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2011年8月27日 (土)

ニカラグア選挙戦とリビアのカダフィ政権崩壊

リビアのカダフィ大佐率いる若手将校団が王政を転覆し、独裁体制をスタートさせたのは、チェ・ゲバラがボリビア軍政により処刑されて2年弱経った196991日のことだ。前年より世界中で学生や労働者による反政府運動が見られるようになっていた。その中でゲバラと3歳年下で颯爽と現れたカダフィ大佐は、多くの反体制活動家に眩く映ったことだろう。それから42年間、大統領も議会も憲法も無いカダフィ体制が続いて来た。ラテンアメリカではそれより1世紀半も昔、1813年から40年までパラグアイを率いたフランシア(1766-1840)を想起する。加えて、大統領も議会も憲法もあったが、ソモサ家支配が43年間続いたニカラグアも想起する。

19366月、アナスタシオ・ソモサ・ガルシア(タチョ、以下、同。1896-1956)国家警備隊長官(事実上の国軍総司令官)が、その33年後のリビア同様、無血クーデターを起こし権力を掌握した。この頃は、ラテンアメリカ諸国ではどこでも、制限的でこそあれ、選挙で選ばれる大統領、議会が根付いていた。タチョはカダフィ大佐と異なり、自らは選挙によって大統領になった。民選議会には、野党も存在した。ただ、選挙では必ず自らの「国民自由党」が勝った。大統領を交代しても自党から出した大統領に対し院政を敷き、また復帰した。569月に詩人のリゴベルト・ロペスに狙撃され死亡したが、一見民主主義のこの国で後任は、選挙により長男が継いだ。任期到来で退任し、父同様、院政を敷いたが復帰はせず、671月、弟アナスタシオ・ソモサ・デバイレ(タチート、以下、同。1925-80)の大統領当選を見届け、病死した。 

リビアの反カダフィ運動が顕著化したのは2011年に入ってからだが、ニカラグアでは、ともかくも野党が存在していたので、反ソモサ家運動の歴史は長い。そのリーダーで知られるのは、保守政治家のチャモロ(1924-78)だ。大統領経験者を持つ政治家の家系で、28歳で当時でも有力紙だったラ・プレンサの社主を継いだ。タチョ狙撃事件の後に逮捕された多くの反体制運動活動家の一人であり、その後脱走、亡命、帰国、再逮捕を経て、1960年に恩赦で釈放され、政治活動に復帰した。

反ソモサ運動で知られるのは左翼ゲリラのサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)だが、この結成は1962年だから、チャモロの方が先行している。ただ、チャモロは武力闘争には頼らなかった。野党勢力を糾合し、抗議デモを繰り返した。その間、FSLNは彼らと無関係にゲリラ活動に携わっていた。有名なのは7412月の米大使館クリスマスパーティー襲撃事件だ。この解決には当時のオバンド大司教が尽力した。

197710月、FSLNが各地の兵営襲撃のための一斉蜂起を行った。翌781月、チャモロがソモサ勢力に暗殺された。この二つの事件の関連性は無い。だが、反政府勢力は抗議デモ、ゼネスト、活動体の組織化と国家再建綱領発表、と進みオバンド大司教など宗教界も引き付けた。その綱領発表翌日、FSLNは国会ビル占拠事件を起こす。その後は前者に呼応する形でFSLNの武力行動が繰り返され、これが翌年の革命に繋がった。

リビアの反カダフィ勢力には、NATOが空爆の形で付いた。半年強経った今、フランスが積極的に反カダフィ勢力の国民評議会による政府作りに協力しようとしている。ニカラグアの反ソモサ勢力は、自前で国家再建評議会を立ち上げ、その評議員を幹部とする臨時政府を作った。思想的にはリビアの国民評議会同様、同床異夢である。オルテガ現大統領と共に評議員の一角を占めていた故チャモロ未亡人、ビオレタ・バリオス(以下、米国式呼称が一般化しているビオレタ・チャモロ)氏の辞任により、政府の主体はFSLNに移っていく。キューバや、そしてリビアとの親交も深まった。そうなると、政府のイデオロギーも顕在化し、反対派が動き始める。武力闘争を狙うコントラを、米国が支援した。石油資源に恵まれたリビアと異なり、ラテンアメリカ最貧国で今ですら人口570万に過ぎない小国ニカラグアの、悲惨で本当の内戦は、ここから始まった、と言える。

