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2011年7月30日 (土)

ウマラの門出と南米首脳の姿

728日は、チリを解放してペルーに転戦したサンマルティン(1778-1850)が、護国卿(Protector)の立場でペルーの独立を宣言した日で、ボリーバル(1787-1830)の副官スクレ(1795-1830)がアヤクチョの戦いで実際に解放した1824129日(以上、私のホームページの「ラ米の独立革命」独立革命の再開及び独立の完成参照)ではなく、この日をペルーは独立記念日としている。それから124年経ち、ブスタマンテ(1895-1984)がこの日に大統領に就任した。3年後オドリーア将軍(1897-1974)のクーデターで追放されたが、そのオドリーアも、選挙の中身はともかく大統領に選出され、やはりこの日に就任、軍政など特殊事情が無い限り、その後も民選大統領の就任式はこの日に行われる。

独立宣言のその190周年記念日に当たる728日、ウマラ大統領が誕生した。軍人出身で思想的に左派傾向の強いことから、ベネズエラのチャベス大統領との近似性が指摘される。だが2006年選挙の敗因が彼との親密性にあったことから彼と距離を置く。就任宣言でも最低賃金引き上げや貧困層への年金拡充、金属国際相場で儲けた鉱山会社の特別利益の財源化、を除くと、格差是正、貧困撲滅にエネルギーを注ぐと言う割に、左派的な政策に乏しい。民間投資歓迎、対外契約の保証は、経済政策の維持を意味する。

ただ1979年憲法の精神を尊重する、と言明した。現行憲法はあくまで1993年のものだ。それを言うなら「1993年憲法の精神に則り」、が当然だろう。1990から2000年まで(反フジモリ勢力の言う)独裁を行ったフジモリ元大統領により破棄された1979年憲法、新たに制定した現行憲法、という史実をクローズアップさせる象徴的意味合いが有るのだそうで、早速フジモリ派勢力からの激しい抗議を呼んでいる。もう一つ尋常でないのがガルシア前大統領の欠席だ。罵りの攻撃に晒されることを嫌った由である。低い国民支持率にあえいだ彼は在任中、ペルーに南米でも最高水準の経済成長をもたらし、貧困率は何と5割近くだったものを3割にまで下げた。胸を張って、議会での通常の退任スピーチをこなし、就任式に臨んで良かったろうに、と思わずにいられない。 

ウマラ氏は就任前には69日のブラジルを皮切りに、南米9カ国(715日のベネズエラを除き、全て6月中に)を、妻と共に歴訪、南米諸国連合(Unasur)との顔つなぎは、ガイアナ、スリナムを除き終わっていた。Unasur重視、地域統合推進は、ウマラ氏の基本的外交方針だ。ことこれに関しては、彼はチャベス氏と意見を同じくする。ただ、Unasurと言えば寧ろルラ・前ブラジル大統領と、故キルチネル・前アルゼンチン大統領だ。ベネズエラ訪問が繰り延べされたのはあくまでチャベス氏の癌手術後の都合によるもので、彼が避けたわけではない。漸く実現したチャベス氏との会談時、彼から君呼ばわり(tutear)され、同志(compañero)とか兄弟(hermano)とか呼ばれながら、ウマラ氏は彼をあなた(usted)として礼儀を守った。718日にメキシコを訪問、19日には、丁度化学療法を受けるとかでチャベス氏が滞在していたキューバも訪れた。敢えて面会はせず、電話挨拶で済ませている。一方のチャベス氏は、ウマラ就任には手放しの喜びようで、ツイッターを通じて、「オリャンタ大統領万歳、英雄的ペルー人民のために万歳、Unasur万歳、ペルー万歳」と発信している。 

