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2011年10月26日 (水)

ボリビアの先住民運動(3)

1024日、ボリビアで「イシボロセクーラ国立公園先住民地域(TIPNIS、以下同)」を「無形自然遺産」とする法律が公布された。これで、同領域での高速道路通過は認められなくなる。モラレス大統領が、600km65日間かけて1019日にラパスに到着したアマゾン系先住民行進隊の幹部を大統領官邸に招き、その日の内に議会承認を得ていた同法案を法令化したものだ。行進隊は、これにて抗議行動を終結させる、と言う。

925日、彼らは警官隊による強制排除を受けた。モラレス大統領自身は、かかる命令は出していない、と強調するが、この事件が彼らへの支援の声を高め、各地で連帯行動、乃至はモラレス政権への抗議行動を呼び起こし、行進隊を英雄視する風潮まで来たした。2009年憲法で定められた司法選挙が1016日に行われた。最高裁などの司法上層部判事を、従来の議会選出から、国民による直接選挙に変更するもので、モラレス氏がボリビア民主主義の確立に向けた重要施策だ。ところが、投じられた無効票は有効票を上回り、選挙自体の正統性が問われる始末だ。国民の関心がアマゾン族行進隊に向けられ、嫌モラレス感情が国民に広がり、結果として、性格の全く異なる司法選挙に跳ね返った格好で、モラレス政権にとっては痛烈な打撃となっている。 

1997年、モラレス氏が上院議員になった年に、バンセル(1926-2002)元将軍が大統領になった。バンセル政権下、ロンドン国際水供給会社(IWL)がコチャバンバで「トゥナリ水供給会社」として40年間の水供給事業を請け負った。労働者解雇、供給水価格の引き上げを行ったことから、20001月、抗議運動が起きる。4月にはデモにより同市が機能を停止、IWLが、コカ農家による政権のコカ撲滅作戦に抵抗するための煽動、と主張し、政権は同市に非常事態を宣言、警察隊を出動させ、死傷者出した。これがデモ隊に対する全国規模の連帯抗議運動に発展し、最終的にトゥナリ水供給会社は事業撤退を決定、事業はもともとの公営事業に戻った。「コチャバンバの水紛争」と呼ばれる。なおこの年、コカ栽培農家がコカ撲滅作戦に対し、2度、大規模な抗議運動を行っている。いずれにも、何らかの形でモラレス上院議員が動いたことは、想像に難くない。バンセル氏は翌018月、辞任した。021月、議会がモラレス除名を決議した。彼は裁判所に無効提訴し、またその年の大統領選に立候補し、僅差の第二位だったが、議会での決選投票でサンチェスデロサーダ元大統領(通称「ゴニ」、以下、同)に敗退した。

この頃、南米で第二位と推定されるガス田を開発し、太平洋までパイプラインで輸送し米国に輸出するプロジェクトが動き出し、英国ガス社 (British Gas)3社で「太平洋液化天然ガス社」を立ち上げた。その輸出基地として、ゴニ政権は、チリのメヒオネス港を有利な候補地として挙げた。モラレス氏は天然資源を外資の自由にさせること自体に反対していたが、それ以前に、1879-84年の対チリ「太平洋戦争」で敗北し太平洋岸を失ったボリビアの国民には反チリ感情が強く、これに火が付いた。20039月、大規模な反パイプライン建設デモが起きる。この鎮圧に軍と警察が出動した。これに対し、反対派は道路封鎖などで応じた。ラパスに隣接するエルアルト市のアイマラ族先住民が要求貫徹まで戦うとの姿勢を強化、封鎖により首都で食料、燃料不足が起きた。10月になると同市に非常事態宣言が出され、やはり死傷者を出した。結果として、ゴニがパイプラインプロジェクトの凍結を発表、自らは責任をとり大統領を辞任し、亡命した。いわゆる「第一次ガス紛争」である。 

ゴニを引き継いだのは副大統領のメサ氏だが、20055月に天然資源の所有権を国家とし、開発権益を有する企業の課税基準を引き上げる新しい炭化水素法が議会を通過した。全面的な国有化になっていない、との理由で再び抗議デモが起きる。6月、やはりアイマラ族先住民がエルアルト市からラパスに繰り出し、道路封鎖に及び、警官隊が出動し排除した。「第二次ガス紛争」と呼ばれるが、ガス資源の無いアンデス高地のアイマラ族の要求は、寧ろ貧困地域への富の再分配の方にあったようで、メサ大統領辞任(但し国内に留まる)で決着している。そして同年12月の総選挙で、モラレス候補が53.7%の得票率で大統領に選出された。

