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2010年11月29日 (月)

南米諸国連合(Unasur)ジョージタウンサミット

1126日にガイアナのジョージタウンで開催されたUnasurサミットにおいて、いわゆる民主主義議定書(Democracy Protocol)が締結された。加盟国でクーデターが起きた場合、他加盟国は当該国との国境封鎖を含む制裁を行う、とするもので、このブログでも紹介した930日のエクアドルクーデター未遂事件を念頭においたものだ。Unasur憲法条約(2008523日のブラジリアサミットで締結)の付帯条項となる。エクアドルのケースでは、当時のキルチネル総長がブエノスアイレスに緊急サミットを招集し、コレア大統領への連帯を表明したことが記憶に新しい。2008915日、初代持ち回り議長だったチリのバチェレ大統領(当時)が、ボリビアのモラレス政権が政治危機に見舞われた時、サンティアゴに加盟国首脳を招集し、政権転覆に繋がる如何なる行動も容認できない、とする決議を採択した。同じ性格のものだ。ジョージタウンサミットでは、条約上の新たな条項に加えられ、強制力が強まる。

ラテンアメリカは歴史的にクーデターが頻発した地域であるし、軍事政権や軍人個人による独裁政権は枚挙にいとまが無い。それでも二十一世紀の今日、すっかり影を潜めている。南米では、20024月にベネズエラのゼネストで2日間、チャベス大統領が失権した。これをクーデターと位置付ければ、二十一世紀では唯一のケースだ。ラテンアメリカ全体では、他では20096月のホンジュラスがあるのみだ。それでもかかる民主主義を守るための条項の必要性が認識された、と言うことだろう。

Unasurは、アンデス共同体(CAN)及びチリ、ガイアナ、スリナムをメルコスルに一体化し、購買力平価ベースのGDP4兆㌦を超える世界第5位の経済力を持つ地域統合体(私のホームページの中のラ米の地域統合参照)だ。経済力のみならず、国際政治への発言力強化も睨む。構成国12ヵ国の内、ブラジル及びアルゼンチンの2ヵ国はG20の世界19ヵ国の一角を成し、ブラジルは国連安保常任理事国入りが射程内だ。手本とするのは欧州連合(EU)で、中央銀行と議会、及び共通通貨を持つ強力な地域統合体を目指す。だが、本部所在地がエクアドルのキト、議会はボリビアのコチャバンバ、中銀たる南米銀行(Banco del Sur)本社がベネズエラのカラカス、と分かれており、各論に入ると、各国の思惑が交錯し、進み難い。Unasur憲法条約を発効させるには、9ヵ国の批准が必要だが、現時点では1ヵ国不足しており、未発効の状態にある。ブラジル、ウルグアイ、パラグアイ及びコロンビアの批准が遅れている。

EUは常任議長(大統領に相当)制を導入したが、そこまではいかないようだ。EU委員長に相当する事務総長の初代は、Unasur発足から2年も経った20105月にキルチネル前アルゼンチン大統領で漸く決まった(残念なことに半年足らずで死去)が、性格付けや権限で、未だ発展途上の感がある。軍事面では、実力組織の北大西洋条約機構(NATO)軍のようなものは作らず、南米防衛評議会に留める。

憲法条約が未発効であれ、首脳間交流は実に活発だ。何かあると集まる。2010年では、2月、ハイチ支援のためのキトでの特別サミット、5月、総長を選出したブエノスアイレス郊外のカンパナにおける特別サミット、10月、エクアドルクーデター未遂事件でのやはりブエノスアイレスでの緊急サミットの他にも、ウルグアイ(3月)、チリ(5月)、及びコロンビア(8月)の大統領就任式、アルゼンチン独立革命200周年記念式典(5月)、最近ではキルチネル総長の葬儀、などがある。2月のラテンアメリカ・カリブサミット、5月のラテンアメリカ・EUサミットでも顔を合わせる。今回のジョージタウンサミットの次に、12月早々、イベロアメリカサミットも控える。

