« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »

2010年10月31日 (日)

キルチネルの時代

1027日、アルゼンチンの前大統領で、フェルナンデス現大統領の夫のキルチネル氏が南部サンタクルス州のカラファテの別荘で心臓発作を起こし、現地の救急病院に搬送されたが、死去した。45日前に二度目の心臓手術を受けていた。彼の遺体は29日までの3日間、大統領宮殿の「ラテンアメリカ愛国者の間」に安置され、惜別者に開放され、閣僚、知事、国会議員、労組幹部らを含む、一時間あたり3千名という市民らが押し寄せたが、その中にサッカー界の英雄、マラドーナの姿もあった。南米諸国連合(Unasur)総長でもあったことから、南米諸国の大統領がペルーのガルシア大統領を除く8名が顔を揃え、フェルナンデス大統領ら遺族への弔問を行った。大統領選の決選投票を3日後に控えルセフ候補への応援に注力していたブラジルのルラ大統領も駆け付け、共に今日の南米、ラテンアメリカを築き上げた我が同志、と語った。キルチネルこそこの時代に必要とされた人だった、と語ったベネズエラのチャベス大統領は、南米首脳陣ではただ一人、29日にカラファテに移され埋葬されるまで遺体に同行した。

弔電は、ガルシア・ペルー大統領はもとより、メキシコ、中米・カリブ諸国首脳、OAS事務総長、スペインのサパテロ首相、米国のオバマ大統領、EU(欧州連合)常任議長(大統領)などからも寄せられた。アルゼンチンでは3日間の国民哀悼期間を設けた。ブラジルとベネズエラでも外国の前首脳の死去なのに、これにならった。

最近のキルチネル氏のUnasur総長としての活躍では、8月のベネズエラ・コロンビア関係修復の仲介、930日のエクアドル・クーデター事件に際してのUnasur緊急首脳の招集が記憶に新しい。後者の場合は、二度目の心臓手術を受けて間もない時だった。弔問に駆け付けたコレア・エクアドル大統領は、我々がここに集まったのは、結束したラテンアメリカという偉大な祖国を建設することへの誓い、と述べている。総長に就任して僅か半年である。巷では早速、誰が総長を引き継ぐのかに関心が寄せられる。口さが無い人たちは、チャベスを抑えられることが最大の資格要件であり、バチェレ・チリ前大統領か、3ヵ月後に退任するルラ・ブラジル大統領の名前を出し始めている。

ルラ氏は、20031月に57歳で、キルチネル氏は同年5月に53歳で大統領に就任した。前者は労働運動の旗手で、後者はペロン党の左派に属し、米国型の新自由主義経済に抵抗し、貧困撲滅と国民所得格差の圧縮を政見とした。いずれも左傾化を恐れる既存の政治勢力から激しい攻撃に晒されての当選だった。だがいずれも強いリーダーシップにより国家経済を立て直し、失業率とインフレ率を低下させ、国民所得の再配分を進めた。両者ともワシントンコンセンサスが自国には不適、との理由で、IMFへの期前返済を断行し、経済政策に対するIMF介入を阻んだ。また米国主導で進められたFTAA(米州自由貿易圏構想)に異を唱え、域内経済圏確立構想に取り組んだ。「南米諸国連合」は、この流れで見たい。

ルラ・キルチネル両氏とも、第一期目の終わりの国民支持率は、5060%で、前者は連続再選された。後者は、政権末期のスキャンダルなどで大統領選出馬を辞退したが、妻のフェルナンデス氏を担ぎ出し、彼女の政権は彼の政治路線を忠実に引き継いだ。つまり、ブラジルのルラ時代同様、アルゼンチンのキルチネル時代は続いた。この実績が、行動力とリーダーシップに富んだUnasur総長就任と、南米重要問題での仲介の成功に繋がった。上記のベネズエラ・コロンビア関係修復は、実はルラ大統領とキルチネル総長がペアで当たった。