水紛争には明らかにコカ農家の組織が参加した。二度に亘るガス紛争には、アンデス高地のアイマラ族組織が参加した。コカ農家組織のリーダーでもあり、アイマラ族でもあるモラレス氏が、実際に如何なる役割を果たしたか、私自身はここで申し上げるような知識を持たない。

水紛争はバンセル、ガス紛争はゴニ及びメサ各大統領辞任を呼び、非妥協的な抗議行動に先住民が参加し、且つ、概ね主張を通した、という事実を紹介したまでだ。今回のアマゾン系先住民の動きは、私もベニ県トリニダード出発からAFP通信で追いかけて来たが、少数民族で、且つ多数派先住民が反発していただけに、かかる結末は意外だった。モラレス支持率は下がるところまで下がった、と思われる。決着が、支持率回復に繋がるかどうか、或いは弾劾を受けて退陣するかどうか、暫く目が離せない。

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2011年10月25日 (火)

クリスティーナの勝利

1023日のアルゼンチン総選挙で、クリスティーナ・フェルナンデス大統領が過半数の得票で連続再選された。開票率97%の段階で54%近かったというから、大勝利だ。実は814日の予備選挙でも50%を確保しており、本選挙でどこまで票を伸ばすかの方が関心の的だった、と思われる。本ブログのhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/07/2011-382d.htmlには名前すら載せていなかった社会党のヘルメス・ビンナー氏が第二位、得票率17%で、その時点でも、また予備選挙でも第二、三位だったリカルド・アルフォンシン議員(急進党UCR)が12%、ドゥアルデ元大統領(ペロン党右派)は予想外の6%で、夫々第三位、第五位に終わった。

アルゼンチンで、さらにはラテンアメリカで、女性大統領が連続再選を果たすのは、今回が初めてだ。アルゼンチンで54%の得票率は、1983年の民政移管後、同年急進党のアルフォンシン(1927-2009、在任1983-89)が得た52%を凌ぐ最高の数字だ。19739月に行われた大統領選挙で、彼女の政治思想の源流を成したペロン(1895-1974)が得たのは62%と言われるので、これには届かない。彼女の得票率と第二位ビンナー氏とのそれとの差が37ポイントあるが、これはやはり1973年選挙でペロンが第二位の急進党、バルビン(1904-81)に付けた差と並ぶ。勿論、1983年の民政移管後では、最大の差だ。 

政権党が三期連続だったのはアルゼンチンでは1916年の急進党以来、という。それまでのアルゼンチンの選挙は、他のラテンアメリカ諸国同様に、一定の要件を満たす少数の選挙権者による閉鎖的なものだったが、1912年に法制化された「サエンス・ペーニャ法」で男子普通選挙が公布された。その最初の選挙で急進党の指導者、イリゴージェン(1852-1933、大統領在任1916-221928-30)が当選した。寡頭勢力に支配されない政治の始まり、と位置付けられる。この当時、大統領任期は6年間で、他のラテンアメリカ諸国と同様に連続再選は禁じられていた。急進党が三期続いたが、大統領はアルベアル、イリゴージェン第二次へと交代、19309月、軍事クーデターで潰えた。

FpV政権期は、クーデターで潰えることはもうあるまい。だから12年間が確定した、と言って良い。それでも上記急進党の政権は、14年間続いている。これを凌ぐためには、ポスト・クリスティーナでも勝利する必要がある。彼女は今回、長髪で48歳と若いブードゥー現経済相を副大統領候補にした。2015年選挙を睨んだ布石だろう。ただ、民主主義国家では与野党交代は当たり前のことで、通常は続いて二期位なものだ。連続再選が可能なら、今回のFpVのように、政権党の三期連続も有り得よう。FpVには、本来最大野党たる急進党が、2001年の、国際金融史上悪名高い債務不履行で国内経済を混乱させ国民からの信任を失った、という敵失が幸運に繋がっている面もある。 

