ラテンアメリカとアラブ民主化(1)
結局先日このブログで採り上げた南米・アラブサミットは延期された。チュニジアに始まりエジプトに伝播した民主化運動は、30年にも及ぶ安定政権を運営してきたムバラク大統領追放が現実のものとなった。且つ、時をおかず、他のアラブ主要国で、長年の安定政権(実は強権政治)に反対する民主化運動が流血を伴い、一気に不安定化している。延期は当然のことだ。ラテンアメリカで民主化運動、と言えば1944年のグァテマラ、1958年のベネズエラを想起する。ただ、域内での後続が見られなかった。
グァテマラ民主化は逆にエルサルバドルで12年半もの強権政治を行っていたエルナンデス大統領辞任を求める市民運動が飛び火した結果だ。いずれも軍部による暫定政権を経て、いずれも年内にクーデターで崩壊するが、グァテマラでは民主化が実現(但し、僅か10年間で終焉を迎える)し、エルサルバドルでは軍人政権が続く。ラテンアメリカでの民主化、と言う意味で1944年を見ると、キューバでバティスタ政権が中断(8年後クーデターで復権)し、民主憲法の下で文民政権が成立した程度だ。
ベネズエラ民主化の場合、1956年、ペルーの軍人オドリーア政権の終焉によるプラド政権発足、57年、コロンビアのピニリャ軍政を終わらせた国民戦線成立、何より、当時ラテンアメリカは民主化が一般化していたことを想起すべきだろう(グァテマラ含め、私の軍政とゲリラ戦争の軍政時代前夜参照願いたい)。この直後、キューバで「7.26運動」(1965年に旧共産党を吸収し「キューバ共産党」となる)のゲリラが対バティスタ政府軍戦闘を本格化させ、実質的に同年末までに革命が成立した。米国による国交断絶、ピッグズ湾事件直後のキューバ革命の社会主義宣言、米州機構(OAS)によるキューバ除名を経て、ラテンアメリカ中に左翼ゲリラが次々と誕生する。ラテンアメリカが軍政時代に入ったのは、まさにこの時期で(同上、ラ米の軍政時代参照)。今日のアラブ世界の動きとは、逆だった。
アラブ民主化運動が飛び火した国では、リビアの動きに国際的関心が集まる。民主化運動と言うより、反政府運動の側面が強く、本来体制側であるべき軍部や警察も呼応した。こうなると内戦だ。1952年のボリビア革命も同様で、反政府派も武器を取り、政府軍との戦闘に突入した。だが政変を繰り返していた当時のボリビアと、1969年以来42年もの長期独裁体制を築いてきたカダフィ体制下のリビアでは、状況はえらく違う。さらに、リビアは世界有数の産油国で、政府が体制維持に使える資金は潤沢だ。外国傭兵軍投入がそれを物語る。直接民主制と言う名の、強い個性のカダフィ大佐による独裁。不正だらけだった、と言われながらも、曲りなりに代表制民主主義国家、と認められてきたチュニジアやエジプトとも異なる。国際石油価格急騰も招いており、情勢の変化に目が離せない。
内戦は、ラテンアメリカは頻発した歴史を持つ。メキシコ、ボリビア、キューバ、ニカラグアでは、内戦が行き着いたのが革命だった。キューバ革命後に誕生したラテンアメリカのゲリラの多くが、革命を志向した。成功したのは、ニカラグアだけだ。殆どが政府と和解し政党化した。これも民主化運動の変形と言えよう。今日エルサルバドルとウルグアイでは政権党になっている。アルゼンチンのゲリラは第二次軍政下の悪名高い「汚い戦争」により壊滅させられたが、もともと現政権党のペロン党の分派だった。
キューバ革命を率いたフィデル・カストロ前キューバ国家評議会議長は、現在のリビア情勢をどう捉えていようか。彼は、1959年、33歳で国家の最高権力者となった。その10年後、カダフィ大佐が27歳で最高権力者となった。アラブ諸国の民主化運動と異なり、リビアでは反体制派への武力制圧を進める。欧米諸国による強い非難の所以だ。キューバでも民主化運動は起きている。だが、武力制圧の歴史は無い。憲法を持ち、選挙で議員が選ばれる人民権力全国議会と、互選でその国家評議員を持ち、大統領に相当する議長をやはり互選で選ぶ。リビアとは違う。それでも多党制は排除しており、民主化の遅れと人権侵害の両面で、国際人権団体や欧米のジャーナリスト団体に強い非難を浴びせられる。しかし彼はこれよりも、期間の長さでカダフィ大佐以上の半世紀にもわたる個人長期政権に対する評価、と言う点で、リビアの動きが最も気掛かりなのではなかろうか。
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