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2011年4月30日 (土)

「太平洋協定」の4ヵ国

428日、ガルシア・ペルー大統領がリマにカルデロン・メキシコ、サントス・コロンビア及びピニェラ・チリ各大統領を迎え、太平洋協定を締結した。国際市場、とりわけアジアへの共通戦略を立て得る開放経済国家間の統合を図る、というものだ。これを一統合体とした場合、CIAWorld FactBook2010年見通しでは購買力平価ベースGDP25千億㌦で、メルコスル原加盟国合計の29千億㌦に比べ、決して遜色無い。協定では、「商品、サービス、資本及び国民の自由な動きへの確固たる約束を伴う太平洋同盟」と位置付けられた。ピニェラ大統領などは、エネルギーを含む天然資源の統合までも見据えたものにする、と、意欲満々だ。

4ヵ国の内、メキシコとペルーは夫々1535年と1544年に副王府が置かれた地(私のホームページ中の「ラ米略史」の植民地時代参照)で、宗主国スペインに世界最強国としての黄金時代を築く大量の銀を供給した。前者はアステカ王国、後者はインカ帝国という文明国家をスペイン人が滅ぼし、先住民をヨーロッパ社会文化(宗教を含む)型で支配した。現在、先住民は前者が全人口の三割(3千万人)、後者は半数近く(1千万人)で、全ラテンアメリカの約三分の二が集中する。彼らは独自の言語や生活習慣を持ち、その分「ラテン」アメリカ社会への統合度は低くなる。この両国の政治文化は、随分と違う。

メキシコは政党制度がほぼ確立している。現在の三大政党のイデオロギーも概ね明確だ。ただ制度的革命党(PRI)が71年間もの長期に及ぶ政権を担ってきた点は、多党制民主主義を採る国としては世界的にも極めて異例だ。任期6年の大統領は、必ず既成政党から選挙に出馬せねばならず、且つ一期しか務められない。1934年よりこの方、任期を全うしなかった大統領は、一人もいない。これも異例だ。任期3年の下院、6年の上院のいずれの議員も連続再選が禁じられる。この4月下旬に上院において、漸く大統領選への無所属候補の参加と議員の連続再選を認める法案が可決され、下院審議に回されたところだ。

ペルーは、大統領候補者自身が選挙母体として立ち上げる独自の政党が大半で、現ガルシア大統領のアプラ党は例外的存在だ。決選投票に進む際に連立、或いは政策提携が必要になることから、イデオロギー性は希薄(但し、今回選挙で決選投票に進んだウマラ候補は左派傾向が強い)で、そのため、政党、議員の離合集散も多くみられる。なお4ヵ国で唯一、議会が一院制を採る。任期5年の大統領には非連続なら再選は認められる。

コロンビアも植民地時代に副王府が置かれた地だが、1739年、ペルー副王領からの分離の形だった。ここは産金地で知られた。先住民は首長制こそ採っていたが文明度は低く、ヨーロッパ人による酷使や病災、或いは混血化により純粋な先住民は殆ど消滅した。代わりにアフリカ人奴隷がもたらされ、白人との混血、ムラートも多い。独立後間も無く創設された自由、保守二大政党が、2002年まで政権を担った。現与党の連合党は、いわばウリベ新党だが、ペルーと異なり伝統政党は今なお健在だ。選挙制度上は、他3ヵ国のような総選挙ではなく、ラテンアメリカ全体でも珍しく大統領選の前に議会選挙が行われる。他3ヵ国と異なり、任期4年の大統領には一度だけ連続再選が認められる。米国との自由貿易協定が発効していないのも、またアジア太平洋経済協力会議(APEC)非加盟なのも、他3ヵ国と異なる。