アルゼンチンの民主主義は、歴史が浅い。1930年から軍政、及び軍を背後に置いたいわゆる「協調政治」、再びの軍政を経て、19462月から97ヵ月間のペロン政権期に至った。その発足にエビータが活躍したことはよく知られる。婦人参政権も始まった。ペロン憲法の結果、彼の連続再選も成った。しかし彼が中央政界に躍り出たのは、軍政(1943-46年)が軍人だった彼に、労働相及び軍政副首班という重要役職を経験させ、労働者層に対するカリスマ性を醸成できたことが大きい。彼の政党、正義党は抵抗なくペロン党と呼ばれた。政党のイデオロギーを彼の個性に帰属させた。これが、19559月のクーデターを招いた。

その後軍政、急進党政権を繰り返し、19666月またしてものクーデターで長期軍政に入った。フェルナンデス現大統領が20歳、同郷のキルチネルと共にラプラタ大学在学中だった19735月に民政移管はあったものの、763月に長期軍政に戻った。彼らはこの間結婚している。この言わば第二次軍政は「汚い戦争(3万人以上の行方不明者を出すゲリラ弾圧作戦)」で知られる。青年ペロニスタ(ペロンを支持する活動家)だった彼らはラプラタ市を離れ、帰郷したが、そこで逮捕、収監を経験した。

つまり、南米のヨーロッパとも言われ続けたアルゼンチンは、政治的には、軍が前面に出る時期を繰り返し経験する、民主主義の観点からは後進性を内包し続けていた。特に1976年からの第二次軍政は、人権侵害ではチリのピノチェト軍政と並んで、国際的な非難を浴びた。一方でこの軍政が乾坤一擲の思いで惹き起こした対英「マルビナス戦争」は、国民のナショナリズムを高揚させたまま、今日に至る。 

アルゼンチンが民主国家になったのは、やはり198312月の民政移管によってだろう。1994年の憲法改正で、大統領任期は4年間に短縮されたが連続再選が一度だけ認められるようになった。この第一号となったのがペロン党のメネム元大統領(1930年~。在任1989-99年)だ。再選の際の得票率は50%だった。政権党としては10年続いた。規制緩和と国有企業の民営化推進の、いわゆる新自由主義経済政策を採った。ペロン党でも経済への国家介入度を高めるFpV現政権とは正反対だ。だから、民政移管後のペロン党政権期として一括りは不適当だろう。FpV政権は12年間が確定したので、民主国家としてのアルゼンチンでは塗り替えられることになる。健康問題がどうも気になるフェルナンデス大統領だが、ギリシャ危機を発端とする世界経済危機に、どう向き合って行くだろうか。

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2011年10月17日 (月)

米国の対コロンビア、パナマFTA

1012日、米議会が上、下院とも韓国、コロンビア、パナマとの自由貿易協定を承認した。これまで米国がFTAを確定してきた17ヵ国、ラテンアメリカではメキシコ(NAFTA1993年)、チリ(2003年)、中米5ヵ国プラスドミニカ共和国(CAFTA-DR2005年)、ペルー(2007年)の9ヵ国に続くものだ。これで20ヵ国となった。 

米国のFTAは、1984年発効の対イスラエルに続くFTA94年(発効ベース、以下、同)のNAFTA(メキシコ及びカナダ)まで、且つ二十世紀中にはこの3ヵ国だけだった。NAFTA発効後、クリントン民主党政権が米州全域の経済統合を念頭に米州サミットを招集した。199412月のことだ。ここで打ち出したのが「米州自由貿易圏(FTAA)」であり、2005年までの成立を目指していた。だがFTAA交渉は遅々として進まず、その内にアジア、ロシア通貨危機がラテンアメリカにも伝播し、特にメルコスル諸国へのダメージが大きかった。

