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2010年6月23日 (水)

サントス次期大統領の課題-コロンビア

620日のサントス候補の得票率69%もの大勝利は、予想していなかった。何しろコロンビア近代選挙史上、最高の得票率、という。530日の第一回選挙で稼いだ46.5%に、現与党の急進改革(バルガス候補)及び保守党(サニン候補)二人分の得票率16.2%を加え、更に6%もの上乗せした格好だ。モックス候補は、世論調査では5月下旬までサントス候補と拮抗していた。第一回選挙で21.5%、と、サントス候補に25%ポイントまで離された時点で驚いたが、実は、その直後の6月早々に、サントス氏への投票方針、とした有権者は、それまでの4割から6割へ一気に上がっていた。決選投票でモックス候補が上積みできたのは6%のみ、40ポイントもの大差を付けられる凄まじい大敗だった。 

理由としてよく言われるのが、投票率だ。第一回選挙では49%、これが決選投票では44%に、さらに下がった。低投票率は、組織票のある与党に有利に働く。3月の議会選挙でも43%ほどに過ぎなかった。結果としてあれほどの政治スキャンダルの逆風を受けながらも、現与党は大きく議席数を伸ばした。コロンビアの選挙では、ゲリラによる選挙妨害が恐れられるためか、低投票率は特徴的、と言える。。

決選投票の僅か1週間前の613日、ウリベ政権はFARCから国家警察の幹部3名と国軍の軍人1名を解放、今やFARCの抱えるいわゆる政治的人質は19名にまで減った、といわれる。さらに投票日の直前の19日、国軍がFARC基地を吸収し、ゲリラ6名を殺害した。これらが1年前まで国防相を務めFARCの組織力を大きく減殺した本人であるサントス候補に追い風となったことは間違いない。彼は何しろ、083月のエクアドルにあったFARC拠点を越境襲撃し指導者を含む25名を殺害することで組織弱体化に繋げ、また同年7月には元大統領候補を含む15名のFARC人質の無血救助を行った際の、直接の最高責任者だ。いずれも何十年も続くゲリラ戦争に倦んできた国民の大喝采を得た。

だが、エクアドルはその越境襲撃直後に、領土侵犯の国家主権侵害を理由に、国交を断絶した。つい一月前、エクアドル司法当局は、法治国家たるエクアドル当局の許可なしに爆撃、略奪を犯したコロンビア軍の最高責任者たる当時のサントス国防相に対し、逮捕状を発出した。コレア大統領は、621日朝、選挙後直ちに、サントス候補に祝意の電話を掛け、昨年11月に相互設置した利益代表部を早期に大使館に格上げし外交の前面復活に向けた協力をし合うことを述べたが、一方で、司法当局への指揮権は大統領には無いことを理由に、逮捕状の撤回には乗り出せていない。

サントス次期大統領は、自由党で政治活動を始め、ウリベ同様に離脱し、「国民社会連合党」(laU”)創設に参加した。彼は勝利演説の中で、「我が国を変貌させた例外的な巨人」と讃え、勝利がウリベ政治への信認によるもので、それを継承していく、と持ち上げた。その意味では、2002年から2014年までのウリベ路線継続が決まった格好だ。

強硬なゲリラ対策は継続されよう。サントス氏は、誘拐や麻薬犯罪に手を染めている間はゲリラとの協議は無い、と断言した。これは対決型のウリベ路線そのものだ。選挙が終わったばかりで、国連はコロンビアのコカ生産高はペルーに追い越され、世界第二位に下がった、という報告書を出した。コカ栽培面積はまだペルーを上回っているようだが、その削減は着実に進んでいる。さらに進めねばならない。

従って、米軍に対する基地供与も続く。だから上述のエクアドルの逮捕状以上に難題とされるのが、ウリベ大統領の直接的な対決姿勢で毀損したままのベネズエラ関係だろう。チャベス大統領は基地供与協定を徹底的に非難する。ウリベ大統領は、FARCに対してベネズエラから武器が流れていた、と攻撃する。両国間貿易関係も著しく落ち込んだ。同国外務省は一応サントス勝利を祝うメッセージを発してはいるが、両国関係の改善に向けての行動を注目していく、と、冷淡だ。サントス氏はこのメッセージに謝意すら表明したが、ラテンアメリカ諸国の首脳が祝意を電話で、或いはメッセージの形で寄せている中で、チャベス大統領のメッセージは選挙後2日経って、まだ発されていない。

