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2011年5月30日 (月)

セラヤ前大統領の帰国-中米

528日、ホンジュラスのセラヤ前大統領がドミニカ共和国での16ヵ月の亡命生活を切り上げ、ニカラグア経由で帰国した。スペインなどに亡命していた彼の政権時代の幹部も同様だ。ロボ政権の正統性を巡りラテンアメリカを二分した同国の政治危機は、取り敢えず終わった。これには前哨戦がある。

49日、コロンビアのカルタヘナでサントス・コロンビア、チャベス・ベネズエラ及びロボ・ホンジュラス3首脳が集まり、下記が取り決められた。「カルタヘナ合意」と呼ぶ。

   セラヤ及びその勢力幹部への迫害停止と安全な帰国

②  国民の権利たる憲法プロセス実施の保証

  人権尊重。侵害が有った場合にはその調査実施

   2013年選挙にセラヤ勢力が政党として参加できることへの保証

彼がクーデターhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2009/06/post-e8d4.htmlで追放された直後に当たる20097月、米州機構(OAS)がホンジュラスを加盟資格停止処分にした。メルコスル諸国及びALBA(米州ボリーバル同盟)加盟国は200911月の選挙の正統性を認めず、ロボ政権http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2010/01/post-31eb.htmlを承認しないまま今日に至った。彼らが承認せぬ限りOAS復帰は無い。彼らは承認の前提を、セラヤ帰国、としてきた。代表格たるベネズエラが、今回、動いた。

頑なだったホンジュラス司法当局も、5月初め、OAS復帰が国益に叶う、と言う判断から、としか思えぬが、対セラヤ訴追と逮捕指令を取り下げた。そして、522日、カルタヘナにロボ・セラヤ前・現大統領が合流し、サントス大統領とマドゥーロ・ベネズエラ外相の立ち会いの下、カルタヘナ合意を基にした「国民和解と民主システム強化の為の協定」に署名する。その後に両氏はグァテマラ、エルサルバドル及びニカラグアの首脳が集まるマナグアに飛び、ここでやはり資格停止となっていた中米統合機構(SICA)復帰も決まった。61日にワシントンで開催されるOAS特別理事会での審議に基づき、5日、サンサルバドルに招集される総会でホンジュラス復帰は確定する。

上記②は、要するに憲法改正を問う国民投票を実施しても、懲罰は受けないことを保証する、というものだ(http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2011/01/post-b5e6.html)。国民投票自体は合法化された。国民投票が実施され憲法改正が実現すれば、大統領選再出馬も可能となる。上記にあるセラヤ勢力とは、国民抵抗戦線(FNRP)のことで、セラヤ追放に抗議する草の根運動として、20096月のクーデター直後に誕生した。彼は2005年選挙では、二大政党のひとつ、自由党(PLH。創設1891年)から出た。クーデター後はPLHから追放された格好であり、復帰は無さそうだ。憲法改正で大統領再選が可能になれば、201311月の選挙に出馬しよう。ラテンアメリカは殆どがそうだが、無所属の出馬はなく、選挙母体となる政党が必要だ。政党登録要件を考えれば、FNRPの政党化は避けて通れない。

ホンジュラスでは、ウリベ政権が誕生する前のコロンビアと同様、PLHと国民(PNH。同1902年)の二大伝統政党が政権を担ってきた。コロンビアでは建国期に結成された自由、保守両党が一定の期間で政権交代を行うようになったのは、実は「国民戦線」(事実上の両党連立)時代が終わった1974年以降のことだ。ところがホンジュラスでは、カリアス(1876-19691933-48年大統領)期と軍政時代(1963-82)を除くと、ほぼPLHPNHの二大政党間の政権交代が一、二期ごとに行われた。

大政党間で政権交代を繰り返す政治文化、と言えば、中米随一の民主国家とされるコスタリカの国民解放党(PLN1951年創設)とキリスト教社会統一党(PUSC1983年結成)の関係に似る。だが、この二大政党体制は1980年代からPUSCが大没落を喫した2006年までの、僅か四半世紀のことだ。この国も、政党が誕生し、消える。

また、選挙の都度大統領候補が自前の政党を作り、その結果政党の数が増える一方のラテンアメリカの中ではメキシコ同様、希少国、と言える。メキシコは制度的革命党(PRI1929年創設)が70年間もの長期に亘り政権党を担い、国民行動党(PAN1939年創設)への初めての政権交代は2000年になってからだ。