2001年、米国はブッシュ共和党政権に代わった。FTA推進が加速した。同政権下で議会承認に至ったのは14ヵ国だが、内4ヵ国が中東、8ヵ国がラテンアメリカで「中米・ドミニカ共和国自由貿易協定(CAFTA-DR)」の6ヵ国を含む。何となく、米国流の相手先選定基準が見えるようだ。同年、先ずヨルダンが4番目のFTA国になる。同年の第三回米州サミットで、FTAA成立方針は再確認された。だが03年、ブラジルにルラ政権が、アルゼンチンにキルチネル政権が発足する。米国への対抗意識が強烈な両政権は、明かに反米の、既に発足から5年経っていたチャベス・ベネズエラ政権ともども、反FTAAの立場だ。同年、シンガポールと共に、チリと、ラテンアメリカでは最初の二国間FTAを締結した。04年、米国のFTA相手国にオーストラリアが加わったところで、ペルー、エクアドル、コロンビアとのFTA交渉に入った。中米5ヵ国(パナマはタックスへヴンの制度が障害となり除かれた)とドミニカ共和国とのCAFTA-DR調印も、この年に行われている。

FTAA成立期限と定めていた2005年が過ぎ去り、翌06年、モロッコ、バーレーン、オマーンとのFTA発効の年に、米議会は対ペルー承認、コロンビアとは協定調印が成った。翌07年、パナマ及び韓国とも調印した。 

自由貿易協定は国際条約として扱われる。いずれもお互いの国で議会承認、つまり批准を要する。米国は対中東諸国、シンガポール、オーストラリア、チリ及びNAFTAの計10ヵ国については協定締結から議会承認までにかけた時間は概ね半年程度だった。CAFTA-DRは1年内外、ペルーが1年半だった。これでも随分長い。ところが韓国とパナマには4年間、コロンビアに至っては5年間もかかった。なお、エクアドルとは、コレア政権誕生で交渉自体が破談となる。

工業国の韓国が遅れた理由は分かり易い。農業産品を売れる、とはいえ、日本と比べて市場性はより低い。牛肉のBSE問題で、日本同様、国民に対米農産物開国にブレーキも掛っていた。それよりも、労働条件が違い、自国品ともろにぶつかる自動車や電機製品価格が公平性に欠ける、との米側の思い込みだ。輸出市場拡大の思惑が歴然としている資源国の中東やチリなどとは違う。歴史的に米国産業が圧倒的なプレゼンスを享受してきたカナダやメキシコとも違う。ブッシュ政権下でも後半は労組を支持基盤とする民主党が、議会多数派を占めていた。2009年に交代した民主党のオバマ政権が始めからFTAに積極的に出られる筈も無かった。パナマの場合は、タックスヘイヴンの実態に関する情報が分かりにくかったこともある。そもそもCAFTA-DRからも外れている。同国とは税制面での情報開示を義務付ける協定を別途締結することで解決を見た。 

コロンビアの場合、メディアは左派系労組幹部数十人が民兵組織(パラミリタリー)によって暗殺されたことを民主党のFTA締結反対の理由として伝えてきた。行政・司法両面での労働者保護の措置を講じるよう、米政府としてコロンビア側に要求し、その結果が議会承認に繋がったのは事実だろう。だが、パラミリタリー全国組織(AUC)が2002年にウリベ政権が誕生して、和平プロセスに入り武装放棄を進めていた。だから04年、FTA交渉を開始し06年に協定調印に漕ぎ着けていた筈だ。07年にはパラミリタリーの武装蜂起も完了した、と言われる。だから、これだけでは民主党の反対理由が分かり難い。

コロンビアはラテンアメリカ最大の親米国、と言えるが、米国が同国を見る目は複雑だ。麻薬とゲリラの怖い国、という意識は、米国人一般にも強い。こんな国とのFTAには抵抗がある、というのが正直なところではないだろうか。ウリベ政権の8年間で、暴力は著しく減った。麻薬組織による暴力の犠牲者数はメキシコや中米数カ国どころではなく、一般犯罪を含む犠牲者発生率も、今や中米数カ国を下回る。麻薬の基となるコカ栽培量は、ペルーを下回る。いずれもFTA相手国だ。米国の要求に応じ、パラミリタリー幹部を含む麻薬犯罪容疑者の多くが米国に引き渡された。プラン・コロンビアの一環で米軍顧問団を受け容れ、2009年には麻薬密輸の監視を目的にエクアドルにいた米軍の、コロンビア7基地への移駐も受け容れた。代償として、隣国ベネズエラと関係が一触即発のところまで悪化した。米国の態度に、本当によく耐えたもの、と感心する。 