ウマラ大統領就任式には、療養で出られないルゴ・パラグアイ及びチャベス両大統領を除く南米の全首脳が出席した。このところ健康問題も絡んで外遊を控えていたフェルナンデス・アルゼンチン大統領も同様だ。この機会にUnasur特別サミットが開かれ、域内の民主主義深化と統合の加速化を約束するリマ宣言を採択、2012年の通常サミットの場所をリマとする旨を取り決めた。誘く昨今の米国の債務上限問題やギリシアの債務救済に端を発したEU加盟国債務危機への対応を話し合い、8月中旬ブエノスアイレスで大蔵・財務相会議を開催、その前にリマでの予備会議を持つ旨申し合わせ、8月早々のサントス・コロンビア大統領のメキシコ訪問を機に、ブエノスアイレス会議への同国の参加を呼び掛けることになった。ドル安は、ラテンアメリカでも輸出ブレーキを呼び経済成長を妨げ、さらに投機資金が流れ込み、7,000億㌦もの外貨準備を目減りさせる。

フェルナンデス大統領はこの後、29日にルセフ・ブラジル大統領に同行する形で、ルセフ政権発足後、初めてブラジリアを訪問、首脳会議では世界レベルでの経済危機に対する協力推進など申し合わせた。この機会にルラ前大統領を新装成った大使館に招き夫の時代に始まった旧交を温めた。早速、10月の大統領選に向けた動き、との見方が出始めている。最近行われた一連の地方選挙では、彼女の反対勢力が優勢だ。健康問題で大人しくしていたら、再選戦略が狂ってしまう。それを言っているようだ。

  欠席したチャベス氏は、23日にキューバから既に帰国していた。キューバではどうも精密検査を受け、その結果癌転移も認められず、暫く化学療法を受けただけのようだ。滞在中の19日、上記のウマラ氏との電話会談、21日、コレア・エクアドル大統領の見舞いを受け、翌日には「化学療法第一段階終了」を自ら発表していた。27日が57歳の誕生日だが、この日、自分は2031年(つまり77歳になる)まで政権の座を守る、と述べた。同じく、ルゴ・パラグアイ大統領は、外電によれば、現在癌再発の恐れが出て来て、前に入院したサンパウロの病院で再び治療中、とのことだ。その彼は否定するが、パラグアイでも彼の任期満了前に憲法を改正し、彼の再選を可能にする動きも出ているようだ。

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2011年7月19日 (火)

療養に入ったチャベス大統領

716日、チャベス大統領は癌摘出手術を受けたキューバに、化学療法、乃至は放射線治療を受けるため、12日間ぶりに戻った。短い祖国滞在だった。15日にはウマラ・ペルー次期大統領の訪問を受け、2時間に亘り会談している。会談前、ブラジル国営通信が、チャベス氏に対しブラジルのサンパウロにある「シリオリバネス病院」での治療を申し出た旨伝え、キトにいた同国パトリオタ外相がこれを追認していた。この病院では、2009年、大統領選前にルセフ氏が治療を受け、快癒した。ルゴ・パラグアイ大統領も2010年にここで治療を受けた。日本のメディアも伝えたが、ルセフ氏は1週間前の彼への電話で、癌治療の専門家の派遣、乃至はブラジルでの治療を提案していた。チャベス氏も心が動き、また家族も望んだようで、秘密裏にマドゥーロ外相がこの病院を視察した、との情報もある。ところがウマラ氏との会談後、チャベス氏はキューバでの治療を発表した。

どうも病状に関する情報漏洩を懸念してのことではないか。彼も医師団もベネズエラ政府も、何の癌か、身体のどの部分か、どれほど進行していたのか伏せたまま、摘出した腫瘍は野球のボール並みの大きさだった、他に癌腫瘍は見つかっていない、と医師団が断言している、と断片的な説明に留め、713日、初めて化学療法、若しくは放射線治療の必要性に触れるほど、実態を秘匿し続けていた。その内に、医師団に近い筋から外電に結腸癌、との情報がもたらされこれを否定する経緯もあった。その点、キューバは秘密情報の保持では安心感がある。ルセフ氏には感謝しつつも、キューバを選ばざるを得なかったのだろう。