リビアの反カダフィ運動は、「国軍による空爆から弾圧されるリビア国民を守るため」の政府施設空爆で、先ずNATO軍が介入した。フランスはいち早く反カダフィ勢力による国民評議会を正統政府として承認し、武器を供与した。反カダフィ軍事行動が進むにつれ、欧米諸国もフランスに追随した。これに対し、ニカラグアでは国際的な承認を得た臨時政府が、反政府武装勢力たるコントラへの米国による支援で、内戦に突入した。結果170億㌦もの国富を喪失した、として、去る719日の革命記念日にオルテガ大統領が、この賠償請求の可否を巡る国民投票を提案した。これまで米国とは項関係維持に腐心してきた同大統領も、思い切ったものである。 

オルテガ大統領は、チャベス・ベネズエラ大統領共々、カダフィ氏への親近感が強いことで知られる。NATOの空爆を激しく糾弾し、対話による解決を呼び掛けて来た。その彼は、来る116日には大統領選挙を控えている。819日に公示されたばかりだ。ニカラグアも憲法に、他中米諸国同様、大統領の連続再選を禁じる規定がある。ところが、201010月に最高裁判所が同規定はそれ(連続再選)を求める当人に対しては適用不能、との裁定を下した。当然反対派はこれを不当な裁定、と非難する。だがオルテガ氏は最高裁の裁定は絶対、として、かかる非難には馬耳東風を決め込む。

議会ではFSLNはベネズエラのチャベス与党(3分の2を占める)と異なり、過半数も持たない。だが、野党の分裂状態が続いている。1990年では立憲自由党(PLC)や保守党が「反対派国民同盟(UNO)」の形で一本化し、ビオレタ・チャモロ氏を大統領に送り込めた。次の97年選挙では、PLCが伝統政党を糾合し、自由連合(AL)の名で今回も出馬するアレマン元マナグア市長を、2001年選挙では、PLC単独でアレマン政権の副大統領だったボラーニョス氏を夫々当選させた。憲法上連続再選不可、のため、彼に後継させたという構図のようで、それだけに今回、オルテガ氏の連続立候補を認めた最高裁判定への異議は強い。伝統政党はその後分散化した。これが06年選挙でオルテガ氏復権に繋がっている。この構図は変わっていないとすれば、彼の再選は盤石だろう。

今回、耳慣れない「独立自由党(PLI)」を率いるカデア元中米議会議長(在任2004-2005)の台頭が著しい。PLIは「サンディニスタ刷新運動(MRS)」や既成政党の反主流派を糾合した「グァテマラ希望同盟(UNE)」の中核で、直近のギャラップ調査では、投票先として彼が第二位(第一位はオルテガ氏の41%)の34%を付けている。他の調査機関は概ね同時期の調査結果として、彼を57.1%、ガデア氏を何と15.8%としており鵜呑みにはできないが、ガデア氏が対立候補としての本命であるのは間違いなさそうだ。第三位が既存大政党のPLC、アレマン元大統領(65歳。前回任期1998-2003)だが、いずれも辛うじて二桁行くかどうかだ。選挙法上、第一位が40%以上、乃至は35%で第二位に5%差をつければ、決選投票無しでの当選が確定する。なお、大統領は国際選挙監視団受け容れを約束した。

ガデア氏はジャーナリスト出身であり、ラジオ局のオーナーでもある。減税や公共投資の推進と共に対ベネズエラ関係の維持を公約した。その意味で既存右派勢力とは一線を画すようだ。ただ、私が調べた限りでは、年齢が80歳、大変に高齢だ。

 

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2011年8月12日 (金)

与党大統領候補無き総選挙-グァテマラ

サンドラ・トーレス氏の大統領選立候補は、結局、89日の憲法裁判所において満場一致で否決された。候補者締め切り日が712日で、国民希望同盟(UNE)と国民大連合(GANA)の連合から成る与党陣営からは、大統領選には誰も出られないことが確定した。与党陣営から大統領選に誰も出馬しない例は、グァテマラでは初めてだが、今年のペルーにある。与党アプラ党がアラオス前財務相を指名したのに、彼女自身が自らの判断で早々と立候補を見送った。だが、民主主義体制下で、立候補受付期限を過ぎて当局に却下されたケースは、私は寡聞ながら知らない。

このブログでhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/07/post-d510.htmlで紹介したが、628日、彼女はグァテマラ選挙管理当局(TSE。直訳すれば、選挙最高法廷)から登録拒否された。48日にコロム大統領と離婚したのは、憲法規定の抵触を回避するためで、不正行為に当たる、とした。最高裁判所に上訴したが、730日、離婚しても大統領との関係は続いている、との理由で却下された。残る唯一の可能性は憲法裁判所の判断だった。

