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2010年5月27日 (木)

アルゼンチン独立革命200周年記念日に思う

1810525日、ブエノスアイレスのカビルド(市会。植民地人の代議員で構成)は、シスネロス副王の罷免と自治(政府)評議会(フンタ)設立を決議した(私のホームページ「ラ米の独立革命」http://www2.tbb.t-com.ne.jp/okifumi/CI2.htmご参照)。五月革命とも呼ばれる。この日はアルゼンチンの「祖国政府発足の日(Día del Primer Gobierno Patrio。邦訳は一般的に革命記念日)」として国民祝日になっている(やはり国民祝日の独立記念日は、独立宣言を発した181679日)。前週末より様々な催しが行われ、この日絶頂に達した。

この記念日に、フェルナンデス大統領はルラ(ブラジル)、チャベス(ベネズエラ)、ピニェラ(チリ)、コレア(エクアドル)、モラレス(ボリビア)、ムヒカ(ウルグアイ)、ルゴ(パラグアイ)各大統領、及びセラヤ・ホンジュラス前大統領を招き、官邸内に設営した「ラテンアメリカの愛国者たち回廊」オープニング式典を主催した。併せて、マルビナス領有権を確認することも忘れていない。4月19日にはチャベス、コレア、モラレス各大統領とベネズエラの二百周年記念式典を共にしている。これでいずれの二百周年記念式典に出ないのは、ウリベ・コロンビア大統領と、ガルシア・ペルー大統領だけ、となった。奇しくも、南米でホンジュラスのロボ政権を認めているのは、この2ヵ国だけだ。この日、ロボ大統領がペルー訪問している。720日(コロンビアの二百周年記念日)と918日(チリ。同)ではどうなろうか。

アルゼンチン大統領官邸は有名な五月広場(この日に因んで命名された)に面している。反対側にはそのカビルドの建物が当時のまま残っているが、式典が終わると、彼女自身を含む8人の大統領が官邸から広場に現れ、大勢の群衆の中をカビルドまで歩き、俳優や音楽家、軍、などの「二百周年行進」を見物した、とメディアは伝えている。歌やダンスやショー、花火などで、町中が大変な賑わいようだったようだ。

ブエノスアイレスにはミラノのスカラ座、パリのオペラ座と共に世界三大劇場の一つとして知られるコロン劇場がある。修復工事のため4年ほど閉鎖されていたが、二百周年に合わせて再開された。ここではマクリ市長主催の再開式典が催されたが、大統領は招かれなかったそうだ。夫が南米諸国連合(UNASUR)事務総長に就任し、何よりラテンアメリカ統合の推進を目指す大統領で、自国の記念日に他国の大統領を一同に会させるような人だが、お膝元では首都の市長が政敵、一般的に野党勢力は何かあれば対立を演じ、アルゼンチンメディアは軒並み政府攻撃を続ける。

五月革命百周年は1910年だ。それまでの100年間の半分は中央と地方の軋轢により、はっきり言って国家としては成り立っていなかった。南米ではペルーに続き南米1853年に、今なお続く憲法を制定しながら、統合国家として初めての大統領にミトレ(在任186268年)が就任したのは、1862年のことだ。彼は、パラグアイを破局に追い込んだ「パラグアイ戦争」の三国同盟軍総司令官にもなっている。それからの半世紀は、欧化の時代、と言えようか。彼を継いだサルミエント(在任186874年)は、国民識字率向上に熱心で「教育の父」と呼ばれるが、カウディーリョ文化とも言うべき荒々しい国民気質を厭い、文化面のみならず人種面でも欧化が必要、と考えた。1876年、彼の後任、アベジャネーダ大統領(在任1874-80)により「移民促進法」が制定され、187980年のロカ将軍による先住民追放作戦、「荒野の征服」が行われて肥沃なパンパから先住民がいなくなったら、ヨーロッパからの移民が殺到する。これに連れてパンパの中を鉄道網が延伸を続ける。1910年までに、人種的にはすっかり欧化が完成していた。また、作戦を指揮した同将軍は大統領になった(1880-86年、1898-1904年)。