独裁国家や社会主義国家では最高権力者の負の健康情報は、徹底した統制下に置かれる。民主国家でも、例えばフランスでも大統領の健康情報統制はよく知られる。チャベス氏を社会主義国家の独裁者と見るのは勝手だが、2012年に大統領選を控えており、健康上の弱みを曝け出すのは常識的に考えても拙かろう。彼は、「ボリーバル革命」と呼ぶ社会主義建設を成し遂げるため、大統領を続ける意思が固い。2021年、カラボボの戦い(ベネズエラ解放)200周年を迎えるが、その記念式典遂行を公言する彼は、次の2018年選挙にも出る積りらしい。

 

大統領の5日以上に及ぶ国外旅行は、議会承認を必要とする。16日、満場一致でこれを議決したが、野党は、留守中の大統領権限を憲法規定に基づき副大統領に移譲すべき、また、療養である以上、その病状に関わる詳細報告の提供が必要、と食い下がった。これに対し、チャベス氏は電子署名手続きで応じた。どこにいようが、外部漏洩を伴わない政令署名が可能であれば、権限行使は可能、としたものだ。ただ、行政面での効率を考え、一部の権限をハウア副大統領とジョルダーニ財務相に移譲した。

ウマラ氏と会う前日の14日には、幾つかの政令に署名し、またテレビ放送された閣議の場で長演説を行った。農業、住宅建設、電力プロジェクトの話しから、ベネズエラ史に及び、1811年独立宣言書を朗読する一方で、リビア問題でのカダフィ支持、シリア問題での反アサド派の背景にあるとして、帝国主義への非難などを織り交ぜた、2時間近くに及ぶもので、帰国後最長だ。それでも通常の彼の演説の長さに比べると短く、我が生命を守るため医師団に命じられた生活規律に厳格に従った、と述べた。

 

ビデオ映像などで見る限り、チャベス氏は以前に比べ随分痩せた。100kg以上あった体重は、今85kg、と本人が述べている。医師団の忠告に従い生活態度を大きく変えた、と言う。今は死ぬ時ではない、祖国のために生きて勝利をものにする、などと繰り返し、ひたすら病状を秘匿する態度に、いくばくかの危惧を抱く人も多かろう。病状が厳しいとなると、ベネズエラによる援助を受けるキューバやニカラグアは困ろうし、ボリビアにも政情不安の形で波及しよう。経済界、とりわけ金融界や証券界は歓迎しよう。彼の言動に眉をひそめる米国はどうだろうか。

AP電は8日の段階で、ポスト・チャベス候補者として、マドゥーロ外相、ラミレス・エネルギー相、ランヘル・シルバ戦略的作戦司令官の名を挙げている。三人ともチャベス氏の癌摘出手術後初めての記者会見に立ち会っており、彼の信任が篤いことは間違いあるまい。マドゥーロ氏はバス運転士としてカラカス交通非合法労組のリーダーを務め、チャベス氏のMVR(第五共和国運動。ベネズエラ統合社会党(PSUV)の前身)結成に参加した。2006年に現職になってから大統領の名代として発言する機会が多い。ラミレス氏は2002年のクーデター未遂事件の後、エネルギー相、04年に兼務で国営石油会社(Pdvsa)総裁に抜擢された。ランヘル・シルバ氏は1992年、チャベス氏の反乱に参加した同志で、現在は国軍の将軍の一人だ。彼は、反チャベス勢力が政権に就くことを軍も国民も受け容れない、と発言し、野党からの厳しい批判を浴びた。勿論、共産党一党独裁国家でもないベネズエラのこと、彼の信任だけで後継者になれるわけはない。

ブラジルではカリスマ指導者のルラ前大統領の推薦でルセフ氏が労働者党(PT)の候補指名を得て立候補し、大統領選を勝ち抜いた。先ずは、チャベス氏が誰を推薦するか、だが、始めから二期8年間を務め上げたら退任が決まっていたルラ氏と異なり、チャベス氏は自らが長期に政権を担おう、という意思が強い。だから、推薦する人など、念頭にあろう筈も無い。仮に健康問題で大統領選出馬を断念することがあれば、PSUVの大統領候補指名を得られるのは誰か、今から見据えておくのも無駄ではなかろう。勿論、チャベスの影響力が弱体化してなお、PSUVが政権を担える勢力を確保できるか、こちらも見どころと言える。ブラジルは、いまだルラの影響力が衰えぬPTでも単独では無理で、中道右派のブラジル民主運動党(PMDB)と連立を組んだ。

