ノリエガの時代(1)
12月11日、パナマの元最高権力者、ノリエガ元将軍が帰国した。1990年初頭に米軍に拘束され、「Prisoner of war=捕虜」として米国に移送されてからほぼ21年経った。88年2月、彼は麻薬犯罪への関与を罪状としてフロリダ州南部地区裁判所に起訴されていた。89年12月20日より2週間に亘って、世界中の非難をものともせず断行した米軍のパナマ侵攻作戦の目的が、一国の最高権力者確保にあったことは明白だ。移送後、同裁判所で、麻薬取引、資金洗浄、不正蓄財の8項目の罪で、懲役40年の実刑判決を受けた。繰り返すが、米国フロリダ州の地裁による、捕虜として外国から連行した、当該国の最高権力者に対する、米国刑務所への服役を義務付ける判決である。
その後、服役態度良好、を理由に最終的には懲役17年に減刑されたようで、だから、米国内での服役は2007年に終了した筈だ。1999年、フランスの裁判所でも資金洗浄を罪状として、被告人不在で懲役10年の判決が為され、米国に対しノリエガ服役囚の身柄引き渡しを要求、米側は、司法段階では米国内服役期間満了直前に同意、釈放後対仏引き渡しまで、身柄を保護している。だが引き渡しは遅れ、実現したのは2010年4月のことだ。フランスでは資金洗浄を罪状として7年間の懲役刑が科せられ、米国のように捕虜としてではなく、一般犯罪人として収監された。米国での服役期間満了を起点としていたようで、フランスでの服役期間が半分以上過ぎた、として2011年9月、パナマ政府の身柄引き渡し要求に応じ、そして彼の帰国が実現した。
パナマも、1995年の段階で元将軍に対し、本人不在のまま殺人罪で20年間の懲役判決を行っていた。99年、フランスと重なるタイミングで、米国に対し身柄引き渡しを要求、ジュネーヴ条約に準拠すれば、捕虜は本国の要求で強制送還されるのが当然、としたが、無視された。
米国は、千日戦争(ホームページラ米の戦争と軍部のラ米の内戦
トリホス(1929-81)はノリエガ氏と4歳年長で、前者が「革命最高指導者」としてパナマを支配している時、軍の情報機関を掌握した。この間、「コレヒミエント(Corregimeinto)」と呼ばれる503名の議員に行政を担う大統領を選出させる国家体制の基で、銀行法が制定されパナマが国際金融センターに成長する基を作り、社会インフラが整備され、労働法が施行され、パナマの近代化が進んだ。1979年7月の「カーター・トリホス条約」で2000年午前零時に運河のパナマへの完全返還も決まった。
1981年7月、トリホスが航空機事故で死亡した。ノリエガ氏がこの頃までに国家警備隊からパナマ国防軍と呼ばれていた軍の最高司令官として、結果的にパナマの最高権力者になるのは、それから2年以上経った83年12月のことだ。この年の1月、中米危機の解決を探るためのコンタドーラグループが発足している(「ラ米の軍政とゲリラ戦争」のゲリラとの和平参照)。パナマ外相が自国コンタドーラ島にメキシコなど3ヵ国の外相を呼んで結成したことで名付けられた。私に言わせれば、パナマの外交が世界に羽ばたいた。同年4月、国民投票で新憲法が制定された。大統領の直接民選と、定数67名(現在は78名)の一院制議会が決まった。政治体制も近代化した。
1984年5月に行われた総選挙で、バルレッタ候補(46歳)が大統領に当選したのは、実は軍部を嫌う83歳のアリアス元大統領(1901-88)が本来の勝利者だったのを、選挙管理委員会がバルレッタ勝利、と宣言したため、と言われる。政治的には決して近代化が成っていなかったことになる。翌85年9月、バルレッタ大統領は、経済政策の失敗を理由に退陣させられた。丁度、ノリエガ将軍の麻薬組織との関係を告発していた医師が暗殺された事件で、この調査を約束したばかりだった。後任にはデルバイェ副大統領(48歳)が昇格した。
1986年10月、コンタドーラグループが、これを支持する4ヵ国と合体し、リオグループが発足した。87年になると、84年選挙結果はノリエガ将軍の不正介入による、との告発が、前年彼により解任された軍幹部によって為された。加えて、81年のトリホス飛行機事故死の背後にノリエガ有り、とまで言った。そして88年2月に、冒頭のようにフロリダで麻薬犯罪関与を理由に起訴されると、軍最高司令官を解任する、と発言したデルバイェ大統領は、翌3月に、議会によって罷免された。この後、米国による対パナマ経済制裁、パナマの資本家スト(銀行窓口での支払い停止)による経済麻痺、へと発展する。同年6月、リオグループもパナマを除名した。