欧化の時代の18899月に結成された「青年市民同盟」が翌907月に武力蜂起した。当時はロカ元将軍の政治勢力(全国自治党)が国政を担っていたが、行政府が選挙を管理することで、独裁を可能とする選挙制度変革を求め、実力行使に訴えたものだ。勿論短期で制圧されるが、当時の大統領を辞任に追い込んだ。18916月、その一派が「急進市民同盟(急進党)」を結成、93年にも同じ理由で、武力蜂起した。イリゴージェンが指導者になって暫く過激行動は途絶えたが、1905年の蜂起は全国に広がり、失敗こそしても最終的には1912年後の選挙法改正に繋がった。今では当たり前の秘密投票導入、選挙管理を行政府から司法に移管が漸く実現した。つまり、百周年では民主主義社会が築かれていなかった、とも言える。ベネズエラもコロンビアもメキシコもチリも、夫々に事情の違いはあるが、どちらかと言えばそうだった。

次の100年間はどうだったのだろうか。イリゴージェン政権(在任1916-2228-30)を含め急進党時代を経て、軍政の強権時代を辿り、普通選挙法が完全に実施され軍も文民統制下に置かれたのは、1983年のことだ。民主国家と言える歴史は、本当に短い。急進党とペロン党の(その分派を含め)二大政党時代は一見続くが、近年はマクリ市長の「共和主義の答(Respuesta RepublicanaPRO)」が台頭している。イデオロギーは市場原理主義経済を信奉する体質を考慮すれば、右派勢力、ということになろう。民主主義体制の中での政争は、止められまい。

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2010年5月19日 (水)

第六回ラテンアメリカ・EUサミット

518日、リオデジャネイロで初めて開催されてから6回目に当たる「ラテンアメリカ・EUサミット」がマドリードで開催された。このサミットの目的としては、二地域間戦略的関係の構築、とある。よく言われるのは民主主義及び人権尊重の価値観の共有だ。最近では、気候変動に対する共闘、地球規模の経済危機からの脱出と国際金融の新たな仕組み作りなどが前面に出る。前以て、ラテンアメリカ・カリブ33ヵ国とEU27ヵ国の外相会議も行われているが、最高指導者が一堂に会するわけではない。特に今第六回サミットには、ギリシャの財政破綻を目の当たりにし、リーマンショック並みの危機への対処を最優先すべきと考えるのか、キャメロン(英)、ベルルスコーニ(伊)、メルケル(独)各首相ら、EU側主要国の指導者の欠席が目立つ。ラテンアメリカからもチャベス(ベネズエラ)、ムヒカ(ウルグアイ)、カストロ(キューバ)、オルテガ(ニカラグア)及びロボ(ホンジュラス)各大統領が欠席し、結局最高指導者で集まったのは30人ほどの由だ。ただロボ大統領は自らが出席すれば特に南米諸国が今回サミットをボイコットする状況だったので、遠慮させられた、と言うのが正確だろう。

前第五回サミットは2年前にリマで開かれた。この時は50人の最高指導者が揃った。特に気候変動問題への対応についてブラジルのエタノール事業を讃える一方、サミットのテーマだった貧困撲滅に関連し、食糧価格の急騰が話題になった。サミットの本来の目的であるラテンアメリカとヨーロッパの統合が、実はラテンアメリカにおける資本主義経済の発展と両地域間の自由貿易推進にあるとして、これに反対するグループがやはりリマに集まり自由貿易協定(FTA)と新自由主義への反対を決議していた。