残るチリには、植民地時代にペルー副王の管掌下で軍務総監が配備された。独立革命の成立は、18182月、と、4ヵ国の内、最も早かった。勇猛で知られる先住民は、支配するよりも南部やアンデス東麓に追放し、ヨーロッパ人国家(国民には先住民との混血も以外に多い)としての統合も早かった。1892年から1925年まで、「議会共和国」と言われる立法府優位時代を経験し、小党乱立が歴史的政治文化とも言える。ラテンアメリカで最も民主主義が根付いた国だ。ピノチェト軍政で独裁国家というイメージをお持ちの方もおられようが、敢えて申し上げたい。現与党は軍政末期に創設されたが、前与党は概ね伝統政党の連合だった。大統領の連続再選が禁じられるのはペルーと同じだが、任期は4年、と短い。2010年の政権交代は、中道左派から右派へのダイナミックなものだが、これを国民が受け容れる。

一人当たりGDPは、CIAの購買力平価ベースで、チリはラテンアメリカ19ヵ国中第一位、メキシコ第六位、コロンビア第九位、ペルー第十一位の位置にある。こうして見ると、開放経済政策という共通項を外すと、いかにも個性の強い国ばかりだ。調印式にはオブザーバーとしルース・パナマ運河庁長官(閣僚)も参加した。将来的には同国を含む中米六ヵ国及びエクアドルの参加を見込む。要するに、太平洋に面するラテンアメリカ11ヵ国全ての参加だ。だが、本協定自体はALBA(米州ボリーバル同盟)への対抗、という見方もあり、エクアドルとニカラグアの参加の難しさも指摘される。

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2011年4月21日 (木)

第六回キューバ共産党大会

419日、4日間に亘る第六回キューバ共産党大会が閉幕した。16日の開会式におけるラウル・カストロ第二書記(当時。以下ラウル)提案による政府、党幹部の在任期間制限(最大二期10年)、経済改革案(このブログでも201011月に幾つか紹介した。下記含めhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2010/11/post-2c19.htmlご参照願いたい)の党による正式承認、及び同氏の第一書記昇格(同)については、我が国の新聞も大きく報じていたので、ここでは省く。

政治局員、という党最高指導メンバーは9名減り15名となったが平均年齢は67歳、という。12名が留任だ。第二書記となったマチャード・ベントゥーラ国家評議会第一副議長ら革命世代が多く、「今後を担うべき若手を育てなかった間違いを、今こそ正すべき」、と言うラウル新第一書記の訴えが、何となく空しい。閉会式のみに出席した兄フィデル・カストロ(以下、フィデル)氏の長い現役時代、30台、40台から党や国家の最高指導部に抜擢されたラヘ、アルダナ、ロバイナ各氏らが退場した後、指導部の老化が眼に余る。革命世代の誰が退場し、若手の誰が起用されるか、が注目の的だっただけに、肩すかしを喰った印象を持たれる方も多かろう。

共産党一党支配、という社会主義体制を採る国は、ソ連・東欧圏が消滅して20年以上経過した今日、中国、ベトナム、北朝鮮など極めて少なくなった。国家行政の責任者(首相。キューバの場合は閣僚評議会議長)は、国民代表会議(地域や活動分野ごとにやはり選挙で選ばれる代表者で構成。同、人民権力全国会議)の最高幹部会(同、国家評議会)の指導のもとに置かれるが兼務者が多い。キューバの国家評議会議長は他の国の大統領と同じ性格を持つが、国家最高権力者はあくまでも第一書記(中国の総書記に相当)だ。ラウル氏は、言うなれば党権力の最高位にあって、大統領兼首相、という絶対権力を持ったことになる。それでも、若返りを希求しながらできなかった。20121月に行われる党の会議で、彼が提案した幹部在任期間制限が機関決定される。その際に人事面での何らかの動きがあるか、注目したい。

