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2010年10月22日 (金)

ボリビアの悲願-太平洋への出口(1)

1019日、ペルー南端に近い町、イロで、ガルシア(ペルー)・モラレス(ボリビア)会談が行われた。新自由主義経済を推進するガルシア政権は、「二十一世紀の社会主義」建設を進めるモラレス政権とはそりが合わない。2009年、短期間ではあるがペルーが駐ボリビア大使を引き揚げたこともあった。出自が先住民のモラレス大統領にとり、先住民を冷遇する措置が目立つガルシア政権には反発も強かったようだ。ただ最近になってペルー政府は汚職訴追を受けたボリビア右派幹部2名をボリビア側に引き渡し、関係修復の動きが高まっていた。

両首脳は「イロ協定」と言われる文書に署名した。1992年、当時のフジモリ(ペルー)・パスサモラ(ボリビア)政権下で、ペルーがイロからチリ国境までの海岸地帯をボリビアに開放する、いわゆる「ボリビアマル(Boliviamar)協定」が結ばれていた。これを更に拡大し、且つ163.5ヘクタールの商工業向けフリーゾーンを設け、今後99年間に亘ってボリビアに供与する、というもので、ここにはボリビア側の資本で工場や倉庫が建設され、イロ港はボリビア産品輸出のための拠点となる。それだけではない。ボリビア海軍学校の分校も設置可能となり、ボリビア軍艦の寄港も自由となる。さらにフリーゾーンの一角をボリビア側のスポーツ観光向けに供与される。ガルシア大統領は、「ボリビアに国家として海への出口が封じられている現実は、不正義である」とまで語った。モラレス大統領はこれに謝意を表し、両国民にとり新たな関係修復の始まりとなる、と述べた。両大統領はペルーの「太平洋戦争」(1879-84年)の英雄、グラウ提督の銅像の前で抱擁を交わした。

二日後にペルーを訪問したアルゼンチンのティメルマン外相がガルシア大統領と会談した際、ボリビアに対するペルーの寛大な措置は大きな一歩であり、アルゼンチンの喜びとするところ、とまで述べ、歓迎の意を表した。

ご周知の如く、ボリビアが内陸国になったのは「太平洋戦争」の敗戦で、チリに太平洋岸一帯の領土を譲渡したためだ。戦争の発端は、ボリビア政府がチリと締結した国境画定条約を無視し、同条約に基づき硝石開発に取り組んでいたチリ企業に対し、事業税引き上げと従わぬ場合の資産没収を一方的に通告したことにある。チリ政府は度重なる抗議を無視され、宣戦布告する。戦争勃発前、ペルーは対ボリビア相互防衛条約を結んでいたため、戦争はチリ軍対ペルー・ボリビアの連合軍、となる。

戦争勃発の半世紀前の1828年、ガマラ(1785-1841 )というペルー南部を支配するカウディーリョがボリビアに侵攻し、初代、且つ終身大統領だったスクレ(1795-1830)を追放した。翌29年、サンタクルス(1792-1865 )というカウディーリョがボリビアの、そしてガマラ自身はペルーの大統領になった。35年、ペルー政情悪化に乗じてサンタクルスが韜晦し、ガマラを追放、ペルーをも支配することとなる。翌366月、サンタクルスは自らを終身護国官として一つの国家、「ペルー・ボリビア連合」を成立させた。これがチリとの戦争に発展した。「連合戦争」(1836-39年)と呼ばれる。敗れて、連合は崩壊した。

「太平洋戦争」は二つの国家が連合してチリと戦ったので性格こそ違うが、第二次連合戦争のようなものだ。上記の銅像の人グラウは、ペルー海軍提督で、ペルーが事実上海軍を失うことになる1879108日のアンガモ海戦で戦死した。「太平洋戦争」もチリの勝利に終わった。ただ「連合戦争」では無かった敗戦国の領土割譲は、「太平洋戦争」ではあった。ペルーはタクナ(その後アリカ)以南を割譲した。ボリビアはアントファガスタを中心とするアタカマ地方全て、即ち海への出口そのものを割譲してしまった。

以後、太平洋への出口確保が、一世紀以上もの間、ボリビアの悲願だった。ペルー訪問に先立ち、モラレス大統領は「ペルー・ボリビア連合」の再構築を進めていきたい、との抱負まで語っていた。

「イロ協定」がボリビアの、言うなれば「海への道」戦略の具現化にどのような成果を挙げるのかは、私には予測できない。そもそも1992年の協定が具体化した様子は無い。ボリビア側は交通上の利便性を考え、チリのアリカを拠点とする回廊構想を進めて来た。バチェレ前政権下、対チリ関係は大きく好転し、この構想も前進しつつあった。モラレス大統領はピニェラ政権に対して、当初は警戒的だったが、最近では友好的になりつつある。1014日、コピアポ鉱山落盤事件で救出されたボリビア人鉱夫の見舞いに現場まで足を運び、その際に、ピニェラ大統領と手を取り合って救出作業の成功を喜んでいた。だから、アリカ構想も具体化に動く可能性は、その分強まった、と言えよう。

チリ・ペルー間には、旧ペルー領を第三国の便宜を供するに当たっては、ペルーの了解を取ることを義務付ける取り決めがある。ガルシア大統領は、ボリビアの対チリ交渉に際して、ペルーが阻害要因になることはしない、と言明した。ともあれ、協定締結後、ボリビア政府は早速、このフリーゾーンへの投資をボリビア企業に呼び掛けている。

ところで、ピニェラ大統領はコピアコ事件で世界中に知られるようになった。鉱夫救助が終わったら直ぐ、ヨーロッパ歴訪に出かけ、イギリスのエリザベス女王に鉱夫が持ち帰った鉱石をプレゼントしたりして話題を提供し、あちこちで歓迎を受けている。流石に機を見るに敏なるビジネスマン大統領の面目躍如、と言ったところだ。フランスでは、昨今の世界で目立つ国際通貨安競争を糾弾する演説も行っている。本当はG20の一角にチリが入り、国際舞台で持論を展開したい思いだろう。ともあれ、彼が帰国した後、ボリビアのアリカへの回廊構想が実現に向かうのか、こちらも注目したい。

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