実際にEU側が最も力を入れるのはFTAだろう。10年前のメキシコ、7年前のチリ以降、ラテンアメリカでEUとのFTAを締結した国は無い。この第六回サミットの前17日にEU-メルコスル諸国(但し原加盟4ヵ国に限定。ムヒカ・ウルグアイ大統領は欠席)サミットが開催され、2004年に凍結されていたFTA交渉再開について合意をみた。農業問題を抱えるEU側、特にフランスやイタリアに大きな障害が有る状態は6年前と同様であり、一朝一夕に事は進まない。だが、サミットを主催したスペインのサパテロ首相は、交渉再開自体を大成功、と見る。FTAを含む連携協定(Association Agreement)」の形を取るが、彼はEUとメルコスルを合わせた7億人にも上る大連合としての側面をも強調する。またこのサミットに合わせ、EUとペルー及びコロンビアとの個別連携協定を締結した。加えて、翌19日には中米諸国との個別サミットで、EUとしては地域単位では初めて、という意味で重要な連携協定を、中米諸国(中米共同体5ヵ国プラスパナマ)の大統領(オルテガ・ニカラグア大統領は欠席)が揃って調印する。

第六回サミットでは、ホンジュラス政権の正統性や、キューバの人権問題が俎上に置かれるとの噂もあった。現に、チャベス大統領はロボ大統領が全体会議に欠席はしても、19日のEU-中米サミットには出席することを理由に、今回欠席を決めた。カストロ議長はEUがキューバでのハンスト事件をやり玉に挙げ人権侵害への非難を強めていることに不快感を示し、スペインの調停にも拘わらず欠席した。結果的には、いずれの問題もテーマにはならなかったようだ。地震で大被害を蒙ったチリのピニェラ大統領とEUとの個別サミットも開かれ、EUとしてのチリ再建支援を約束した。2年後の第七回サミット開催国は、チリに決まってもいる。

サミットに先立つ16日、ドミニカ共和国で議会選挙が行われたが、フェルナンデス・レイナ大統領の与党、ドミニカ解放党(PLD)が議席の大半を得る大勝利だった。同日、国政とは直接無関係だが、ルラ・ブラジル大統領はテヘランに居て、イランのウラン濃縮をトルコで行うスキームを纏め上げた。彼は最近中東諸国を歴訪し、中東和平への仲介意欲を滲ませてきた。その内の一つが、イランの核問題だ。欧米がイラン制裁一辺倒なのを諌めてもきた。若し、イランがこのスキームに則った行動に移ったら、彼の功績は国際的に高い評価を得る。最近、ヒスパニック移民の取り締まり強化を目的とするアリゾナ州法への反発がラテンアメリカ中に広がり、19日にはカルデロン・メキシコ大統領がワシントンに飛びオバマ米大統領との直談判に臨む。麻薬組織の抗争が激化もあり、米国との実効性のある協力関係構築が待ったなしだ。エクアドル司法当局はコロンビアのサントス大統領候補を20083月の同国軍による越境攻撃を理由に収監命令を発し、両国間問題が又してもおかしくなってきている。

だからか、今第六回サミットが、FTAでの「大成功」とは裏腹に色褪せて見えるし、メディアも殆ど注目していないように思える。

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2010年5月11日 (火)

南米諸国連合(UNASUR)初代事務総長の誕生

いささか旧聞だが、54日、ブエノスアイレス郊外で開催された(UNASUR)特別サミットで、キルチネル前アルゼンチン大統領(60歳)が初代の事務総長に指名された。事務総長は、その職に専念することが求められる。米州ではOASにも事務総長がおり、現在は元チリ上院議員のインスルサ氏が就いているが、その前任者はガビリア元コロンビア大統領だった。OAS本部はワシントンにあり、事務総長はそこに常駐する。彼もUNASUR本部所在地のキトに常駐するのだろうか。少なくとも、これで政権与党の党首を辞任し、代議士としての活動も休止することになる。アルゼンチンの次回総選挙は201110月、つまり1年半後に行われる。妻のフェルナンデス大統領の後任を狙っていた筈だった。一方でUNASUR事務総長の任期は2年だ。キト常駐、ともなれば、どう考えても大統領選に立候補するのは無理だろう。

