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2010年12月18日 (土)

新たな大統領授権法-ベネズエラ

1217日、ベネズエラ議会は、チャベス・ベネズエラ大統領が1210日に申請した大統領授権法を、しかも申請(1年間)よりも長い1年半の期限で可決した。Habilitantesと呼ばれる。大統領に議会承認を経ずに大統領令の形で法律制定の権限を付与(habilitar)するものだ。共産党独裁下の政令や軍事政権下の軍政令を想起してしまう。かかる授権法は、他のラテンアメリカ諸国ではキューバを除き、見当たらない。その議会は、反対派が200512月の議会選挙をボイコットする愚策を採ったことから、165議席中20名ほどを除き、与党ないしは親与党だ。

今回は彼自身にとり4回目、と言われる。よく知られるのは彼が新憲法下の第一次、事実上第二次政権を発足させた3ヵ月後の200011月(前にこのブログで200111月、としましたが、訂正します)にスタートした、今回と同様、期限1年間の、第2回目の大統領授権法だ。土地改革(所有面積制限)、炭化水素(ロイヤルティ引き上げ)など49本の大統領令が出された。当時の議会勢力はチャベス与党が過半数を占めてはいたが、野党も健在だった。

議会無視の反民主的法、として、国民の反発が強まり、授権法の期限は過ぎていたが、20024月の一時的なチャベス失権、ゼネストの頻発を経て、20048月、大統領解任の国民投票が行われた。米州機構(OAS)及びカーターセンターからの監視団が見守る中で行われ否決、彼の立場は強化された、と見て良い。キューバとの石油と医療スタッフ交換を柱とする、いわゆる人民間通商協定を締結したのは、同年末のことで、これがALBA(米州ボリーバル代替構想。私のホームページ「ラテンアメリカリポート」のラ米の地域統合参照)に発展する。前後して、20031月にブラジルでルラ、同年5月にアルゼンチンでキルチネル、20053月、ウルグアイでタバレ・バスケス(ムヒカ現政権と同じ拡大戦線)と、南米に発足する政権が左傾化を見始める(同、ラ米の政権地図参照)。

今回の授権法申請は、38名の犠牲者を出し、被災者が13万人、国土の40%が被害を受けたものだ。インパクトが100億㌦(政府の試算)に及んだ大水害への対策、即ち被災住宅再建、被災道路復旧、農業支援、都市再建のための関連法令の緊急性を主張する。一つが売上税(IVA)引き上げで、1%引き上げれば税収は50億ボリーバル(約11.6億㌦)増える、と見積もられる。昨年9%から12%に引き上げたばかりだ。不況下の引き上げには、反政府勢力のみならず経済界に評判が悪い。それ以前に、大水害対策については大統領には既に十分な資金的権限が有る筈で、授権法が必要とは考えられず、無関係な分野で1月以降の新議会では通り難い法令を通すための措置、と見る向きも多い。事実、授権法対象はインフラや金融面に限らず、保安、国防、対外協力分野にも及ぶ。

2012年には大統領選挙が控える。翌201115日に、本年9月の総選挙で選出された議員による新議会が発足する。新議会では与党勢力が3分の2に僅かに足りない。重要法案は通り難くなる。チャベス大統領の最近の国民支持率はよく分からないが、隣国コロンビアのサントス大統領の76%などと比べれば、かなり低いと思われる。

残期が僅かなこの段階になって、現議会がラジオ・テレビへのライセンス規制や反国益情報への罰則強化、など報道の自由に抵触するような電波法改正法案や社会責任法案を可決、3分の2以上の賛成が必要な最高裁判事人事を承認した。そして授権法である。新議会スタート前の駆け込み、と見るのも頷けよう。反政府勢力は反民主的なもの、として激しく反発している。もともと強い軋轢がある反対派との関係は、一層緊張の度合いを高めよう。だが、彼らとの対決を国民の目に晒すことで支持率回復に繋げようとしてはいまいか。米国もクローリー国務省報道官が専制に繋がる、と批判した。チャベス大統領は米国の「内政干渉」への反発を見せ付け、国民の人気を得て来た。今回も早速、声高に反米非難を叫ぶ。よく口にするのが、20024月の一時的失権で、彼は米国の指示を受けたクーデターの未遂、と断定する。

