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2011年2月28日 (月)

ラテンアメリカとアラブ民主化(2)

リビアの反対勢力は、首都トリポリのカダフィ政権とは別に、近く暫定政府を樹立するようだ。1月のいわゆる「チュニジア革命」は23年間もの長期政権を担ったベンアリ前大統領こそ追放したが、政府機構は変わらず、如何に改革的な政策を進めようと国民の不満は解消せず、国情が不安定な中、首相が政権を放棄した。一方、エジプトでは軍部が政権を預かり、憲法改正、選挙へのロードマップを策定しており、国情は平穏だ。歴史的にラテンアメリカでも政権が行き詰り大衆抗議活動で国情が騒然とすると、先ず軍部がクーデターで政権を掌握し、国情安定を見て、半年なりの時間を掛けて民政再移管を行う事例が多く見られる。

独裁者追放後の政治理念も無く不満をぶつける大衆行動は危うい。これを自覚しての行動であろう。私のホームページ中の「ラ米の革命」のニカラグア革命をご一読願いたいが、流れが良く似ている。1979618日、コスタリカでニカラグア反ソモサ暫定政府が発足したが、ソモサ家の面々がマイアミに出国したのは翌717日だった。その暫定政府は右派から左派まで幅広い5つの勢力の代表者で構成され、サンディニスタ軍という軍事力を支配下に置くFSLN代表のオルテガ現大統領が首班を務めた。その彼が、226日段階で、ラテンアメリカ首脳の中では珍しく、カダフィ政権への連帯を表明している。

反政府運動が軍の一部を引き込み、市民に武器を持たせ、政府軍との戦闘に突入した形は1952年のボリビア革命に似ている(同、ボリビア革命参照)が、前年に行われた大統領選挙の勝者(追放されていた)、パス・エステンソロを呼び戻すことで、正統性のある政府が直ちに樹立できた点が大きく異なる。モラレス大統領のリビア情勢に関する言動がメディア上聞こえて来ないが、ガソリン代高騰によるトラック組合のストや公共運賃の値上げによる抗議行動を受けての政権支持率の大幅下落に加え、大洪水被害で、それどころではないのかも知れない。

221日に英国外相が、リビアのカダフィ大佐はベネズエラに亡命したようだ、と述べたことを外電が伝えた。誤報だったが、ベネズエラと名指しされたことを、チャベス大統領はどう取っただろうか。彼がカダフィ大佐との個人的関係が深いことは周知の事実で、彼が最も尊敬する南米の解放者、ボリーバルが愛用した剣の複製を贈呈したことも知られる。今の時点では外国による武力介入には反対する、位に留める対応だが、それでもカダフィ政権側への明確な非難はしない。ベネズエラの反チャベス派は、ボリーバルの剣の複製贈呈は許し難い、反対派敵視と武力弾圧を掲げる政権を非難しないのは問題、と攻撃する。ベネズエラ政府としては、カダフィ政府と反対派との対話こそ重要であり、国際社会がカダフィ政府を一方的に非難することに反対、との立場だ。

アラブ世界の民主運動に関して、チャベス大統領は民衆の反逆、と位置付け、ラテンアメリカでは何度も経験している、と語る。自国では、200212月の反チャベスゼネストの際によく準えられた1958年の民主化運動ではなく、1989年、当時のペレス政権のガソリン及び公共交通機関の値上げに対する大規模な抗議デモが暴徒化し、治安部隊による鎮圧で数百人の犠牲者を出した、いわゆる「カラカソ」を例示する。彼はデモ隊への共感が強く、この3年後、クーデター事件を起こし、逮捕され、服役した。今なお「カラカソ」への思い入れが強い所以だ。だが、選挙で選ばれた政権の政策に対する抗議行動を民主化運動に準えるのは、聊か乱暴ではなかろうか。

寧ろ、1969年、アルゼンチンの第一次軍政期(1966-73)の1969年、アンデス東麓の都市、コルドバで起きた反軍政デモが比べ安い。「コルドバソ」という暴動を経て、2年後大規模ゼネストに発展、最終的に民政移管を勝ち取った。

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2011年2月23日 (水)

ラテンアメリカとアラブ民主化(1)

結局先日このブログで採り上げた南米・アラブサミットは延期された。チュニジアに始まりエジプトに伝播した民主化運動は、30年にも及ぶ安定政権を運営してきたムバラク大統領追放が現実のものとなった。且つ、時をおかず、他のアラブ主要国で、長年の安定政権(実は強権政治)に反対する民主化運動が流血を伴い、一気に不安定化している。延期は当然のことだ。ラテンアメリカで民主化運動、と言えば1944年のグァテマラ、1958年のベネズエラを想起する。ただ、域内での後続が見られなかった。