ペルー、ボリビア、ウルグアイ及びチリ(いずれも代理派遣)を除く8ヵ国の首脳が集まった今回サミットでは、左翼思想の強いチャベス(ベネズエラ)、新自由主義の信奉者サントス(コロンビア)両大統領が、米軍基地問題が未解決な中で関係修復を見せ、またサントス、コレア(エクアドル)両大統領が、クリスマス前の大使級外交実現を確認したのも、イデオロギーより地域統合を優先させる政治意識の為せる技だろう。Unasur諸国は政権のイデオロギーの幅が右派から左派まで、EUASEANなどとは比較にならぬほど広い。逆に、EUにある西欧型民主主義価値観、という共通項が薄い。それでも纏まる。ルラ大統領の存在もあるが、基本は頻繁な会合で首脳同士の個人的関係が深まってきたためではなかろうか。なお、今回サミットで、持ち回り議長はコレア大統領からガイアナのジャグデオ大統領に移った。キルチネル後任の総長選出は見送られている。

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2010年11月19日 (金)

ニカラグア・コスタリカ紛争

The World FactBookによる2008年のGDPで言えば、304億㌦対66億㌦、購買力平価では一人当たり11,600㌦対2,900㌦。識字率が94.9%67.5%、平均寿命が77.6歳対66.9歳。中米の隣国同士、コスタリカ(前者)とニカラグア(後者)の数値比較を見ると、両国の経済力及び社会水準の差は歴然としている。前者は域内先進国で国際的には新興国の扱いだろう。後者は域内最貧国で、同様に、途上国扱いだ。もともと1823年にメキシコから分離独立した中米諸州連合を構成する州同士だが、前者は1882年以来の民主国家(2年半のティノコ独裁期を除く)であり、後者はその間、セラヤ独裁(1893-1909)、事実上の米軍統治(1912-251926-33)、ソモサ家支配(1936-79)を経験した。前者は1949年に常備軍廃止の平和憲法を持ち、後者は軍を背景とした強権支配の歴史を持つ。だから、軍事力では、後者の方が勝っている。

 この二ヵ国は中米諸州連合時代、州境をサンフアン川に定めた。ニカラグア湖を水源としカリブ海に注ぐ航行河川だ。1858年のカーニャス・へレス条約で、これを正式な国境線とした。川はニカラグアが領有するがコスタリカは自由航行権を認めたものだ。諸州連合解体から20年を経ていた。ただ河口は広い。また川は枝分かれもしている。面積151平方キロ、というから相当広いが、河口に湿原と多様な生物の棲息地としても知られるカレロ島がある。サンフアン川、その支流たるコロラド川、及びカリブ海に面する。こちらの方は、コスタリカ領土に組み入れられている。だがニカラグアは、島に国境線が存在する、と主張、長く係争の元になってきた。

この108日、ニカラグア軍が河口付近から33キロに亘り、サンフアン川浚渫作戦を行った。麻薬輸送取締まりの一環、とした。浚渫土はカレロ島に持ち込んだ。当然上陸するが、ニカラグア領内であり問題はない、と主張する。コスタリカは、明らかな領土侵犯であり、且つ浚渫自体が重要環境保護地帯たる同島の生態系破壊をもたらす、として抗議した。これが、今回の領土紛争の発端で、1022日には、軍隊を持たぬコスタリカだが、市民警察隊を国境地帯に増派した。また米州機構(OAS)に調停を申し入れ、インスルサ事務総長が乗り出し、紛争地区を視察した上で、両国間での対話と平和的解決を求め、且つ国境線にマーカーを設置し、軍と保安部隊の島からの撤収を提起、コスタリカは同調したが、ニカラグアがかかる押し付けには服従せず、として拒んできた。

1112日、OAS常任理事会で、両国の係争地からの部隊撤収と紛争解決のための対話を求める決議が、出席27ヵ国に対し22ヵ国の賛成で決議された(反対はニカラグアとベネズエラ、またエクアドル、ガイアナ、ドミニカが棄権)