彼に対する3回目と言われ、1年半もの期間をカバーした授権法が、2007年に付与された。この時は、議会が現在の勢力分布にあった。従って、今回の授権法が新議会発足前の駆け込み、とばかりは言い難い。どうも2012年大統領選を見据えているように思える。2007年授権法は国家警察の組織改正、石油部門の民間会社や通信・電力会社への国家介入、予備役や退役軍人に対する緊急事態の際の動員法制化、など計67本もの大統領令を出した。

チャベス大統領が授権法申請を議会に送った1214日、コレア・エクアドル大統領がカラカスを訪問し、彼に直接、支援物資提供を申し出、共に被災地を視察した。一週間前にも食糧などの緊急支援を行っている。また、コレア大統領は翌15日には、ベネズエラ共々大水害に襲われた隣国コロンビアを訪問、カリでサントス大統領と合流し共に被災地に飛んだ。ここでも支援物資を渡している。コロンビアではベネズエラよりも多い約280人の死者と200万人もの被災者を出した。被害額は52億㌦と言われる。この対策に授権法、という発想は、無い。なおこの機会に両国とも相互に派遣する大使の信任状を受領し、約210ヵ月ぶりに、外交関係を全面的に復活した。

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2010年12月 9日 (木)

キューバとエルサルバドル

125日、キューバのロドリゲス外相が、出席したイベロアメリカサミット開催地のマルデルプラタからエルサルバドルに入り、7日まで滞在、フネス大統領との会談や議会での演説などをこなした。これに合わせたように、キューバでは二人のエルサルバドル人死刑囚に対し、懲役刑への減刑が行われている。彼らは1997年、イタリア人旅行客1名の死亡と11名の負傷者を出したホテル及びレストランへの爆弾攻撃で死刑判決を受けていた。外相は人道的措置、との見解を表明、マルティネス・エルサルバドル外相もこの措置を歓迎することで応じた。

ご存じの通り、エルサルバドルはキューバとの外交関係の復活が最も遅かった国である。193112月、クーデターで政権を成立させた軍人のエルナンデス独裁(~445月)以降、軍人による政権が続いた。19591月のキューバ革命成立時も軍人政権だった。翌6010月、民族主義傾向の強い将校団が軍内クーデターを起こしたが、611月、リベラ中佐による逆クーデターで潰えた。同年3月の対キューバ断交は、そのリベラ政権(~677月)による。米国(611月)に続く、米州では6番目の国となる。

ラテンアメリカでこれ以前に断交に踏み切っていたのは、まだトルヒーヨ独裁のドミニカ共和国(596月)、キューバ侵攻作戦を進める亡命キューバ人への軍事訓練基地を提供したイディゴラス軍政下のグァテマラ(604月)、同様、侵攻作戦に協力したソモサ独裁のニカラグア(606月)、及びウーゴ・ブランコ指導の農民闘争に苦しんでいたプラド第二次政権下のペルー(6010月)の4ヵ国である。米国に続き、ラテンアメリカ諸国が次々に対キューバ断交に走る契機ともなった。

グァテマラのコロム大統領は、20092月、就任後12ヵ月経ってキューバを初めて訪問、その際にピッグズ湾事件(19614月)に繋がった上記基地提供につき謝罪した。これまでのグァテマラ政権に対する断罪だろうか。帰国後、キューバへの謝罪がグァテマラ国民の総意ではない、として厳しい非難を受けている。ニカラグアのオルテガ大統領は、19797月の革命を主導したFSLN(サンディニスタ民族解放戦線)のリーダーで、革命家でもある。個人的にカストロ兄弟と親しい。