コロンビアは、1980年代の対外債務危機の際にもリスケはやらず、南米では優等生として知られた。国民は穏やかで教養もあり、彼らと話していると、半世紀近くもゲリラと麻薬で揺らいできたなど、信じ難いくらいだ。失業率が高く、貧困層が国民の半分、とも言われる。プラン・コロンビアで米国から巨額支援を受けながらも、ラテンアメリカの中では対GDP比で軍事費が突出し、財政赤字は非常に大きい。エドゥアルド・サントス元大統領(自由党。在任1938-42)を祖父に持ち、独立革命で殉死した女性英雄、アントニア・サントスを出した名家出身のサントス次期大統領の課題は、考えるだに大変だと思いつつ、彼の大変に真面目な勝利演説を聴くにつれ、健闘を祈らずにおられない。

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2010年6月19日 (土)

キューバの人権問題(2)

ラテンアメリカでは1970年代、軍政下のアルゼンチンやチリなど、或いは軍人政権下のグァテマラ、ニカラグアなどで、反体制派弾圧で多くの犠牲者を出し、国際社会から糾弾されていた。だが、今日では反体制派やその支持者に対する強制連行や拷問による行方不明や殺害ではなく、反体制行動を逮捕や拘束で封じる、反民主的行為を言うようだ。どの強権国家にも反体制派は存在する。つまり、強権国家体制そのものが必然的に人権侵害を招いてしまう。政治的な言論、結社、報道の自由は、国民の基本的な人権、とする欧米の民主主義理念からは程遠い。共産主義独裁は人権侵害の格好の標的となる。生活苦から祖国脱出を図る国民が目立てば、なおさらだ。

米国ではカストロ前議長を共産主義者で独裁者、と断定する。国民は独裁者の弾圧で自由を奪われ、また貧困に喘いでいる。独裁者を放逐し、代表制民主主義体制に移行させねばならない、と信じているようだ。旧ソ連でも東欧でも中国でも、共産主義独裁体制を敷く国々には、必ず、民主化を希求するグループが存在した。一党独裁国家では民主化運動は国家反逆になる。だから当然、弾圧される。その内にソ連・東欧では民主化運動が、共産党一党独裁体制からの脱却、ソ連の崩壊に繋がった。反共思想が浸透し切った米国にとって、目と鼻の先に位置する、吹けば飛ぶような小国が、東西冷戦の敵対国、ソ連の傘下に入り、東欧民主化後もソ連自体の崩壊後も共産主義独裁体制を貫く姿は、苦々しかろう。ジュネーヴの国連人権委員会が、米国の提案で、キューバの人権侵害に対する非難決議を出すようになるのは、丁度、東欧民主化の時期、1980年代の終わりの頃だ。

ソ連東欧が存在した時代はどうだったか。19611月、米国はキューバと国交を断絶した。645月には、人道物資(食糧、医薬品)輸出を含む全面禁輸に踏み切った。米州機構(OAS)諸国も追随し、キューバをソ連圏に押しやってしまった。70年代前半の東西緊張緩和の流れに沿った形で、OAS加盟諸国が順次国交を回復する中で、米国もキューバとの対話を再開し、カーター政権下(在任1977-81)の779月には利益代表部の相互設置に、そして、791月に在米キューバ人の里帰りを許可するようになる。これはキューバ国民に、米国の豊かさとキューバの貧しさの事実を実感させることになり、80年、カストロ政権も出国を自由化したことで、一気に12.5万人もが米国に向かった。革命に裏切られての出国と言える。それまでは、革命直後は革命への恐怖による、60年代後半から70年代始めにかけての革命に愛想を尽かして、の出国だった。

1959年のキューバ革命直後、企業幹部、医師、教職者、技術者などが大挙して出国した。「頭脳の流出」と呼ばれる。15万人ほどにはなっているようだ。革命は独裁者バティスタからの国民解放を目的の一つとしたが、バティスタ派の軍人が人民裁判の名のもとに数百人も処刑された、と言われ、恐怖に駆られた国民も多かったのは確かだろう。亡命キューバ人社会が、革命政府は思想教育のため、5歳になる子供たちを拉致、18歳になるまで拘束する、という同胞向けラジオ放送を繰り返し、この結果、子弟の脱出を図った親も多かった。マイアミのカトリック社会も支援に乗り出し、ビザの便宜を図るために米国務省及び法務省も協力し、60年から2年間で計1.4万人の子供たちを受け入れた。有名な「ピーターパン作戦」だ。

