ベネズエラ議会選挙―チャベス与党の圧勝?
9月26日、ベネズエラで議会選挙が行われ、全165議席中、チャベス大統領の与党連合が98議席を占めて圧勝した。野党連合(MUD)は得票数で与党連合に伯仲したが、65議席であり、選挙制度の不公平さを指摘する声もある。投票率は66%だった。
与党連合とはいえ、殆どチャベス大統領の支持母体、「ベネズエラ統一社会党(PSUV)」一党から成る。大変な巨大与党と言えよう。前回2005年12月の議会選挙で前身の第五共和国運動(MVR)が獲得した議席数116からは18議席減らしているが、その時は伝統政権である「民主運動(AD)」も「社会キリスト教党(COPEI)」も、後に考えると不可解ながら選挙をボイコットしたことが大きい。
片や野党連合のMUD(Mesa de la Unidad Democrática)、即ち民主主義統一連合は、かつての政敵同士のADとCOPEI、2006年8月の大統領選でチャベスと戦ったロサレス前スリア知事(現在ペルー亡命中)が創設し急成長した「新時代(Un Nuevo Tiempo)」、前回選挙に参加した左派系の「社民主義(PODEMOS)」及び「社会主義運動(MAS)」など、イデオロギーとしては非常に広範囲な政党が多数参加して組成されたものだ。2008年1月23日、丁度半世紀前に時の独裁者、ペレス・ヒメネス追放を成功させた民主勢力の結集に倣いCOPEIのプラナ党首が呼び掛けた。言うまでも無く反チャベス勢力の結集を目的としたもので、2009年央にMUDとして正式に発足した。チャベス攻撃には事欠かない選挙環境にあった。ラ米では珍しく景気後退と高インフレ及び急速に悪化する治安状況に悩まされ、対米対立姿勢が際立ち、隣国コロンビアとは一触即発状態、国内ではテレビ局に対する弾圧、などだ。それでも、全政党を合わせても3分の1しか議席が取れなかった。
MUD指導陣がなぞらえたペレス・ヒメネス(1914-2001)とは、1945年5月に若手将校団が結成した「愛国軍人同盟(UPM)」の中心メンバーで、同年10月に当時のアンガリータ(1897-1953)大統領をクーデターで追放した人だ。その2年前にアルゼンチンで統一将校団(GOU)が結成され、当時のカスティージョ政権転覆のクーデターを起こした。UPMがこれをかなり意識していたことはよく知られる。
ベネズエラの最後のカウディーリョ(いわば軍事勢力のカリスマ的統領)といわれるビセンテ・ゴメス(1859-1935)と言う人が1908年から死去する35年までベネズエラを支配した。彼の死後もいわゆる「ゴメス無きゴメス支配」と呼ばれる軍人政権が続いた。アンガリータは、その最後の大統領だった。このクーデターの立役者は、しかしペレス・ヒメネスというよりも、ADを創設した文民政治家、ベタンクール(1908-81)だ。彼は1928年、学生運動の指導者として反ゴメス運動を行い国外追放された経験を持つ。後年恩赦で帰国したが、「ゴメス無きゴメス支配」打倒への情熱を持ち続け、UPMと手を組み、クーデター成立後の臨時革命評議会議長に就いた。二年後、建国118年にして初めての国民直接投票でADから出た当時の著名作家、ガリェゴス(1884-1969)が大統領に選出され、1948年2月に就任した。同年11月、ペレス・ヒメネスがこのガリェゴス政権を倒すクーデターを起こした。ベタンクールは亡命する。
ペレス・ヒメネスは、1952年末の選挙で大統領になっている。実際には敗退したのに強引に選挙結果を曲げたもの、とも言われる。彼は57年末に大統領連続再選を可能とすべく憲法改正に乗り出した。これが反マルコス・ペレス勢力の激しい反発を呼び、一気に彼を追放する民主運動に発展し、1958年1月に退陣に追い込まれた。今度は彼が亡命し、ベタンクールが帰国、同年末の選挙で大統領に選出された。この国の民主化は10年間の挫折を経て再出発する。一方のペレス・ヒメネスは、63年に在任中の汚職に関わる訴訟で呼び戻され、裁判の結果逮捕され、その後再び亡命し、外地で死去している。
翻ってMUD結成の呼掛けから3年近く経っても、ペレス・ヒメネスになぞらえるチャベス大統領の権力低下は、実現しそうにない。彼も軍人出身だが、1992年2月、ペレス(後に公金横領疑惑で公職停止処分を受ける)AD政権時代に、空軍の若手将校として反乱を起こし失敗し逮捕、収監された。COPEI創設に参加し、1969~74年の第一次政権を担ったカルデラ(1916-2009)が、COPEIを離れてMASや共産党など複数の左派系政党を支持母体に94年に第二次政権を発足させ、恩赦で彼を釈放した。
彼が56%の得票率で初めて大統領に選出された1998年12月の選挙は、それまでと同様の1961年憲法に順じたものだ。44歳の若さだった。大統領就任年齢は、78歳のカルデラから34歳若返った。なるほど、一年後には早くも大統領の権限強大化、任期6年、連続再選解禁を可能とする憲法改正を行った。だが、2000年7月、就任僅か1年半にして改めて大統領選挙を行い、勝利したことも事実だ。
2001年11月には期限付きだが「大統領授権法」(重要事案に関わる立法権を、議会審議を経ずに大統領に授与するもの)を成立させた。これが翌月の12時間ゼネスト、翌02年4月の全国ゼネストを呼び、さらに02年12月~03年3月の大規模ゼネストへと進んだ。この時、58年1月の民主運動の再現と、大統領に対するペレス・ヒメネスへのなぞらえが繰り返し語られた。それでも、04年8月の彼への信任を問う国民投票で、改めて国民の信任を得た。2005年12月の議会選では、主要な野党がボイコットした。翌06年12月の大統領選では候補者をロサレス氏に一本化して臨んだが、得票率36%で敗退した。
今回選挙では、MUDの得票数では与党連合に拮抗、MUD不参加の野党、「全ての祖国(PPT)」の得票を加えると52%の国民が反与党の意志を表明している、として、2012年の大統領選における政権交代への手応えを掴んだようにも見える。
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