長期に亘り二大政党が一、二期ごとの政権交代を繰り返すホンジュラスの政治文化は、寧ろ米国にすら似る。にも拘らず、政治的後進性のイメージは拭えない。

ホンジュラスの議会勢力は、2009年選挙によってPNH71議席(前期の55から大躍進)、PLH45議席(同、62から凋落)を占めている。前議席数が128なので、PNHは過半数を占める。その他にはキリスト教民主党(DC。同1963年)、革新統一党(PINU。同1970年。穏健左派)及び民主統一党(PUD。同1992年。左派)の3党があるが、夫々35議席の小党である。FNRPは、コロンビアのウリベ前大統領が選挙母体として2002年に結成した国民社会連合党(la “U”)のようになるのだろうか。

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2011年5月18日 (水)

コレアの三回目の国民投票

57日、エクアドルで国民投票が行われた。有権者数1,116万人には、在外者21万人も含まる。在外者の7割はスペイン中心にヨーロッパ、2割弱が米国のようだ。投票用紙1ページに、ぎっしり質問が付され、これから(了)かNo(否)を選ぶ。

10項目の内、5項目が憲法改正を要する。この内の4項目が司法制度改革関連、残る1項目はメディアと産業界(具体的には金融)の支配関係禁止をうたう。他5項目は分かり易い。賭博業の禁止、暴力に関わる報道やメディア責任を監視する規制委員会設置、従業員の社会保険加入を妨げる事業主への罰則、などがある。

集計にえらく時間が掛っており、堪らずにこれを書いている518日現在、生き物を殺戮するショーの禁止の是非を除く9項目について、99%台、グァヤキルを含むグァヤ県だけが未了の97%だ。だが帰趨は決まった。司法側の手続遅延を回避する方策(質問1)が唯一、50%を超え、No11.5%差を付けた(残りは白票と無効票)。他は45%48%台で、39ポイント差でNoを上回る。

ところで、今回の国民投票は、コレア大統領が20071月に就任して、確か3回目だ。第一回目は、就任3ヵ月後に行った制憲議会選挙の可否を問うもので、82%の賛成を得て、同年9月に実施された。

新憲法草案が制憲議会で可決されれば、どこでもそうだが、国民投票に掛る。これが第二回目で20089月のことだ。この時は64%の賛成票を得て「2008年憲法」が生まれた。今回の結果を受けて、彼の第四回目の国民投票(5項目に関わる憲法改正手続き)に進むのかどうか。憲法手続を要しない項目については、議会での立法措置などに付されよう。

新憲法下、彼は翌20094月に行われた総選挙で52%の得票により再選され、初めて彼の「至高の祖国同盟」(Alianza PAIS、以下「PAIS」)が国会に議席を持つことになった。ただ議席総数124に対してPAIS59、過半数に足りない。彼は、立法措置を伴う政策遂行にはメディアの反政権姿勢が障害になっている、と考えているようだ。司法も、二十一世紀の社会主義を標榜する政権には好意的ではない。国民に直接問うたら賛成された、との理屈で、法案を通すことになろう。

コレアと言う人は、米国に留学し、そこで修士号、及び博士号を取ったエコノミストだ。著作も多いし、米人にも知己は多い。ラテンアメリカ左派政権の最高指導者は5人いる(私のホームページの「ラ米の政権地図」左派政権の国々参照)が、ゲリラ出身のカストロ、オルテガ、軍人出身のチャベス、コカ農家出身のモレロス各首脳と比べ、随分異色だ。この人が就任してこの方、米軍への空軍基地貸与期限延長に応じず、最近では米国DEA(麻薬取締局)がラテンアメリカの麻薬組織幹部の集合場所としてエクアドルを名指しすると、具体的証拠を、と咬みついた。ウィキリークスで「コレア大統領は、ウルタード氏が不正行為を犯したと承知しながら、警察庁長官に登用した」という20097月の外交電を理由に、45日、ホッジズ米大使を追放処分にし、米国との軋轢を招いている。ウィキリークスで米外交電を知り不快感を募らせる指導者は、多い。だが、大使追放に動いた最高主導者は、彼だけだ。だが、対米政策は硬軟併せ持つ。基本的には良好な関係に努めており、今なお、流通貨幣は米㌦のままである。

コレア大統領は、二十一世紀の社会主義を奉じる。チャベス・ベネズエラ、モラレス・ボリビア両左派大統領との盟友ぶりを隠さない。国政では両国同様に貧困層への家族手当支給、教育・医療の無料化を進める。一方で外国債権団とは最初モラトリアムを宣言しながら、結局リスケ交渉を纏めた。外国企業対応では、石油会社には権益縮小を押し付ける一方で、鉱山会社に開発投資を呼び掛ける。南米の右派政権下のコロンビアとは、20083月から2年半に亘って外交関係を断絶したが、サントス現政権期になって好転させた。ペルーとも最近では領海域画定で合意した。2009年から2010年の南米諸国連合(Unasur)議長として、存在感を増した。対米関係も上述の通り、つまり、外交政策自体はかなり現実的だ。2010年のクーデター未遂事件での警官隊を前にした彼の演説には迫力があった。これが全国ネット中継された。今、彼の国民支持率は65%である。

エクアドルはhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2009/04/post-ef27.htmlでも取り上げたが、政情不安で知られる。「1895年自由主義革命」で知られるアルファロ(1842-1912)が暗殺されてからコレア政権誕生までの95年間で、任期を満了できた民選大統領は、1912年から24年、48年から60年、及び84年から96年までの夫々3人ずつ、計9人しかいない。その内の一人、ベラスコ・イバラ(1893-1979。「ラ米のポピュリスト」のアヤ、ベラスコ・イバラ、ガイタン参照)は5回大統領になった、とは言え、任期満了は一度だけで、4回追放されている。軍政時代も1963-66年の3年間と1972-79年の7年間に、細切れに分かれた。

国土面積は、南米十一ヵ国の中ではウルグアイに次ぐ小国だ。ブラジル、アルゼンチンに挟まる同国は、政情的には、建国期はともかく、過去一世紀に亘りラテンアメリカの中で最も安定していた。片やエクアドルは、ウルグアイのような国民統合の取り易い国とは違い、特に首都キトのある山岳地帯とグァヤキルのある海岸地帯とでは、地勢も気候も人の気質もまるで異なる。コロンビア、ペルーという人口、領域面で二つの大国に挟まるが、この両国はブラジル・アルゼンチン関係に見られる国家間の張り合いは見られない。だからエクアドルも余り気遣いしない。だから平気で不安定なのだろうか。

コレア大統領は、そんなエクアドルの最高指導者だが、カリスマ政治家ベラスコ・イバラすら成し遂げなかった連続長期政権を、本当に確立できるかもしれない。

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2011年5月16日 (月)

パラグアイの独立200周年記念式典に思う

514日、大雨の中、パラグアイ独立200周年を祝い、アスンシオンのロペス元帥通りを国軍、警官隊、市民によるパレードが練り歩いた。ホストのルゴ・パラグアイ大統領の他、ムヒカ・ウルグアイ、モラレス・ボリビア両首脳も参列した。ルセフ・ブラジル大統領は最近肺炎を患い病み上がり、と言うことで大事を取って欠席した。フェルナンデス・アルゼンチン大統領は悪天候下の移動は控えるべき、と言うことで参列を見合わせた。元々、メルコスル原加盟国プラスボリビアの首脳全員が集合する筈だった。いずれも外相が代理参列しているとは言え、昨年5月のアルゼンチンの200周年記念式典に比べ、かなり寂しい(http://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2010/05/200-26a9.html)。大寺院での讃歌式典の最中に停電が起き、外部では豪雨の中で雷鳴が轟いた、という。

パラグアイとアルゼンチン、ウルグアイ及びボリビアは、1776年に設置されたラプラタ副王管轄領だ。1810525日、ブエノスアイレスのカビルドが副王を罷免し自治評議会(フンタ)を立ち上げた。その支配権は当然、副王領全体に及ぶ、とした。だが、パラグアイはスペイン王室から派遣された知事(インテンデンテ。私のホームページ「ラ米の独立革命」の独立前夜参照)ベラスコ(1765-1822)が健在でフンタ支配下に入らない。ボリビアは隣のペルー副王が軍を派遣し支配下に置いた。ウルグアイに至っては、罷免された副王がモンテビデオに拠った。フンタは、ベルグラーノ(1770-1820)に北部遠征軍を委ね、先ずはパラグアイとボリビアの武力制圧を図った。ウルグアイではアルティガスが独立運動を開始する(同、スペイン領独立革命の勃発参照)。

ベルグラーノ軍は、18111月のパラグアリの戦い、3月のタクアリの戦いを経て、取り敢えずパラグアイから撤退した。すると、アスンシオンのカビルドがパラグアイのフンタ立ち上げをベラスコに受諾させた。これが514日のことだ。彼は数日間、フンタのトップに立ち、その後1ヵ月間はフランシア(1766-1849。下記ロペス父子共々、「カウディーリョたち」のラプラタ諸国のカウディーリョたち 参照)らと三頭政府の一角にあった。彼が最終的に追放された後の同年10月、ブエノスアイレスのフンタがアスンシオンのフンタの自治権承認を確認するフンタ間条約が結ばれる。だが2年後、元々この条約に異議を唱えていたフランシアの独裁体制が整い、失効する。

またボリビア制圧も捗らず、サンマルティンがペルー解放に向かったのは、ボリビア奪還作戦の一環だった(「ラ米の独立革命」独立革命の再開参照)。結果的に1825年、ボリーバルに解放され、建国している。ウルグアイのモンテビデオは18146月、フンタの派遣した軍が制圧したが、アルティガスがフンタ支配を受け容れず、一旦撤収した。彼は18167月のリオデラプラタ諸州連合の独立宣言にも参集しなかった。そして半年後、ポルトガル・ブラジル連合王国に併合されてしまう。スペイン王室から出たカルロタ・ポルトガル王妃の領地、というのがその理由だった。「ブラジル・アルゼンチン戦争」(「ラ米の戦争と軍部」独立黎明期(1820-50代)の戦争参照)を経て、独立国となる。

つまり、この5ヵ国は独立期から因縁が深い。さらに、パラグアイは他4ヵ国との交戦関係を経験する。パラグアイに破局的敗戦をもたらすブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ三ヵ国同盟との戦争に発展した「パラグアイ戦争」(同、ラ米確立期(1860-1910年代)の戦争参照)は、唯一パラグアイと国境を接していないウルグアイの建国以来の政情不安が火元だった。その62年後の「チャコ戦争」(同、二十世紀の国家間戦争参照)は、チリとの太平洋戦争に敗れ内陸国になったボリビアが相手で、ブラジルとアルゼンチンを含む4ヵ国の調停による講和の末、事実上の勝利を得ている。

ラテンアメリカ十九ヵ国で最も早く独立を達成したパラグアイは、18703月までをフランシアとロペス親子の三人だけで支配した。「パラグアイ戦争」は、最後のロペス・ソラーノがウルグアイから対ブラジル調停を依頼された結果起きたものだ。パラグアイにとり、彼は今なお最大の英雄として敬愛される。「チャコ戦争」勝利から暫く軍部の発言力が強まり、クーデターなどによる政情不安期を経て、1954年から89年までストロエスネル(「軍政時代とゲリラ戦争」の軍政時代前夜参照 )時代も経験した。パラグアイ200年は、実に94年間がこの4人により支配された。南米で唯一、大統領の再選そのものを禁じるのには、かかる時代背景がある。

だが、隠し子やら健康問題やらの一方ではルゴ大統領の国民支持率は高く、彼の連続再選を期待する声も高まっているようだ。

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2011年5月 7日 (土)

ペルーの政党

2011410日総選挙の結果、立法府の政党構成はどうなったか。ペルー全国選挙プロセス委員会の集計が、55日に漸く終わった。大統領選第一位のウマラ候補の「ペルーの勝利同盟(Gana Peru)」、ケイコ・フジモリ候補の「2011年の力(Fuerza 2011)」は夫々4737議席となり、議会第一、二勢力となった。

キューバを除くラテンアメリカ18ヵ国の半数、具体的には中米6ヵ国全てと、ベネズエラとエクアドル、即ち現在左派政権下の2ヵ国、及びペルーの南米3ヵ国が一院制を採る。及び南米11ヵ国で一院制を採るのは、他には一院制だ。これら9ヵ国で全人口比議員数はペルーが最低で、人口約25万人につき一人となっている。ベネズエラは16万、エクアドルは12万、中米はどこも10万人を下回る。

こんな効率の良い制度は、アルベルト・フジモリ元大統領の1992年の自己クーデター(議会を解散し新憲法を制定するもの)の名残である。93年の憲法改正により、それまでの二院制(上院60名、下院180名)を一院制に、議席数を、上下院計240名を120名にし、2011年、総数を10名だけ増やした。その政治勢力別構成を見てみよう。

先ず、全議席数の36%を占める「ペルーの勝利同盟」の中核は、ウマラ氏が2005年に結成した「ペルー民族党(PNP)」と言う若い政党だ。2006年選挙では選挙母体としての登録が間に合わず、社会民主主義傾向の強い「ペルーのための連合(UPP)」1995年選挙に出馬したデクエヤル元国連事務総長が前年に立ち上げた)と組み、同党候補として戦い、議会最大勢力となる45議席を得たが、その後同党と袂を分かつ。退役将校の彼が1968年クーデターを起こしたベラスコ(1910-77)将軍(私のホームページ「ラ米の革命」のペルーとチリの「革命」参照)を尊敬していることはよく知られる。政治思想面では左派であり、200010月の反乱はフジモリ政権のスキャンダルを理由としているが、同政権の新自由主義政策への反発も大きかった。似通った経歴のチャベス・ベネズエラ大統領と重ねて見られるのも、止むを得まい。

決選投票でウマラ支持を言明しているトレド元大統領は、大統領選では第四位に終わったが、その選挙母体「可能ペルー(PP)同盟」の議席数は第三位だ。このままウマラ派と連立を組めば68議席となり、議会過半数を制する。彼が1995年結成した「可能ペルー(PP)」を中核とする。彼が大統領になった2001年には45議席を得たが、大統領候補を出さなかった06年には、一気に僅か2議席への大凋落を経験した。今回は、1956年にベラウンデ・テリー(1912-2002)元大統領(在任1963-681980-85)が結成、今や伝統政党に属する「人民行動党(AP)」などと組み、合わせて20議席を確保、幾分か挽回した。

議会第二位となる2011年の力)」は、いわばフジモリ党だ。前身は、1992年のフジモリ自己クーデターの際に結成された「新たな多数(Nueva Mayoría)」であり、これが名称を変更したもの、とみて差し支えあるまい。90年選挙前年に結成された「変革90もフジモリ党で、1995年選挙以来「新たな多数」と共にフジモリ派選挙基盤として活動してきたが、今回選挙でケイコ氏ではなくカスタニェダ元リマ市長支持に回った。

大統領選第三位のクチンスキー氏の「大変革同盟」は、議席数では第四位となった。その中核は、1966年結成の「キリスト教人民党(PPC)」、ペルーでは珍しい政党らしい政党だ。1990年、上記の人民行動党と共に「民主戦線(FREDEMO)」を組み、フジモリ氏と決選を争った作家のバルガス・リョサ氏を担いだ。大統領選では敗退したが、当時二院制の議会では上下両院とも民主戦線が過半数を占めた。フジモリ政権はハイパーインフレ終息、極左ゲリラ制圧への思い切った政策運営が科せられていたが、少数与党では如何ともしがたく、いわゆる「フジモリ独裁」を狙った、と欧米で非難される自己クーデターに繋がった。インフレ終息、治安の回復だが、この因果関係を認めたがらない人が国内外に多い(本ブログでもとりあげたhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2009/04/post-a695.html)。クチンスキー氏はその伝統政治勢力のベラウンデ・テリー政権でエネルギー相を務めた人だが、新自由主義経済擁護の立場から、ケイコ氏支持に向かいそうだ。

大統領選第五位、前述のカスタニェダ氏は、リマ市長選に出る前の2000年に所属政党だった「人民行動党」を離れ、地域政党とも言える「国民連帯党(PSN)」を立ち上げた。06年選挙で、やはり伝統政党の「キリスト教人民党」候補を担ぎ国政にも進出したが、今回は上述の「ペルーのための連合」と「変革90」と共に「国民連帯同盟」を結成、議会でも第五勢力となる。ケイコ氏支持が自然な流れと言えようか。

現政権のアプラ党」1930年、アヤデラトーレ(私のホームページ「ラ米のポピュリスト」のアヤ、ベラスコ・イバラ、ガイタン参照)が創設した。共産党と並ぶ古さで、伝統政党そのものだ。今回選挙で候補者を出さなかった。その為、と言い切れようが、議席数は現在の35議席から、何と4議席に凋落した。2006年におけるトレド氏の「可能ペルー」と良く似た動きだ。二度も大統領を務めた点でガルシア大統領はベラウンデ・テリーと同じだ。この党も「人民行動党」と同じような弱小政党に落ちて行くのだろうか。

ともあれペルーでは、二十世紀央よりは大統領候補者により結成された政治勢力が政党の役割を担ってきた。基本的に、イデオロギー色があまり見えない。その意味でウマラ党の「ペルー民族党」は左派で、異色だ。また、全体としては選挙の都度、政党の離合集散が眼に就く。ウマラ・トレド両勢力で議会の過半数を占めるとは言え、決選投票がどうなるか、予断は許さない。55日の世論調査による投票先は、ウマラ39%、ケイコ38%と拮抗し、23%が未定、としている。

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