キューバの人権問題(1)
6月12日、2003年3月に一斉逮捕された75人の反体制活動家の一人、シグレル受刑囚が健康問題を理由に釈放された。私の理解に間違いなければ、これで未釈放の受刑者は52名、となる。その中にも、健康に問題を抱える受刑者は多いようだ。同時に、6月1日の6名に続き、新たに6名の受刑者が家族在住地に近い刑務所に移送された。それに先立つ5月19日、カストロ国家評議会議長は、キューバ宗教界の最高位にあるオルテガ枢機卿との会談に応じた。革命政権の最高指導者としては、確か初めてのことだ。この場で枢機卿は75人全員の釈放、それが難しければ病人は釈放し、他は少なくとも家族在住地近くの刑務所への移送、と言う形で要請した。その一部が実現したことになる。
共産党一党独裁国家での民主化運動は、我が国では1980年代末の東欧民主化と中国の天安門事件がよく知られている。キューバでは5年遅れた1994年8月の「マレコナソ」が火付け役、とされる。ハバナのマレコン(Malecón)大通りで、「自由(Libertad)!」を叫ぶ数千人規模のデモだ。しかし、91年のソ連崩壊後、電力供給が8時間毎となり、停電中の夜間に各地で市民の抗議行動が頻発した時期もあった。経済の屋台骨を支えて来たソ連からの経済支援(高価格設定の砂糖大量引き取り、低価の原油供給、資本財輸出への信用供与など)が止まり、キューバは未曽有の経済危機に見舞われたことが背景にある。1993年のGDPは89年比35%のマイナス、といわれる。カストロ政権の崩壊が米国で囁かれている模様を、ピューリッツァー賞受賞のオッペンハイマー氏はCastro’s Final Hourで著している。私もこの当時、最後のキューバ駐在時代(92-93年)を送っていた。キューバ政府は海外直接投資の受け入れ、観光振興、小規模私営企業の合法化、及び外貨保有の解禁で、この時は乗り切った。それでもこの辺りから数年間、キューバ人の大量出国が見られる。マレコナソは、起きるべきして起きた事件だろう。
1998年、非合法組織キリスト教自由運動の指導者、オスバルド・パヤ氏が中心となって「バレラ・プロジェクト」を提唱した。1976年に公布されたキューバ憲法で、1万人以上の署名で国民投票の請願権行使を認めていることに着目し、署名を集めた上で結社、言論、報道、信仰、私企業創立の自由、自由選挙制の導入、政治犯恩赦に関わる国民投票実施を要求する。だが、キューバ議会が「恒久的社会主義」の文言を憲法に加筆する修正案を可決、社会主義国家を前提とした自由は、一定の規制のある私企業創立を除けば、既に保証されている、との観点で、これを拒絶した。一方、EU議会がこれを後押しし、2002年12月、パヤ氏に対してサハロフ賞授与を決めた。2003年3月、キューバで民主化運動の活動家75人が一斉逮捕され、6年から28年の懲役刑を受けた。「黒い春(Primavera Negra)事件」と呼ばれる。半数は、バレラ・プロジェクトの活動家、とされ、その内の一人、ルイス・フェレル氏は、最も重い懲役28年の判決を受けた。
「黒い春事件」については、キューバ当局は「国家の独立保護法」違反によるものと説明する。外国政府(具体的には米国の在ハバナ利益代表部)や西側報道機関から資金支援を得て、国家の独立権を脅かす活動に従事した、というものだ。だが国際団体はこれくらいでは黙っていない。同事件が起きた03年、国際人権団体のアムネスティ・インターナショナルは、その75名を「良心の囚人」に指定した。ミャンマーのあのアウン・サン・スーチー氏と同じ扱いである。また、EUが対キューバ制裁を決議した(ハイレベル交渉の拒否や反体制派メンバーの招待など交流面の制限で、投資・通商面では特に変更無し。これも実質的に1年半で中止し、2008年に正式に解除)。
75人の中で、バレラ・プロジェクト活動家以外では、「ジャーナリスト」が多い。その内の一人、ラウル・リベロ氏は2000年に「独立ジャーナリスト協会」を立ち上げ、2001年にCuba Pressを発刊、一躍国際的知名度が上がった。ご周知の通り、キューバのジャーナリズムは国家統制下にある。ジャーナリストというのは、例えば国営放送局や共産党機関紙の「グランマ」など体制側新聞、雑誌の記者しかいない筈だが、現実には地下出版を行う、或いは、西側報道機関に協力するジャーナリズムは存在する。リベロ氏は04年5月にユネスコのギリェルモ・カノ「世界報道の自由賞」を受賞した。国連機関からの受賞が外圧になったのか、同年11月に釈放されている。
「黒い春事件」からまもなく、彼らの妻らを中心とした「白衣の女たち(Damas de Blanco)」が結成された。毎週白衣でミサに出て、その後そのまま近くの公園まで歩く女性たちのことだが、EU議会は2005年にそのリーダー5名にサハロフ賞を贈ることを決めた。キューバ政府にとり好ましからざる組織である。彼女らに連帯する活動が米国でも起きていると伝えられるが、一方で、その活動の原点に求めたアルゼンチンの「五月広場の母親たち」(同様に1992年、サハロフ賞受賞)は、運動の性格が違いすぎる、として、批判的に見ているそうだ。ともあれ、外圧に加え、健康問題での釈放も相次ぎ、今日まで23名が釈放された。彼女らの最終的な要求は全員の解放であり、EU、国際人権団体、国際ジャーナリズム(「国境無き記者」)もこれを後押しする。彼女らは、逮捕、収監はされていない。バレラ・プロジェクトの指導者、パヤ氏もキューバ政府にとり好ましからぬ人物だが、米国からの支援を拒み米国のキューバ制裁に抗議する姿勢を貫いているため、身柄拘束などは受けていない。
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