 

16日、80歳のラウル・カストロ国家評議会議長自らがハバナ国際空港に、56歳の彼を出迎えた。17日から療養が始まった筈だが、18日段階では、何も聞こえてこない。留守部隊のジョルダーニ財務相がテレビで、2012年選挙で彼が出馬するのは疑いの余地は無い、と言い切った。

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2011年7月 8日 (金)

ベネズエラ独立宣言200周年

181175日、ベネズエラ自治政府が独立宣言を行った(私のホームページラ米の独立革命スペイン領独立革命の勃発参照)。第三回ラテンアメリカ・カリブ首脳会議(第二回目はhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2010/02/post-ffa0.htmlを参照)をベネズエラの保養地、マルガリータ島で、チャベス大統領が主催することにしていた日が、まさしくその200周年記念日だった。結果的には、彼が610日にハバナで骨髄腫瘍の、20日には癌腫瘍の摘出手術を受け、術後休養を兼ねハバナに滞在、29日に外務省が首脳会議(サミット。以下、同)延期を発表していた。

200周年の前日未明、彼は帰国した。思いのほか元気な様子だが、長時間の演説はまだ無理、と告白する。記念日には大統領官邸バルコニーに姿を現したが、軍事パレードなどの記念式典には欠席した。この日駆け付けたモラレス(ボリビア)、ムヒカ(ウルグアイ)及びルゴ(パラグアイ)大統領が、これに参加、彼を喜ばせた。勿論、三人の訪問を受け、親しく懇談している。7日には最大の国軍基地を訪問し、1時間半もの演説も行った。また閣議にも出席し政策課題をこなしている。健康状態は、好転しているようで、彼の支持者たちは2012年選挙への出馬は確実、と手放しの喜びだ。 

独立宣言と独立革命(勃発)は、ベネズエラとラテンアメリカ全体にとっての重要性が異なる。後者は、何しろ宗主国の最高権力者を植民地の一介の市会(カビルド)が罷免する、という、大それた行動だ。これが、多分前例を知らぬまま、525日のアルゼンチン、720日のコロンビア、918日のチリと、同じ1810年だけで別の3人の「王」(副王2名、軍務総監1名)罷免に繋がった。2010419日の独立革命(勃発)200周年記念式典http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/200-592f.htmlには、ラテンアメリカ十九ヵ国(イベロアメリカ諸国)中、モラレス大統領を含む6ヵ国首脳が、アルゼンチンの独立革命200周年記念式典にはチャベス氏を含む7ヵ国首脳が駆け付けたhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/200-26a9.html。コロンビアとチリについては、私自身、大規模式典のニュースは見落としている。前者はその18日後にサントス大統領就任式が行われ、大勢の首脳が出席した。

だが、チャベス大統領は前者が重要、と考えたのか、米国、カナダを除く全ての米州諸国首脳が一堂に会する日に選んだ。彼が最も尊敬するボリーバルは、母国ベネズエラに限らず、既に独立していたチリを除くアンデス諸国全てを解放した。他にもパラグアイとアルゼンチン、及びメキシコと中米が独立しており、彼は最終的に米国に対抗する一大連合国家を夢見ていた。チャベス大統領の夢は、これをさらに発展させた統合体であろう。ともあれ、彼自身の健康問題により、独立宣言200周年記念日でのサミットは流れた。本サミットでラテンアメリカ・カリブ共同体(スペイン語名称を略し、CELACと表記。本ブログhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2010/02/post-ffa0.html参照)を正式に発足させ、機関化し、ゆくゆくはOASに代わる統合体、とすべく旗振り役を買って出ていた彼には、断腸の思いもあったろう。 

さて、独立宣言を境に独立戦争が始まった。この最高司令官のミランダ(1750-1816)は、北米独立戦争やフランス革命にも参加し、在欧中、特に英国にラテンアメリカ独立支援を訴え続けていた。その彼が、181012月に帰国したのは、同年央、市会の最高評議会による遣英使節団の一員として参加していたボリーバルの説得による。ボリーバルは彼の副官として参戦した。庶民を徴用した急ごしらえの独立軍は、宗主国軍の敵ではない。挫折を繰り返し、ベネズエラが最終的に解放されるのは、独立宣言から10年を経た1821624日のカラボボの戦いによる。

