方に違和感がある。メキシコではカトリック教徒の数が減少の一途を辿り、代わりにプロテスタントが増加している。法王庁には一定の不安感もあろう。また今回訪問地のグァナフアトと言えば、イダルゴ神父がドロレスの叫びでメキシコ独立革命の火ぶたを切ったところだ。彼は州最大の都市レオンを拠点に動いた。3日間の滞在中、カルデロン大統領との会談も行ったが、主としてカトリック教徒との触れ合に注力したようだ。20メートルの巨大キリスト像で知られる同州内のシラオで35万人が集め野外ミサを行った。なお、メキシコの治安悪化に陥れている麻薬組織も、法王訪問中は休戦を宣言していた。

キューバは、このブログhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/11/post-89ad.htmlでもお伝えしたように、エルコブレ聖母が現れて丁度400年の節目を迎えた。革命で成立し今日も続く社会主義政権が初めて信仰の自由を認めて、丁度20周年にも当たる。1998年のヨハネ・パウロ二世訪問の後、キューバと断交していた国は米国を除き、米州では無くなった。米国すらキューバへの食糧、医薬品の輸出解禁を実現した。枢機卿の大司教を抱くこの国のカトリック教会は、政治面で、共産党一党独裁のこの国で政府に物申せる立場を築き上げても来た。黒い春事件の政治犯75名が、大半は事実上の国外追放にせよ釈放されたのは、教会の働きに負うところ大である。サンティアゴデクーバ及びハバナで一回ずつ、計50万人を集めての野外ミサを執り行った。 

23日にメキシコに向かう航空機の中で、ベネディクト十六世がキューバの政治体制について「マルクス主義は現実の政治にはそぐわない、新たな政治モデルが必要」と述べたことが日本でも報じられた。日本でも、と言うより、法王のキューバ訪問を契機にキューバに欧米、日本のメディアが大勢の記者を送り込んでいる。この国の政治体制に重要な変化をもたらす動きがあるかも知れない、との見方が有ったのだろう。事実、法王がヴァチカンに戻った後、「キューバの春」を喧伝する報道も垣間見える。

実際には、大規模野外ミサでこそ「キューバに新たな社会と変革を」と述べたが、キューバの指導部からは、政治改革はあり得ない、とあっさり否定されている。AP通信によると、百万人収容とも言われる革命広場での野外ミサ参列者の中には、法王の説話(スピーチ)の間中喋っている人や飽きてさっさと場を離れる人が多く見られたそうだ。マイクを使って穏やかに話されてもよく聴き取れない。この時期、炎天下の野外のこと、さもありなむ、とも思える。なお、ハバナでのミサの模様は国営テレビでも放送された。だから、聴き取れたかどうかは別にして、法王の説話に接したキューバ国民は多かった筈だ。

「白衣の女性たち」など反体制派の面々が法王との面会を強く望んでいたが、実現しなかった。ハバナには、法王が帰国の途に着くまで、チャベス・ベネズエラ大統領がいた。二度目の癌手術後一旦帰国したが、放射線治療を受けるため来ていた。彼はカトリック教徒であり、多分法王との面会を求めるだろう、と思われていたが、これも実現しなかったようだ。ようだ、と言うのも、CNNがキューバの関係者によれば、との断り付きで、実現した、と報じたからだが、チャベス氏自身は、法王は訪問地でそこの国家元首と会談の機会を持つが、そこに他国の自分が介在する訳にはいかない、として、面会申し込みそのものをやっていない、とベネズエラ国営テレビに語った旨、報道されている。29日、カラカスに帰国した。 

法王はラウル・カストロ議長、及びフィデル・カストロ氏と個別に会談の場を持った。何が話し合われたか、現段階では分からない。メディアが気にしていたのは、米国人アラン・グロス氏に対する恩赦、乃至は家族への見舞いのための一時的釈放の実現だろう。米国務省筋が、法王に対しグロス氏への恩赦を促すよう求めた、という記事もあった。実は上記ブログでも取り上げたCuban Fiveの中で、釈放後司法観察下に置かれているゴンサレス氏には、人道的見地による二週間だけの帰国許可が3月中旬に出され、30日、帰国実現を見た。グロス夫人は彼の一時帰国を歓迎し、キューバ政府が夫にも同様の人道的措置を与えてくれることを期待するとのコメントを出している。法王はその前にキューバを発ったにせよ、その直前の空港でのスピーチで米国によるキューバ制裁を厳しく非難したものの、グロス氏については一言も述べていない。