キルチネル時代は、ところが、国内では逆風に晒される。キルチネル夫妻が属するペロン党は、一枚岩ではない。イデオロギーでは右派から左派まで非常に広い。新自由主義経済を信奉するメネム元大統領(第一期19897-9512月、第二期9512-9912月)の勢力は、少数とはいえ、明らかに反キルチネル勢力である。なるほどキルチネル夫妻の政権は、景気回復を実現し、政情安定、社会計画、軍政時代の名残たる人権問題に取り組んだ。IMFへの期前返済は国民の喝采を得た。だが政治スタイルが独裁的、というマイナスイメージを呼んだ。党の分裂は、彼の存在が大きな理由、との見方も根強い。また、特にマスコミ界の批判は大変に厳しい。司法も同様だ。また重要輸出産業の一角を占める農畜産業界とは、度々摩擦を引き起こした。最近では同性婚の合法化でカトリック教会が攻撃を強めた。1950年代始め、離婚を合法化したペロンを破門したことがあったが、因果が回って来た感じだ。彼の死は、アルゼンチンの株式市場上昇をもたらした。ビジネス界は国内外で、彼をブレーキと見做して来たことの裏返しだろう。

彼の死は政権与党のペロン党の纏め役を失ったことに繋がり、いまですら35%の低支持率に苦しむフェルナンデス大統領の求心力の衰えを来たす。労働組合の全国組織で、ペロン時代の1940年代に結成された労働総同盟(CGT)は、彼女への変わらぬ支持をいち早く表明した。夫を失ったばかりで大衆レベルでは彼女のイメージは好転しつつある。だが党内権力構造の変化は不可避であり、彼女には党を纏める力は弱い、と言われ、政権運営、ひいては201110月の大統領選での連続再選には、苦労することになろう。

| | コメント (0)

2010年10月27日 (水)

キューバ・欧州連合(EU)関係

1025日、EUのアシュトン外務上級代表(EU外相)が対キューバPosición ComúnCommon Position。共通外交政策)は据え置くが、キューバ当局の政治犯釈放を歓迎し、対話を進める旨表明した旨を複数の外電スペイン語版が伝えている。サパタ受刑囚がハンストで死去した2月時点から、このEUCommon Position据え置き、見直しの問題が、6月に始まった「黒い春」(20033月の75名の政治犯一斉逮捕、即決裁判と収監)服役囚釈放の動き以来、よく語られる。1020日、EU議会がギイェルモ・ファリーニャス受刑囚に対しサハロフ賞の授与を決議していた。同受刑囚は、サパタ死去以来「黒い春」事件服役囚の釈放を求め134日ものハンストで、死の一歩手前まで行った人だ。服役囚釈放が十数名になった時点でハンストを終了し、受刑囚のまま入院、かなり回復したようだ。

対キューバCommon Position1996年、EUとしてキューバに対し民主化、経済自由化を求めたことが発端、と私は理解している。一方で同年、米国で制定された悪名高い「ヘルムズ・バートン法」(もともとは米国(法)人の所有資産に対し、投資を行う第三国企業には罰則を科す、という法律)には、EUは同法が域外適用でありWTO違反、と非難し、EU諸国企業のキューバ投資を後押しすらしたものだ。事実、ヨーロッパからの投資は増え、ヨーロッパ人のキューバへの旅行客も急増した。

キューバでこのCommon Positionが問題化されるようになるのは、その「黒い春」事件に関連し、2003年の6月、EUがこれを民主化への逆行と人権侵害、と厳しく糾弾し、政治犯の即時無条件釈放を求めると共に、加盟国とキューバ政府とのハイレベル交流禁止、公式行事への反体制派指導者招待、などを決めた後のことではなかろうか。EU加盟国の首脳、閣僚級の対キューバ折衝に関する情報が無くなった。いわゆる「カクテル戦争」(在キューバEU加盟国大使館主催の祝祭日のパーティーに、これ見よがしに反体制派の人たちが招かれる事件)もあった。かかるEU側態度を内政干渉、として、当時の(フィデル)カストロ議長は激しく反発した。それでも2004年末までに数名が釈放され、EUはこれを歓迎して翌051月、キューバに対する「外交制裁」を凍結、086月には公式に解除した。ただ、人権問題に関わる前進を求め続ける、とした。