ボリーバルは現コロンビア、エクアドルをも一つにした、いわゆるグランコロンビアを建国した。発想は、ラテンアメリカ全体の独立を睨んでいたミランダ譲りだったかも知れない。その足でペルーに向かい、サンマルティンが完成し得なかったペルーとボリビアの解放を、18253月までに実現した。だが、その2ヵ国を一つにすることはできず、加えて5年後、グランコロンビアまでが3ヵ国に解体した。彼の失意を晴らし、さらに発展させることが、チャベス大統領が自らに課す使命感なのだろうか。 

ラテンアメリカの統治は、海を鍬で耕すようなもの(統治不能)と嘆いたのは、ボリーバル自身である。CELACの前に、先ずはUNASURを固めなければなるまい。3年前に調印された憲法条約が発効したのが、2011311日のことだ。漸くキトに事務総局が設置されて間もない。議会についてはコチャバンバで議場が建設中、というが、議員の定数も未だに決まっていない。そもそも最初に南米統合を打ち出したブラジルが憲法条約を批准していない。確か、パラグアイも、だ。幸いに批准国が9ヵ国を超えたら一定の期間を過ぎれば発効できる、との取り決めで、ともかく動き始めてはいるが、迫力不足だ。加えて、そのモデルたるメルコスルには、ベネズエラは加盟申請から5年も経って、パラグアイ議会のため正式加盟が成っていない。この体たらくでベネズエラ大統領がUNASURを強化への指導力が、発揮できようか。

チャベス大統領はモレロス、ムヒカ、ルゴ各大統領との懇談時、カラボボ200周年にまた集まろう、と語った由だ。10年後のことだ。それまでにCELACは統合体として完成しているのだろうか。それともUNASUREU並みの統合体に発展しているのだろうか。それともメルコスルだけでもEU並み統合体として完成しているのだろうか。 

1830年、ベネズエラがカウディーリョのパエスにより建国された(ホームページのカウディーリョたち参照)。パエス(事実上の支配期間1830-47)、モナガス兄弟(同、1847-58)、グスマン・ブランコ(同1870-98)、カストロ(同1898-1908)及びビセンテ・ゴメス(1908-35)と、建国以来の1世紀余りの内、上記6人のカウディーリョが最高権力を行使した。ラテンアメリカで多少ともこれに近いのは、グァテマラとパラグアイくらいだろう。いずれも大統領の再選自体を禁止している。ところがベネズエラは、無期限連続再選をうたう。且つ、大統領任期を、やはり大統領再選自体を禁止するメキシコ同様、6年間とする。いずれも、チャベス大統領になってから決まった。彼の政権期間は既に上記のモナガス兄弟とカストロを凌ぐ。関係国の国益を調整しつつ完成に向かうのが地域統合だが、それには彼の任期が何時まであれば良いのか。取り敢えずの節目は2012年の大統領選だろう。勝てば、建国を成し遂げたカウディーリョのパエスを凌ぐことになる。

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2011年7月 6日 (水)

サンドラとグァテマラ総選挙の行方

911日、グァテマラで総選挙が行われる。与党の中道左派、国民希望同盟(UNE)は、中道右派の国民大連合(GANA)と連合を組み、サンドラ・トーレス氏(55歳)を大統領候補に指名している。世論調査では、愛国党(PP)のペレスモリーナ氏が支持率で彼女を圧倒する。ところでこの3党、いずれも20012年結成の若い党だ。