エルサルバドルと言えば、19812月の、当時の米国国務省による「エルサルバドル白書」を思い出す。私の理解に間違いなければ、フネス大統領のFMLN(ファラブンド・マルティ解放戦線)は、805月、国民抵抗軍(FARN)などの主要ゲリラの指導者がハバナに集合して事実上の結成をみた組織だ。FARNと言えば、785月、日本企業幹部誘拐で我が国でも知られるようになった。この白書は、81年早々に本格的ゲリラ活動に入ったFMLNをキューバがニカラグア経由で後援している、と、に明記、キューバにとってはカーター政権(1977-81)時代の雪解けムードからレーガン政権(1981-89年)の制裁強化へ移行する原因の一つとなったものだ。

FMLNが合法政党になったのは199212月で、総選挙に初めて参加したのは943月だから、まだ新しい。ラテンアメリカ諸国は右派政権だろうが大半の国々でキューバとの国交を持っていた。断交政策を続けていたグァテマラも、981月の法王ヨハネ・パウロ二世のキューバ訪問が切っ掛けとなり、翌2月、復交に踏み切った。ドミニカ共和国(同年4月)も続いた。結局米州内ではエルサルバドルだけが米国と共に、キューバとの断交を継続する国として残った。法王の意向がどうあれ、頑なに我が道を貫いたのは、1989年から政権を守り通した右派のARENA(国民共和同盟)の政治思想によるものであれば、20096月、フネスFMLN政権が発足し、直ちに、対キューバ復交を実現したのは自然の成り行き、と納得してしまう。

ロドリゲス外相は議会での演説で、キューバとエルサルバドルは長い国交断絶はあったものの、ずっと強い絆で結ばれてきた、と述べた。カリブ海に面していない唯一の中米国だ。FMLNを通じて、と言う意味に捉えるのが常識だろう。だが、ARENAを敵視する如何なる言動も行っていない。イベロアメリカサミットでは、1991年から2005年まで、ほぼ毎年、歴代のARENAの大統領がフィデル・カストロ議長(当時)と同席している。だが、米㌦を国内通貨とするエルサルバドルとしては、経済依存関係からみると圧倒的に大きい米国とぎくしゃくしてまでキューバとの関係改善を進めるメリットは無い。やはり対キューバ関係には慎重に行かざるを得ない面もある。

2010104日、フネス大統領が初めてキューバを訪問した。FMLN政権発足後、14ヵ月経っていた。この際にラウル・カストロ議長を自国に招待した。ロドリゲス外相は今般のフネス大統領との会談時に、議長メッセージとしてエルサルバドル訪問を実現したい旨を伝えた。医療、教育、文化面での両国間交流は活発だ。エルサルバドルがイベロアメリカサミットを主催したのは2008年のことで、彼は、2006年以降の他の全ての同サミット同様、欠席している。気にしているのだろう。実現すれば、キューバ革命後は勿論、史上初めてのキューバ首脳のエルサルバドル訪問ではなかろうか。

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2010年12月 7日 (火)

第二十回イベロアメリカサミットに思う

1234日、アルゼンチンの保養地、マルデルプラタでイベロアメリカサミットが開催された。先日このブログでもお伝えした南米諸国連合(Unasur)同様、民選の国家指導者を追放する国家への制裁を巡る、いわゆる民主条項が決議されたが、エクアドルが提起した最近のウィキリークスを通じ暴露された米国の公電内容に対する非難決議案は見送られている。またニカラグア-コスタリカ間の領土紛争についは、何の進展ももたらしていない。2021年まで総額1,000億㌦を教育振興に充て、2015年には地域からの文盲を一掃する、とする意欲的な教育投資決議も採択された。

第二十回という区切りの良さにも拘わらず、スペインのサパテロ首相(但しフアン・カルロス国王は出席)の他、2009年の第19回エストリル(ポルトガル)会合同様、ホンジュラスは招かれず、ニカラグア、ベネズエラ、ボリビア、及びキューバの左派政権4ヵ国も連続で副大統領乃至は外相が代理出席し、首脳は欠席した。