このブログでも紹介したことがあるが、「黒い春」事件の服役囚釈放に当たっては、スペインのモラティノス前外相が大きな役割を果たした。5月末時点で既に52人に減っていた当該服役囚は、9月末までにさらに39名減少し、13名になっている。39名全員が、スペインに出国した。大半が家族を帯同した。キューバ残留希望者は、今のところ収監されたままだ。(ラウル)カストロ政権は当初、45ヵ月以内に全員の釈放、と言っていた。彼ら全員の釈放が何時になったら実現するか、気になるところだ。EUCommon Position解除を待つのだろうか。その一方で、「黒い春」事件以外で収監されていた政治犯も既に8名が釈放されたか、される方針で、やはりスペイン出国者が対象とされる。

EUとの経済関係は、債権問題で足踏みしている我が国とは異なり、ずっと順調に推移している。外交制裁の一方で、EU加盟国から最恵国待遇を受けているキューバの立場には変わりが無い。特にスペインとの貿易額は、石油供給で特別の関係にあるベネズエラと、最近急増している中国、ニッケル取引でやはり特別な関係にあるカナダに次ぐ規模である。最近の投資活動については、私は不案内だが、観光客も相変わらず大挙してキューバに押し寄せている。今やキューバの外貨取得源のトップに躍り出た観光収入に、ヨーロッパの観光客は大きく貢献する。これだけを捉えれば、キューバにとってCommon Positionによる実害は、小さい。

だが、EU諸国首脳や主要閣僚との交流無くしては、関係の深化は図れない。(ラウル)・カストロ議長も、ラテンアメリカの他の首脳らと異なり、EU諸国は招いてくれず、来てくれない。79歳と言う高齢もあろうが、ロシアなどの訪問に出かける体力はあるし、明らかにEUから疎外を受けている。彼の政権は発足以来、幅広い社会的規制の緩和にも乗り出し、最近では、公営企業の人員整理、という必要性もあろうが、1993年に解禁した自営業の分野を拡大、従業員雇用を可能とする小規模私企業の設立を認めた。EUは政治犯釈放と共に、これを歓迎している。

Common Position見直しには、EU加盟27カ国全ての賛成が必要、と言われる。特にドイツや、元社会主義国のチェコなどが反対しているそうだ。チェコ政府はこのほど、スペインに出た元キューバ人政治犯の引受を発表した。アシュトン上級代表がいかなる発言をしたか、外電を読むしかないが、12月の見直し可能性を示唆したようでもある。実は、米国議会が米人のキューバ渡航解禁に向けた法案を準備しているが、提出は中間選挙後に延ばされている。世界で最も自由な国、米国の国民が、キューバ渡航の自由は奪われたまま半世紀過ぎた。米国にとって大転換となる。これに合わせよう、という思惑から、とは思わないが、タイミング上、興味深い。

| | コメント (0)

2010年10月22日 (金)

ボリビアの悲願-太平洋への出口(1)

1019日、ペルー南端に近い町、イロで、ガルシア(ペルー)・モラレス(ボリビア)会談が行われた。新自由主義経済を推進するガルシア政権は、「二十一世紀の社会主義」建設を進めるモラレス政権とはそりが合わない。2009年、短期間ではあるがペルーが駐ボリビア大使を引き揚げたこともあった。出自が先住民のモラレス大統領にとり、先住民を冷遇する措置が目立つガルシア政権には反発も強かったようだ。ただ最近になってペルー政府は汚職訴追を受けたボリビア右派幹部2名をボリビア側に引き渡し、関係修復の動きが高まっていた。