グァテマラ民主化は逆にエルサルバドルで12年半もの強権政治を行っていたエルナンデス大統領辞任を求める市民運動が飛び火した結果だ。いずれも軍部による暫定政権を経て、いずれも年内にクーデターで崩壊するが、グァテマラでは民主化が実現(但し、僅か10年間で終焉を迎える)し、エルサルバドルでは軍人政権が続く。ラテンアメリカでの民主化、と言う意味で1944年を見ると、キューバでバティスタ政権が中断(8年後クーデターで復権)し、民主憲法の下で文民政権が成立した程度だ。

ベネズエラ民主化の場合、1956年、ペルーの軍人オドリーア政権の終焉によるプラド政権発足、57年、コロンビアのピニリャ軍政を終わらせた国民戦線成立、何より、当時ラテンアメリカは民主化が一般化していたことを想起すべきだろう(グァテマラ含め、私の軍政とゲリラ戦争の軍政時代前夜参照願いたい)。この直後、キューバで「7.26運動」(1965年に旧共産党を吸収し「キューバ共産党」となる)のゲリラが対バティスタ政府軍戦闘を本格化させ、実質的に同年末までに革命が成立した。米国による国交断絶、ピッグズ湾事件直後のキューバ革命の社会主義宣言、米州機構(OAS)によるキューバ除名を経て、ラテンアメリカ中に左翼ゲリラが次々と誕生する。ラテンアメリカが軍政時代に入ったのは、まさにこの時期で(同上、ラ米の軍政時代参照)。今日のアラブ世界の動きとは、逆だった。

アラブ民主化運動が飛び火した国では、リビアの動きに国際的関心が集まる。民主化運動と言うより、反政府運動の側面が強く、本来体制側であるべき軍部や警察も呼応した。こうなると内戦だ。1952年のボリビア革命も同様で、反政府派も武器を取り、政府軍との戦闘に突入した。だが政変を繰り返していた当時のボリビアと、1969年以来42年もの長期独裁体制を築いてきたカダフィ体制下のリビアでは、状況はえらく違う。さらに、リビアは世界有数の産油国で、政府が体制維持に使える資金は潤沢だ。外国傭兵軍投入がそれを物語る。直接民主制と言う名の、強い個性のカダフィ大佐による独裁。不正だらけだった、と言われながらも、曲りなりに代表制民主主義国家、と認められてきたチュニジアやエジプトとも異なる。国際石油価格急騰も招いており、情勢の変化に目が離せない。

内戦は、ラテンアメリカは頻発した歴史を持つ。メキシコ、ボリビア、キューバ、ニカラグアでは、内戦が行き着いたのが革命だった。キューバ革命後に誕生したラテンアメリカのゲリラの多くが、革命を志向した。成功したのは、ニカラグアだけだ。殆どが政府と和解し政党化した。これも民主化運動の変形と言えよう。今日エルサルバドルとウルグアイでは政権党になっている。アルゼンチンのゲリラは第二次軍政下の悪名高い「汚い戦争」により壊滅させられたが、もともと現政権党のペロン党の分派だった。

キューバ革命を率いたフィデル・カストロ前キューバ国家評議会議長は、現在のリビア情勢をどう捉えていようか。彼は、1959年、33歳で国家の最高権力者となった。その10年後、カダフィ大佐が27歳で最高権力者となった。アラブ諸国の民主化運動と異なり、リビアでは反体制派への武力制圧を進める。欧米諸国による強い非難の所以だ。キューバでも民主化運動は起きている。だが、武力制圧の歴史は無い。憲法を持ち、選挙で議員が選ばれる人民権力全国議会と、互選でその国家評議員を持ち、大統領に相当する議長をやはり互選で選ぶ。リビアとは違う。それでも多党制は排除しており、民主化の遅れと人権侵害の両面で、国際人権団体や欧米のジャーナリスト団体に強い非難を浴びせられる。しかし彼はこれよりも、期間の長さでカダフィ大佐以上の半世紀にもわたる個人長期政権に対する評価、と言う点で、リビアの動きが最も気掛かりなのではなかろうか。

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2011年2月 1日 (火)

南米・アラブサミットについて

114日のいわゆるチュニジア革命(23年間、政権を担ってきたベンアリ大統領追放)に続き、今日21日段階でも、エジプトで30年の政権にあるムバラク大統領への退陣要求デモが繰り返され、メディアを賑わす。このような状況下で、213日、第三回目となる南米・アラブサミット(Cumbre América del Sur-Países Árabes、略称ASPAを主催するペルーのガルシア大統領がやきもきしている。