ラテンアメリカで、多くの国で軍部が組織として長期に亘って国政を担う、いわゆる軍政時代(私のホームページ参照)、グァテマラでは選挙制民主主義が採られていた。だがモンテネグロ(在任1966-70)の次、即ち1970年から1982年までは、全ての大統領が軍人出身だった。有権者数については検証が必要だが、投票者数は全人口の1割内外で、それでも過半数を制する者がおらず、全て議会での決選投票を経た。その議員が所属する政党には、モンテネグロの基盤、革命党(PR)、及び主要幹部が軍人である制度的民主党(PID)と国民解放運動(MLN)があった。3党は1957年から1963年にかけて結成されている。1982年、選挙に不正があった、として、リオスモント元参謀総長を軍事評議会議長とする軍政が敷かれた。彼は翌年解任され、メヒア国防相が引き継いだ。憲法改正、新憲法下の総選挙、と、他の軍政諸国と同様の民政移管プロセスを経て、現在の普通選挙に基づく政治体制が漸く確立した。 

1985年にはセレソアレバロ氏が当選した。中米危機解決のためのエスキプラス首脳会議(私のホームページ「軍政時代とゲリラ戦争」のゲリラとの和平参照)を主催したことで知られる。基盤とするのは59年代結成のキリスト教民主党(PDG)で、他のラテンアメリカ諸国の民政移管とあまり変わらない。90年にはこの年連帯実行運動(MAS)を結成したセラーノ氏が当選した。925月にペルーのフジモリ大統領に1ヵ月遅れ、アウトゴルペ(自己クーデター。議会解散と憲法停止)を起こし、その後国外追放され、MASも消滅する。暫定政権を経て95年選挙を制したのは、進歩国民党(PAN)から出たアルスー氏で、翌年末のゲリラとの最終和平合意を実現したことで知られる。その時次点だったグァテマラ共和戦線(FRG)のポルティーヨ氏が、次の99年選挙を制した。PANFRGも、結成は1989年、MASより1年早い。

2003年選挙の結果、1999年選挙にPANから立候補し次点に終わったベルヘル氏が、結成間もない国民大連合(GANA)から出て当選した。次点は同じく結成間もない国民希望同盟(UNE)から出たコロム氏だが、07年に当選した。

つまり、民政移管の1985年以降、以下のようなパターンが読み取れる。ラテンアメリカの他諸国と比べ、極めて特異、と言える。

l 一つの政権党が再び政権を取ったことが無い。

l 1990年以降の政権党は、結成後間もない若い政党のみ

l 1995年選挙以来、次点だった人が、3人続けて、次回選挙で当選 

このブログでも1http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/2011-553f.htmlに最有力候補として取り上げたペレスモリーナ氏は、実は07年選挙で次点に付けた人だ。彼の愛国党(PP)は、結成後最初の03年選挙ではGANAに参加した。だが離脱したので、11年選挙で勝って初めて政権党になる。彼が勝てば、4回連続で上記パターンが踏襲される。若しくはサンドラ・トーレス氏がこのパターンを止め、グァテマラのクリスティーナ(アルゼンチンのフェルナンデス大統領。夫が前大統領。以下女性のみファーストネーム表記、敬称略)になれるか、関心は募る。 

アルゼンチンとグァテマラ。人口面でも国土の広さでも経済力でも、この二ヵ国の差は非常に大きい。World Factbookによる識字率で比べても、前者の97%に対して、後者は69%だ。白人が全人口の97%を占めるアルゼンチンに対し、グァテマラは僅か2%40%を占める先住民は、独自の共同体の中で、スペイン語を母国語とはしない独自の文化を形成する人が多い。アルゼンチンが1862年に統合国家になって、一個人が長期独裁を敷いたことは、見方によっては異なるかも知れぬが、無い、と言えよう。これに対しグァテマラはカレラ(1838-65)、ルフィーノバリオス(1873-85)、カブレラ(1898-1920)及びウビコ(1931-44)がいる。政治文化が歴史の中で築かれるとすれば、この二ヵ国の違いは大きい。だが、強権体質は、実は似ている。