両首脳は「イロ協定」と言われる文書に署名した。1992年、当時のフジモリ(ペルー)・パスサモラ(ボリビア)政権下で、ペルーがイロからチリ国境までの海岸地帯をボリビアに開放する、いわゆる「ボリビアマル(Boliviamar)協定」が結ばれていた。これを更に拡大し、且つ163.5ヘクタールの商工業向けフリーゾーンを設け、今後99年間に亘ってボリビアに供与する、というもので、ここにはボリビア側の資本で工場や倉庫が建設され、イロ港はボリビア産品輸出のための拠点となる。それだけではない。ボリビア海軍学校の分校も設置可能となり、ボリビア軍艦の寄港も自由となる。さらにフリーゾーンの一角をボリビア側のスポーツ観光向けに供与される。ガルシア大統領は、「ボリビアに国家として海への出口が封じられている現実は、不正義である」とまで語った。モラレス大統領はこれに謝意を表し、両国民にとり新たな関係修復の始まりとなる、と述べた。両大統領はペルーの「太平洋戦争」(1879-84年)の英雄、グラウ提督の銅像の前で抱擁を交わした。

二日後にペルーを訪問したアルゼンチンのティメルマン外相がガルシア大統領と会談した際、ボリビアに対するペルーの寛大な措置は大きな一歩であり、アルゼンチンの喜びとするところ、とまで述べ、歓迎の意を表した。

ご周知の如く、ボリビアが内陸国になったのは「太平洋戦争」の敗戦で、チリに太平洋岸一帯の領土を譲渡したためだ。戦争の発端は、ボリビア政府がチリと締結した国境画定条約を無視し、同条約に基づき硝石開発に取り組んでいたチリ企業に対し、事業税引き上げと従わぬ場合の資産没収を一方的に通告したことにある。チリ政府は度重なる抗議を無視され、宣戦布告する。戦争勃発前、ペルーは対ボリビア相互防衛条約を結んでいたため、戦争はチリ軍対ペルー・ボリビアの連合軍、となる。

戦争勃発の半世紀前の1828年、ガマラ(1785-1841 )というペルー南部を支配するカウディーリョがボリビアに侵攻し、初代、且つ終身大統領だったスクレ(1795-1830)を追放した。翌29年、サンタクルス(1792-1865 )というカウディーリョがボリビアの、そしてガマラ自身はペルーの大統領になった。35年、ペルー政情悪化に乗じてサンタクルスが韜晦し、ガマラを追放、ペルーをも支配することとなる。翌366月、サンタクルスは自らを終身護国官として一つの国家、「ペルー・ボリビア連合」を成立させた。これがチリとの戦争に発展した。「連合戦争」(1836-39年)と呼ばれる。敗れて、連合は崩壊した。

「太平洋戦争」は二つの国家が連合してチリと戦ったので性格こそ違うが、第二次連合戦争のようなものだ。上記の銅像の人グラウは、ペルー海軍提督で、ペルーが事実上海軍を失うことになる1879108日のアンガモ海戦で戦死した。「太平洋戦争」もチリの勝利に終わった。ただ「連合戦争」では無かった敗戦国の領土割譲は、「太平洋戦争」ではあった。ペルーはタクナ(その後アリカ)以南を割譲した。ボリビアはアントファガスタを中心とするアタカマ地方全て、即ち海への出口そのものを割譲してしまった。

以後、太平洋への出口確保が、一世紀以上もの間、ボリビアの悲願だった。ペルー訪問に先立ち、モラレス大統領は「ペルー・ボリビア連合」の再構築を進めていきたい、との抱負まで語っていた。

「イロ協定」がボリビアの、言うなれば「海への道」戦略の具現化にどのような成果を挙げるのかは、私には予測できない。そもそも1992年の協定が具体化した様子は無い。ボリビア側は交通上の利便性を考え、チリのアリカを拠点とする回廊構想を進めて来た。バチェレ前政権下、対チリ関係は大きく好転し、この構想も前進しつつあった。モラレス大統領はピニェラ政権に対して、当初は警戒的だったが、最近では友好的になりつつある。1014日、コピアポ鉱山落盤事件で救出されたボリビア人鉱夫の見舞いに現場まで足を運び、その際に、ピニェラ大統領と手を取り合って救出作業の成功を喜んでいた。だから、アリカ構想も具体化に動く可能性は、その分強まった、と言えよう。

