オバマ大統領のエルサルバドル訪問
3月21日夜、オバマ大統領はチリからエルサルバドルに入った。今回の中南米訪問先に南米第二位の大国、アルゼンチンや、中米最大のグァテマラを選ばなかった理由は、今年が大統領選の年だからだろう。
最大の親米国たる南米のコロンビアは、実は自由貿易協定(FTA)批准が米国の議会で遅れており、サントス大統領も痺れを切らしつつある。中米の親米国コスタリカは、今ニカラグアと領土紛争の最中にある。ホンジュラスはニカラグアがロボ政権の正統性を認めていない。結局、国土面積で中米最小国のエルサルバドルしか考えられない。フネス大統領が、中米代表の形で彼を迎えることになった。中米は、麻薬組織が蔓延り、世界でも最悪の治安情勢にあり、麻薬との戦いに注力する米国と利害を共有する。ここでは、先ず中米の治安回復に向けた2億ドルの支援を表明した。これまで中米に対しては麻薬犯罪対策に2.5億㌦を拠出してきたが、これに上乗せされるものだ。
二国間関係では、280万人にも上る在米エルサルバドル人を念頭にした移民問題が、フネス大統領との首脳会談の一つのテーマとなった。現実に、オバマ大統領が率直に認める通り、米国社会に対する移民の貢献は大きい。一方で移民規制の動きは強まっている。両大統領が一致したのは、国民が米国に移住する必要の無い(国内で雇用が満たされる)経済発展こそ重要、との当たり障り無いものに終わった。
オバマ大統領はブラジルではルセフ大統領との共同記者会見を見合わせたし、エルサルバドルでは滞在期間を半日削り帰国に向かった。予定通りの日程をこなしたチリでもそうだったが、キャメロン英、サルコジ仏両大統領との電話会談を含め、ずっとリビア問題に忙殺されながらの3ヵ国訪問だった。
滞在を削られた側のフネス大統領にとって、しかしオバマ訪問から得たものは大きい。米国には、1980年代の内戦当事者たる左翼ゲリラだったファラブンド・マルティ国民解放戦線(FMLN)に対し、拭い難い不信感がある。
1979年10月、若手将校団が蜂起し、ロメロ大佐を大統領の座から追放した。成立させた革命評議会政府は、人権活動の保証、富の再分配などを政策に掲げ、銀行や一部産業の国有化、及び農地改革を志向した。明らかに3ヵ月前のニカラグア革命を意識したものだ。80年12月、その革命評議会政府の首班になったのが、米国亡命から帰国したばかりのナポレオン・ドゥアルテ元サンサルバドル市長(1925-90)だ。72年大統領選で当選しながら、軍部の介入で対抗馬のモリナ大佐が大統領となり、彼は国外追放された。同大佐を継いだのがロメロ大佐で、人権抑圧と貧困問題の解決に向け奔走していたロメロ大司教(大佐とは別)は、かかる状況を強く非難し、国民抵抗運動の象徴的存在となる。そして、革命評議会成立後の80年3月、ミサ中に右翼による狙撃を受け、死去する。
彼の政権(評議会議長、立憲大統領合わせて1980-89)には、レーガン政権期の米国が積極的な後押しを行った。FMLNは1980年10月に結成され、翌年早々、ゲリラ活動に入った。これにはキューバがニカラグア経由で関与している、との米国国務省による有名な「ニカラグア白書」が間髪を入れず、出されている。ともあれ、内戦は彼の政権が終わっても91年まで続いた。米国が忌避したいのも無理はない。しかも2009年に初めて政権を取ったら、キューバと国交を回復した。
だが対米政策面では歴代の右派政権同様、親米路線を継続した。ホンジュラスのロボ政権を、米国に合わせ直ちに承認した。国内政策も穏健であり、通貨も米㌦のままだ。国民支持率は中米の政権の中では最も高い。FMLNの政権に対する米国の懸念は、相当に和らいだ筈だ。オバマ大統領の滞在はリビア問題に忙殺されたため短かったが、それでも故ロメロ大司教が安置されている首都大聖堂を訪れている。
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