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2010年7月29日 (木)

一触即発?対コロンビア-チャベスの動き

19588月、チェ・ゲバラとカミロ・シエンフエゴスが率いる革命軍が進撃してバティスタ軍を潰走させ、国内状況が革命成立に大きく動かせることになった町、サンタクララ。この地で726日に行われたキューバ革命記念式典では、恒例の国家最高指導者による演説が行われなかった。極めて異例であり、事件、とも言える。

公的にはあくまでラウル・カストロ国家評議会議長が最高指導者だが、その時首都ハバナの革命広場に、式典には参加しなかった兄フィデル・カストロ前議長がトレードマークのオリボ・ベルデ(薄緑色)の軍服姿で現れ、国父と崇められるホセ・マルティの像に敬礼していた。サンタクララに現れなかったのは、ベネズエラのチャベス大統領も同様だ。この日、彼の演説が予定されていた。コロンビア軍の越境進撃が近い、との信じるべき情報がある、とのことで海外訪問を見合わせた、という。

722日、コロンビアのウリベ政権(87日のサントス次期政権への交代を目前に控える)は、OASに対してベネズエラ国内のゲリラ・キャンプの写真、ビデオなどを提出し、この検証を目的とする国際ミッションの派遣を要請した。これに対し、チャベス大統領は、ベネズエラには国外の反政府勢力の基地は存在しない、と反論、OASに提出された証拠品は、米国と組んだコロンビア軍の越境侵犯を目的に捏造されたもの、と決めつけ、外交関係の即時断絶に踏み切り、コロンビアとの国境地帯に2万人の兵力を配置した。キューバ訪問取り止めを発表したのはその三日後の25日、まさしく直前のことだ。

この日、チャベス大統領野外演説で、コロンビア軍の攻撃可能性がこの20年来、最も高まった、として、その場合は原油の対米禁輸にも踏み切る、と一歩踏み出した。一方で新聞社に寄稿し、サントス次期政権が緊張緩和への確実な意思をどう表すかも見る必要がある、とも述べている。

ベネズエラの呼掛けに基づき、29日にはキトで南米諸国連合(Unasur)緊急外相会議が開催される。これにはコロンビアも出席する。ベネズエラのマドゥーロ外相は、対コロンビア断交についての説明とベネズエラへの支持を呼び掛けるため南米諸国歴訪中だが、上記外相会議ではコロンビア和平プロセス案を提示する旨を表明している。これに対してはウリベ大統領自らが、和平プロセス自体、コロンビアは十分な経験を積んでおり国際問題化させる必要はないし、過去8年間(即ちウリベ在任中)で5万人が投降し、今や体力が衰えきった左翼ゲリラとの和平交渉は有り得ぬ、と撥ねつけた。外相会議主催者は、会議の進め方に頭を抱えているようだ。

チャベス、ウリベ両大統領の相互挑発が、両国間戦争に発展する、という見方は、国際社会問題の識者には無い。チャベス大統領に言わせれば、外国にあるコロンビアの左翼ゲリラ基地が、同国軍により、国境侵犯の上攻撃された例が、20083月のエクアドルで実際にあった。20099月には、米国軍がコロンビア軍の7基地を使用できるようにした。20024月、ベネズエラでチャベス追放の事実上のクーデターが、米国支援の下に行われ、数日間失脚させられた経験もある(米国は否定するが大統領は頑強に主張)。つまり、彼のウリベ大統領と米国に対する不信は非常に大きい。ウリベ政権がOASにいわゆる証拠品の数々を提示したタイミングも悪い。2ヵ月後、ベネズエラでは議会選挙が行われる。不況、高インフレ、治安悪化でチャベス政権への国民支持率は下降している。反対派勢力が議会の過半数を制すると、彼の政権運営も難しくなる。敢えて申せば、ウリベ大統領はそれを狙っていた筈だ。米国も、反米左翼のチャベス政権の力が殺がれることは歓迎する。だから、チャベス大統領としては国民のナショナリズムに訴え、議会選挙を有利に導く行動に出た、と見ても、あながち間違ってはいまい。