チリ・ペルー間には、旧ペルー領を第三国の便宜を供するに当たっては、ペルーの了解を取ることを義務付ける取り決めがある。ガルシア大統領は、ボリビアの対チリ交渉に際して、ペルーが阻害要因になることはしない、と言明した。ともあれ、協定締結後、ボリビア政府は早速、このフリーゾーンへの投資をボリビア企業に呼び掛けている。

ところで、ピニェラ大統領はコピアコ事件で世界中に知られるようになった。鉱夫救助が終わったら直ぐ、ヨーロッパ歴訪に出かけ、イギリスのエリザベス女王に鉱夫が持ち帰った鉱石をプレゼントしたりして話題を提供し、あちこちで歓迎を受けている。流石に機を見るに敏なるビジネスマン大統領の面目躍如、と言ったところだ。フランスでは、昨今の世界で目立つ国際通貨安競争を糾弾する演説も行っている。本当はG20の一角にチリが入り、国際舞台で持論を展開したい思いだろう。ともあれ、彼が帰国した後、ボリビアのアリカへの回廊構想が実現に向かうのか、こちらも注目したい。

| | コメント (0)

2010年10月13日 (水)

エクアドルの「クーデター未遂事件」について

チリ時間の1013日、コピアポ鉱山で、85日以来地下700メートルに閉じ込められた作業員救出が始まり、その映像をテレビで見ながらこれを書いている。普通の感覚では、彼らの救助は覚束ない。チリではあらゆる英知を総動員して、先進国でも前例が無い救出作業を敢行している。この傍ら、ピニェラ大統領が演説していた。これを見ながら、11日、この人はキトにいたことを思い出した。930日に起きた「クーデター未遂事件」後、初めてコレア大統領を訪れた外国首脳だった。また彼は、「クーデター」を起こしたけ国家警察が取り囲む病院に「軟禁」されていた同大統領にいち早く電話を掛け、反政府行動を非難しコレア政府を支持する旨の声明を、直接伝えている。

「クーデター未遂事件」の真相は、どうも分かり難い。929日に議会で可決された公務員法で待遇が悪化する、と考えた国家警察の職員が翌30日早朝からストに入った。地方都市でも治安を預かる警官のストの為に略奪や強盗事件が相次いだ。キト及びグァヤキルでは道路や空港封鎖の挙に出た。キトでは議会占拠までやらかした。彼らを説得しようと国家警察隊本部に現れたコレア大統領に対して、石礫や催涙ガスを浴びせ、同本部内の病院に追いやり、軟禁状態に置いた。彼はこれを「クーデターの試み」と断定し、国内外にメッセージを送った。彼の支持者らは病院前や大統領府前に集まり、「(セラヤ大統領を拉致し国外に追いやった)ホンジュラスになるのはご免だ、大統領はあくまでコレア」とのシュプレヒコールで気勢を挙げた。衝突で大学生が一人死亡している。

直ぐに反応したのは南米諸国連合(Unasur)で、彼が「軟禁」状態にあった自国に、本人と、総選挙で多忙を極めていたブラジルのルラ、癌治療中のパラグアイのルゴ両大統領を除く南米の大統領全員がブエノスアイレスに集合した。Unasur緊急サミットだ。そしてこれをクーデターと断定、民主主義に反する行動、として国家警察隊の行動を非難し、コレア大統領への支持を表明した。Unasurの腰の軽さに目を瞠る思いだ。米州機構(OAS)も、メキシコ、中米諸国の殆どが、同様の見解を発出した。ラテンアメリカの統合体としての纏まりの良さが際立つ。