法王の訪問中、マイアミ大司教に同行する形で800人とも言われる在米の亡命キューバ人が訪れた。殆どは初めての「里帰り」と言う。この大司教は政治思想の違いで米国に出たキューバ人と、社会主義政権を是としキューバに残った人たちの橋渡し役を望んでいる。米国にキューバ制裁を強く求めているのはキューバ系アメリカ人社会、とはよく言われるが、彼に同行した人たちから、米国の制裁は非生産的で、このままだと一歩も前進できない、との声が高まっているそうだ。キューバ革命から半世紀以上も過ぎた。私が読んだ報道記事の中では、彼らの多くは幼い時にキューバを離れた。両親や周囲の人たちから、母国ではカストロ独裁により国民が何も喋れず、食べ物にも苦労し、悲嘆の中で奴隷のような生活を虐げられている、と聞かされ、キューバ行きを恐れていた、という人もいる。既に里帰りが自由化され毎年10万人以上が帰って来ている中で、聊か大袈裟だ。ただ、確実に米国内のキューバ人社会は、変わりつつあるようだ。

ベネディクト十六世のキューバ訪問が何をもたらすか。これからに注目したい。

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2012年3月15日 (木)

エルサルバドル議会選に思う

311日、エルサルバドルで立法議会(国会。一院制。定数84議席)が行われた。その結果、与党ファラブンドマルティ解放戦線(FMLN)が31議席と、前回の2009年選挙で取得した35議席から4つ減少させた。これに対し、現フネス政権誕生前の20年間政権を担ってきた国民共和同盟(ARENA)は33議席で、1つだけ増やした。

しかし、議会第一党が僅差で入れ替わっただけ、と言うのは皮相な見方だ。政権運営上、法案を通すには一般的に議会で過半数の43票が必要だし、予算案や対外借り入れにはエルサルバドルでは三分の二の56票が必要、と言う。だから翌20106月、初めての政権交代を果たしたFMLNは政策連合の相手を求めた。この頃にはARENAの反主流派が他党との一部と共に国民統合大同盟(Gran Alianza por la Unidad NacionalGANA)と言う別の政党を結成、16議席の勢力となっていた。FMLNは彼らと部分的な政策連合を組む。元左翼ゲリラ組織であり、ゲリラ活動の闘士が指導部を占めるFMLNにしては、政策運営が極めて穏健だった一つの背景として記憶したい。

ともあれ、GANA結成後のARENAの議席数は、一気に落ち込み、現段階では18議席となっている。つまり今回獲得したのは、現有議席数に比べ15増に相当する。GANA5減の11議席なので、2014531日まで確定しているフネス政権の部分的連合勢力は今回選挙結果、GANAとの連合を組んだところで42議席、過半数に足りない。つまり2年間さらなる部分連合が必要、ということになる。 

ところで、GANAと言えば、グァテマラにもある。こちらは国民大同盟(Gran Alianza Nacional)で、2003年選挙でベルヘル候補を大統領選勝者に導いた。元々中道右派の複数政党の連合であり、現在はコロム前大統領の中道左派、国民希望連合(UNE)との連合勢力を成す。エルサルバドルでは左派のFMLNと部分的な政策連合を組むGANAも、中道右派に位置づけられる。こちらの方は党首が誰なのか、ホームページを見ても分からない。英語版Wikipediaには、驚いたが、サカゴンサレス前大統領の名前が出ていた。党首クリスティアーニ元大統領とそりが合わずARENAから離党したのだろうか。

