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2011年7月 2日 (土)

クリスティーナの挑戦-アルゼンチンの2011年総選挙

クリスティーナ・フェルナンデス大統領が10月の大統領選出馬意向を621日に表明した。25日、ブードゥー経済相を副大統領候補指名したことで、2003年以来のキルチネル与党とも言うべき「勝利戦線(FpV)」の選挙態勢も決まった。それにしても立候補宣言が随分遅れた。彼女自身の健康問題もあったようだ。6月初めメキシコと、イタリアへのほぼ一週間に亘る外遊に出かけ、この頃より再選への意欲を見せ始めており、健康への懸念は払拭しつつあった。

このブログでも紹介したリカルド・アルフォンシン議員、ドゥアルデ元大統領http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/2011-553f.htmlの二人が、世論調査では支持率争いで二、三位争いをしている。だが夫々十数パーセントだ。アルゼンチンでは第二位との得票差が10%以上だと、決選投票を経ずとも当選、と法律で定められている。40%内外の支持率を持つフェルナンデス大統領の連続再選は、確実だろう。

1994年、アルゼンチンでも連続再選を認める憲法改正が成った。彼女が再選されると、メネム元大統領(在任1989-99年)に次ぐ二人目、となる。所属政党で言えば、いずれもペロン党(正式には「正義党(PJ)」)だ。1862年に現在のアルゼンチンが確立してからそれまでの132年間、それもいわゆる「ペロン憲法」でペロン(在任1946-55年)自身が断行した例外はあるが、連続再選は禁じられていた。 

ご周知のようにアルゼンチンにはペロン党(正式名称は「正義党PJ」)と急進党(UCR)の二大政党が存在する。

l 1955年にペロンが追放された後の18年間、軍政と急進党政権が交互に国政を担った。

l 1973年から3年間はペロン党が政権復帰したが、その後軍政に戻り、

l 1983年に民政移管され急進党が政権に就いた。

l 1989年以降はペロン党で、99年から3年間、急進党がペロン党反メネム派と組んで政権を担った。

他にも、右派、中道、左派の政党もある。この頃から政界地図がややこしくなる。選挙に当たって、二大政党が夫々に分裂し、他政党などと共闘する形での政治グループが形成された。

2011年選挙においては、ペロン党はFpVと「連邦ペロ二ズム」に分かれる。後者は政党ではなく、言わばペロン党非キルチネル派だが、選挙のための政治勢力にはなれる。マクリ・ブエノスアイレス州知事が結成した「共和の提起PRO」との共闘だ。急進党も、リカルド・アルフォンシン議員を担ぐ「社会発展の連合」と、カリオ前大統領候補を支持する「市民連合」とに分かれる。他にも何人か立候補を表明している。どうみてもフェルナンデス氏の連続再選を止めるには、反FpV大同団結位しか無かろう。そうでなければ、立候補から引き摺り下ろす作戦だ。 

よく言われるのが、夫に糸を引っ張られていた大統領だから退陣するのが順当、というネガティヴ・キャンペーンだ。彼女が夫キルチネル前大統領に支えられて政権を運営してきたことへの異論はあるまい。ところが、夫の死後、29%にまで落ちたこともある大統領支持率が急回復した。かかる数字は、スリムでおしゃれな彼女は同じ服は二度と着ない、それだけの資金力には不正蓄財があるに違いない、彼女に近い団体幹部にも不正あり、と言った有力紙のスキャンダル追及や、輸出を牽引する農業団体の反発による社会混乱などが原因となっている。

急回復は、黒衣の服装が、エビータを失ったペロンの黒い腕章を想起させたため、とも、マチョ文化の中で、悲しむ未亡人を労わる国民的共感による、とも言う。だが、彼女への評価を情緒的なものだけで行うのは気の毒だ。一定所得以下の家族の子供に対する月額50㌦相当の給付、年金制度の確立、貧困層の目に見える減少、メルコスル強化への取り組みを始めとする積極的な外交推進、IMFと一定の距離を維持しながらの経済成長、中央銀行総裁罷免に見せた政策実行への果敢な指導力。やはり彼女自身の政治家としての力量を表していないか。

彼女は、1991年、サンタクルス州議員に選出された。同年、夫キルチネルが知事になった州だ。夫の影響力の賜物、とは誰も言うまい。彼女はその前から、法律家として活躍していた。95年に国会の上院議員に選出され、97年に下院議員に転じ、2001年に上院議員に復帰した。この間、夫は州知事のままで、言うなれば、中央政界転出は、彼女が先行した。大統領夫人を務めた時期も、議員のままだった。

彼女の演説には表現に激しさが有り、大統領夫人時代は、エビータ(エバ・ドゥアルテ、1919-52)を彷彿させたようだ。彼女と比較されることを政治家としてのフェルナンデス氏自身は好まないそうだが、彼女が今なお多くの国民に敬愛される中では、大きな政治資産と言えよう。貧困層救済のためのエバ財団や、47年に実現した婦人参政権への奔走で知られるエビータにも、政治家としての資質を指摘する史家は多い。 

だが、628日にアスンシオンで開催されたメルコスル首脳会議には、医師団に止められた、として欠席した。直前に転倒して額を打撲したため、と言う。彼女の健康問題は、本当に無くなったのだろうか。30日、チャベス・ベネズエラ大統領が、実はキューバで手術を二度も受けた、癌だった、と発表した。国家の最高権力者の健康状態には、常に注目しておく必要を痛感する。チャベス氏はその後フェルナンデス大統領に電話したようだが、彼女の健康についても語り合ったのは間違いなかろう。

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