事件自体は同日夜に行われた数百人規模の国軍及び警察特殊部隊との合同作戦によって、コレア大統領が救出され、終わった。この作戦は20分続き、その間死者8名を含む数百人もの死傷者を出した。その後、彼は大統領府前で演説し、クーデターの背後にグティエレス元大統領がいる、と名指しで非難した。チャベス(ベネズエラ)及びモラレス(ボリビア)両大統領は、自らの経験に基づく見解として、ワシントンが仕組んだクーデター、とも述べているが、クリントン国務長官は既にコレア大統領に対する全面的支援」を打ち出していたし、エクアドル政府自身はオバマ政権の同事件への関与は考えていない。

グティエレス元大統領は、2008年の大統領選挙でコレア氏に敗れた人だ。陸軍将校時代の20001月にマウワ政権追放のクーデターを惹き起こし、逮捕され、短期間で恩赦により釈放され、45歳で200210月の大統領選に出馬し、翌11月の決選投票で当選し、在任2年と3ヵ月で、最高裁判事の交代を命じる司法への政治介入を行ったことが違憲、として、国民の反対運動を招き、20054月に議会の弾劾で退陣した。パラシオス副大統領が憲法に基づき昇格し、その政権時代にコレア氏が経済財政相を務めた。グティエレス氏はその後半年間の亡命、帰国後半年間の収監を経て、政界復帰を図り、200610月の大統領選では弟を出馬させ、そして2008年選挙では自ら出馬して、いずれもコレア氏に敗れている。いわば正真正銘の政敵、と言えようか。

グティエレス氏は930日の国家警察軍の動きには全く関係が無い、と言明している。一方で「クーデター」という言葉で、自らをヒーローに仕立て上げ、家族の不正が暴露され地に落ちた国民支持を盛り上げようとの魂胆が透けて見える、と厳しく批判する。この事件の真相は何か、2週間も経った現在も、どうもよく分からない。国家警察隊長官は、深い謝罪の念を表明している。数十名が拘束されており、捜査結果を待ちたい。

ピニェラ大統領に続く訪問客はボリビアのモラレス大統領で、12日に来た。13日、やはりチリのコピアポ鉱山に向かった。作業員の中にボリビア人が一名おり、優先的に救出された。彼を引き取り一緒に帰国させ、ボリビアでの職と住居も斡旋する、とする。

| | コメント (0)

2010年10月 6日 (水)

ブラジル2010年総選挙

103日に行われたブラジル総選挙は、大統領、上院議員81名中54名、下院議員全513名、及び27名の知事選出が対象となる。任期は上院議員(8年)を除き全て4年で、大統領と知事には連続再選(二期8年まで)の規制が設けられている。大統領が誰になるかに大きな関心が集まるのは当然で、ブラジル初の女性大統領になるか、と騒がれてきた与党の労働者党(PT)のルセフ前大統領府長官の得票率が47%に留まり、次なる関心は1031日に行われる決選投票に移った。対立候補、野党の社会民主党(PSDM)のセラ前サンパウロ州知事の得票率は33%で、もう一つの大きな話題となった緑の党のマリナ・シルヴァ氏に集まった19%もの票の性格をどう見るかで、決選投票を占う必要がある。

シルヴァ氏の緑の党は、現在13議席を下院に持つだけの小党に過ぎない。2002年選挙ではルラ候補を支援したが、彼の環境政策に失望し、2006年選挙では支援を見合わせた。「緑の党」という党名で直ぐ想起するのは、ドイツを始めとするヨーロッパの政治勢力だが、ラ米にも幾つかある。最近では、モックス元ボゴタ市長を大統領選に送りだしたコロンビアの例がある。議会勢力面ではブラジルとあまり変わらない。それがモックス氏を第一次選挙で21.5%の得票、決選投票進出に押し上げた。選挙前の世論調査では支持率が5割前後だったこともある。