エルサルバドル議会でFMLNが第一、二位の議席を得るようになったのは、1994年からだ。1992116日のチャペルテペック和平合意で最終的に武装放棄し、その後合法政党となり初めて議会選に臨み、いきなりARENAに次ぐ第二党となった。FMLN自体は左翼ゲリラ勢力が統合したもので、この結成は198010月、そしてARENAの結成はその1年後、819月のことだ。元々、軍内タカ派のドゥビソン大佐が立ち上げた。彼には803月のロメロ大司教(1917-80)暗殺事件への関わりが囁かれ、逮捕され一時亡命したこともあるが、84年大統領選に立候補し、46%を得票した。だが、キリスト教民主党(PDC)のナポレオンドゥアルテ(1925-90)に敗れた。ARENA自体は82年議会選で、これもいきなりPDCに次ぐ議会第二党になっていた。 

ARENA結成前のエルサルバドルは、軍人政権時代が続いていた。遡れば、1931年に政権を掌握したマルティネスエルナンデス(1882-1966)の独裁に始まる。彼は形の上では連続再選を繰り返したが、競争相手のいない大統領選で、議会は全く機能していなかった。彼の失脚の翌45年、第二次世界大戦が終わり、米州では民主化の動きが始まった。政党も創設された。だが軍部創設した民主統合革命党(PRUD)と公認野党のみであり、任期6年の大統領にはPRUD、事実上は軍部が指名する軍人が選出され、2年毎に行われる議会選挙では、PRUDが全議席を独占した。この体制は、6010月、リベラ大佐(1921-73)らによるクーデターで崩壊しPRUDは消滅した。この年、ナポレオンドゥアルテらによりPDCが、翌61年にはリベラらにより国民共和党(PCN)が創設された。議会選挙で、結果的にはPCNが圧倒的第一党、これにPDCなど野党が続くようになる。大統領任期は5年に短縮されたが、議員任期は2年のままだった。軍人を大統領に据える、と言う意味で、PCNPRUD体制を引き継ぐ形となる。

197910月、つまりニカラグア革命が成立して3ヵ月後に、若手将校団によるクーデターが起き、17年間続いたPCN時代の終焉を見た。だがPCN自体はPRUDとは異なり、一政党として残った。議員任期は3年間に伸びた(大統領任期はそのまま)。89年大統領選挙でARENAが出した候補が、まだ41歳と若かった、米国の大学を出た実業家、クリスティアーニ氏、現党首だ。PDC候補を大差で破った。彼の政権が、FMLNとの和平を纏め挙げた。またARENA89年から2009年までの政権を担うことになる。

纏めると、1931年から13年間はマルティネスエルナンデス、事実上1945年から15年間はPRUD(消滅)、62年から17年間はPCN(生き残る)、89年から20年間はARENAが夫々連続して長期政権を担ったことになる。 

さて、1960年創設のPDC61年創設のPCNは、創設から半世紀経つ、エルサルバドルでは言わば伝統政党だ。1988年から6年間、PDCが議会第二党、PCNは第三党だった。FMLNが登場した94年から3年間は夫々第三、第四党、97年からはPCNPDCの順序が入れ換わった。

PDCは、2000年以降議席数が一桁に落ちてしまい、今回選挙では前回から4つ減らし、僅か1議席に終わった。現有は、既に2議席に減っていた。GANAに移った議員もいよう。大統領選への候補を出さなかったことで、昨年9月に今回選挙での党名使用禁止となり新たに希望党(PE)を登録し、この名で出ている。PCNも、同様の理由で今回選挙では国民連合(CN)で出て、前回実績から4つ減らし7議席とした。やはり一桁となった。されど7議席だ。フネス大統領が政権を運営するに魅力的な数字ではあろう。だが、かつて軍人政権を長く続けたPCNが、当時の左翼ゲリラ組織が集まって結成したFMLNと政策連合を組むことはあるのだろうか。 

なお、大統領と議員の任期が異なる国は、複数政党民主体制をとるラテンアメリカ18ヵ国(即ち、キューバを除く)には6ヵ国有る。その内3ヵ国が上院議員(大統領より長い)、1ヵ国が下院議員(同、短い)で、一院制の国ではエルサルバドルとベネズエラ(同、いずれも短い)、となっている。3年と言うのは最も短く、他にメキシコ(下院)の例があるだけだ。エルサルバドルの選挙制度上の特異性、として記憶したい。

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2012年3月10日 (土)

中米の麻薬問題とバイデンの訪問

 

35日から3日間、バイデン米副大統領がメキシコとホンジュラスを訪れた。外電が伝えるのは、麻薬問題の解決に向けた取り組み方のすり合わせだ。 

最初に訪問したメキシコのカルデロン大統領は、米国の支援で取締り技術や装備を得て、軍隊を動員し麻薬組織の武力制圧を図ってきた。その過程で、彼が大統領になってこの方、5万人もの犠牲者が出た。組織の構成員は、警官や逮捕された後は刑務所の職員を脅迫し、或いは脅し、或いは殺害し、一般市民をも巻き添えにしてきたこともあるが、大半は異なる組織同士の抗争による。麻薬組織の幹部たちは米国から引き渡しを要求されることも多い。これを嫌い、益々凶悪化する。彼らの武器も、多くが米国から、こちらは密輸される。いっそのこと、麻薬の合法化を唱える声も高まって来た。 

ホンジュラスの首都、テグシガルパには中米統合機構(SICA)を構成する7ヵ国の内、ベリーズを除く6ヵ国首脳が顔を揃え、バイデン氏との協議に臨んだ。ここでも、麻薬合法化に加え、米国の責任を問う声が高まっていた。 

 

20116月、グァテマラ市にクリントン国務長官が訪れた際には、7ヵ国に、準加盟国のドミニカ共和国、メキシコ及びコロンビアの大統領とインスルサ米州機構(OAS)事務総長まで集まった。「中米治安戦略のための国際会議」(以下「中米治安戦略会議」)の一環であり、スペインなど域外諸国や世銀などの国際金融機関も代表団を出した。この時世銀、米州開銀(IDB)のクレジットライン計15億㌦と、米国などの政府間援助が決まった。 

国際連合薬物犯罪事務所(UNODC)が世界の殺人率(homicide level。人口10万人に対する殺害された人数)を纏めた資料が有る。日本は2008年で0.5人、米国が2009年で5人だ。これらに比べ、SICA構成7ヵ国の内、ホンジュラスは2010年に82人、エルサルバドル66人、ベリーズ42人、グァテマラ41人となっている。40人を超すのは米州にはジャマイカとベネズエラがあるが、米州外では西アフリカのコートジボアールしかない。ラテンアメリカで治安が悪いと言われるコロンビアが33人、ブラジルが23人、メキシコが18人だから、SICA4ヵ国の、はっきり言って信じ難いほどの凄まじさだ。22人のパナマを加えた5ヵ国がメキシコを上回り、殺された人の数は合計で1.7万人にもなる。 

ホンジュラスについては、同国の人権委員会が、2011年に殺された人は7,101人、ロボ政権発足後23カ月で12,838人が殺されたことを明らかにした。UNODCの資料では10年の殺人実数が6,239人なので計算が合わないが、人口8百万ほどの国でこの数字は異様であること、言うまでも無い。 

 

中米の治安が悪さの相当部分が、麻薬密売組織による、と言われる。1年前のニューヨークタイムズ電子版に、米国向けコカインで中米を通過したコカインは、2006年で23%だったが、10年には84%に達した、とある。09年以前、米国はグァテマラ及びエルサルバドルだけを麻薬中継地リストに入れていた。だがホンジュラスも重要な中継拠点で、09年央、コカイン精製の実験所を立ち上げてもいる。同年中に同国と、ニカラグア及びコスタリカまでが中継地リストに加えられた。UNODCによる10年の両国の殺人率は夫々11人、13人だから、殺人率はぐんと落ちるが、それでも米国の倍以上だ。後者は太平洋岸のプンタレナスに高速麻薬輸送船が出入りし、前者は、カリブ海岸の麻薬取り締まりに国軍を配し、丁度コスタリカとの紛争地帯だったことから、同国との領土問題を惹き起こしたことは記憶に新しい。 

 

米国は自国民の麻薬消費を抑えるためには、生産地からのルートを断ち切るしか無い、との考え方を、ここ数十年、変えていない。これまでプラン・コロンビア、メリダ・イニシアティヴを打ち出し、前者はコロンビアに、後者はメキシコと中米地域に資金、装備、情報収集の技術、或いは専門家を提供してきた。米国のかかる支援を受け、コロンビアでもメキシコでも麻薬カルテルと必死に戦った。だがカルテルは一つ消えてもまた生まれる。且つ、コロンビアやメキシコの当局から追われる形で、中米に勢力を拡大した。 

結局麻薬犯罪が拡大し凶悪化する。また一般犯罪にも連鎖し、一層の治安悪化を招く。昨年の治安戦略会議では、麻薬消費を犯罪、と単純に扱うことに疑問を呈する大統領もいた。その会議から1年近く経った今、いっそのこと麻薬を合法化すれば、犯罪は減る、との主張が高まっている。昨年の治安戦略会議の主宰者、グァテマラのコロム大統領(当時)を引き継いであまり日が経っていないペレスモリーナ大統領が、その急先鋒のようだ。 

米国は、麻薬合法化は論外、との立場だ。今回のバイデン訪問には、合法論を押さえる目的も有ったのではなかろうか。 

 

丁度バイデン氏が中米首脳との会議に臨んでいた時、コロンビアのサントス大統領がハバナに飛び、キューバのカストロ議長と会談し、4月にカルタヘナで開催する米州サミットに招かれないことを伝え理解を求めた。民主化されていないことを理由に、米国が強く反対したことによる。キューバ側は米国への非難は口にしても労をとったサントス氏に感謝した。丁度ハバナでの療養で滞在中のベネズエラのチャベス大統領とも会談、先般のALBAでの申し合わせ(キューバを招かない場合、米州サミット欠席)を見直すよう求めた。 

コロンビアと言えば、2002年、ウリベ前大統領が政権に就いた年には、左翼ゲリラへの対抗勢力として右翼パラミリタリーが活発だった。その年の殺人率は世界最高の67人、それが、右翼パラミリタリーが名目的に消滅して3年経った10年には、上記の通り33人へと半減した。とは言え、コカイン生産国のこと、強力な麻薬カルテルが分散しても、しぶとく残っている。 

 

サントス大統領はハバナからの帰国後、将来のキューバ受け入れについて議題に乗せる、と語った。重要なのは、麻薬合法化も議題に乗せる、としたことだ。米国の強硬な意向により、イベロアメリカサミット、ラテンアメリカ・カリブ共同体(CELAC)サミットなどどこにでも出席できるキューバを、米州サミットだけが排除する。米国の麻薬戦略により、コロンビアからメキシコにかけて麻薬カルテルとの戦争が繰り返され、暴力が広がり、関係地域の治安悪化は収まる気配さえ見せない。サントス氏は敢えて言わないが、米国の押し付けへの反発が、相当に高まっているように思える。

 

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2012年3月 1日 (木)

チャベスの再手術

224日、ラウル・カストロ議長は空港でチャベス大統領を迎えた。この日、上院のリーヒ司法委員長(民主党)、シェルビー上院議員(共和党)ら米国議会6名との会談をこなし、彼らが強く求めた米人のアラン・グロス服役囚釈放を拒絶し、返す刀で、マイアミで服役中の4人、及び3年間の保護観察下に置かれたていた一人のキューバ人の自由を彼らに求めた、と言う(http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/11/post-89ad.html参照)。とまれ、チャベス大統領である。 

彼は三人の息女と、ハバナからのスポークスウーマン役を務めるサデル保健相を伴い、出国した。1週間前にもハバナを訪れ、検診結果「昨年摘出した癌の部署に直径2センチほどの「もの」(スペイン語表現はlesión。「固形異物」、とでも言おうか。通常の和約は、「傷跡」)が見つかり、緊急手術が必要」と言われた。それを帰国後発表した。昨年10月、四度目の化学療法を受けて帰国した際に回復宣言し、その後幾つかの重要外交日程をこなし、長時間の演説や「Aló Presidente」と言うテレビ番組を復活していた。発表は唐突だった。改めてハバナに向け出国する日には、大統領府から四輪駆動車に乗って、道路を埋めた市民に見送られる形で、空港までパレードしている。出国前に、107日(大統領選の日)にはボリーバル革命を推進するために栄光の勝利を収める、と叫んだ。よほど大統領選の行く手が気になっているようだ。大統領が5日以上国を離れる場合憲法により必要な議会承認は受けたが、野党が強く求めた副大統領への権限移譲は控えた。

カプリーレス氏が選出された先般の「民主主義統一連合(MUD)」(これより我が国外務省に従い、「民主統一会議」に表現を変更する)の予備選は、随分国民の目を惹いた。彼の知名度が一気に上がった。最近ではチャベス氏が、ブルジョワで国民のことが本当は分かっていないのに左派的なことを言う、と批判し、国民は騙されてはならぬ、だとか、彼をブタ呼ばわりする行儀の悪さで、彼への敵意を露わにしていた。今回の出国までの大騒ぎは、予備選の余韻を吹っ飛ばす効果があったようにも思える。

そして227日、その「2センチほどのもの」が摘出された。腫瘍(tumor)とは言わずlesiónと言う表現で通している。その後家族に見守られて療養中、回復計画に従い、リハビリに入る、とされる。この情報を28日にハウア副大統領の口から伝えられた議会では歓声が上がったと伝わる。ハウア氏は、29日夜のテレビ番組でも、チャベス氏から電話を貰った、コンソメを食した、大変元気だったとも述べている。 

だが、症状の中身は相変わらず秘密にしたままだ。帰国時期の見通しも示さない。公には、手術を受けた日時も病院すらも伏せている。出国前の大パレードと重ね合わせても、国民が健康状態に疑心を抱くようになった、と言う逆効果も忘れてはなるまい。再びの回復があっても、国民は彼の健康に懐疑的にならざるを得ない。107日の大統領選を、健康問題を抱えるカリスマの現職か、39歳と若々しくエネルギッシュなカプリーレス氏か、の戦いと見て、話を進める。 

ベネズエラでは、普通選挙で樹立された政権が継続する、と言う意味での民主主義時代に入ったのを1959年、とすれば、チャベス氏が初めて大統領になるまでの40年間で、六人が民選大統領となっている。ラテンアメリカ最後のカウディーリョと目されるビセンテ・ゴメス(1857-1935)独裁時代から民主化運動を進めたベタンクール(1908-81)がその初代、彼が創設した民主運動(AD)に対峙するCOPEIを創設したカルデラ(1916-2009)が最後(但し第二次政権。COPEIを離れ小党連合、Convergenciaで出馬、当選した)となる。二度政権を担ったのは彼と、昨年初め亡くなったペレスの二人だけだ。彼らが初めて大統領に就任したのは、他四人と同じく50歳代だった。

1998年大統領選でチャベス氏の対立候補で2年前までカラボボ州知事だったサラスリューメル氏は、当時62歳、仮に勝っていたら、民主義時代では最年長記録を更新することになった。だが、44歳のチャベス氏が勝った。逆に最年少記録(ベタンクールの50歳)を6歳も更新した。

2000年の総選挙では、対立候補のアリアス・スリア州知事(当時)は49歳だった。46歳のチャベス氏より若干年長で、もともと19922月の反ペレス反乱事件を起こした彼と行動を共にした人で、反チャベス陣営から推されて立候補したが、所属するのは社会主義系政党の急進運動(Causa Radical)だった。選挙後、チャベス氏陣営に加わっている。

2006年の大統領選で反チャベス陣営は、ADから分かれた新時代(Nuevo Tiempo)の、これもスリア州知事だったロサレス・スリア氏を推した。54歳だった。52歳になっていたチャベス氏より、やはり年長だった。ロサレス氏はその後マラカイボ市長となり、州知事時代の不正事件で起訴され、09年にペルーへ亡命した。

そして12年大統領選では、チャベス氏は初めて、しかも18歳も年少の対立候補と競うことが決まった。カプリーレス氏は、チャベス氏の回復を願っている、と言明している。これまでも決して彼の挑発には乗らず、淡々とミランダ州知事の職務をこなし、州民の中に気さくに入り、且つ補助住宅の建設など貧困対策にも取り組む

大統領選までにチャベス氏の健康が回復していることを前提に考えたい。それでも、普通に考えれば、彼は一旦身を引き、次に備えるのが順当だろう。だが政権与党側に、カプリーレス氏に勝てる人が、現実に彼以外にいるだろうか。カプリーレス氏に浴びせる批判の口汚さや中傷は、彼の焦りを表していまいか。

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