キューバが私企業を禁止したのは1968年のことだが、米国とキューバの協定で、その頃には移住希望者の空輸が合法的に行われていた。1965年から74年まで移住者は25万人にも上ったようだ。革命は米州内孤立を呼び、工業化政策は失敗し、砂糖モノポリーに陥り、不満を募らせる国民は増える。そんな時代だ。

1980年までに米国に渡ったキューバ人の数には、私は不案内ではある。上記に掲げた人数を単純積算し、プラスαで概ね60万人だろうか。90年代始め、ソ連崩壊後のキューバの経済危機で、生活苦から出国者が増加した。従来とは異なるパターンだ。彼らと、渡米後生まれた子弟を加えると百数十万人、と言ったところだろう。多くが在米キューバ人として米国に受け入れられ、今や多くの著名人を輩出している。一般的に在米ヒスパニックの中で白人比率が高く高学歴が多く、政治力もある。祖国の共産主義体制崩壊を希求する彼らが、人権弾圧糾弾を繰り返す米国の対キューバ政策を後押しするのは、当然だ。彼ら自身が、積極的な反体制運動を続ける。

1990年始め、一方で、キューバ国内でも反体制運動が起き始める。「バレラ・プロジェクト」や「白衣の女性たち」のみならず、20033月の黒い春で逮捕され保釈中のマルタ・ロケ氏による反体制派を纏める運動「市民社会推進会議」、その前に逮捕され服役中のオスカル・ビシェット氏の「ロートン基金」、或いは共産主義批判で17年間も収監された「キューバのネルソン・マンデラ」といわれる黒人のホルヘ・ガルシア氏、パヤ氏同様拘束を免れているエリサルド・サンチェス氏の「人権と国民和解のキューバ委員会(CCDHRN)」と、同じくブログで自由社会を訴え続け当局からの監視下に置かれたヨアニ・サンチェス氏、その他多くの民主化活動家が、米国、EU、国際人権団体、外国メディアに登場するようになった。ここまでくれば、キューバの人権侵害を叩くのは米国に留まらなくなる。

在米キューバ人と国内のキューバ人の間の連携はどうだろうか。前者は、色々と考え方は異なり時代と共に変わりつつあるが、それでも未だ米国による経済制裁維持、強化を叫ぶ人は多い、といわれる。だが、国内の反体制派は押し並べて経済制裁反対し国交の回復を訴える。キューバ当局は、米国の利益代表部などが反体制派の資金源、とみており、あまり在米キューバ人社会のことに触れない。

≪続く≫

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2010年6月14日 (月)

キューバの人権問題(1)

612日、20033月に一斉逮捕された75人の反体制活動家の一人、シグレル受刑囚が健康問題を理由に釈放された。私の理解に間違いなければ、これで未釈放の受刑者は52名、となる。その中にも、健康に問題を抱える受刑者は多いようだ。同時に、61日の6名に続き、新たに6名の受刑者が家族在住地に近い刑務所に移送された。それに先立つ519日、カストロ国家評議会議長は、キューバ宗教界の最高位にあるオルテガ枢機卿との会談に応じた。革命政権の最高指導者としては、確か初めてのことだ。この場で枢機卿は75人全員の釈放、それが難しければ病人は釈放し、他は少なくとも家族在住地近くの刑務所への移送、と言う形で要請した。その一部が実現したことになる。

共産党一党独裁国家での民主化運動は、我が国では1980年代末の東欧民主化と中国の天安門事件がよく知られている。キューバでは5年遅れた19948月の「マレコナソ」が火付け役、とされる。ハバナのマレコン(Malecón)大通りで、「自由(Libertad)!」を叫ぶ数千人規模のデモだ。しかし、91年のソ連崩壊後、電力供給が8時間毎となり、停電中の夜間に各地で市民の抗議行動が頻発した時期もあった。経済の屋台骨を支えて来たソ連からの経済支援(高価格設定の砂糖大量引き取り、低価の原油供給、資本財輸出への信用供与など)が止まり、キューバは未曽有の経済危機に見舞われたことが背景にある。1993年のGDP89年比35%のマイナス、といわれる。カストロ政権の崩壊が米国で囁かれている模様を、ピューリッツァー賞受賞のオッペンハイマー氏はCastro’s Final Hourで著している。私もこの当時、最後のキューバ駐在時代(92-93年)を送っていた。キューバ政府は海外直接投資の受け入れ、観光振興、小規模私営企業の合法化、及び外貨保有の解禁で、この時は乗り切った。それでもこの辺りから数年間、キューバ人の大量出国が見られる。マレコナソは、起きるべきして起きた事件だろう。