1113日、ニカラグアのオルテガ大統領は、OASには国境紛争に関わる権限が無く、この決議を陰謀、とまでこきおろし、OAS離脱さえ仄めかした。加えて、麻薬犯罪に苦しむメキシコ、コスタリカ、パナマ及びグァテマラがコスタリカの宣伝に乗り、同決議に賛成したのは、麻薬組織を勝利者に仕立ててしまっても良い、と言うことか、とまで述べた。これについては、国内反対派からは、主権防衛のための外交は配慮をもって行うべきであり、かかる名指しの挑発的な言動はマイナス、と批判している。一方で、大統領の弟、ウンベルト退役将軍は、15日、両国首脳間での対話による平和的解決を訴えた。ただ全体としては、司法、立法の最高責任者が大統領の対応を支持、学生が数千人規模で支持の為のデモ行進を繰り広げるなど、反コスタリカ、反OASで固まりつつあるようだ。

コスタリカのチンチーヤ大統領は、この決議は勝利を意味する、とした。だが一方で、アリアス前大統領が、国連ではなく先ずOASに持ち込んだ彼女の対応を批判する。ニカラグアがOAS決議を無視し続けるのを見て、18日、コスタリカ政府はハーグの国際司法裁判所に提訴した。他方、OASは同日、本件協議のため127日の緊急外相会議を招集した。それまでには、1127日の南米諸国連合(Unasur)と1234日のイベロアメリカの両サミットが控える。

ニカラグアはコロンビアに対しても、カリブ海のサンアンドレス諸島領有権問題を抱える。1928年のエスゲラ・バルセナス条約でコロンビア帰属を認めたが、1980年のニカラグア革命政府が、米軍統治時代に結ばれた同条約は無効、と主張、2001年、当時のアレマン政権下でハーグの国際司法裁判所に持ち込んだ。同裁判所の当初裁定は、諸島領有権はコロンビアにあるが、海域自体はニカラグア領海、とする折衷案で、何やらカレロ島を巡るコスタリカとの領土問題に似ていなくもない。経済規模でも社会成熟度でも域内最先進国のコスタリカに、領土問題で挑むオルテガ大統領は、国民には勇ましく見える。これを彼の再選戦略の一環とする冷めた見方も有る。

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2010年11月12日 (金)

キューバ共産党大会について

118日、ラウル・カストロ国家評議会議長が共産党政治局の決定、として、ピッグズ湾事件50周年、という重要なタイミングの20114月下旬に、第六回党大会を招集する旨の発表を行った。新たな経済社会モデルの基本的な決定、を議題としている。

キューバは中央計画経済による社会主義国だ。憲法で「社会及び国家に超越した指導力を行使する組織」と規定される共産党が、5年ごとの党大会で五ヵ年計画を決める。党大会の前段階に大衆討論プロセスに入る。これを121日に開始し、20113月に終えることになった。その叩き台として、翌9日、32ページに及ぶ「経済社会政策路線の綱領(Proyecto de Lineamientos de la Política Económica y Social」が発行された。向う5カ年のキューバの経済基本政策を示すもので、明確なのは私企業認可基準が大幅に緩和される点だ。

キューバの経済活動の95%は政府の公的部門に担われている。その非効率が眼に余る、として、半年かけて50万人を解雇する旨が、ゆくゆくは100万人の労働力を公的部門から排除することを含めて、つい一か月前、発表された。この受け皿として、現在は10万人に満たない、とされる個人営業分野に着目し、認可対象拡大や経営資金支援策に踏み込んだ。社会主義体制からすれば、大きな政策転換だ。いわば国家の基本政策の変更に当たり、党大会にかける必要は確かにある。

キューバ共産党は1965年、メキシコを除くラテンアメリカでの孤立が完成した年に、「社会主義大衆党」(旧共産党)が、革命を実行した「726日運動」と合併する形で、新たに創設された。ドルティコス大統領は前者から出ていたが、党最高権力者たる第一書記に選任されたのは、後者を率いた当時39歳のフィデル・カストロ首相だった。以後今日まで彼のこの地位は変わらない。だが、この第一回党大会が開催されたのは、結党から10年も経った197512月のことである。

この党大会で社会主義憲法案が承認された。国民投票を経て公布されて初めて、党最高権力者が実質的な国家最高指導者になった。大統領制は廃止され、選挙を経た議員によって構成される人民権力全国会議の幹部会たる国家評議会の議長が国家元首に就く、現在の国家指導体制が、翌197612月に確立した。彼が議長に就任した。党第一書記と首相はそのまま、且つ、国軍最高司令官でもある。大変な権力だ。独裁権が強化されたこの時点までに、ラテンアメリカ17ヵ国(国交を維持してきたメキシコを除く)の内、ペルー、アルゼンチン、パナマ、ベネズエラ及びコロンビアの5ヵ国がキューバと復交する。