シルヴァ氏自身はPTに入党し上院議員を経て、ルラ第一次政権で環境相を務めた。昨年8月に離党し緑の党に移ったばかりで、ルセフ氏よりも党員歴は長いし、政界活動実績も有る。コロンビアのモックス氏の如き首長経験は無く、知名度も低い。選挙前の支持率は8月まで概ね一ケタ台、直近で1213%まで伸ばしていたに過ぎなかった。選挙期間中、ルセフ前長官が側近のスキャンダルでマスコミの厳しい攻撃に晒された。またセラ前市長もルラ政治の継承を唱えるようになり政策面での差別化が薄れたところで、対立候補への個人攻撃を繰り返した。有権者の中でいずれの候補にも失望した人が、結果的にシルヴァ氏に投票したのではなかろうか。ともあれ、第一次選挙ではモックス氏並みの得票へと急伸しても、決選投票には進めない。それだけに彼女が得た19%の行方が重要な意味合いを持つことになる。

シルヴァ氏には、早速ルセフ、セラ両候補から電話が行った。彼女は緑の党が進める環境保全策に賛同するか否かで、決選投票の際の支持を決める、と言う。緑の党自体はルラ氏に対し、2002年選挙では支持、2006年選挙では不支持に回った(いずれも決選投票)。もともとの政治思想面では中道であり、寧ろPSDBの方が近い。PTでの政治活動が長かったシルヴァ氏とは、あくまで環境保全という個別政策面で繋がっているようだ。繰り返すが、緑の党は小党に過ぎない。シルヴァ氏に投票した19%の圧倒的多数が、緑の党とは全く離れて決選投票に臨む筈だ。議会勢力については、幾つかの外電の英語版、スペイン語版を探したが、投票日から3日経ってなお、どこも正確な情報を採り上げていない。選挙管理委員会のホームページを見てもよく分からない。だが、ルセフ氏支持の政党だけで過半数を獲得したのは間違いなさそうだ。

ルラ大統領の国民支持率は今なお、80%を上回っている。これに近いのはチリのバチェレ、ウルグアイのタバレ・バスケス、及びコロンビアのウリベ前大統領たちの政権末期支持率だろう。左派傾向が強い彼が進めて来た貧困対策によって困窮を脱した国民は、数百万人に上る。しかし重要なのは、先進国が経済苦境に陥っている中で、ブラジルの全体経済も成長を続けている、と言う事実だ。国際会議での彼の存在感は圧倒的で、サッカーのワールドカップ、及びオリンピックの開催地を獲得した。シルヴァ氏に投票した19%の大半も、恐らくルラ支持の80%強に入るだろう。その彼が、自らの後継者はルセフである、と公言し、選挙運動の街頭応援までやってのけた。ルセフ氏優位は動くまい。

ルセフ氏をゲリラ出身、とするメディア報道もある。キューバのラウル・カストロ、ニカラグアのオルテガ、ウルグアイのムヒカ各大統領に続くゲリラ出身の大統領が、2億近い人口と850万平方キロの領土を持つ大国に生まれる、というのも、確かにニュースバリューがあろう。

彼女が学生時代の1960年代末、世界中で学生による反体制運動が活発だった。キューバ革命の余韻を残すラテンアメリカには左翼ゲリラが多く生まれ、ブラジルも例外ではなかった。日米欧のような火器を携行しない反体制運動ではなく、武装する反体制組織の中に身を置く活動だが、それでも体制に対して怒れる若者たちの行動、という意味では共通している。彼女もその一人だった、と考えると、異様な感じはしない。武器は携行していたにせよ、実際の活動は組織の集会への参加、会計、現金輸送など、組織運営業務の方で、ゲリラ戦士、のイメージには違和感がある。19701月、つまり22歳になって間もない頃、警察に逮捕され3年間近く収監された。だから、ゲリラ活動を行っていた、と言うなら、それもその時点で終わった。

釈放後も反軍政の姿勢は貫いた。軍政下でも存在した公認野党に関わり、1981年の政党合法化以降は民主労働党(PDT)に参加し、2000年にPTに移った。ただ議員や首長と言った政治家経験はしていない。その意味でも珍しい大統領候補と言える。

| | コメント (0)

« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »