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2011年12月14日 (水)

ノリエガの時代(1)

1211日、パナマの元最高権力者、ノリエガ元将軍が帰国した。1990年初頭に米軍に拘束され、「Prisoner of war=捕虜」として米国に移送されてからほぼ21年経った。882月、彼は麻薬犯罪への関与を罪状としてフロリダ州南部地区裁判所に起訴されていた。891220日より2週間に亘って、世界中の非難をものともせず断行した米軍のパナマ侵攻作戦の目的が、一国の最高権力者確保にあったことは明白だ。移送後、同裁判所で、麻薬取引、資金洗浄、不正蓄財の8項目の罪で、懲役40年の実刑判決を受けた。繰り返すが、米国フロリダ州の地裁による、捕虜として外国から連行した、当該国の最高権力者に対する、米国刑務所への服役を義務付ける判決である。

その後、服役態度良好、を理由に最終的には懲役17年に減刑されたようで、だから、米国内での服役は2007年に終了した筈だ。1999年、フランスの裁判所でも資金洗浄を罪状として、被告人不在で懲役10年の判決が為され、米国に対しノリエガ服役囚の身柄引き渡しを要求、米側は、司法段階では米国内服役期間満了直前に同意、釈放後対仏引き渡しまで、身柄を保護している。だが引き渡しは遅れ、実現したのは20104月のことだ。フランスでは資金洗浄を罪状として7年間の懲役刑が科せられ、米国のように捕虜としてではなく、一般犯罪人として収監された。米国での服役期間満了を起点としていたようで、フランスでの服役期間が半分以上過ぎた、として20119月、パナマ政府の身柄引き渡し要求に応じ、そして彼の帰国が実現した。 

パナマも、1995年の段階で元将軍に対し、本人不在のまま殺人罪で20年間の懲役判決を行っていた。99年、フランスと重なるタイミングで、米国に対し身柄引き渡しを要求、ジュネーヴ条約に準拠すれば、捕虜は本国の要求で強制送還されるのが当然、としたが、無視された。 

米国は、千日戦争(ホームページラ米の戦争と軍部ラ米の内戦参照)という内戦終結が成ったばかりで政情混沌期にあったコロンビアのボゴタ政府に対して蜂起した独立派を支援し、独立を実現させた(ラ米の独立革命独立の完成参照)。新国家の国防は駐屯する米軍が担い、自らは軍隊を持たなかった。独立から半世紀経った1953年、国家警察隊が軍組織を伴った国家警備隊に再編成された。ノリエガ氏がここに入隊したのは、その2年後のことだ。第二次世界大戦終結直後の1946年、後の米州学校(School of the Americas)の前身が、運河地帯にある米軍南部総司令部に設置されていたが、彼自身は軍人としての教育はリマ(ペルー)の士官学校で受けていた。ただ、1967年に米州学校と米国本土での訓練は受けた。偶々、トリホス将軍によるクーデター(ホームページ軍政時代とゲリラ戦争軍政時代を参照)が起きる前年のことだ。

トリホス(1929-81)はノリエガ氏と4歳年長で、前者が「革命最高指導者」としてパナマを支配している時、軍の情報機関を掌握した。この間、「コレヒミエント(Corregimeinto)」と呼ばれる503名の議員に行政を担う大統領を選出させる国家体制の基で、銀行法が制定されパナマが国際金融センターに成長する基を作り、社会インフラが整備され、労働法が施行され、パナマの近代化が進んだ。19797月の「カーター・トリホス条約」で2000年午前零時に運河のパナマへの完全返還も決まった。 

19817月、トリホスが航空機事故で死亡した。ノリエガ氏がこの頃までに国家警備隊からパナマ国防軍と呼ばれていた軍の最高司令官として、結果的にパナマの最高権力者になるのは、それから2年以上経った8312月のことだ。この年の1月、中米危機の解決を探るためのコンタドーラグループが発足している(「ラ米の軍政とゲリラ戦争」のゲリラとの和平参照)。パナマ外相が自国コンタドーラ島にメキシコなど3ヵ国の外相を呼んで結成したことで名付けられた。私に言わせれば、パナマの外交が世界に羽ばたいた。同年4月、国民投票で新憲法が制定された。大統領の直接民選と、定数67名(現在は78名)の一院制議会が決まった。政治体制も近代化した。

19845月に行われた総選挙で、バルレッタ候補(46歳)が大統領に当選したのは、実は軍部を嫌う83歳のアリアス元大統領(1901-88)が本来の勝利者だったのを、選挙管理委員会がバルレッタ勝利、と宣言したため、と言われる。政治的には決して近代化が成っていなかったことになる。翌859月、バルレッタ大統領は、経済政策の失敗を理由に退陣させられた。丁度、ノリエガ将軍の麻薬組織との関係を告発していた医師が暗殺された事件で、この調査を約束したばかりだった。後任にはデルバイェ副大統領(48歳)が昇格した。