ところでキューバを見る際には、どうしても米州で唯一、半世紀以上もの長期間、ここと正式な外交関係を持たない米国との問題が避けて通れない。オバマ政権下でキューバ渡航と対キューバ送金に関わる制限が緩和され、文化交流も進んでいる。それでも一般米人のキューバ渡航は禁止されているし、経済交流は米国からの食料輸出に限定され、通常の輸出入も投資も禁止だ。第三国が行う投資にも制裁措置が科せられる。何より、正式な外交関係は断絶したままである。

共産党大会が、キューバに求め続ける民主化と自由化を打ち出せば、一定の改善も期待できただろうが、実は今回の党大会がぶつけられた416日から19日まで、というのは対米敵対を呼び覚ます日程だ。丁度半世紀前、ハバナ県に隣接するマタンサス県の南岸、コチーノス(豚、即ち英語のPigsを意味する)湾ヒロン海岸に上陸した1,500名の亡命キューバ人との戦闘が行われた。彼らはグァテマラでCIAによる軍事訓練を受け、CIAが手配した輸送艦で416日、ニカラグアを出港し、17日未明に上陸、やはりCIAが手配した軍用機でパラシュート部隊も合流する。15日には、国籍を偽装した米国のB26数機がキューバ軍基地を空爆し、国連で大問題となっていた。侵攻部隊は米空軍機の援護も受けていたが、数で大きく勝るキューバ軍の勝利に終わった。ピッグズ湾事件である。キューバでは「ヒロン海岸(Playa de Jirón)の勝利」の名で記憶され、米州の帝国主義に対する最初の戦勝、と性格づけられる。

米軍として直接戦闘に参加していなくとも、米国の関与が明白(キューバ軍が獲得した戦利品の中にB26爆撃機もあり)だったことから、米国にとって恥辱の史実だ。「米国に勝った」革命家、フィデル氏のキューバ指導者としての地位を不動のものとし、今日がある。事件直後の51日、メーデーの集会で、彼は「キューバ革命は社会主義革命なり」を言明した。米国の眼と鼻の先の小国が、米国の最大仮想敵国、ソ連に傾斜を始める第一声だった。米国にとりさらに都合の悪いことに、彼の名声が国際的に高まり、米州各地に民族主義ゲリラが誕生し、或いは活発化した。その殆どが左翼ゲリラで、各国で軍部の発言力が強まり、米国が嫌う非民主的軍事独裁の、いわゆる軍政時代(私のホームページ中の軍政時代とゲリラ戦争参照)を経験する。民主主義の守護を自認する米国には、耐えがたいことだろう。

ラテンアメリカの民主化が成って四半世紀が過ぎた。多くに誕生した左派系、或いは中道左派系の国家最高指導者らは、今なおフィデル氏に親近感を抱く。誤解を恐れずに言うと、全てはピッグズ湾事件で始まった。党大会をわざわざこの日程で開催しなくとも良かろう、との思いは米国側にはあろう。二国間関係改善では逆に、キューバから肘鉄を受けた格好である。

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2011年4月12日 (火)

ペルーの選挙

410日、ペルーで大統領と130名の国会議員、及び5名のアンデス議会議員を選ぶ選挙が行われた。大統領選は、開票率88%の段階でウマラ元陸軍中佐(48歳)が31.5%、ケイコ・フジモリ議員(35歳)が23.2%、高名なエコノミスト、クチンスキー候補(72歳)が18.9%の得票で、第一位から第三位に付け、最初の二人が65日に行われる決選投票への進出が決まった。国会議席数は、ウマラ氏の「ペルーの勝利同盟」は、本日現在確定されていないものの、四十数議席で第一党に、ケイコ氏の「2011年の力」は三十数議席を確保し第二党になることが確実視される。

今回立候補したトレド元大統領(65歳)は、3月半ばまで全候補者中、最高の支持率を享受していた。だが、ウマラ氏とクチンスキー氏が支持率を急伸させたことで、決選投票にも進めなくなった。ノーベル賞作家のバルガス・リョサ氏やデクエヤル元国連事務総長の支持も得ながら、選挙戦終盤で沈んだ格好だ。