以下、ホームページの「軍政時代とゲリラ戦争」で軍政時代前夜及びラ米の軍政時代を参照願いたい。アルゼンチンでは、1930年から度々クーデターを起こした軍部が、政治の前面に出るようになった。概ね12年で民政移管を繰り返したが、64年から83年まで、約3年間の断続期はあったが、長期軍政期を過ごした。後半は3万人もの犠牲者を出した「汚い戦争」で悪名高い。一方グァテマラでは、クーデターも何度か起きているが、アルゼンチンのような軍政期はみていない。ただこの間軍人政権が殆どで、60年代からの内戦では85年までに十数万人の犠牲者を出している。アルゼンチンは89年民政移管後、急進党政権で始まった。89年以降は一部例外を除きペロン党政権が続く。これに対しグァテマラでは上述通り政権党が毎回、変わった。 

クリスティーナは、学生時代からペロン党の活動に携わり、州議会、国会での議員として政治に関わり、ファーストレディ時代も国会議員を続けて、そして大統領になった。大学は夫のキルチネルと同じラプラタで、二人はそこで知り合った。サンドラも大学は夫と同じだが、世代がかなり離れている。ビジネスの世界に入り、その後女性の政治参加を促す活動に入り、コロム氏のUNE結成に参加、また結婚した。彼が三度目、彼女が二回目の結婚であり、初婚同士だったキルチネルとクリスティーナとは異なる。サンドラが主として社会問題関連の立法化に奔走したことは知られており、子女救済基金の名誉総裁でもあることは、寧ろ60年前のペロン夫人、エビータに似る。UNEが政権を連続して担うための大統領候補として最適なのは、彼女だった。且つ、GANAの共闘も引っ張り出せた。

グァテマラでは、個人による長期独裁を忌避するため、連続、非連続を問わず一個人が、再び大統領選に出馬することを禁じる。加えて、大統領の家族による権力承継を回避するため、子息など家族の一員が大統領選に挑戦することも禁じる。妻がその対象になるかどうかは議論が分かれるが、サンドラは余計な議論を回避すべく、離婚した。だが、前夫の政権を引き継ぐことに変わりなく、これを不正とみた選挙管理当局は628日、彼女の立候補登録を拒否した。7月央には最終登録が締め切られる。彼女以外で適任立候補者がいないUNEGANA連合は、登録拒否撤回の申し立てを行い、彼女は選挙キャンペーンを継続している。アルゼンチンでは有り得ない事態だ。 

1985年以来のグァテマラ独特の政権交代のパターンからして、元々不利な戦いを展開しているサンドラに、勝利はあるのだろうか。かつての政権党の内、連帯実行運動(MAS)は消滅し、キリスト教民主党(PDG)、進歩国民党(PAN)は議席数が極小若しくはゼロに落ち込んでいる。残るグァテマラ共和戦線(FRG)、UNEGANA及びPPの勢力動向を含め、注目点は多い。

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2011年7月 2日 (土)

クリスティーナの挑戦-アルゼンチンの2011年総選挙

クリスティーナ・フェルナンデス大統領が10月の大統領選出馬意向を621日に表明した。25日、ブードゥー経済相を副大統領候補指名したことで、2003年以来のキルチネル与党とも言うべき「勝利戦線(FpV)」の選挙態勢も決まった。それにしても立候補宣言が随分遅れた。彼女自身の健康問題もあったようだ。6月初めメキシコと、イタリアへのほぼ一週間に亘る外遊に出かけ、この頃より再選への意欲を見せ始めており、健康への懸念は払拭しつつあった。

このブログでも紹介したリカルド・アルフォンシン議員、ドゥアルデ元大統領http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/2011-553f.htmlの二人が、世論調査では支持率争いで二、三位争いをしている。だが夫々十数パーセントだ。アルゼンチンでは第二位との得票差が10%以上だと、決選投票を経ずとも当選、と法律で定められている。40%内外の支持率を持つフェルナンデス大統領の連続再選は、確実だろう。

1994年、アルゼンチンでも連続再選を認める憲法改正が成った。彼女が再選されると、メネム元大統領(在任1989-99年)に次ぐ二人目、となる。所属政党で言えば、いずれもペロン党(正式には「正義党(PJ)」)だ。1862年に現在のアルゼンチンが確立してからそれまでの132年間、それもいわゆる「ペロン憲法」でペロン(在任1946-55年)自身が断行した例外はあるが、連続再選は禁じられていた。 