キューバのカストロ政権が半世紀もの間続いたのは、国民に対する米国の脅威を様々な場で訴えて来たことが意外に大きい。収監中の政治犯数は、同国の非合法人権団体の見方でも百数十人、共産主義独裁国家、として見た場合、ソ連・東欧時代、或いは現在の共産主義国家に比べて、極めて少ない、と言えよう。カストロ政権は、国民の国外移住を認めることで、反政府、不満勢力の力を殺いだ。それでも国民の9割以上が残った。無料の教育、医療で、先進国並みの高学歴、長寿社会を築いた。善政に違いない。これを片手に、米国を仮想敵国とした危機政策をもう一方の手で進めた。米国の脅威は、キューバの史実が勇敢に物語るように、国民に理解され易い。こうして、ナショナリズムがカストロ政権を支えて来た。

チャベス大統領が進める危機政策は、カストロ政権のそれを想起させる。選挙制民主主義を採るベネズエラを共産主義独裁国家のキューバと比較するのは間違い、と簡単には言えまい。ラテンアメリカのナショナリズムは、1930年代からポプリスタ(ラテンアメリカ型ポピュリスト)の時代を呼び込んだ。ブラジルのヴァルガス、メキシコのカルデナス、アルゼンチンのペロンら、ポプリスタらの国民的人気の高さは、後年の今日の識者がどう言おうと、否定できまい。チャベス大統領が「米国と組んだ」「コロンビア軍襲来」を呼び掛けることで、議会選挙の結果にどう影響していくか、注目したい。

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2010年7月19日 (月)

フィデルの再登場?

「黒い春」事件で逮捕され、未だ収監されていた52名の内、712から13日にかけて11名が釈放されスペインに向かった。さらに9名が20日に同じくスペインに出国する予定だ。家族を含め135名がスペインに揃う、と言われる。彼らの今後はどうなるのか、残る32名の扱いを含め、気になるところだ。一方で、突然フィデル・カストロ前国家評議会議長がキューバの国営テレビに登場し、人権問題を追っていた外国メディアを驚かせた。

後世のラテンアメリカ史で巨人的扱いを受けるだろうこの革命家は、米国では「独裁者」の一言で片づけられる。いわく、革命後何千人もの旧国軍兵士を処刑した(一般的には数百人、とされる)。いわく、国民から財産と自由を剥奪した(67㌶未満の農地や個人家屋の所有権、基本的政治問題を除く表現の自由は認められる)。いわく、非効率な社会主義経済で国民に貧困をもたらした。いわく、国内に留まらず左翼革命の輸出でラテンアメリカに軍政時代をもたらし、民主主義を破壊した。いわく、米国は大量の難民受け入れを余儀なくされた。彼に対する悪口は、枚挙にいとまが無い。

2006年央、彼は体調を崩して政権運営を弟のラウル氏に委ね、正式にも20082月以降、役職はキューバ共産党第一書記のみに留まる。昨年発足した米国のオバマ政権は、ブッシュ前政権時代に厳しく制限されていた在米キューバ人の家族への送金とキューバ渡航規制を撤廃した。キューバのOAS(米州機構)復帰に反対しなかった(これが実現していないのは、キューバ側の意向による)。キューバ国民の米国移住問題に関わる二国間協議も再開した。明らかに宥和的な動きが見て取れる。今回の政治犯対応についても、率直に歓迎の意を表明した。そのタイミングで彼が再登場した。

