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2011年6月17日 (金)

ウマラの南米歴訪

チャベス・ベネズエラ大統領に3日遅れ、ウマラ次期ペルー大統領がルセフ・ブラジル大統領と会談、チャベス氏がハバナで手術に臨んでいる時、ウマラ氏はルラ前ブラジル大統領と会談していた。ウマラ氏は2006年選挙の際にはチャベス氏の支援を受け、これがペルー国民の反感を呼び、僅差ではあったがガルシア現大統領への敗因、と言われている。2011年選挙では、チャベス氏と距離を置き、ルラ氏の政治モデルを前面に出した。だから、ブラジルが最初の訪問先となったことは不思議でも何でもない。ここを起点とすれば、パラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチン、とメルコスル諸国行脚に進むのも自然だ。

ところで64日、つまりケイコ・フジモリ前議員との大統領決選投票の前日、チリ・パタゴニアが始まるアンデス地帯にあるプジェウエ火山が大噴火を起こした。これがアルゼンチン、ウルグアイまで火山灰を飛ばし、空港閉鎖が相次いだ。彼の歴訪中、しかし、空路を断念したのは613日のモンテビデオ-ブエノスアイレス間だけで済んだ。それでも前日のアスンシオン-モンテビデオ便は諦め、サンパウロ経由としたため、パラグアイ滞在は短縮され、勿論、ウルグアイ滞在もムヒカ大統領主催の昼食会を辞退する始末となった。614日のブエノスアイレス-サンティアゴ間の航空便は、火山灰がうまく途切れたために可能だった、と、伝わる。

南米諸国では、就任前の次期大統領が域内の現大統領を訪問することは、よくあることだ。それにしても開票率100%になっていない段階で、夫人と共に外遊を始めた。訪問先も5ヵ国、と多い。しかも次にはコロンビア、エクアドル、ベネズエラ及びボリビア訪問が控える旨言明している。やはり、異例ではなかろうか。加えて、クリントン米国務長官、サルコジ・フランス大統領から、728日の就任式前の訪問を招待されている由だ。右派傾向の強い政権が続いた資源国ペルーに誕生する左派政権。その本質を、早く掴みたいのかも知れない。核問題を理由としたイラン制裁反対、リビアにあってはNATOによる軍事介入反対を叫ぶ国はラテンアメリカにあっては左派、中道左派政権に多い。抗米意識の強いチャベス、モラレス(ボリビア)、コレア(エクアドル)大統領と、どこまで一線を画すのかを含め、国際舞台で、かなり注目されていることは間違いあるまい。

真っ先にメルコスル原加盟諸国を選んだのは、同じアンデス共同体のボリビアが準加盟国として、関係強化に先行しているから、でもあろう。ただ、訪問先のウルグアイで、メルコスル加盟と域内外諸国と締結済みの自由貿易協定との整合性を図るには時間が掛る、と述べ、一気呵成には進まないことを十分認識している。一方で、メルコスルの政治メカニズムへの参加に強い意欲を見せた。教育、社会治安、医療など共通課題に取り組むには南米南部の政治枠組みが効率的、との考えのようだ。

メルコスル原加盟4ヵ国の中では、彼が個人的交流を得たのはキルチネル前アルゼンチン大統領くらいだ。妻フェルナンデス現大統領から早々と彼の勝利を祝福する電話が掛っていた。彼女は、ペルーへの思い入れを隠さない。1982年、アルゼンチンがマルビナス(フォークランド)戦争に臨んだ際に、戦闘機供与などでペルーの全面的支援を得た経緯がある。にも拘らず、1990年代のペルー・エクアドル国境紛争で、アルゼンチンがエクアドルに対し戦闘機を供与したことから、両国関係はこじれていた。20103月、アルゼンチン大統領としては20年ぶりにペルーを訪問した。このブログでも紹介したが、クリントン米国務長官がアルゼンチン訪問http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2010/03/6-8841.htmlした際、マルビナス領有権問題での米国の支援を要請、また「マルビナス戦争28周年」行事(http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2010/04/post-8a42.html)の間のことで、恩人ペルーとの関係修復は、彼女には喫緊の課題で、それを実現させた、という自負がある。