この党大会では、工業化推進を軸とした意欲的な第一次五ヵ年計画も決まった。我が国大手商社が相次いで初代ハバナ駐在員を出した翌年、高騰していた砂糖の国際価格が急落し、五ヵ年計画は挫折したのは不運だったといえよう。

198012月の第二回党大会では経済効率化を推進するため、として、農産物自由市場の開設を認めている。この年の4月に、12.5万人ものキューバ難民が米国に向かっていた。第三回大会は変則的だが198611月に開かれ、ラウル・カストロ国家評議会筆頭副議長(当時)が、第一書記として兄の後継に指名されている。その5年後の199110月に第四回大会が開催され、ここで外資導入、観光振興、150分野での自営業解禁が決まった。それまでキューバ経済を背後で支えてきたソ連東欧圏が崩壊して間も無くであり、ソ連が分解する直前のことだ。キューバが未曽有の経済危機に見舞われ、「カストロの最後の日」が米国で声高に語られるようになり、数万人規模の難民が再び米国を目指す時代に入った。そして6年後の199710月、第五回大会が開かれた。

この大会では砂糖生産年間700万トン(前年度450万トン)、ニッケル生産同10万トン、観光客同200万人(同年117万人)など、具体的な経済数値目標が提示された。翌98年にはヨハネ・パウロ二世の訪問と殆ど全てのラテンアメリカ諸国との国交回復、2000年にベネズエラと結んだ「協力基本協約Convenio Integral de Cooperación」、2001年に米国からの47年ぶりの食糧輸入再開、とプラス面の動きが続いた。にも拘わらず、それから5年目の2002年の段階で、前年に襲ったハリケーン「ミシェル」の影響もあったが、砂糖工場の半分以上が閉鎖され、生産は200万トン台にまで落ちた。ニッケル生産は伸びたが、7万トン台、観光客は急増したが180万人台、いずれも目標には届いていない。一方で、ラテンアメリカ諸国に親カストロ政権が続々と誕生し、孤立時代からは隔世の感がある。その中で、2006年にフィデル・カストロ第一書記が入院した。

今般の第六回党大会招集は、7月以来公の場によく登場するフィデル第一書記ではなく、ラウル議長が招集令をかけた格好だ。上記「経済社会政策路線の綱領」では言及がなされていないが、党大会では、第一書記、第二書記、政治局員、書記局員、中央委員と、党の重要ポストが決まる。この際、キューバの指導部の序列が決まる。現時点では、13年前の党大会で決められた通りであり、フィデル前議長は、従って序列第一位の第一書記のままだ。同書は、真っ先にフィデルに提出した、とラウル議長が述べているように、実権の完全移譲には至っていない。事実、最高の相談相手として立ててきてもいた。先ず注目すべきは、フィデル氏が第一書記から身を引き、1986年の第三回大会で決まったラウル氏への完全な実権移譲が実現するか否か、だろう。もっとも、国際メディアは、世代交代(兄弟間ではなく若手への実権移譲)の有無を見ているようだ。

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2010年11月 1日 (月)

ルセフ次期大統領決定-ブラジル

1031日に行われたブラジル大統領選挙の決選投票で、予想通り労働者党(PT)のジルマ・ルセフ前大統領府長官が、社会民主党(PSDM)のジョゼ・セラ前サンパウロ州知事を下した。得票率は55.6%、約11ポイント差だった。国民支持率80%超、というルラ大統領の勢力的な応援を得たこの結果にしては、低い、とも言えようが、彼女自身、選挙の洗礼をこれまで受けたことが無く、政治家としてプロ中のプロであるセラ氏への挑戦結果、と見れば、大変なことだろう。ルラ大統領にしてみれば、言われるように2014年に再登場を狙っているとすると、ルラ路線が途切れることなく続くのが有り難い。