ラテンアメリカ十九ヵ国側からすれば、11もの国が対米FTAを持つ状態だ。内メキシコは域内第二位の経済大国だ。残るのは左派政権下の4ヵ国と米国への対抗意識の強いメルコスル原加盟4ヵ国のみとなるが、域内第一位及び第三位の経済大国を含む。何となく真正面から向き合った構図にも見える。

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2011年10月11日 (火)

ペレス元ベネズエラ大統領の最後に思う

106日、カルロス・アンドレス・ペレス(通称CAP)元大統領(在任1974-79年、1989-93年)が、死去9ヵ月も経ってカラカスに埋葬された。彼は、人生を二十世紀ベネズエラの二大政党の一つ、国民行動党(AD)と共に歩いて来た。死亡した米国から移送された遺体は、先ずAD本部に安置され、棺に国旗が掛けられ、AD幹部らが棺と一緒に行進する形で、彼が生前、政治の師と仰いでいたベタンクール元大統領(1908-81。在任1959-64)が眠る墓地に運ばれ、数千人が見守る中で葬送ミサを受け、埋葬された。AD指導者で米国からの遺体移送に付き添ったレデスマ・カラカス市長は、自分らにはベネズエラを(彼の)民主主義の時代に戻す責任がある、民主主義勢力の一致団結を呼び掛けたい、と演説した。要するに、2012107日に決まった次期大統領選でADのみならず反チャベス勢力の総結集実現を図ろうとするものだ。チャベス大統領は、ペレス埋葬を利用しようとする戦術、として、かかる呼掛けを批判した。 

私のホームページ中のラ米のポピュリストペロンとベタンクール、及びこのブログのhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2010/09/post-dc1b.htmlを参照願いたいが、194510月の「愛国軍人同盟(UPM)」がクーデーで立ち上げた臨時革命評議会で、当時37歳の文民、ベタンクールがその議長になった時、ペレスはADの青年リーダーで、この時23歳、ベタンクールの私設スタッフを務めた、というから、普通選挙や労働者団体交渉権を定めた1947年憲法制定にも関与したと思われる。4811月のペレス・ヒメネス(1914-2001)大佐によるクーデターで、ベタンクールらと共に国外に亡命、一時帰国中に逮捕、収監を経験、再亡命を経て、58年に帰国し、36歳でベタンクール政権の内務・司法相となる。

ベタンクール政権は、キューバ革命が成立して1ヵ月後に発足した。革命の影響を受けた左派系勢力によるゲリラ活動に手を焼いたこの政権は、革命輸出を図っている、としてキューバ締め出しを米州機構(OAS)に提訴、以後1970年代央まで続く米州内キューバ孤立時代を招いている。内務・司法相として、ペレスもこの政策に関与している、とみて良かろう。もう一つ、この政権下でサウジアラビアなどと石油輸出国機構(OPEC)を創設した。

ペレスはその後ADの要職に就く。ADはベタンクール期を含む1959-69年(二期10年)の後、カルデラ(1916-2009)が1946年に創設したもう一つの大政党、COPEI と一期ずつの政権交代を84年まで繰り返した。その内の74-79年がペレスの第一次政権期に当たる。73年の選挙で、自らが大統領選に挑み、政権奪回を果たした格好だ。51歳だった。74年、キューバとの国交回復に踏み切ったが、ラテンアメリカでは早い方だった。国際石油価格の高騰を活かし、それまで外資に開放されていた石油、金属部門の国有化、重工業振興、社会インフラ拡充に加え、労働者賃金引き上げや就学率の向上を進めた。ベタンクールを凌ぐようなポプリスタ政権だ。この為、石油マネー流入急増にも拘わらず、対外債務も増えた。一方で、農村部が疲弊し食料の輸入依存度が高まった。加えて、放漫財政と取り巻きによる専横ぶりが喧伝されている。 

ペレスは1988年選挙で、53%の得票率で大統領に返り咲いた。前回が49%だったので、陰っていた人気は盛り返せたようだ。AD84年に3度目となるCOPEIからの政権奪回を果たし、これで再び二期10年の政権を確定した。だがペレスは政権に就くと選挙期間中に蛇蝎のように批判していたIMFの指導に従い、国営産業の民営化と規制緩和を推進した。チャベス現大統領が新自由主義経済政策として厳しく批判する所以だ。国内石油製品価格の自由化で、ガソリンが急騰、また公共交通の運賃や輸送費が大幅に上がった。これが政権発足から僅か25日しか経っていない89227日のカラカス大暴動(カラカソ)を招いている。非常事態が宣言され治安部隊が出動し、276名とも300人以上とも言われる犠牲者を出した事件だ。その3年後のチャベス中佐(当時)率いる空挺部隊反乱の遠因でもある。92年の反乱はこれだけでなく11月にも起きている。ペレスが失脚したのは、しかし、カラカソや反乱の責任を問われた為ではなく、まことに不名誉な公金横領疑惑による。