1998年、非合法組織キリスト教自由運動の指導者、オスバルド・パヤ氏が中心となって「バレラ・プロジェクト」を提唱した。1976年に公布されたキューバ憲法で、1万人以上の署名で国民投票の請願権行使を認めていることに着目し、署名を集めた上で結社、言論、報道、信仰、私企業創立の自由、自由選挙制の導入、政治犯恩赦に関わる国民投票実施を要求する。だが、キューバ議会が「恒久的社会主義」の文言を憲法に加筆する修正案を可決、社会主義国家を前提とした自由は、一定の規制のある私企業創立を除けば、既に保証されている、との観点で、これを拒絶した。一方、EU議会がこれを後押しし、200212月、パヤ氏に対してサハロフ賞授与を決めた。20033月、キューバで民主化運動の活動家75人が一斉逮捕され、6年から28年の懲役刑を受けた。「黒い春(Primavera Negra)事件」と呼ばれる。半数は、バレラ・プロジェクトの活動家、とされ、その内の一人、ルイス・フェレル氏は、最も重い懲役28年の判決を受けた。

「黒い春事件」については、キューバ当局は「国家の独立保護法」違反によるものと説明する。外国政府(具体的には米国の在ハバナ利益代表部)や西側報道機関から資金支援を得て、国家の独立権を脅かす活動に従事した、というものだ。だが国際団体はこれくらいでは黙っていない。同事件が起きた03年、国際人権団体のアムネスティ・インターナショナルは、その75名を「良心の囚人」に指定した。ミャンマーのあのアウン・サン・スーチー氏と同じ扱いである。また、EUが対キューバ制裁を決議した(ハイレベル交渉の拒否や反体制派メンバーの招待など交流面の制限で、投資・通商面では特に変更無し。これも実質的に1年半で中止し、2008年に正式に解除)。

75人の中で、バレラ・プロジェクト活動家以外では、「ジャーナリスト」が多い。その内の一人、ラウル・リベロ氏は2000年に「独立ジャーナリスト協会」を立ち上げ、2001年にCuba Pressを発刊、一躍国際的知名度が上がった。ご周知の通り、キューバのジャーナリズムは国家統制下にある。ジャーナリストというのは、例えば国営放送局や共産党機関紙の「グランマ」など体制側新聞、雑誌の記者しかいない筈だが、現実には地下出版を行う、或いは、西側報道機関に協力するジャーナリズムは存在する。リベロ氏は045月にユネスコのギリェルモ・カノ「世界報道の自由賞」を受賞した。国連機関からの受賞が外圧になったのか、同年11月に釈放されている。

「黒い春事件」からまもなく、彼らの妻らを中心とした「白衣の女たち(Damas de Blanco)」が結成された。毎週白衣でミサに出て、その後そのまま近くの公園まで歩く女性たちのことだが、EU議会は2005年にそのリーダー5名にサハロフ賞を贈ることを決めた。キューバ政府にとり好ましからざる組織である。彼女らに連帯する活動が米国でも起きていると伝えられるが、一方で、その活動の原点に求めたアルゼンチンの「五月広場の母親たち」(同様に1992年、サハロフ賞受賞)は、運動の性格が違いすぎる、として、批判的に見ているそうだ。ともあれ、外圧に加え、健康問題での釈放も相次ぎ、今日まで23名が釈放された。彼女らの最終的な要求は全員の解放であり、EU、国際人権団体、国際ジャーナリズム(「国境無き記者」)もこれを後押しする。彼女らは、逮捕、収監はされていない。バレラ・プロジェクトの指導者、パヤ氏もキューバ政府にとり好ましからぬ人物だが、米国からの支援を拒み米国のキューバ制裁に抗議する姿勢を貫いているため、身柄拘束などは受けていない。

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2010年6月 2日 (水)

コロンビア大統領選の行方

530日、コロンビアで9人が立候補した大統領選で、「国民社会連合党」(laU”)のサントス元国防相58歳)46.6%もの得票で二位のモックス元ボゴタ市長58歳)25ポイントも引き離す圧倒的第一位に付けた。憲法上、過半数得票が条件付けられているので、確定に僅か4%足りず今月20日に決選投票が行われる。