198610月、コンタドーラグループが、これを支持する4ヵ国と合体し、リオグループが発足した。87年になると、84年選挙結果はノリエガ将軍の不正介入による、との告発が、前年彼により解任された軍幹部によって為された。加えて、81年のトリホス飛行機事故死の背後にノリエガ有り、とまで言った。そして882月に、冒頭のようにフロリダで麻薬犯罪関与を理由に起訴されると、軍最高司令官を解任する、と発言したデルバイェ大統領は、翌3月に、議会によって罷免された。この後、米国による対パナマ経済制裁、パナマの資本家スト(銀行窓口での支払い停止)による経済麻痺、へと発展する。同年6月、リオグループもパナマを除名した。

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2011年12月 4日 (日)

ラテンアメリカ・カリブ共同体の誕生

第三回ラテンアメリカ・カリブ諸国サミット(CALC20102月の第二回目についてはhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2010/02/post-769d.html及びhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2010/02/post-ffa0.htmlご参照)が1223日、カラカスで開催され、ラテンアメリカ・カリブ共同体(CELAC)発足のための「カラカス宣言(関心のある方はwww.celac.gob.ve/をご覧頂きたい)」が採択された。

CELACの性格付けについては、チャベス・ベネズエラ、コレア・エクアドル、カストロ(ラウル)・キューバ各首脳は米州機構(OAS)から米国とカナダを除外した機構に発展することを期待する。OAS1964年にキューバを追放し、82年のマルビナス領有権に関わるアルゼンチンと英国との戦争、米軍による83年のグレナダ侵攻、89年のパナマ侵攻で、いずれにも中立的立場をとった。彼らには、正しく米国の言いなりに映る。チャベス氏はベネズエラの内政に幾度も干渉した、と言うし、コレア氏は米州人権委員会が言論の自由を犯そうとしている、という非難を受けて間もなくであり、ワシントンに結びついたものではないラテンアメリカだけのものが欲しい、述べる。そしてCELACの誕生はここ200年で最も重要な出来事、と踏み込む。いずれも実態はOAS無用論だ。

だが、概ねルセフ・ブラジル大統領らが述べる域内開発や紛争解決に貢献できる地域フォーラムとして、OASとは共存するものになろう、と言うのが大半の指導者の見方だ。共同体を構成する33ヵ国夫々が異なる利害を持つ以上、最大公約数で物事を決めて行くことが現実的なのも事実だろう。インスルサOAS事務総長自らCELAC誕生を歓迎しており、サントス・コロンビア大統領はOASとの対立は無い、と言明する。CELACには常設事務所は無い。事務局の任に当たるのは、1年ごとの持ち回り議長国だ。実態としてOASのような強力な組織にも成りえない。

最初の議長国としてチリが選ばれた。その次はキューバで決まった。この両国がベネズエラと共にトロイカ体制で、最終決着に至らなかった事項について協議して行くことになる。 

今回サミットには、33ヵ国全ての首脳が出席したわけではないが、ブラジル、メキシコ、アルゼンチン、コロンビアと言ったラ米主要国は殆どが出席した。開催国がベネズエラであることから、少なくとも米州ボリーバル同盟(ALBA)加盟8ヵ国の首脳は、全て出席したと思われる。私には個人的にカストロ(ラウル)議長の姿が眼を引いた。

開会式でチャベス大統領はラテンアメリカの統一(Unidad)を繰り返し、統一こそが真の独立、真の自由に繋がる、と述べた。これに呼応する形でカルデロン大統領は、ボリーバルが1830年の死の直前に「指導者らは(ラテン)アメリカ統一に向かって働き続けよ」と発した言葉を引用し、自らもかかる統一を希求する、と述べ、一方ではオルテガ・ニカラグア大統領が、域外の干渉は認めない、今こそモンロー宣言に死を、と発言している。だが、地域最重要国と誰もが認めるブラジルのルセフ大統領は、統一に関わる切り口が違った。ギリシア問題に端を発する世界規模の金融危機に対処できる共同戦略を重要視する。地域経済力の強化には一致した経済政策が不可欠、というものだ。

CELACを一つの統一体としてみると、総人口5.5億人、総面積2,050万平方キロ、内、半分が森林、湿地で、世界の淡水の3分の1を有する。食料の世界生産、石油埋蔵量では世界一だ(以上、ロイター通信)。GDP6兆㌦で日本を凌ぐ。それでも米国の半分以下だ。ただCELACは欧州連合(EU)と異なり、経済共同体ではない。だから経済力で欧州連合(EU)や米国、或いは日本と比較しても意味合いは小さい。それでも、国際経済問題での結束は重要だろう。 

主宰したチャベス大統領にとって、6月以降健康問題でほぼ空白に近かった外交舞台への復帰を示す華々しい行事となった。12月にブエノスアイレスを訪問する。外交のための外遊は、半年ぶりだ。

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