ASPAとは、2003年、ルラ・ブラジル大統領(当時)が提唱したもので、南米諸国連合(UNASUR)加盟12カ国と、パレスチナを含むアラブ連盟加盟22カ国で構成される。第一回目は、20055月、ブラジリアで開催された。20093月にドーハで開催された第二回サミットでは、丁度真っ只中にあった世界金融危機に対する途上国乃至新興国同士の政治・経済協力の重要性の認識で一致し、またパレスチナの主権確保への協力も打ち出された。最近、南米諸国は次々にパレスチナ承認に動いている。

南米の対ラ米域外サミットには、2006年にナイジェリアで第一回会合を持った南米アフリカサミットがある(20099月、ベネズエラのマルガリータ島で開催された第二回会合についてはhttp://okifumi.cocolog-wbs.com/blog/2009/09/post-c14b.html参照)。第三回目はやはり本2011年、リビアで会合が持たれる。こちらの方は、アフリカ側が55ヵ国(但しアラブ連盟とも重複する国も有る)だ。「南南協力」を歌い、その第二回会合ではNATO(北大西洋条約機構)に対抗する軍事機構までもがテーマに上がった。

さて、南米・アラブサミットである。モロッコ、サウジアラビア、ヨルダン、クエート、カタール、オマーンのように王制、首長制を採る国は多く、共和制を採る十数ヵ国には、上述のエジプト、チュニジアの他、カダフィ・リビア(41年)、アルバシル・スーダン(22年)、アブドラ・イエメン(21年)各政権など長期強権化した国が多い。シリアのアサド大統領は、30年の長期政権を担った父親を継いで、既に10年経った。現在民主化の途上にあるイラクも2003年まで24年間のフセイン独裁政権下にあった。

19447月、グァテマラで当時のウビコ、或いは19581月、ベネズエラのマルコス・ペレスの両独裁政権が、民主化運動により崩壊した。今般の「チュニジア革命」を想起する動きだった。このブログでも何度か指摘したが、この2ヵ国は建国以来、個人独裁が目立つ。グァテマラは大統領の再選そのものを禁じる憲法が今も有効で、一方のベネズエラでは長く連続再選を禁じて来たが、チャベス大統領になって無制限多選が認められるようになった。ラテンアメリカでこんな国は、共産党一党独裁のキューバを除き、姿を消して久しい。アラブ連盟では、アルジェリアが従来二期10年までだったが、三期も認められるようになりブーテフリカ大統領が任期を全うすれば、政権期間は15年間、となる。それでも、民主度はアラブ連盟の中では高い方だろう。ベネズエラを除いて、ラテンアメリカのどこにも考えられないことだ。

シリアは、アラブ連盟の中ではスーダンと共に米国からテロ支援国家指定を受けている。同じ扱いの北朝鮮と似ているのが、最高権力者の親子間継承だ。ラテンアメリカではキューバも同じ扱いで、こちらはカストロ兄弟間継承である。親子継承で歴史的に有名なのはニカラグアのソモサ家で、父親が20年、息子二人が計23年間だった。結果は、1979年の革命である。南米でも十九世紀にはパラグアイのロペス親子(父が22年、息子が8年)の例がある。結果は、国家破滅的敗戦を招いた「パラグアイ戦争(三国同盟戦争)」である。ニカラグアでは現在オルテガ大統領が連続再選復活に向かう一方で、パラグアイは1989年までの35年間に亘るストロエスネル長期政権への反省から、グァテマラ同様、再選自体を禁じる。ただ、親子間、或いは兄弟間の権力継承は、アラブ世界でも例外だろう。

フィデル・カストロ前キューバ国家評議会議長が最高権力者の座にあったのは、47年間にもなる。彼は革命を起こした人だ。その意味ではリビアのカダフィ大佐も同様だ。相変わらず政党を認めない独裁体制が続いており、やはりアラブ世界でも例外的存在と言える。同国は対米関係改善に努めた結果、テロ支援国家指定は外された。キューバとは大きく異なる。南米諸国には、チャベス・ベネズエラ大統領のみならず、モラレス(ボリビア)、コレア(エクアドル)、フェルナンデス(アルゼンチン)、ムヒカ(ウルグアイ)大統領は親カストロで知られる。ルラ・ブラジル前大統領もそうだった。

米国は、キューバが民主的でないから、という理由で、半世紀にも及ぶ制裁を続け、国交を断絶させたままだ。南米諸国は、まるで気にしていないように見える。自分たちが非民主的だから、と言う訳ではない。左派系だろうが中道左派だろうが、複数政党制を採り、選挙で政権を勝ち取るという意味では米国と同じ民主主義だ。だが他国の政治体制をあげつらうことは控える。これがアラブ諸国との政治文化の違いを越える親近感に繋がっているのだろう。ブラジルが推し進めるだけに、チリやコロンビアの右派系政権も、そしてペルーも、アラブ連盟との関係強化に努めている、という構図に思える。

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