このニュースを伝えるAPの見出しは、「元ゲリラがブラジル初代女性大統領へ」だ。「軍政時代に拷問を受け収監された元マルキスト・ゲリラが、経済・政治両面で成長の真っ最中にあるラテンアメリカ最大の国の大統領に」と書き出し、19歳の大学生で始めた反軍政活動のことなどを、ルセフ自身が暴力行為に及んだ事実は無く、暴力を理由に軍政に起訴された事実も無い、と語っていることを含めて紹介している。リオグランデドスル州のエネルギー長官としての実績によりルラ第一次政権の閣僚として招かれ、ここでもエネルギー相を務めた。第二次政権では大統領府長官に抜擢された。彼女の行政手腕はぶれず、強い信念に貫かれ、健康面では癌治療を乗り越えた意志の強さも手伝い、「鉄の女」の異名も取る。ルラの傀儡ではなく、闘士としての経歴と貧困撲滅への強い意志を評価し、彼女に投票した人も多いようだ。

AFPも見出しはAPと全く同じだが、かかる見出しは付けないロイター電同様、彼女への投票がルラ路線継承を望む国民の声、という点を強調する。実際には野党のセラ候補すら彼の政治の多くを引き継ぐ、と述べていた。何しろ彼の政権下の経済成長は、特にリーマンショック以後不況に苦しむ欧米先進諸国を余所に、目覚ましい。貧困層の減少も、遅れた北部地方の電化を含むインフラ整備も、相当に進んだ。ルラの国際的プレゼンスは眩いほどで、ブラジル人には誇らしい。ではルラ大統領は今後4年間、院政を敷くのか、と言えば本人も彼の閣僚たちも否定する。

103日の総選挙では、彼女のPTは下院513議席中、88議席、一応第一党になった。前回からPTと連立を組んでいるブラジル民主運動党(PMDB)は、今回5増のPTに対して10減の79議席、二党合わせると5減の167議席、全体の3分の1である。合計81議席の上院は、第一党のPMDB20議席でPTはこれに次ぐ15だ。合計で9増の35議席、全体の42%となる。彼女と組む政党で中道右派に属するのは共和党(PR)で、中道と位置付けられるのが社会キリスト教党(PSC)だ。左派にはPTに加えブラジル社会党(PSD)、民主労働党(PTD)、ブラジル共産党(PCdoB)などもあり、与党総議席の下院311議席、上院50議席の半分を占める。

PMDBは、ブラジル軍政時代の公認野党、「ブラジル民主運動PMD」の流れを引き、民政移管後19903月まで政権を担った。印象的には中道右派で、2002年選挙では左派系のルラ阻止を狙い、もともとPMDBから独立した当時の与党、PSDBと選挙協力し、セラ氏を支持した。だが実際には党内は右派から左派までイデオロギー面では大変に広い。だから左派系連立にも抵抗なく加われたのだろう。

かかる議席配分をみると、仮にセラ候補が勝利すれば政権運営に大きな支障をきたすところだった。彼のPSDBの獲得議席数は下院53、上院11で、前回選挙より夫々123減った。中道右派で議会第四党の民主党(DEM)と労働党(PTBPTとは別の伝統政党)など連合を組む相手を含めても、下院で136議席、上院では25議席にしかならない。それでもセラ氏の得票率は44.4%、第一次選挙の33%から11ポイントもの上積みだ。議会勢力から見れば、その健闘ぶりが光る。

ルセフ新政権は、201111日にスタートする。これで女性大統領は、ラテンアメリカ19ヵ国で、フェルナンデス(アルゼンチン)とチンチーヤ(コスタリカ)と並び3人となる。肩にかかる重さは、彼女らの比ではなかろう。今後、ルラ政権下のような成長が期待できない国際経済環境にあり、常に前任者と比較される現職大統領としては財政政策のかじ取りは容易ではない。今こそ官僚組織肥大化を抑え、税制を改革し、財政面では戦略分野への予算配分を強め行政の効率化を進める、カリスマ性の強い大統領にすら難しい課題に取り組まねばならない。国際資金は通貨レアルの異常とも言える高騰を招いた。取り敢えずはルラ大統領が出席するG20の枠組みの中で解決せねばならないが、一朝一夕とはいかない。前世紀末のブラジル金融危機は、まだ記憶に新しい。その中で確実に行われる2014年のワールドカップ、及び2016年のオリンピック関連インフラ投資が待ったなしだ。

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