キルチネル氏は、政治家としては37歳で就任したリオガジェゴス市長を皮切りにすれば23年間の活動歴、と言える。リオガジェゴスはパタゴニア半島の南端、つまりマゼラン海峡に近い。地図で見ると、マルビナス諸島も近い。彼が同市長に就任したのは、アルゼンチンの民政移管後初代のアルフォンシン急進党政権期に行われた中間選挙の直後だ。ここで、軍政時代の弾圧の標的だったペロン党が大躍進した。アルゼンチンは巨額対外債務、ハイパーインフレと、軍幹部への人権裁判問題に対する軍部の反発、それに対する政権側の宥和、と揺れていた。19895月の大統領選でペロン党のメネム候補が当選すると、7月にはアルフォンシン大統領が12月の筈の政権交代を前倒しで実施した。メネム大統領がカバロ経済相を抜擢し、インフレ終息に入った年に、キルチネル氏はリオガジェゴスを州都とするサンタクルス州知事になった。メネム政権は199912月までの10年半続いたが、キルチネル州政権は2003年までの12年間も続いた。

アルゼンチンは、2000年に通貨流動性が一気に硬化し、国としての資金繰り難に陥った。急進党のルア大統領は2002年に退任し、議会がペロン党のドゥアルデ氏を臨時大統領に指名、彼は200310月の選挙を4月に前倒しすると言明、キルチネル知事を候補指名した。だが、ペロン党として候補者が一本化されず、メネム元大統領も出馬、得票で1位だった。その後に行われた世論調査で、決選投票では第二位のキルチネルが60%以上を取るとの結果が報道されると、元大統領が辞退した。この結果、キルチネル当選が決まった、という経緯を辿る。メネム氏の新自由主義路線に対し、彼が明言した社会的平等や国民健康を推進する、という社会民主主義路線が受けた。

政策政権に就くまで、アルゼンチン国内ではいざ知らず、国際的には知名度は高くなかった、と思う。食糧資源価格の高騰という追い風を受けた経済回復、期前返済の断行を含む国際通貨基金(IMF)への強硬姿勢、隣国ブラジルのルラ、ベネズエラのチャベス大統領らと共に米国が推進する米州自由貿易地域(FTAA)構想に反対する抗米姿勢で高い国民支持を得ると同時に、国際的知名度も高まった。南米では米国とは離れた地域連合体構想が潮流になりつつあった。だがこの点を除くと、良好な対米関係を維持した。2007年、大統領選でのフェルナンデス勝利に向けた不正工作でベネズエラ人が米国で起訴される事件が起きたことから、政権交代後、対米関係が冷却したこともあったが、米国政府が同事件に一切の関わりを否定したことから、正常化した。

アルゼンチンの場合、大統領の連続再選は可能である。それにも拘わらず、彼は2007年選挙には出馬せず、ペロン党首の道を選んだ。妻のフェルナンデス大統領が食糧輸出税引き上げ問題で、農園主側に付いた党内勢力が党内野党としての存在を高め党首の求心力が落ち、昨年央の中間選挙で党自体が大きく議席を減らした。この責任を取って一旦党首を辞任している。妻の支持率も、近隣諸国の大統領とは異なり、20%台に過ぎず、と大変に低い。UNASUR初代事務総長への要請は、彼が次回選挙での大統領立候補を断念した、と見たためだろうか。実はこの3月、彼は党首に復帰している。フェルナンデス大統領が第二回ラテンアメリカ・サミットの場で、或いはヒラリー・クリントン米国務長官にマルビナス領有権を主張した頃のことだ。キルチネル大統領時代に、ウルグアイ川の東岸に建設されたセルロース工場の汚染問題で同国との外交関係が冷却化し今も続いている。この特別サミットの最中に、出席した同国のムヒカ大統領がキルチネル就任要請に加わったことで、UNASUR初代事務総長誕生が実現した、ともいわれる。地域連合構想の実現には断りきれない面もあったのかも知れない。

なお、同サミットにはウリベ(コロンビア)及びガルシア(ペルー)両大統領は出席せず、外相が派遣された。持ち回り議長のコレア・エクアドル大統領が、近く開催されるEU・ラテンアメリカ首脳会議には、ホンジュラスのロボ大統領が出席する以上、UNASUR諸国の大半の首脳は出席を断念せざるを得ない、と言明し、結果として、同会議にはロボ大統領の方が欠席することになった点も、追記しておきたい。

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