13日夜、モンテビデオからブエノスアイレスにラプラタ川を船で渡った彼は、翌14日にフェルナンデス氏と会談、先ずマルビナス戦争でのペルーの支援に対する感謝の気持ちが表明された。ウマラ氏によれば、社会、経済、文化、治安及び麻薬問題に加え、両国の国民が相手国に在住する場合の職業上の規制を撤廃する資格標準化システムもテーマとして採り上げられた。在外ペルー人数では世界有数で30万人以上、在ペルー家族への送金額は2010年、年間25億㌦にも上った旨、公式発表が行われている。

14日夜、最後の訪問地のチリに、幸いにも空路で入った。ピニェラ大統領は、彼の勝利に最も早く祝意を寄こした人だ。両国は領海問題を抱える。チリは1952年及び54年の両国間条約で領海線は画定済み、との立場だが、ペルーは漁業専管区域を定めたものに過ぎず、国家間の境界線にあらず、との立場で2008年、その決着をハーグ国間際司法裁判所に提訴している。一方でペルーの対チリ投資は25億㌦、チリの対ペルー投資は100億㌦と、経済活動では両国の関係は強固だ。翌15日、ピニェラ氏との1時間半の会談では、テーマは地域統合、投資、エネルギー問題、太平洋同盟、漁業保護、10万人と言われる在チリのペルー人など、多岐に亘った。また、二国間問題を何時でも協議できる両国首脳間ホットライン開設で合意した。

彼は、将来を見据えることが重要で、元々の兄弟国同士、いかなる問題も解決できる、と述べる。ナショナリストながら、ここでは両国民が望むのは統合と結束を基本とした関係構築、と言い切る。ピニェラ氏は、貧困、無知、未開発、及び麻薬との戦いでは両国がお互いの違いに対する偏見を持たず、一致協力して臨めば、その分解決が進む、と述べた。会談後、昼食会に臨み、帰国の途に就いた。

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2011年6月15日 (水)

チャベス大統領の三ヵ国行脚

6月10日朝、チャベス・ベネズエラ大統領がハバナの病院でabsceso pélvicoの手術を受けた。日本語では骨盤膿瘍、と訳される。黴菌による炎症で傷口が化膿したものだそうで、同行したマドゥーロ外相によれば、6日からのブラジル、エクアドル、キューバ三ヵ国訪問中、腹部の不快が昂じ、ハバナでピークに達し医師の検査を受けたところ、緊急手術が必要と診断された、という。12日、チャベス大統領自らが手術成功、その後の各種検査でも異常無く、経過良好をテレビ局への電話を通じ公表した。ただ、帰国日程については明らかにしていない。野党は大統領不在期間が長くなれば憲政上その代行を置く必要がある、とするが、与党過半数の議会は、医師団が必要と認める期間のキューバ滞在を了承、代行は不要、との決定を下した。

66日、最初の訪問国ブラジルでは、ルセフ大統領と就任式以来の首脳会談となった。直前にルラ・ブラジル前大統領のカラカス訪問を受けていた。ルセフ大統領は、ルラ政権時代よりの両国間戦略的協調関係を引き継ぐ旨を述べ、両国間投融資及び貿易促進への協力をうたった。ベネズエラで計画している2017年まで200万戸の住宅建設の一環で、ブラジルのゼネコン、オデブレヒト社が進める建設計画への40億㌦の信用供与、ブラジル北東部の石油精製所建設に際してのPDVSAの参画、などがある。チャベス氏はEmbraer社製の旅客機820機の調達を表明する。また、ラテンアメリカ・カリブ共同体(CELAC)創設への全面協力をも述べる。さらに、ルラ時代同様、3ヵ月ごとの両国首脳会談開催を確認、75日にCELACのサミットが75日にカラカスで開催されるが、ルセフ大統領はこれへの出席を約束した。

7日、キトに入り、そこから東南350キロ離れた保養地でのコレア大統領との首脳会談に臨んだ。9回目、とされる。チャベス、コレア両氏は出自も学歴もまるで異なるが、二十一世紀の社会主義を奉じる同志だ。だが、この二人は会うのは201012月以来、半年ぶりである。11日のルセフ・ブラジル大統領就任式にはコレア大統領が欠席した。米州ボリーバル同盟(ALBA)のサミット首脳会談は、2011年には開催されていない。両国間には防衛協力や日量30万バレルの生産能力を持つ「パシフィコ製油所」建設への協力などの懸案事項が存在する。前者では2010年秋口以降、部品供給が間に合わず使用不可の状態にある戦闘機のミラージュ5009年、ベネズエラがエクアドルに寄贈)、後者では総コスト125億㌦の内、両国政府が負担する35億㌦の他の調達問題もある。どのような首脳会談だったのか、どうもよく伝わって来ない。

そしてその翌8日、ハバナに入った。201011月以来だ。目的は、両国間協力案件についての協議のため、と公表された。事実、日量15万バレルのマタンサス製油所建設や、完成間近の海底通信ケーブル敷設のキューバでのプロジェクトや、キューバ独自技術による薬品工場のベネズエラでの建設プロジェクトなどがよく語られる。キューバにとりベネズエラは、日量10万バレルの原油を供給し、3万人の医療関係者を含む4万人の協力スタッフを受け入れる重要なパートナーだ。空港で直接出迎えたラウル・カストロ議長との公的首脳会談をこなし、恩師と仰ぐフィデル前議長とも会っている。

実は、彼のブラジル、エクアドル訪問は元々5月に予定されていたが、左足の膝の古傷が痛むとの理由で延期した。3月にはアルゼンチン、ウルグアイ及びボリビアを訪問していたし、ラテンアメリカを二分した難問とされるホンジュラス問題で49日、コロンビアのカルタヘナへ飛び、サントス・コロンビア大統領と共に解決の仲介を行った。この人は実によく動く。その人が過去一ヵ月間、目立った動きをしなかった。65日からのサンサルバドルOAS総会がホンジュラス資格停止処分を解いたが、彼らの仲介の賜物である。だが、何時も目立つこの人が、大人しくしていた。また、何時も歩行には杖をついていた。このためベネズエラ国内では色々な憶測を招いたようだ。そして、ハバナでの手術、その後暫く滞在、である。議会が、国家最高指導者としての職責遂行上、問題無し、との判断を早々と行った。重要な国政事項は、期限も付けずに在ハバナのチャベス大統領が決断しても良い、という訳だ。聊か釈然としない。暫く注視しよう。

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2011年6月 7日 (火)

ペルー大統領選決選投票

これを書いている現地時間の66日午後10時半、つまり決選投票が締め切られて丸一日経って、選挙管理委員会のホームページには1時間前開票率93.849%の数字しか出ていない。だがウマラ氏が得票率で3.116ポイント差のリードであり、ケイコ・フジモリ氏優勢の北部、特にリマでも開票率が95%を超えた以上、ウマラ氏勝利は動きようがない。総選挙が行われて間もない4月の段階では、ウマラ候補が断然有利で、正直私も彼で決まりだろうと思っていた。ところが、5月に入ってからケイコ(以下、同)候補優勢の調査結果が伝えられるようになる。5月央から22日にかけては35ポイント近い差だった。これが、国内での結果公表を違法とする5月末から一変し、投票日直前の調査では逆にウマラ氏の4ポイント近い優勢、に変わっていた。決選投票もこれを引き継いだ格好だ。「左派政権」発足を控え既に下落していた証券市場は6日、さらに12%、と、暴落の様相だ。

外電は、ペルーでの左派政権(実際には、ウマラ氏がブラジルのルラ政権志向を約束しており、またトレド元大統領の政党との連立と考えられるので、中道左派に位置づけられよう)誕生に注目する。2010年、南米ではチリが右派政権に代わった。2011年、ペルーの政権交代で、それ以前の左派系(中道左派含む)9ヵ国、右派計2ヵ国に戻った格好だ。

日本のメディアは、ラテンアメリカ諸国の選挙としては異例とも言うべき頻度で、ペルー選挙を採り上げた。大震災と原発事故と国内政局で紙面が埋め尽くされ、リビア、シリア、イエメン情勢を伝えない中で、ケイコ候補優位となると、中間情勢まで伝えた。彼女が最初の日系人大統領の娘だから、だろうが、そうではなくとも、彼女自身が日系人である限り、同様の扱いを受けたかも知れぬ。

ペルーは、南米で最も早く日本人移民を受け入れた。建国以来ごく一部の例外を除いて続いて来た軍人政治に叛旗を翻し、文民政治を確立したピエロラ(1839-1913。在任95-99)政権末期の18994月、第一陣を乗せた佐倉丸がカヤオに到着した。笠戸丸によるブラジル移住開始に9年先行した。移住者が酷使されたのはブラジルや米国と同じだが、ケイコ氏の父、アルベルト・フジモリ(以下フジモリ)元大統領が生まれた翌年の19405月、プラド第一次政権下の首都リマで起きた日本排斥の大暴動ほどの悲惨を味わっただろうか。何の本だったか、日系人はペルー社会で目立つことを恐れて来た。フジモリ氏は学者になり、1990年大統領選に出馬し、有力政党が推す作家のバルガス・リョサを決選投票で下し、当選した。現在のペルー人口は2,900万人、その内日系人は僅か9万人。10年間に及ぶフジモリ政権下、日系人は目立った筈だ。

メディアはあまり注目しないが、今回選挙では大統領の娘がもう少しで大統領になる、という、世界的にも稀有な政治情勢は、私には気になった。独立後のペルーで、親子で大統領に就いたのはマリアノ・プラド(1826-1901。在任1865-681876-79)とマヌエル・プラド(1889-1967。在任1939-4556-62)、マヌエル・パルド(1834-78。最初の文民大統領。在任1872-76)とホセ・パルド(1864-1947。在任1904-081915-19)の二例がある。ラテンアメリカ全体を見れば、パラグアイ、チリ、コスタリカ、ニカラグア、コロンビア、ウルグアイ及びパナマ(但し父親は最高指導者であっても大統領には就いていない)にも例がある。米国にすらある。だから、このこと自体は、決して瞳目すべきことではない。ただ、父と娘、というのは異例だ。

ケイコ氏は離婚した母親に代わり、大統領のファーストレディを務めた。パナマのモスコソ(在任1999-2004)、アルゼンチンのフェルナンデス(同、2007~)元・現大統領に次ぐファーストレディ経験者三人目、になるかどうか、という見方もできよう。

次に、政治資産について述べたい。政務経験や政治行動、或いは国民知名度などがある。ウマラ氏には現役軍人時代の200010月、不正スキャンダルが発覚したフジモリ大統領(当時)に退陣を要求する反乱を起こし有名になり、大統領退陣後、議会によって赦免され、軍に復帰し、駐在武官としてパリとソウルでの勤務経験を持つ。2005年、自らペルー民族党を結党し翌年の大統領選に立候補、第一回投票では一位で決選投票に進んだ。これが彼の政治資産だ。チャベス・ベネズエラ大統領との親密な関係、というマイナス政治資産で結局敗れたわけだが、元大統領のガルシア候補を5ポイント差まで追い詰めた。それを今回選挙では、チャベスと一線を画し、ルラをモデルにする、という穏健路線言明により、ある程度克服した格好だ。

ケイコ氏は2006年の総選挙で得票数第一位で議員になり、今回、200年の力を創設し弱冠36歳で大統領候補となった政治資産は、やはり政治復帰が阻まれる父親の遺産であることが否定できない。議員時代の、政治家としての顕著な実績は、まるで伝わってこない。そして欧米系のメディアは、父親の「不正・腐敗と強権独裁と人権侵害」をこぞって強調し(このブログで紹介したhttp://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=57410684&blog_id=630532参照)、だから彼女にはマイナス資産になった、と指摘する。5年後、ウマラに倣い、マイナスを克服し、再登場するのだろうか。

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