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2011年10月11日 (火)

ペレス元ベネズエラ大統領の最後に思う

106日、カルロス・アンドレス・ペレス(通称CAP)元大統領(在任1974-79年、1989-93年)が、死去9ヵ月も経ってカラカスに埋葬された。彼は、人生を二十世紀ベネズエラの二大政党の一つ、国民行動党(AD)と共に歩いて来た。死亡した米国から移送された遺体は、先ずAD本部に安置され、棺に国旗が掛けられ、AD幹部らが棺と一緒に行進する形で、彼が生前、政治の師と仰いでいたベタンクール元大統領(1908-81。在任1959-64)が眠る墓地に運ばれ、数千人が見守る中で葬送ミサを受け、埋葬された。AD指導者で米国からの遺体移送に付き添ったレデスマ・カラカス市長は、自分らにはベネズエラを(彼の)民主主義の時代に戻す責任がある、民主主義勢力の一致団結を呼び掛けたい、と演説した。要するに、2012107日に決まった次期大統領選でADのみならず反チャベス勢力の総結集実現を図ろうとするものだ。チャベス大統領は、ペレス埋葬を利用しようとする戦術、として、かかる呼掛けを批判した。 

私のホームページ中のラ米のポピュリストペロンとベタンクール、及びこのブログのhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2010/09/post-dc1b.htmlを参照願いたいが、194510月の「愛国軍人同盟(UPM)」がクーデーで立ち上げた臨時革命評議会で、当時37歳の文民、ベタンクールがその議長になった時、ペレスはADの青年リーダーで、この時23歳、ベタンクールの私設スタッフを務めた、というから、普通選挙や労働者団体交渉権を定めた1947年憲法制定にも関与したと思われる。4811月のペレス・ヒメネス(1914-2001)大佐によるクーデターで、ベタンクールらと共に国外に亡命、一時帰国中に逮捕、収監を経験、再亡命を経て、58年に帰国し、36歳でベタンクール政権の内務・司法相となる。

ベタンクール政権は、キューバ革命が成立して1ヵ月後に発足した。革命の影響を受けた左派系勢力によるゲリラ活動に手を焼いたこの政権は、革命輸出を図っている、としてキューバ締め出しを米州機構(OAS)に提訴、以後1970年代央まで続く米州内キューバ孤立時代を招いている。内務・司法相として、ペレスもこの政策に関与している、とみて良かろう。もう一つ、この政権下でサウジアラビアなどと石油輸出国機構(OPEC)を創設した。

ペレスはその後ADの要職に就く。ADはベタンクール期を含む1959-69年(二期10年)の後、カルデラ(1916-2009)が1946年に創設したもう一つの大政党、COPEI と一期ずつの政権交代を84年まで繰り返した。その内の74-79年がペレスの第一次政権期に当たる。73年の選挙で、自らが大統領選に挑み、政権奪回を果たした格好だ。51歳だった。74年、キューバとの国交回復に踏み切ったが、ラテンアメリカでは早い方だった。国際石油価格の高騰を活かし、それまで外資に開放されていた石油、金属部門の国有化、重工業振興、社会インフラ拡充に加え、労働者賃金引き上げや就学率の向上を進めた。ベタンクールを凌ぐようなポプリスタ政権だ。この為、石油マネー流入急増にも拘わらず、対外債務も増えた。一方で、農村部が疲弊し食料の輸入依存度が高まった。加えて、放漫財政と取り巻きによる専横ぶりが喧伝されている。 

ペレスは1988年選挙で、53%の得票率で大統領に返り咲いた。前回が49%だったので、陰っていた人気は盛り返せたようだ。AD84年に3度目となるCOPEIからの政権奪回を果たし、これで再び二期10年の政権を確定した。だがペレスは政権に就くと選挙期間中に蛇蝎のように批判していたIMFの指導に従い、国営産業の民営化と規制緩和を推進した。チャベス現大統領が新自由主義経済政策として厳しく批判する所以だ。国内石油製品価格の自由化で、ガソリンが急騰、また公共交通の運賃や輸送費が大幅に上がった。これが政権発足から僅か25日しか経っていない89227日のカラカス大暴動(カラカソ)を招いている。非常事態が宣言され治安部隊が出動し、276名とも300人以上とも言われる犠牲者を出した事件だ。その3年後のチャベス中佐(当時)率いる空挺部隊反乱の遠因でもある。92年の反乱はこれだけでなく11月にも起きている。ペレスが失脚したのは、しかし、カラカソや反乱の責任を問われた為ではなく、まことに不名誉な公金横領疑惑による。

大統領が自由裁量を委ねられた2.5億ボリーバルの不正使用で、19933月の検察からの告発を受け、5月の最高裁判所裁定で職務停止処分となった。1961年憲法で、大統領罷免には議会による弾劾決議が必要とされた。手続上、同年831日の罷免となった。AD政権としては、翌942月まで続く。新たに発足したカルデラ第二次政権は、COPEIではなく、「国民統一Convergencia」を基盤とする。つまり、ADCOPEI二大政党時代が、こうして終わった。ペレスの公判は続き、懲役28ヵ月の有罪判決が出たのは19965月のことだ。 

チャベス大統領を誕生させた199812月の総選挙で、ペレスは上院議員に選出された。この選挙ではADCOPEIと反チャベス連合を組み、敗れた。翌年12月の国民投票で採択された新憲法では上院が廃止され、ペレスは議員特権を喪失、先ずドミニカ共和国へ、次に米国へ亡命することとなる。この頃、彼の不正銀行口座の存在が発覚した、として新たな公判リスクが出てきていた。

ペレス失脚でADは急速に支持率を落としていく。彼が亡命した後、拍車がかかった。新憲法下の最初の選挙(20007月)で総165議席中、何とか33議席を得た。200512月、在米中のペレスは83歳で1989年のカラカソ弾圧への責任で告発を受けた。同時期に行われた選挙を、ADはボイコットした。109月の選挙では野党連合MUDの一角として参加したが、党としては14議席にまで減らしている。その2ヵ月後、ペレスは死去した。家族問題により、埋葬地が決まるまで118月までを要した。

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