ご周知のようにアルゼンチンにはペロン党(正式名称は「正義党PJ」)と急進党(UCR)の二大政党が存在する。

l 1955年にペロンが追放された後の18年間、軍政と急進党政権が交互に国政を担った。

l 1973年から3年間はペロン党が政権復帰したが、その後軍政に戻り、

l 1983年に民政移管され急進党が政権に就いた。

l 1989年以降はペロン党で、99年から3年間、急進党がペロン党反メネム派と組んで政権を担った。

他にも、右派、中道、左派の政党もある。この頃から政界地図がややこしくなる。選挙に当たって、二大政党が夫々に分裂し、他政党などと共闘する形での政治グループが形成された。

2011年選挙においては、ペロン党はFpVと「連邦ペロ二ズム」に分かれる。後者は政党ではなく、言わばペロン党非キルチネル派だが、選挙のための政治勢力にはなれる。マクリ・ブエノスアイレス州知事が結成した「共和の提起PRO」との共闘だ。急進党も、リカルド・アルフォンシン議員を担ぐ「社会発展の連合」と、カリオ前大統領候補を支持する「市民連合」とに分かれる。他にも何人か立候補を表明している。どうみてもフェルナンデス氏の連続再選を止めるには、反FpV大同団結位しか無かろう。そうでなければ、立候補から引き摺り下ろす作戦だ。 

よく言われるのが、夫に糸を引っ張られていた大統領だから退陣するのが順当、というネガティヴ・キャンペーンだ。彼女が夫キルチネル前大統領に支えられて政権を運営してきたことへの異論はあるまい。ところが、夫の死後、29%にまで落ちたこともある大統領支持率が急回復した。かかる数字は、スリムでおしゃれな彼女は同じ服は二度と着ない、それだけの資金力には不正蓄財があるに違いない、彼女に近い団体幹部にも不正あり、と言った有力紙のスキャンダル追及や、輸出を牽引する農業団体の反発による社会混乱などが原因となっている。

急回復は、黒衣の服装が、エビータを失ったペロンの黒い腕章を想起させたため、とも、マチョ文化の中で、悲しむ未亡人を労わる国民的共感による、とも言う。だが、彼女への評価を情緒的なものだけで行うのは気の毒だ。一定所得以下の家族の子供に対する月額50㌦相当の給付、年金制度の確立、貧困層の目に見える減少、メルコスル強化への取り組みを始めとする積極的な外交推進、IMFと一定の距離を維持しながらの経済成長、中央銀行総裁罷免に見せた政策実行への果敢な指導力。やはり彼女自身の政治家としての力量を表していないか。

彼女は、1991年、サンタクルス州議員に選出された。同年、夫キルチネルが知事になった州だ。夫の影響力の賜物、とは誰も言うまい。彼女はその前から、法律家として活躍していた。95年に国会の上院議員に選出され、97年に下院議員に転じ、2001年に上院議員に復帰した。この間、夫は州知事のままで、言うなれば、中央政界転出は、彼女が先行した。大統領夫人を務めた時期も、議員のままだった。

彼女の演説には表現に激しさが有り、大統領夫人時代は、エビータ(エバ・ドゥアルテ、1919-52)を彷彿させたようだ。彼女と比較されることを政治家としてのフェルナンデス氏自身は好まないそうだが、彼女が今なお多くの国民に敬愛される中では、大きな政治資産と言えよう。貧困層救済のためのエバ財団や、47年に実現した婦人参政権への奔走で知られるエビータにも、政治家としての資質を指摘する史家は多い。 

だが、628日にアスンシオンで開催されたメルコスル首脳会議には、医師団に止められた、として欠席した。直前に転倒して額を打撲したため、と言う。彼女の健康問題は、本当に無くなったのだろうか。30日、チャベス・ベネズエラ大統領が、実はキューバで手術を二度も受けた、癌だった、と発表した。国家の最高権力者の健康状態には、常に注目しておく必要を痛感する。チャベス氏はその後フェルナンデス大統領に電話したようだが、彼女の健康についても語り合ったのは間違いなかろう。

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