キューバの首脳出席は、フィデル・カストロ前議長が出席した2005年のサラマンカ(スペイン)の第十五回サミットが最後で、彼を継いだラウル現議長は一度も出席していない。一方で、今回サミットでも従来の通り、キューバに対する米国の経済制裁に対する非難決議が出された。ベネズエラのチャベス大統領はサンティアゴ(チリ)で開かれた2007年の第十七回サミットで、スペインのアスナール前首相(在任1996-2004)をファシスト呼ばわりし、フアン・カルロス国王より「¿Por qué no te callas?(煩いよ、ほどの意味)」、と窘められ、次回から出席しなくなっている。ニカラグアとボリビアは二回連続の首脳欠席だ。恣意性はなかろうが、気になるところだ。オルテガ・ニカラグア大統領はコスタリカのチンチーヤ大統領との同席を嫌ったのではあるまいか。

イベロアメリカサミットの第一回会合は19917月、グァダラハラ(メキシコ)で行われた。同年、メルコスル創設に関わる「アスンシオン条約」が締結され、また中米統合機構(SICA)創設に関わる「テグシガルパ宣言」が採択されている。マドリードで第二回会合が開かれた92年には、NAFTA合意が成った。サンサルバドルでの第四回会合の94年、マイアミで第一回米州サミットが開催され米州自由貿易圏(FTAA)が議題に上った。そしてビニャデルマル(チリ)での第六回会合の96年、アンデス共同体(CAN)発足のための「トルヒーヨ議定書」が調印されている。この辺りまで、ラテンアメリカの地域統合に関わる組織化が進められていた。

200411月に行われた第十四回会合で、ピレネーのミニ国家、アンドラへの参加資格付与と常設事務局(Secretaria1999年ハバナ会合で設置が決まった。所在地マドリード)の事務総局(Secretaria General)への格上げが決議された。同年12月、第三回南米サミット(クスコ)で、EUをモデルとした「南米共同体」創設のための「クスコ宣言」調印が成っている。言うまでも無く、20085月の南米諸国連合(Unasur)憲法条約に発展するものだ。翌2005年、サラマンカ(スペイン)での第十五回会合より22ヵ国目としてアンドラの行政府長官(首相)、及びイベロアメリカ事務総局初代総長に選出されたウルグアイ出身のイグレシアス前米州開銀(IDB)総裁が出席するようになる。

2006年のウルグアイでの第十六回会合辺りから、幾つかの国が代理出席者を送るようにもなった。この年、ベネズエラがCANを脱退しメルコスル加盟を申請した。そして、Unasur憲法が決まった年の第十八回会合からチャベス大統領は出席しなくなった。

イベロアメリカサミットとは、本来スペイン及びポルトガルと、その旧アメリカ植民地の指導者が揃って同席する会合を指す。だから、メキシコと、現に存在するSICAUnasurを更に発展させた地域統合体を目指すことを、私は考えてしまう。だが、イベロアメリカそのものが、自己主張が非常に強い国家群であり、SICAUnasurも纏まりきれないのに、大西洋を挟んだ統合体に発展するイメージは、どうにも湧いてこない。現在、ベリーズと東チモールから参加申請が出されてもいる。SICA加盟国でもある前者はともかく、後者が入るとなると、昨2009年にフィリピンと赤道ギネア両国が「準参加資格(Associate member)」を得たのとは異なり、サミットの性格は極めて希薄化しよう。

次に、スペインもポルトガルもEU加盟国だ。EUの実際の首相であるバローゾ委員長は、元ポルトガル首相でありイベロアメリカサミットにも参加している。だからイベロアメリカとEUの統合だって考えてしまう。実際にはSICAUnasurも統合体としての完成度がEUとは比較にならぬほど低い。EUすら加盟国の自己主張を抑えて一つの統合体として纏め上げることが、見ていて大変なようだ。実現するのは、せいぜい関税同盟による単一市場形成くらいだろう。実際にサミット参加国のGDP及び人口の合計を出して、敢えてEUや米国のそれと比べてしまう気の早い人たちもいる。経済統合体としての評価だ。それなら、可能かも知れない。

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