大統領が自由裁量を委ねられた2.5億ボリーバルの不正使用で、19933月の検察からの告発を受け、5月の最高裁判所裁定で職務停止処分となった。1961年憲法で、大統領罷免には議会による弾劾決議が必要とされた。手続上、同年831日の罷免となった。AD政権としては、翌942月まで続く。新たに発足したカルデラ第二次政権は、COPEIではなく、「国民統一Convergencia」を基盤とする。つまり、ADCOPEI二大政党時代が、こうして終わった。ペレスの公判は続き、懲役28ヵ月の有罪判決が出たのは19965月のことだ。 

チャベス大統領を誕生させた199812月の総選挙で、ペレスは上院議員に選出された。この選挙ではADCOPEIと反チャベス連合を組み、敗れた。翌年12月の国民投票で採択された新憲法では上院が廃止され、ペレスは議員特権を喪失、先ずドミニカ共和国へ、次に米国へ亡命することとなる。この頃、彼の不正銀行口座の存在が発覚した、として新たな公判リスクが出てきていた。

ペレス失脚でADは急速に支持率を落としていく。彼が亡命した後、拍車がかかった。新憲法下の最初の選挙(20007月)で総165議席中、何とか33議席を得た。200512月、在米中のペレスは83歳で1989年のカラカソ弾圧への責任で告発を受けた。同時期に行われた選挙を、ADはボイコットした。109月の選挙では野党連合MUDの一角として参加したが、党としては14議席にまで減らしている。その2ヵ月後、ペレスは死去した。家族問題により、埋葬地が決まるまで118月までを要した。

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2011年10月 6日 (木)

ボリビアの先住民運動(2)

モホ族の行進http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/09/post-fbfa.html101日に再開され、この行進を追ってきたAFP通信スペイン語版によれば、5日時点でラパスから東北229kmのサペチョという集落に居るとのことだ。925日に警官隊から強制排除されたユクモが320kmだから、随分首都に近づいたものだ。モラレス政権は、ラパス到着が政権鳴り物入りの司法選挙(1016日実施)に掛り、深刻な事態だと憂慮している。

司法選挙とは、最高裁判所、憲法裁判所などの判事を、従来のように議会による任命ではなく、議会が推薦した候補者から、国民が直接投票で選出するものだ。その議会は与党「社会主義運動(MAS)」が多数を占める。元々棄権や白票の出易い制度だが、2009年憲法で決まった。その投票日前後に行進隊が首都到達、政権への抗議行動に入ると、全く異なった政治テーマである選挙そのものが成立しない恐れも出てくる。 

ところで、先住民が特定テーマについての政府陳情を行うため、かかる長距離行進を組織しているのは「ボリビア先住民連盟(CIDOB)」で、今回で8回目のようだ。1982年組成された、「ボリビア東部先住民センター」(略称はここから来ている)がその前身だ。私のホームページ中のラ米の人種的多様性で、ラ米人種分布をご覧頂きたいが、ボリビアの総人口の55%が先住民、とされる。米国CIAThe World FactBookによれば2010年人口が1,000万人だから、550万が先住民、と計算できる。その中の85%ほどが、インカ帝国支配下にあったアンデス高地のケチュア、アイマラ族で、ベニやサンタクルスなどボリビア東部の、比較的低地に住むモホ族を含む種族は、全て合わせても1割内外、とされる。その地で発足したCIDOBは、今やボリビア全9県の内、ラパスのようにアンデス高地を含む7県で活動している。

CIDOBが組織した長距離行進は19908月が最初で、やはりベニ県トリニダードを出発しラパスに至った。この時、前年に国際労働機関(ILO)開催による先住民会議が採択した、国際的に拘束力を持つ「先住民権利宣言」を批准すること、及びボリビア内のNIPNISを含む4地区を先住民保護区と認定すること、を勝ち取った。この5年後、アンデス高地先住民を主体に組織化されていた「農村労働者連盟(CSUTCB)」などと共に、「人民主権会議(ASP)」という政党を創設、中部コチャバンバ県のコカ農家組合を率いていたモラレス現大統領がその指導部に入った。翌19968月、居住地区の土地使用権を求める行進でサンタクルスを出発、途中からCSUTCBなども参加し、CIDOBは、要求が実質的に認められた、として途中で行進を終了したが、他はラパスまでの行進を継続、当時議会審議を控えた農地改革法案への修正を目指したが、成果は得られなかった。これにモラレス氏が関与したかどうか、私は存じ上げない。彼はその翌年に行われた総選挙で、事実上はASPから立候補して上院議員に当選、得票数は最多だった由だ。ただ、1999年に同党を離れ、現在の「社会主義運動(MAS)」を結成、2002年の大統領選にはMASから出馬した(第二位)。

2000年、2002年にも行われたCIDOBによる4回の長距離行進は、その時々の政権に向けられたもの、と言えそうだ。先住民大統領のモラレス政権発足間もない200610月の第五回目の行進は、「土地無し労働者運動(MST-Bolivia)」が参加し、当時提出されていた新たな農地改革法案の議会通過まで、ラパスの議事堂前の広場でテントを張った。MASの議席が過半数割れの議会への圧力を掛けることが目的だったと思われる。20077月の第六回目も、先住民専住領域の保護やその自治及び領域内天然資源への裁量権を、新憲法に組み入れることを制憲議会に訴えるもので、且つ10日間で行進は取り止めている。だから、向け先がモラレス政権、とはちょっと言い難い。 

だが、新憲法下の彼の政権発足から半年経った20107月の第七回目では、先住民専住領域の法的認定、同領域内の開発プロジェクト賛否への住民決議権(Consultación)、領域内資源に対する自治権確保、土地の先住民共同体への返還、及び既定コンセッション無効化、議会への先住民議席増、政府に先住民当局設置、などを要求した。幾つかは、先住民権を国益に優先させる内容だった。そして今回の行進は、南米横断という国際高速道路の、ボリビア持ち分の既定ルート建設を、着工直前のタイミングで、且つ、事実上住民決議の如何に拘わらず取り止めを強要する、物凄いものだ。彼らは、TIPNIS通過を認めないだけで、高速道路建設自体には反対しない、ボリビア経済の振興について政府と争う意図は無い、と言うが、住民決議さえ無視する、且つ、モラレス政権にとり極めて重要な司法選挙を、結果的に潰しかねないタイミングを選んでの行進だ。 

総人口の過半数が先住民なら、ボリビアを「ラテンアメリカ」の一国と言うのは適当ではないのかも知れない。やはりThe World FactBookによると、この国の識字率は86.7%で、南米では最低の水準だ。先住民のスペイン語国民としての同化が、その分遅れていることを示す。先住民自身が自らの社会、文化を守ろうとする意識が強いことが最大の理由だろう。勿論、国民の貧しさが就学率を低くしていることもある。だが、先住民意識が高いことは、先住民が大統領となるだけでなく、権利確保のための行動にも表れている。

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2011年10月 2日 (日)

廃止されたキューバ砂糖産業省

629日のキューバ共産党の機関紙グランマが、砂糖産業省の廃止と、代わりに砂糖農工企業グループの創設を伝えた。検討を重ねた結果として、24日に行われた閣僚評議会会合で決まった。一方で、革命前、砂糖産業は最も革命的な労働力を出したセクターの一つであり国内経済の機関車となったことは、忘れるべきではない、とのラウルのコメントも出された。

実は、砂糖産業の再構築はラウル・カストロ氏が兄フィデル氏から議長を正式に移譲された2008年に始まり、同年ブラジルの協力で近代化計画がスタートしている。昨2010年、生産高を2015年までに250万トンにするための砂糖産業の再構築を行う、としたが、その具体策が見えて来た。キューバではセントラル(centrales)と称される砂糖コンビナートは現在61箇所にある。これを56箇所に減らすが、取り敢えずは12月から始まる次の生産期(サトウキビの伐採から砂糖生産まで。キューバではサフラzafraと言う)の生産高を145万トンとした。5月に終わった前生産期は、120万トンだった。各コンビナートには経営面での雇用や資機材調達や販売面で輸出入を含む裁量権を付与すると同時に、資金調達や採算性への責任を課す。国家全体として、効率化に繋がる、とする。 

キューバは、197080年代にキューバに駐在した私どもには、砂糖産業と切り離せない国だった。ご存じの通り、砂糖産業は第一次産業に留まらない。サトウキビ栽培は農業だろうが、砂糖と副産物の生産は工業だ。その一環生産活動を行うのに広大な農園と工場敷地が要る。サトウキビを絞り煮込み、遠心分離器にかけ、最終的に糖度96%の粗糖に持っていく工場の一部の機械や部品は内製する。また、サトウキビから抽出するアルコールは、ラムに使われる。絞り粕(バガス)はボイラーの燃料としても、板状にして家具材にも使われる。バガスの一部は家畜の飼料にもなる。一部は、薬剤の材料にも使われる。キューバの砂糖産業は、サトウキビを徹底的に利用し、市場を開拓して、商業生産に乗ると分かると新たな製品の生産工場も作った。複合産業であり、その職員たちの質は高い。そこの様々な研究開発チームが、キューバの技術向上に大きく貢献してきたことは、197080年代のキューバを知る人たちには常識で、MINAZと略称で呼ばれる砂糖産業省は就職先として、当時技術系の勉学に励んでいたキューバの若者たちにとり、憧れだったようだ。 

ある外電の記事を読んでいたら、キューバ経済の脊髄だった砂糖生産はソ連圏消滅により、820万トンから100万トンを僅かに上回る程度にまで落ち込んだ、2003年、155か所にあったコンビナートは61カ所に減らされ、サトウキビ生産農地の60%が他の農産物生産に転用され、砂糖関連労働者も配転された、とあった。

私の認識は、キューバの砂糖生産高は悪くて600万㌧、良い時は800万トンで、毎年400万トンを輸入してくれるソ連東欧圏の存在も有り、世界砂糖貿易の中では常にトップだった。ソ連崩壊後も200300万トンを買う非ソ連圏は厳として存在していたし、特に中国が購買量を増やしていた。加えて、ロシアはキューバ糖輸入継続の意向を持っていた。ソ連崩壊から10年以上も経って漸く半減以下となったコンビナートは、それでも400万㌧以上の潜在生産能力があった。世界の砂糖需要が減ったわけではない。国際砂糖価格は、それまでとは一変して高水準下にある。だから、100万トンにまで落ち込んだのには、別の理由があろう。ソ連東欧型経済システムが、効率面でも採算面でも今の時代に合わなくなってきた。 

外電が伝える政府筋の情報として、本年中に中央省庁の再編成が行われるそうだ。砂糖産業省の廃止は、24日の閣僚評議会で採択された広範囲の再編成の第一号と言う。4月の共産党大会で承認され、8月の人民権力全国会議(キューバ国会)で追認されたラウル・カストロ改革の目的は、効率化と採算性向上、及び企業に対する政府の役割縮小にある。どの省も中央政府組織としての機能が無くなれば、廃止される。

だがこの中で、基礎産業省はエネルギー、鉱山両省への分割も決まった。ご存じのように、メキシコ湾のキューバ領内には大規模油田が存在する。このオフショア油田からの産出が、もうじき開始されよう、としている。石油は、国内生産が需要を賄えず、ソ連圏が健在の頃はソ連から不足分全量を賄った。その崩壊後キューバ経済が塗炭の苦しみを経験したのは、輸入量が激減した石油の不足に負うところが大きい。チャベス・ベネズエラ政権発足後キューバが経済を回復できたのは、ベネズエラとの医療チーム派遣と石油との交換スキームの賜物だった。オフショア油田はそのキューバに、石油の自給どころか輸出を可能とする。

どこの石油輸出国にも石油省やエネルギー省があるが、これを基礎産業省から切り離して創設しよう、というものだ。鉱山資源も本来国家に帰属するもの、との考え方も世界では一般的だ。ニッケルと言う希少金属の鉱山を持つキューバには、その管理を独立企業に委ねる訳にはいかない。だから鉱山省の新設だろう。個人的には、単に鉱山エネルギー省に名称変更することで構わない気もするが。

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