第三位までが二桁得票で、「急進変革」のバルガス前上院議員(48歳)が10%だった。このブログで彼を紹介したことは無い。1998年創設の「急進変革」は、議会勢力ではlaU”、保守党及び自由党の三大政党から大きく離れた第四党に過ぎない。彼はリェラス・カマルゴ元大統領(在任1945-461958-62)の孫に当たる。元大統領は、1957年、ロハス・ピニリャ軍政を終わらせるために、自由、保守両党から4年毎に大統領を出し合う「国民戦線」構想を主導し、その初代大統領となった人だ。米州全体としては、1947年に発足した米州機構(OAS)の初代事務総長としても知られる。チリ、コスタリカ、パナマ同様政治家ファミリーの存在が大きいコロンビアでは注目に値する人だったのに、私の方では保守党の女性候補、サニン前駐英大使、自由党のパルド元国防相、そして異色の候補と思われるM-19の流れを引く「民主代替の極」(PDA)のウレゴ上院議員の方にこそ眼が行ってしまっていた。そしてモックス候補の台頭にも素直に驚いた。

僅か1週間前まで、世論調査では、サントス、モックス両候補は、前者が後者の増税案という敵失を背景に追い上げてはいたものの、漸く殆ど同水準に並んだ程度だった。幾ら何でもこの大差は予想を遥かに超える。米州機構(OAS)の選挙監視団は、今回選挙はここ40年で最も平穏に行われた、と発表した。選挙妨害などの暴力行為が目立たなかった、と言うことで、事実、選挙管理委員会は2002年選挙時に比べ、暴力行為が78%減少した、と述べた。つまり、公平性に関して明確に断じるには時期尚早にしても、まともな選挙だった、と言える。投票率は51%、と低かったが、国民の投票は義務となっているラテンアメリカ諸国で、コロンビアは自由となっている。投票率動向で調査結果が実際の投票結果と変わり得るので、異様とは言えまい。

それにしても予想と結果の乖離は大き過ぎる。私は、このブログで触れたチャベス・ベネズエラ大統領の「サントスが大統領になれば戦争だ」発言や、エクアドル司法当局のサントス引き渡し要求が、一般コロンビア国民には内政干渉ととられたことが影響した、と思わずにおられない。2006年のペルー大統領選で得票第一位のオジャンタ・ウマラ候補が、決選投票でガルシア現大統領に逆転敗退した。その時も投票前にチャベス大統領から、ペルー有権者は彼を勝利させるべし、という露骨な口先介入が繰り返された。外国からの介入を嫌うのは、ペルーもコロンビアも同じだ。エクアドルのパティーニョ外相は、仮にサントス勝利でも昨年11月末の二国間合意(全面復交に向けた利益代表部相互設置による交渉推進)への対応は不変、と、コレア政権が司法当局とは一線を画す方針を早々と打ち出した。一方でサントス候補も、ベネズエラ、エクアドル両政権との関係修復に取り組む姿勢を示している。

議会第二党の保守党も第三位に付けたバルガス候補の急進変革も、元々はウリベ政権与党だ。モックス候補自身、決選投票での逆転は難しい、と認めている。それでも辞退はしない。投票率が上がれば変化も出てこよう。ただ、議会選挙では国民は現政権3党に対し、下院162議席中100議席を与え、前回選挙より28議席も増えさせた。両隣国と異なり、国民の投票姿勢からは、左派、中道左派政権が生まれる素地は見られない。両隣国と異なり、ほぼ半世紀にも亘り、活発な左派ゲリラの存在故に苦しんできた国だ。ウリベ政権で、治安が大きく好転した。ゲリラ活動を助長したのが右翼で、軍部や麻薬組織との繋がりも指摘されてきた自警団は、曲がりなりにも武装解除した。Uribismo、つまりウリベ路線には間違いなく国民の支持が寄せられている。その正統な後継者を名乗るサントス候補の勝利は、まず確実だろう。正式に決まるのは、3週間後だ。

この機会に、三位に付けたバルガス前上院議員に着目しておきたい。1994年、32歳で祖父同様、自由党から上院議員に当選、四期を務め、2006年選挙の時は全国で最多得票だった。パストラーナ前政権時、FARCとの和平交渉に使う非武装地帯の設営には反対し、2002年選挙では自由党候補では無く、対FARC強硬派のウリベ候補を支援、その機会に離党した。またテロに遭い、左手の指を何本か失った。2003年に急進改革に参加、翌年より同党代表を務める。同党は、パラポリティック(自警団に結びついた政治)スキャンダルを起こした政党の一つで、前回議会選挙でも議席数を減らしてはいる。大統領選初出馬で二桁得票は、歴史上の大統領を祖父に持つ毛並みの良さだけでは説明がつくまい。まだ48歳、と若い。

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