トレードマークだったオリボ・ベルデ(薄緑色の革命軍の制服)ではなく普通のシャツ姿で、しかも家族と一緒に研究所や水族館を訪れた。彼の家族のことは、これまで殆ど語られなかった、と私は理解している。明らかに大きな変化だ。13日には国営テレビのインタビューに応える形で登場し、その一部は私も彼の映像と音声に接した。イランへの国際社会の制裁について述べていた。存在感は、圧倒的だと感じた。外国メディアが伝えるところでは、政治犯の釈放問題には一切触れなかった、という。15日に開催された在外大使会議にも出席、やはり国営テレビで放送されている。国際情勢、とりわけ核戦争の脅威について持論を展開しており、少なくとも弟の専権事項たる内政、外交、国防問題に口を挟んではいないようだ。だがタイミングが、一見、大変絶妙で、彼が政権を担っていた20033月の「黒い春」事件で拘束した政治犯がスペインに飛び立つ前後のことだ。米国政府は今のところ正式コメントを発していないが、彼の今後の言動に神経を尖らせることになるだろう。それでも、革命成立時33歳だった彼も間も無く84歳になる。今なお頭脳明晰のようでも、国家指導者としての再登場、とは考えにくい。

彼は、バティスタ独裁を倒すために革命運動を起こした。そのこと自体は、米国世論の支援すら受けた。その世論がキューバに跳ね返り、国民の革命軍に対する親近感を増幅させ、一方で米国政府はバティスタ政権への武器の禁輸を行い、これらが相まって1959年正月の革命成立に繋がった。彼は1910-17年のメキシコ革命、1951年のボリビア革命同様、農地改革を断行した。既得権益の再分配、と言う意味で、平等社会の構築を図った。これが米国との軋轢を惹き起こし、報復の応酬で、最終的に米国資本が接収され(有償ではあるが企業側がこれに応じず)、米国が断交し、彼に対して、米国では忌み嫌われる「コミュニスト」のレッテルを貼り、亡命キューバ人によるピッグズ湾事件を後援し、この失敗(彼にとっては成功)によって彼が社会主義革命を宣言し、東西冷戦の真っ只中にあって、キューバをソ連圏に追い込んでしまった。彼のこの成功は、当時、ラテンアメリカでは支配階級の一部を除き、喝采を浴びた。

米国中央情報局が出しているWorld Fact Bookによると、スペイン・ポルトガル系19ヵ国の中で、人口、国内総生産いずれも2%に満たない。輸出力は0.4%にすら届かない。だが、彼が公式の場に現れなくなって4年間の内に、ラテンアメリカ諸国から彼を師と仰ぐベネズエラのチャベス大統領のみならず、ブラジルのルラ、アルゼンチンのフェルナンデス各大統領など、何らかの国際会議を主催していなくとも何人もの国家指導者がこの小国を訪れ、彼と面会している。彼に対する敬意や敬愛を抜きにして考えられまい。

国力をみるついでながら、2008年のキューバの輸出は28.8億ペソ、輸入は89.1億ペソという。凄まじいばかりの貿易赤字だ。上記World Fact Book では2009年見通しとして、夫々24.6億㌦(ラテンアメリカ19ヵ国中、ニカラグアの23.8億㌦に次ぐ低さ)、89.6億㌦(同、下から7番目)、経常収支を、驚くことにプラス5.1億㌦、としている。つまり貿易外収支及び移転収支が70億㌦の黒字だったことになる。外貨準備も前年末より6億㌦増え、46.5億㌦となっている。在外キューバ人による送金と里帰りの際の現金贈与、2009年で242万人に上る外国人観光客がもたらす旅行代金、対ベネズエラを主とした派遣医療チーム報酬、くらいで、ファイナンスできている、ということだろうか。

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2010年7月 9日 (金)

キューバの人権問題(3)

77日、カストロ政権は20033月の「黒い春」事件で一斉逮捕した反体制活動家で今なお収監中の52人全員の釈放を決定した。223日にサパタ受刑囚が85日間のハンストの結果死亡した際、国際人権諸団体、ジャーナリズムがキューバの人権侵害への非難の声を高め、EUも呼応し、国際社会におけるキューバの孤立が際立っていた。その翌日から、ザパタ死亡への抗議と服役中の重症患者25名の釈放を求めハンストに入り、病院で治療受けつつも継続中のファリーニャス受刑囚が危機的な容態に陥った。仮に死亡してしまうと、国際的非難は当然増幅する。キューバ政府がいくら受刑囚は政治犯ではない、という立場にあろうとも、避けたいところだ。彼はこの決定を受け、直ちにハンストを中断した。釈放履行状況を見て再開する積りらしい。

620日、ヴァチカンからマンベルティ枢機卿兼外務長官がキューバを訪れていた。519日のキューバ・カトリック教会最高位のオルテガ枢機卿がカストロ議長と会談し、釈放1名、家族在住地近くの刑務所への移送12名の成果を得た。外務長官訪問はヴァチカン・キューバ修交75周年記念行事主催を目的としたものだが、5日間の滞在最終日にカストロ議長とも会談の機会を持っている。そして76日、スペインのモラティノス外相がハバナを訪れた。カトリック教会とキューバ政府とのさらなる対話推進への支援、を目的に挙げた。だが彼はそれまでにも二度訪問し、その直後に計5名の釈放が実現している。到着時、政治犯全員の釈放はファリーニャス受刑囚のハンストを何としても止めさせねばならない、と言っていた。つまり25名の釈放を念頭に入れていたのだろう。ところが7日のカストロ議長との会談結果、52名全ての釈放を引き出した。取り敢えず重症の5名の釈放がここ一両日中に釈放されスペインに向け出国する。残り47名の釈放はここ34カ月中に行われる見込みで、その内の6名は家族在住地近くの刑務所に移送されたようだ。

モラティノス外相の努力を過小評価したいスペインの野党は、上記釈放を歓迎しながらも、あくまでもカトリック教会の努力の賜物であり、国際的孤立を深めるカストロ政権には他に選択肢は無かった、とする。この意見は、キューバ系アメリカ人下院議員3名の共同発表にも示された。肝心のEUは、これまでの強硬派だったフランスも歓迎するなど前向きな評価だが、チェコとポーランドがあくまでも全ての政治犯釈放を求める姿勢を表明した。これは上記スペイン野党と同じだ。

199612月、EUは対キューバ関係深化には人権問題の解決と民主化への確かな動きが不可欠である、との共同宣言を出し、毎年延長され、実は今日も生きている。27ヵ国の加盟国全てに課せられる。キューバ側はこれを一方的な不当な内政干渉、として非難し続け、スペインのサパテロ政権にとってもこの解除が悲願で、2010年の実現に向けEU内での説得を続けていた。ところが2月、サパタ受刑囚が死亡することでこれが遠のいた。モラティノス外相のキューバ訪問は、この挽回を狙ったもの、と思われる。

米国は、モラティノス外相から報告を受けた、として、政治犯釈放に就いて、早速クリントン国務長官の歓迎コメントを出した。遅すぎるが、将来に向かっての確かな一歩になる、というものだ。オバマ政権に代わり米国のキューバに対する見方には、本音はどうあれ前向きの変化は出ていた。ところが、200912月にキューバでパソコンを配った米人がスパイ罪で拘留され、政府は米国側からの度重なる釈放要求を無視し続けている。さらにサパタ死亡事件が起きた。在米キューバ人の里帰りと送金の規制解除以外に遅々として進まぬ対キューバ関係は、一旦休止状態に入った。

6月のマンベルティ・ヴァチカン外務長官滞在中に行われた国内外専門家、聖職者、学会の100人ほどが対話集会に参加した。今はキューバ国内外の全てのキューバ人社会が対話を通じて和解すべき時、との発言が目立ったようだ。米国からの参加者(大学教授)は、キューバのベネズエラ依存度を低減させるためにも、観光収入急増が確実に期待できる米国民のキューバ渡航自由化を呼び掛ける一方で、オバマ政権がこれに踏み切る最大の障壁が政治犯問題、と述べていた。次には米人のキューバ渡航が実現するだろうか。同月末に米国下院の農業委員会(外交委員会ではない)でこの自由化を認める法案が決議されているが、今後自由化に向けた声が高まっていくだろうか。

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