ウマラ氏は、2006年選挙では、31%の得票率で第一位を付け、24%で第二位だったアプラ党のガルシア現大統領に、決選投票では47%52%で敗れた人だ。196810月に成立したベラスコ軍政の国家主導型経済政策とナショナリズム(私のホームページ中「ラ米の革命」のペルーとチリの「革命」参照)を志向する。国民の平等と貧困追放を前面に挙げ、ペルーの変革を訴え、経済活動への国家の役割を強調する。人口の3分の1、つまり1,000万人が一日当たり3㌦の収入しか無い貧困層に属し、経済成長の恩恵から見放されているが、彼らの多くがウマラ氏を支持している。

一方でペルーの変革は急進的なものではなくあくまでも漸進的なもの、とし、投資家保護を約束する。近年、ラ米で最も経済成長を見た現実を見つめている、と言える。ルラ・前ブラジル大統領のスタイルを意識している、と見られ、本人も政策モデルとしてブラジル型を唱える。2006年選挙の前に強い支持を公言したチャベス・ベネズエラ大統領との距離も置いている。それでも、国内外の経済界には彼への懸念が拭えないようだ。

対するケイコ氏は、06年総選挙ではペルー史上最高得票で議会進出した。やはり国民の平等と貧困追放の貧困層救済を政見の一つに掲げる。彼女の政治資産は、現在懲役25年の刑を受け服役中の父、アルベルト・フジモリ元大統領の実績だ。センデロ・ルミノソ及びMRTA(私のホームページ中「軍政とゲリラ戦争」のゲリラ戦争 参照)という左翼ゲリラを抑え、国内治安を回復させ、且つ、対外債務やハイパーインフレで破綻していた経済を再建させた。経済再建手法は、新自由主義に依る。結果的に、これが彼の失脚後も綿々と受け継がれ、近年の好況に繋がってきている。

だが、1990年から10年間に及ぶフジモリ政権期、議会解散、改憲、軍事行動など、強硬策が多用された。特に左翼ゲリラ制圧の過程で多くの犠牲者が出たことから、人権侵害、として非難を受け、現在の収監に至っている。彼女にはそのマイナスの政治資産も有る。

200010月、ウマラ中佐率いる39名の国軍兵士がフジモリ退陣と彼の側近の逮捕を要求し、反乱を起こした。ケイコ氏の父親が失脚したのは、この1ヶ月後のことだ。決選投票は、文字通り因縁の対決、となる。彼女と熾烈な二位争いを演じたクチンスキー氏は、国際的エコノミストとして長く米国を拠点に活躍した。新自由主義を奉じる立場からウマラ氏は受け容れられない。決選投票では彼女を支持する、と明言した。

10051月、ウマラ氏の弟アンタウロ陸軍少佐(当時)が、トレド大統領退陣を要求して警察署占拠の挙に出た。その際警官4名が殺害された、とし、懲役25年の刑を受けた。元大統領が、イデオロギーの差に加えウマラ氏を敬遠する理由の一つだ。だが一方で彼は彼女の父親のアンチテーゼとして大統領になった人で、彼女への抵抗感も強い。

ペルー人は一般的にイデオロギーには恬淡とした部分が強く、選挙戦は人物本位に行われる、と言われる。つまり、右派か中道左派(チャベス氏と距離を置いた)か、ではなく、ケイコ氏か、ウマラ氏か、である。フジモリ元大統領の実績を率直に評価する層も多いが、独裁的、として憎む人も多い。ケイコ氏は宿命的にそれに向き合うしかない。ウマラ氏には行動的なイメージが強烈だ。労働界のカリスマだったブラジルのルラ氏に通じるが、同じく軍人時代に行動を起こしたベネズエラのチャベス氏にも通じるところがある。積極的な支持を集める一方で、強い反発を受ける。

ペルー国民は、どちらに軍配を挙げるのだろうか。

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