トーレス氏は、一連の当局の裁定は、特定候補に利する決定であり、自分に対する政治的リンチ行為で承服できないが尊重すると述べ、コロム大統領も、深い考察の結果であることを信じ、司法決定は大統領として尊重する、と述べた。

彼女の言う特定候補が愛国党(PP)のペレスモリーナを指すことは言うまでも無い。4月の世論調査では、有権者の42%が彼に投票する、と答えていた。これが5月には37%へ、8月早々は34%へ下がり、第二位に就けていたトーレス氏との差が20ポイントを切るようになった。51%以下の得票の場合、第二位との差が20%以下だと、114日の決選投票に持ち込まれる。彼女以外の候補者には、元々UNEにいたが現在「自由民主会派(LIDER)」に属するバルディソン議員(40歳)、「公約・確信・秩序(CREO)」という新党を立ち上げた学者で2003年選挙の大統領候補、スヘル氏(72歳)らがいる。いずれも支持率は一桁に過ぎず、常識的にペレスモリーナ氏の敵ではあるまい。ノーベル平和賞受賞者のメンチュウ氏もいるが、支持率は1%台で恐ろしく低い。

彼女の戦略は、議会と地方政治における勢力増強により、コロム政権が行ってきた社会計画の継続に注力に変わった。20084月に開始された「ミ・ファミリア・プログレサ」という条件付き支援金制度(英文略語でCCTという)がある。大統領夫人だったトーレス氏が立法化に奔走したことが知られる。

CCT自体は一定の条件下にある家族を対象に、現金給付を行うものだ。国際的にもメキシコが1997年に初めて導入した制度で、世銀によれば、今やラテンアメリカ、アジア、アフリカの26ヵ国に広まった。ラテンアメリカでは13ヵ国で導入され、有名なのは、ブラジルのルラ政権下で2003年に始まった「ボルサ・ファミリア」だ。受益者は1千万世帯に上る。メキシコの「オポルトゥニダーデス」も5百万世帯なので、人口比では同水準と言えよう。グァテマラは25万世帯が目標、と言うから、人口比ベースで上記2ヵ国の3分の1の規模で、概ねチリ(2002年導入)並みだ。中米では、ホンジュラス(同、1998年)よりも少なく、エルサルバドル(同、2005年)よりも多い。

この国の人口の半分以上が貧困層とされ、5歳以下の幼児100万人が栄養失調で苦しむ。人口の40%を占める先住民に対する医療、教育、住居の基礎的公共サービスは、遅れたままだ。大統領への道を閉ざされたトーレス氏としては、「ミ・ファミリア・プログレサ」の拡充を、議会や地方を通じて迫って行きたい。ただ、ペレスモリーナ政権に移ったとしても制度そのものは続こう。チリ(同、2002年)は中道左派政権時代に導入したが、右派のピニェダ政権下でも継続されている。

ペレスモリーナ氏は、犯罪者取り締まりへの強硬姿勢(Mano dura=硬い手)を約束する。グァテマラの10万人当たり殺人発生率は48人、コロンビア(35人)よりも高い。同国では、ウリベ前政権の8年間で66人からほぼ半減した。ウリベ前大統領はFARCに父親を殺害されたこともあり、暴力には強硬姿勢で取り組んだ。家族、友人を殺害されたペレスモリーナ氏も、暴力を憎むこと、ウリベ氏と変わるまい。グァテマラ国民も彼のMano duraに期待するところ、大であろう。だが、今やメキシコ経由で米国を目指すコカインの重要拠点になり果てたグァテマラの犯罪の、実に42%が麻薬がらみ、と言う(コロム大統領)。麻薬犯罪にメキシコのカルデロン政権のように強硬姿勢で応じると、凶悪犯罪が却って増える恐れもある。麻薬犯罪対策は、中米全体で取り組み、且つコロンビアとメキシコの協力が不可欠だ。

軍人出身で、政治活動に入るために退役し、政党を作り、大統領になれば、ベネズエラ、ペルーに続く3人目となる。ゲリラ出身を含めると6人目だ。ところがグァテマラ国軍は内戦時代に先住民に対する人権侵害に関与したことが広く知られている。彼自身は、その内戦時代を通じ軍の将校を務めていた。とりわけ最近は具体的な事件を基に、関与を指摘し非難する反対派勢力の動きも見られる。

かかる状況下、今こそ常識で考えられない状況変化が、選挙までの1ヵ月間に起こるのだろうか。

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